中国通信(2000.2〜7)

『部落』掲載版はこちら(PDF)

――内容が多少異なっています。また「北京で『民族』について考えたこと」も収録しています。

中国通信1(2000.3.5)

 ニーハオ
 さて、だんだんこちらの生活に慣れてきましたので、そろそろ中国通信を送ります。
 さて、本日はまず一週間の印象評から。空気は、確かにうわさ通りに大変悪いです。3日、景山公園に行って北京を一望してきたのですが、スモッグの中に北京の街が浮かんでいるという感じでした。その原因は、もちろん工業化が関係しているのでしょうが、自動車の急増ではないかと推察しています。とにかく、車・車・車。そして、タクシー・タクシー・タクシー。その狭間を、これまたおびただしい自転車と人々が行き交うわけですが、交通ルールはあってなきがごとしで、信号無視は当たり前のように行われています。
  当然ながら、交通事故は日常茶飯事で、こちらへ来て外出した日には、ほぼ毎日目撃していると言ってよいでしょう。ぐすぐすしているとぶつけられるという感じで、とにかく決断して即決行動が求められている状況です。ゆっくり行き交うお年寄りや、車など関係なしと、これまた信号も無視して散歩する人々の姿も無論あるのですが、それがまた交通渋滞を招いているのは、なんともおもしろく見えます。まさに、今の北京・中国の姿がよく映し出されていると思いました。
 さて、それとは別に時間がゆっくり流れていく空間が街のあちこちに残っていて、いつ客が来るともしれない物売りが、それこそこんなものまで売るのかという感じで、街頭のあちこちに立って車を見送っています。わたくしの世代であれば、子供の頃の姿と最近の姿を同時に見ている感じです。
 さて、今週はまだ講義が始まっておらず、どんな学生と出会えるのか、今は楽しみな日々です。
 次回は、出会った学生との話などしてみようと思いますが、今回は、とりあえず北京の姿についての第一印象を記してみました。

 
 


     中国通信2(2000.3.22)

 中国通信2号をお送りします。
3月8日から15日まで、アジア学会参加のためアメリカに行って来ました。そのため、日本と中国だけではなく、日本・中国・アメリカについて三者を眺めるという誠に不思議な体験をしました。私にとっては、久しぶりの体験で、非常に考えさせられることが多かったように思います。
その一つは、やはり市場経済というグローバル化の波の中で、一見、同じ資本主義的文化が共有されているように見えながら、実は国境に堅く隔てられながら、ナショナリズムが急速に強まっているという現実。これは、特に全人代や台湾問題のただ中での中国のニュースの雰囲気から感じたことでしたが、同様のことは、アメリカでも強く感じました。
そして、これは言うまでもないことですが、結局は、金だけが全てを支配しているかに見える現実。中国で、急に金持ちになり、アメリカで同じサービスを受けるのに、その10倍のドルが必要という現実にはやはり当惑しました。
 さて、こちらでは講義が始まり、中国の院生にナショナリズムと思想史学という講義をする体験をして います。院生はいずれも優秀な諸君ばかりですが、わたくしが、日本の学知批判・ナショナリズム批判を述べていることには、当惑した表情を見せているのも事実です。本日は、日本思想史学における中国という問題を話しましたが、これまで伝統文化論・日本文化論針の講義が多かった中では、どんなことになるのか、少々不安にもなっています。まあ、あまり力まないようにはするつもりですが。
こちらは、何の品種か知りませんが、桜が咲いています。春を身体で感じることが出来るようになってきました。金津も来たので、二人で<ゆっくりと流れる時間>を味わっています。これから、少しずつ北京以外の探検にでるつもりです。以上、本日は近況報告という形となりました。

 



   中国通信3(2000.3.29)

