現代日本のナショナリズムと「教科書問題」[1]

 

一、はじめに

本日は「現代日本のナショナリズムと『教科書問題』」をテーマにお話させていただきます。ご承知のように、二〇〇六年、安倍晋三内閣が成立し、従来の「右翼的」発言もあって、日本の右傾化、あるいはナショナリズムの強化が懸念されております。確かに、「美しい日本」といった美的・感傷的スローガンの登場、「道徳」を重視した教育改革、自衛隊容認と天皇の元首化も企図した憲法「改正」に向けた国民投票法の可決など、全般的な右傾化は否定すべくもありません。前小泉首相による「構造改革」によって一挙に拍車がかかった観のある、いわゆる格差の拡大が、社会の分裂を押し隠すための統合イデオロギーを必要としている、という背景もあります。何よりも、アジア諸国との関係では、「戦後の清算」を掲げ、「従軍慰安婦」問題に対しては、これまでの「反省」を覆すかのごとき発言が繰り返されていることも、右傾化の表徴として、懸念されるところだと思います。また、靖国神社参拝問題が、政教分離問題や戦争責任問題とも関わって、いつ噴出するか分からない深刻な事態として存在していることも周知のとおりであります。

このような右傾化が進行していると考えることに対して、私は正面から否定するものではありませんし、事実、むしろ若者の間で、その傾向が進行していることについては、大学教育に携わっている者としても、深刻に受けとめています。しかしながら、他方では、ことはそんなに単純に進行しないとも受けとめています。その理由は、大きくは二つほどあります。一つは、現下のグローバリズムが、いかなる国家主権といえども、もはやその構造に刃向かえないものとして、その意味では単一の政治システム・経済システムとして存在していることが挙げられます。それは、ネグリ&ハートの言葉を借りるならば[2]、一つの「帝国」として、全世界の国民国家の上にのしかかり、十九世紀以来の国民国家が保有してきた権力・権限を大きく制約しているといわなければなりません。このかぎりでは、日本政府が、あるいは日本国家が、「帝国」の政治意志・経済意志を無視して暴走することなどは、考えにくいことだといえます。無論、現下のグローバリズムが、ナショナルな原理を解体しているなどと楽天的なことをいっているわけではありません。事態はその逆だといえます。グローバリズムの進展が、正確には「帝国」化の進展が、自由競争という名の全世界の国民国家の序列化を推し進め、結果として全世界で深刻な紛争が激化しています。元来、平等ではなかった国民国家間の格差や搾取がますます拡大し、生き残りをかけた競争が熾烈なものとなるにつれ、それが結局はナショナリズム、あるいは「宗教ナショナリズム」として噴出していることは、周知のとおりであります。日本における現下の右傾化も、こうした動向と無関係ではありません。ただし、ここでいっておきたいのは、そうであればこそ、それは十九世紀〜二十世紀前期のナショナリズムの単純な復活として現出することは、ありえないということです。こうしたグローバリズムに媒介されたナショナリズムとして、姜尚中の言葉を借りるならば[3]、「国際化」され、「内と外とが相互に浸透していくグローバリズム化されたニッポンのナショナリズム」として、いわば国際構造に規定され、その国際構造に勝ち抜く方策として、作為されているのが現下の右傾化だということに注意を向ける必要があります。無論、ナショナリズムがナショナリズムである以上は、それが古典的な様式、すなわち「伝統」や「美意識」に作用する、作為された「自然」として装われることは、安倍政権の路線にも現れているとおりです。しかしながら、いかに「自然」として装われているにしても、その作為性は国際構造に規定されている分だけ、二十世紀前期よりもはるかに可視化しやすいものとして存在していること、のちにのべるように「教科書問題」にもその点が現れていることに、ここでは注意を喚起しておきたいと思います。