 北京は、すっかり春となり、大変暖かいのですが、風の強い日には黄砂が激しく舞っています。
こちらに来て一ヶ月。まずは慣れたといってよいでしょう。日本との違いは、ズバリ言って全てに大雑把なこと。逆に言うと、こちらは細かすぎるのでしょうネ。そして、共通しているように感じられるのは、一見、無政府的かつ雑ぱくに見えて、見えざるナショナルな秩序だけは見事に貫徹していること。ときどき、垣間見える「大国主義」には、やはり何となく抵抗を感じますが、これはお互い様ということなのでしょう。
先日、初春の頤和園に行って来ました。清朝皇帝の離宮です。アヘン戦争などで焼き討ちにあったと言われていますが、清末に西大后が人々の生活を省みずに巨費を投じて修復したものとか。とても一回で回りきれるものではなく、皇帝が2倍に広げたという人造湖、それを眺めるように建て並ぶ建築物群、それらを結ぶ回廊からは、清朝の巨大な権力が感じられました。ただし、日よりもよかったので、絶好の散策場所という感じでした。
さて、日本学センターの講義では、日本思想史学の成立に関わる部分を終え、いよいよ宣長の直毘霊を講読する段となりました。また、もう一個の方では、民衆思想史を取り上げ、前回は民衆宗教概説を講義しました。桂島の十八番をやっているのか、と感じられる方々もいるでしょうが、院生の反応というと、後者については大変面白がっているようで、中国でも同様のジャンルが開拓されればと期待しています。ただ、前者については、日本におけるナショナリズム論・国民国家論と大変温度差があるようで、当分は試行錯誤といったところです。押しつけがましいことは避けたいと思っていますが、一言で国民国家批判と言っても、それが、どれだけ独りよがりなものなのか考えさせられています。週末から上海に出かけます。次回は、そのことについても記したいと思います。


    中国通信4(2000.4.4)

  日本では、火山噴火と小渕の入院で揺れているようですね。いずれも中国でも大きく報道されました。
さて、3月31日から4日間の上海旅行に行ってきましたので、中国通信4をお送りします。日本では、新学期が始まるこの時期に旅行しているのは恐縮なのですが。
上海での4日間の体験は大変有益でした。上海は3回目なのですが、今までは全て日本からのツアーでしたので、中国は全どこもて同じようにしか見えなかったのですが、今回は違いました。日本ではなく、わが愛すべき生活地=北京と比較して見聞することが出来ました。それと、前回までは未だ建設途上の上海を見ていたわけですが、今回はひとまず完成した都市上海を見ることが出来ました(未だ、色々建設中で、これからもっと変わるのではと思いますが)。
結論的に言えば、北京から見ると上海は、欧米型の近代都市として、その姿を現しつつあります。空港から都心までの高速道路網も完成し、印象的にはロスかサンフランシスコに近いと思いました。高層ビル群も、北京とは異なり洗練されたおしゃれなものが多く、南京路、徐家彙などを行き交う人々も、北京とは違い、ほとんどおしゃれな服に飾り立てた人々でした。空港近辺の虹橋路には、大変美しい高級マンション群が広がっていました。タクシー一つにしても、とても綺麗で、交通ルールも北京よりはきちんと守られているという印象でした。歩道も日本などよりはるかに綺麗に整備されていることにも驚かされました。このように言うと、良いことづくめなように聞こえますが、無論色々考えさせられました。
まず、物価です。都心では全てが北京よりも2〜3倍くらいという印象で、日本円とそんなに変わらな いように100元札(1300円くらいでしょうか)が次々と消えていきます。ちなみには、我々は北京で1日に100元を使うか使わないかの生活をしています。本当ですよ(笑)。また、かつてあった風情ある小さなお店の人々は、一体どこへ消えたのか。そのことが、ずっと脳裏から離れませんでした。そして、確かに北京よりも数多くの中産階級が生みだされていることは確かだとしても、上海の町にはもはや存在していないかのように見える、北京では<表側>に存在している<庶民>は、町の<裏側>に追いやられたに違いないのだと確信しました。ちなみに、魯迅記念館や魯迅旧居、宋慶齢記念館などを訪ねましたが、そのときに路地裏での生活が、チラリと見えました。また、公園でも<庶民>の方々がダンスや麻雀、散歩に興じていました。
それにしても上海は、完全に国際的かつ近代的<資本主義>都市として、<蘇生>したといってよいのではないでしょうか。しかも今度は、中国の人々を主たる担い手として。中国が理想としているのは、こうしたタイプの生活なのでしょう(江沢民も上海出身ですし)。少なくとも、中国では上海をそのように見る憧れにも近いまなざしがあるようです。もちろん、日本での関西・関東に違わず、北京と上海では、相当に対抗意識があるようです。ただし、北京ですら、上海に対して憧れがあり、それが屈折した対抗意識を生んでいるようです。上海の人は、限られた接触の範囲では北京を田舎と見なしているようです。中国の方に、北京での生活は大変でしょう、と言われるのです(笑)。
最後に、上海は4日とも霧雨に近い天候で、思わず漢詩でも読みたくなるような風情ある気候を味わえました。2日目に、江蘇省の周庄というところへ出かけ(東洋のベニスと言われているそうです。無論、欧米人によって)、水郷めぐりをしました。一面、白桃と菜の花が咲き乱れた、大変すばらしい自然を満喫しました。そして、何よりも上海郊外には相も変わらぬゆっくりとした人々の生活がありました。江南・上海の湿り気のある空気と豊富な海鮮料理だけは、どう考えても北京よりは、われわれリーベンレンには向いているようです。

 



 中国通信5(2000.4.14)

  日本では、桜の季節も終わったようですね。考えてみれば、毎年当たり前のように春を桜と共に実感してきたのですが、所変われば、まったく違った春が存在していることを味わっているこの頃です。まず、黄砂。とくに4月6日の黄砂はひどく、昼間から北京は日食のような状態でした。マスクと帽子で完全防備しなければ外出できない一日でした。空から黄砂が「降ってくる」のです(朝日新聞にも記事が載っていたとか)。また、いきなり暑い日が混じるのも、この季節の特色とか。4月12日は、日中は温度が25℃まで上昇し、初夏のような一日でした。先日、タクシーの運転手と筆談も交えながら話して教わったことですが、北京では4月が最も悪い(「不好」な)月とか。そのかわり、5月・6月は最高(「ヘンハオ」)だと、根っからの北京子のその運転手は話していました。とはいえ、宿舎の友誼賓館の庭には、さまざまな花が一斉に咲き始め、やはり新しい生命力の躍動を実感している毎日です。本日、14日には北京名物の柳ジョが舞い始めました。
本日は、中国が「社会主義」の国なのだと感じた点について書いてみます。実は、北京を観察して気づいたことですが、一見「無駄な」人員が、至る所に配置されています。「合理化」された日本から来た者としては、何でこんな所に人員が必要なのか、と常々思ってしまうのです。例えば、警備員の数の多さ。街角のさまざまな「単位」や施設にはかなり沢山の警備員が存在していて、だいたい立って周辺を観察することを仕事としています。デパートや食堂にも、概ね店員や服務員の数は多すぎるのではないか、と思うくらい存在しています。よく見ると、街頭の新聞売りなどにも二人くらいの人員がいる場合がしばしばです。この友誼賓館にしても、掃除は二人の若い女性の服務員さんが来る場合が多いのです。最初は、何と無駄なことを、と思っていた私ですが、最近そのことの持っている重要な意味に気づかされました。 これは、北京の方から教わったことでもあるのですが、北京市当局は、このようにして雇用を創り出しているのだとか。そういえば、退職者の居住する高層アパートのエレベーターには、全てエレベーター ボーイ・ガールが配備されていて、お年寄りの方々の万一の場合に備えていましたが、これは同時に雇用創出も兼ねていると語っていた、立命館大学中国語講師揚さんの話を思い出しました。こうした人々が、仕事のない時には、おしゃべりをして時間を過ごす光景を至るところで見ることが出来ます。揚氏は、日本では考えられない<さぼっている姿>だと、憤慨していましたが、私にはかえって好感が持てた光景でした。「合理化」され、機械の歯車の如くなっている姿よりは、人間味のある姿なのではないでしょうか。ただし、いずれ「合理化」による淘汰は、北京にも上陸し、資本主義社会と同様の姿に変わっていくのでしょう。上海が、何となく日本と似た感じがしたのは、その街の狭さと同時に、<無駄な>労働力が既に淘汰されつつあるからなのだ、と今にして気がついたのでした。
以上、本日は日常生活で気づいた点について記してみました。