第二に、グローバリズムと関わりながらも、それとは明らかに一線を画する「インター・ナショナリズム」が、ようやくにして進展していることにも目を向けておきたいと思います。いわゆる「韓流」ブームについては、無論さまざまな見方がありますでしょうし、それだけで日韓関係を好転させる特効薬のように捉えることは、戒められるべきでありましょう[4]。北朝鮮に対する日本の世論、「拉致問題」などに関わる日本の世論ですが、それは現下の日本の右傾化の牽引車の一つとなっているとわたくしは考えますが、それが朝鮮半島=韓半島に対する歴史認識問題、戦争=戦後責任問題を受けとめる方向になりつつあるかに見えた一九九〇年代までの世論に冷水を浴びせたこと、そしてそれと「韓流」ブームが共存していたことには、もっと目を向けるべきでありましょう。「韓流」だけでは、とても日韓関係の好転をいうことができないというのは、その意味では説得的です。ただ、わたくしはこちらに来てから実感しているのは、恐らくこの「韓流」とも交差しながら、多くの交流がそれこそ「草の根」で実現されつつあることです。韓国語を学びに来ている留学生や語学交換学生も、わたくしの予想を上回る数になっています。一つエピソードを紹介するならば、先日釜山のホシムチョンに行ったとき、九州柳川の中学生多数が韓国の中学生と、文字どおり裸の付き合いをし、ワーワーと騒ぎあっていました。聞けば、例年お互いにホームスティしつつ交流する定例行事になっているとのことで、それはわたくしの目には、きわめて微笑ましいものに映じました。しかも、かれらは互いの言葉を学びあっているとのことでした。こうした交流は、確実に定着しており、それは近代以降の日韓関係を画期的に変容させる「インター・ナショナル」なものとして成長していくことに、わたくしは一定の楽天的見通しをもっています。無論、こうした動向が、逆にそれを快く思わない人々を刺激し、たとえば「嫌韓流」のようなイデオロギーを生みだし、今後ますますその不協和音が拡大していくことも事実でありましょう。しかしながら、それだけで過剰に反応することは、かえって未だ少数派である「嫌韓流」潮流を過大評価することになるのではないでしょうか。これは、「教科書問題」にもいえることで、ご承知のようにそれが検定を通ったこと自体は、無論日本の文部省(のち文科省)、日本政府の責任といわざるをえないとしても、実際の採択率は歴史〇.三九%、公民〇.一九%という散々なものであったことも事実です(二〇〇六年度)[5]。それが社会問題であるかのように大きく問題にすればするほど、かえって「新しい歴史教科書をつくる会」のねらいにはまってしまうという面もあります。かれらのねらいは、何よりも日本社会に亀裂をつくり出し、あるいは東アジア社会との間に亀裂をつくり出し、そのことで日本のナショナリズムを大きく演出していくことにあると考えられるからです。無論、かれらを厳しく批判をしていくことは重要です。また、それが少数意見に過ぎないことをもっと実効的に伝えられるだけの、さまざまな「草の根」の交流も重要です。少数意見といわれても、それを怪訝する韓国・中国の方々の見方には、それなりの理由・歴史的背景があることも、十分に理解する必要があります。ただ、ここでは、右傾化といっても、それほど一方通行的に進行しているわけではないことを最初に申しのべた次第です。

 

二、「『人』にはどのような歴史があるのか」

さて、「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書ですが、それがきわめて問題が多い教科書であることはいうまでもありませんし、今のべた現下の日本の右傾化を象徴するものであることは明らかであります。ただし、あえていえば、わたくしはこの教科書だけが問題ではないという視点も必要であるという立場にたっています。以下ではこの点からのべていきたいと思います。そのために、まず「人」にはどのような歴史があるのかを考えてみます。「人」と言いましても漠然としたいい方ですが、まず自分自身のことを考えますと、桂島という「私」ここにおります。同時に不可分のものとして男性としての「私」がいます。もちろん、ここには女性としての「私」もおられます。さらに大げさなものを背負っているわけではありませんが、桂島家の一員としての「私」がここにいます。実は、桂島というのは日本では大変変わった苗字です。宮城県の没落地主の家だったらしいのですが、いずれにしても、家の歴史というものがあります。さらにわたくしが育った場所があります。故郷と呼ぶべき市町村、都道府県(韓国では市・郡、道)があります。ここには、故郷に愛着を感じている方もたくさんおられると思いますが、戦後の日本の歴史学で一番大きな成果が挙がったものの一つは、郷土史=地方史だと思います。夥しい量の市町村史、都道府県史が出ています。さらにわたくしは日本国民としてここにいるわけです。日本国籍を持っているということで、それを略して日本人というわけです。わたくしは日本人である。日本人である「私」を考えた場合、日本の歴史が存在しているのではないかと思うわけです。さらにもう一つ拡大して、日本の外に行った場合、世界というものがあります。さらに地球があります。地球というと、人間どころか生命すべての歴史が射程に入ります。地球は宇宙へ、太陽系・銀河系があるわけですが、ここまでくると宇宙の歴史ということになります。ビッグバンから始まって宇宙が膨脹して云々という話になります。