 



   中国通信6(2000.4.27)

  中国では、メーデー休暇が近づいてきました。今年は5月1日から7日までを休暇とすることが、先日北京市政府より発表されました。おもしろいと思ったのは、休暇日はあらかじめ決まっているのではなく、その直前に(10日ほど前に)、<上から>決定されることです。この結果、4月29日(土)と30日(日)は平日扱いとなりました。気の毒なのは学生諸君で、29日から帰省する計画を立てていた学生諸君は、計画の変更を余儀なくされました。われわれも4月29日に出発する予定であったメーデー旅行(例年、休暇を利用して日本学センターの日本側教員は、中国の各地へ旅行するのが通例となっています)の予定を変えざるをえなくなりました。何と官僚的な!と腹を立てた次第ですが、考えてみれば、国民国家の休日というものは、元来そういうものなのだと、あらためて考えさせられました。
 昨日は、中国政府の国家外国専家局という、いわば<御雇外国人>を統括している部局が主催するメーデー祝賀音楽会なるものに出席しました。最初は、何か政治的プロパガンダの場なのかもしれないと思って、興味津々で参加したのですが、実際は、西洋のラブストーリーを中心とした映画音楽の演奏会でした。皆様ご存知の「ラブストーリー」「ゴースト」「タイタニック」「ボディーガード」などの主題歌が二時間にわたって演奏されました。演奏自体は、中国を代表するオーケストラによるものらしく、十分に楽しめたのですが、傑作なのは、オーケストラのバックのスクリーンに映画の一部のシーンが映写されることで、それらは、ほとんどラブシーンばかり(それもキスシーンのアップ)。それを、西洋人が圧倒的多数の<御雇外国人>が、まじめに(?)鑑賞しているわけです。無論、日本学センターの教員、わたくしと金津もーーーー。その上には、「国家外国専家局主催”五・一”祝賀音楽会」なる立派な看板が、仰々しくつるしてあります。何か、笑えてしまいました。
 無論、さまざまな国から北京に来ている<御雇外国人>全体を、慰労するのが目的の音楽会なわけですから、実は政治色は極力排除されることは理解されました。しかしながら、一部わざわざ正装して参加した<御雇外国人>は、この音楽会をどのように感じたのか、そのことにむしろ興味がわきました。まだ考えはまとまりませんが、この音楽会にも現代中国が<映し出されている>と思いました。
  さて、メーデー休暇には、山西省五台山方面、さらに引き続き私的に敦煌へ行くことになっています。それらについては次にお話しできるかと思います。では、皆様もよきゴールデンウィークを。再見。

 
 


   中国通信7(2000.5.10)

  4月30日から5月7日までのメーデー休暇中に、最初は山西省大同、五台山方面へ、次いで甘粛省敦煌へ行って来ました。言うまでもなく、前者は紀元前後に最初に中国に仏教が伝えられて以降の聖地で、五台山周辺の数多の寺院、雲崗石窟や懸空寺などから成り、後者は映画でもおなじみの南北朝時代以降、清代までかかって彫られてきた石窟遺跡。いずれも中国仏教を代表する史跡と言ってよいでしょう。
  まず何と言っても、石窟に圧倒されました。中国の三大石窟の内の二つを一挙に見たわけですが、浄土を思う有史以来の人間の思い、執念に心を打たれました。それと、いずれも辺境の地にあるわけですが、円仁などが日本から五台山を訪ねたことにも思いを馳せ、仏僧の求道心の一途さにも感動しました。敦煌では、シルクロードの雰囲気の一端に触れることが出来て、文明の交流の様相について、大いに心動かされるものがありました。もっとも、西洋人・日本人などが莫高窟の壁画・仏像を盗み出した跡も赤裸々に残っており、その犯罪性も目の当たりにしたわけですが。 さて、ここからはガイドブックに書いていないことなどについて一言。まず五台山ですが、ちょうど休暇の最中ということで、中国人観光客のラッシュ状態に遭遇しました。ほとんど満員電車の状態で(京都の金閣寺などを想起してください)、懸空寺などは、倒壊するのではないかと思われるほどでした。高所恐怖症のわたくしは、高いところの恐怖よりも、むしろ全く野放しのすし詰め状態で観光させられることに恐怖心をいだきました。ちなみに、中国では近年昔日の日本人同様の観光ブームが起こっていて、コンパクトカメラを片手に一人っ子を引き連れた家族連れの観光風景は、随所で見ることが出来るのですが、ここまでのラッシュ状態に遭遇したのは初めてです。敦煌の方は、遠方すぎるのか、日程がよかったのか、中国人は少なく、いつもの如き日本人のパック旅行、少数のマニアとおぼしき欧米人に遭遇しただけだったのですが。
  ついでながら、観光に出かけている中国人は、無論近年の経済成長で豊かになった人々が中心で、山西省の農村では、百年前と変わらないのではないかとおぼしき(問題発言ですが)、牛馬耕にいそしむ農民の姿や、石炭を満載したトラック、三輪車、馬車などを駆使して忙しく働いている鉱山労働者の姿をしばしば目撃しました。かれらにとっては、休暇や、ましてや観光は、全く無関係といった様相でした。
  それと、中国の地方観光は、やはりインフラ整備などに問題があります。道路状況、ホテル状況、土産物販売方法、食事、白タクなど。これらについては、詳しくは書きませんが、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、十年前と何も変わっておらず、このままでは観光客は確実に減っていくのではないでしょうか。敦煌の土産物店で、店員から流暢な日本語で、最近日本人が何も買わないのは何故かと聞かれたのですが、不景気に加え、掛け軸、偽骨董品などを相も変わらず法外な値段で売りつけるのは、初めての観光客はともかく、二度目以降の観光客は、絶対に買わなくなるとアドバイスしておきました。わたくしも、その一人だったわけですが(笑)。
  さて、中国滞在も半分を終えました。センターの仕事は無論のこと、また新しい<体験学習>に励むつもりです。

 
 


 中国通信8(2000.6.1)

  日本は大変暑いようですね。ここ北京も真夏並に暑い日が続いています。
  さて、5月はあっという間に過ぎました。恐らく、だいぶ慣れてきたせいかと思います。そして、気がつくと、帰国までもう二ヶ月を切っていて、何となく帰国後のことが気がかりになってきた次第です。皆様には怒られますが、立命でのハード・スケジュールを思うと憂鬱になります。正直言って、もうちょっといてもいいのに、という感じです。この北京の猥雑な感じと、のんびりと時間が流れていく生活が、やっと気に入り始めた矢先に、帰国日が近づいてきた感じです。
  さて、本日はここ北京での「美談」を二つばかり。どちらも、中国の人々のある面を、よく現していると思います。(事実、この話はセンターの教員の方々も、いかにも「中国的」と言っていました。あまり「中国的」を濫発するのはよくないのですが)
  一つは、北京の魯迅博物館に行った日のこと。珍しく北京が大雨の5月14日の話です。博物館の入り口で、当然にも傘をおいていくように言われたわけですが、見学が終わると、案の定(?)、われわれの傘は無くなっていました。「ああ、盗まれたな」というのが当初の感想で、未だ大雨が降っていることもあって、われわれは服務員にかなりきつく抗議し、探し出すように言いました。半分あきらめていたので、やけくそという感じなのですが。金津がこちらで中国語の家庭教師についていて、少しばかりは意味のあることが言えるようになってきたことも幸いしました。(お恥ずかしい話ですが、わたくしは一番簡単な日常会話が少しできるだけですが。それも、いい加減なピンインで)私の中国で作った名刺をおいてきて、もし見つかったら連絡するように伝えたのです。無論、われわれは完全にあきらめていて、すぐに傘を購入しました。その晩、九時過ぎでしょうか。われわれの部屋をノックする音があり、だれが今頃、と思ってドアを開けたらーーー。何と博物館の服務員さんが、傘を探し出し、雨の中をわれわれの部屋まで持ってきてくれたのです。われわれは、驚きかつ大変感激し、同時に色々と抗議したり、あるいは疑ったことを大変恥ずかしく思いました。後日、館長宛にお礼状を出した次第です。
  もう一つは、専家食堂(友誼賓館のわれわれ外国専家のための食堂です)の日本料理店での話です。実は、われわれはあまり日本食堂には行きません。大変値段が高いのと、それと当然ながら味が<真的日本料理>とは異なっていて、おいしく感じられないからです。それでも、わたくしは、金津が日本に一時帰国しているときなど、作るのが面倒なので二三回利用しました。ついでに言っておくと、北京には沢山の日本料理店があります。大衆的料理(例えば丼物など)も、お金さえ出せば、気軽に食べることができます。値段は、日本と同じくらいでしょうか。但し、北京での生活感覚では、日本円の1/10くらいで生活できますから、要するに十倍くらいのお金を使うということなのですが。
  その日本料理店で、ある日、わたくしはメニューの日本語のチェックをしてほしいと頼まれました。時間もありましたので、30分くらいかけて、わたくしは詳細にメニューをチェックし、多くの誤りを発見し、訂正しました(鳥焼きを焼き鳥にするとか、アサヒ・スパードライをアサヒ・スーパードライにするという感じです)。それからです。わたくしがその店に行くと、日本料理だろうが、韓国料理だろうが、中華料理だろうが、(つまり専家食堂内でつながっているので、三軒とも経営母体は同じです)、必ず賓客扱いを受けて、毎回必ず特別サービスを受けるのです。それも、日本とは異なって、それこそこんなサービスを受けていいのかというくらいに必ず豪華な品を二三品持ってくるのです。先日は、他の教員とかなりの数で行ったのですが、やはりその人数に見合う量を持ってきてくれました。要するに、中国の方は、一度「恩を受けた」と感ずると、半永久的にそれに報いようとするらしいのです。これもまた驚き、かつ感激している次第です。
  以上のことは、中国の人々の、心のこもった熱い人間関係を、よく示していると感じました。われわれの(わたくしの)、どこか形式的かつ事務的な人間関係とは随分異なった面に触れた思いでした。ときどき聞いていた、中国の方の濃密なつきあい方に直に触れることができたように思いました。
  以上ですが、今月は中旬以降に、西安方面と重慶・武漢方面の旅行を計画しています。次回はそのあたりの報告ができるのではないかと思います。中国通信は10回くらいで終わりになる感じでしょうか。それでは、再見。

 
 


 中国通信9(2000.6.21)

  梅雨のない北京は、連日35℃の猛烈な暑さです。しかも、意外にも湿気があって、不快な毎日が続いています。  さて、早いもので帰国まで後一月弱。何となく慌ただしく、かつ北京に名残を感じているこの頃です。おかげさまで、何とかここまで健康に恵まれて、やってこれることができました。センターの教員各位とも妙な連帯感で結ばれて親しくなりましたし、何よりも私が担当している院生とも、それなりの信頼関係を築くことができたことは幸いでした。これらの院生諸君は、来年には半年の予定で、日本に研修に来ることになります。残念ながら(?)、近世思想史を専攻する院生は一人もおりませんが、何とか彼らの研究の手助けができればと思っています。ちなみに、近代思想史を研究する予定の院生が三名いますので、また、日本で皆様の御指導を頂ければと思います。
  ここからは、また中国旅行の報告です(お忙しくしている皆様には恐縮ですが)。先日、3泊4日の西安旅行に行ってきました。兵馬俑博物館、碑林博物館、陝西歴史博物館など、古代〜中世の中国史を満喫できる博物館・史跡の他、張学良記念館など西安事件関係の史跡も丹念に見てきました。明代に築かれた城壁に囲まれた西安は、古都というのにふさわしく、寺院、皇帝陵など多くの史跡に恵まれた街でした。街の構造は、やはり日本の京都によく似ていましたが、京都が西安に似せて造られたわけですから、これは当たり前ですね。空海が学んだ青竜寺、阿倍仲麻呂客死の碑なども見てきましたが、日本とのつながりを感じさせる寺院・仏像も豊富にありました。そういうこともあってか、やはり日本からの観光客も多く、どこもかしこも日本人だらけ。もっとも、定年後にのんびりと歴史探索にふける老夫婦という感じの方々がほとんどのようでしたが。
  ところで、人口600万人強の西安も、実は北京同様の開発ラッシュ。街中がひっくりかえっているという感じで、早晩違う姿に生まれ変わるのではないでしょうか。貧富の差も大きいようで、博物館のチケット売り場の近くには、必ずといってよいほど、「物乞い」をしている人々がいて、複雑な気持ちになります。北京はやはり首都ということで、取り締まりがきついのだと、あらためて感じた次第です。
  それと、未だ西アジア方面に行ったことのない私としては、西安の一角で、初めてイスラム寺院や多くのイスラム教徒を見ることができたことは、新鮮でした。その中の書店で、コーランを購入しようとしたら、信徒以外には、聖なる文字が書いてあるコーランは売ることができないと、拒否されました。さもありなんと、おのれの軽薄さを反省した次第です。
  次回は最終回の中国通信となります。日本は、未だ、じめじめした梅雨のただ中でしょうが、皆様のご健康を祈ります。

 



       中国通信10(2000.7.8)

  北京は先日39℃という暑さを記録しました。しかしながら、適度の湿気もあって、かえって乾燥と黄砂に悩まされた4月よりは、よい季節に思えるから不思議です。しかも、先週われわれは、重慶・武漢に行ってきたのですが、南京も含めて中国の三大竃と言われているだけあって、湿度はほとんど90%近くではないかと思われるほどで、この時期は北京の方がはるかに快適だと感じています。
  さて、いよいよ帰国まで一週間強となりました。留守中には皆様には色々とご迷惑をおかけしましたが、わたくしどもにとっては、一生忘れ得ぬ貴重な体験をすることができました。とくに、次の世紀をリードするに違いない中国の過渡期の姿を随所で見ることができたことは、わたくしの学問にも少なからず影響を与えるのではないかと予感しています。何のための学問なのか、今わたくしはそのことについて 真剣に考えています。
 先週は、いよいよ最後ということで、重慶から三峡下りをしました。天候は雨。ズバリ言って、最高の旅行でした。雨に煙る三峡は、さながら墨絵の如くで、広大な長江下流の姿と鮮やかな対象をなしつつ、豊かな自然と、それに対する太古からの詩人たちの想い、さらにそこで織りなされた歴史物語を十分にわれわれに伝えてくれました。また、客船のサービスは、中国観光にしては珍しく(失礼)、とても洗練されたもので、パーティーあり、カラオケ大会あり、料理講座ありと、われわれを飽きさせることはありませんでした。
  日本人観光客の少ない便を選んだことも幸いしました。
  ところで、驚くなかれ、これらの三峡の姿は、2009年には、すっかり一変してしまうことになります。皆様もご存知の三峡ダムが完成し、上流の家々の多くが(約100万人)、水没してしまうことになるからです。既に約9年かけているという三峡ダムの建設現場も見学してきましたが、三峡の最後の広大な部分をせき止めるという、文字通り超巨大プロジェクトが進行中でした。24時間体制で急ピッチで工事が進められていることが理解されました。中国は、無論国家の威信をかけて工事を推進しているわけで、現場では、完成後の効果について、縷々自慢げな説明を受けました。既に同じ道を歩んできたリーベンレンとしては(黒部ダムを思い出しました)、批判しえないことは十分承知しているのですが、正直言って何とも言えない<哀しみ>を感じざるを得ませんでした。
  要するに、中国で突きつけられたものは、スケールを巨大にし、圧縮された現代人類の姿だったと、今は思っています。それは、決して他者の姿ではなく、自己の姿そのものでもあるのだ、と。さらに言えば、残念ながら、バラ色の未来が先に待っているわけではないことも、中国で痛烈に感じました。その重要な一翼を日本の企業が担っていることも、痛感させられました。わたくしがこんなことを言うと笑われそうですが、今は素朴さ・質実さといったことにたまらなく愛着を感じます。未だ多くがそうした状況で生活している中国の人々から学んだことは、第一にそのことだったような気がします。
  それでは皆さん、また日本でお騒がせしますが、よろしくお願いします。われわれは7月20日に帰国します。「中国通信」のご愛読、ありがとうございました。

 
 

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