 「『人』にはどのような歴史があるのか」ということですが、このように考えますと、さまざまな存在の統合体としての「人」として、「私」がいる。宇宙の中の「私」、地球、世界の中の「私」、日本の中「私」、都道府県、市町村、故郷の中の「私」、家系の中の「私」、男、女というレベルでの「私」、そこで初めて「私」というものにたどり着くわけです。

 なぜこのような話をしたかと申しますと、「『人』にはどのような歴史があるのか」を考える場合、この分け方は重要な意味があると思うのです。現在、日本の学校教育の場では、小学校から、故郷の歴史=市町村・都道府県、日本の歴史、世界の歴史が教えられているわけです(韓国でも同様と聞いております)。そういうものを、わたくしのように徳川時代=江戸時代を専門とする立場から見た場合、実は江戸時代までは、「国の歴史」という形での歴史叙述の書物は一冊も存在していないことに気づかされます。このことは、意外に思われる方があると思います。『古事記』『日本書紀』に始まって、幕末に人気があった頼山陽の『日本外史』(文政一〇=一八二七年自序)など、上に「日本」とつく本が沢山あるじゃないか。これは「国の歴史」の本じゃないのかという反論があると思います。しかしながら、『日本外史』[6]は一八〇年ほど前に完成した書物ですが、この書物はどんなものか。源平から徳川までの武門の興亡を物語風に叙述してある書物です。その意味では『日本外史』は武家の興亡史という特色を持っております。もちろん日本列島上に存在した武家ですが、あくまで武家同士の興亡が軸になっている。つまり、武家という「家の歴史」が叙述された書物といっていいのではないかと思います。

 同様に、日本で有名なもので『大日本史』があります。水戸光圀が編纂を開始し(明暦三=一六五七年)、完成は明治に入ってからですが(明治三九=一九〇六年)、『大日本史』というのは中国の正史を強く意識し、紀伝体という書き方で、天皇ごとに何々伝と立てて書く。現在わたくしたちが見慣れている歴史書とは色彩が随分違います。中国の正史はそういうものですが、天皇を一代ずつ叙述していくという形を取ります。南朝滅亡の後小松天皇まで神武天皇から一代ずつ立てて書いていく書物です。したがって、『大日本史』は、ある意味で「天皇家の歴史」と理解されます。

 あるいは新井白石も史家として有名な人で、『読史余論』(正徳二=一七一二年稿成)という書物があります。この歴史書には朱子学的な見方が入っています。新井白石のものは、中国の儒学者司馬光の『資治通鑑』(一〇八四年成立)、及び朱子の『資治通鑑網目』(綱は一一七三年頃成立)を念頭に置きながら、武家と天皇家・公家の興亡を書いていく。これも武家公家興亡史であるといわざるをえない。また、北畠親房の『神皇正統記』(一三三九年頃成立)は南北朝期に神代から後村上天皇までの皇位継承を軸に叙述したもの、慈円の『愚管抄』(一二二〇年頃成立)も公武協調の視点から公武の興亡を叙述したもの、さらに『古事記』『日本書紀』も戦前、津田左右吉という歴史学者がいう通り、天皇王権の正統性の由来を説いた歴史書であるということになります。

 それぞれ並べていきますと、何々家の歴史とは言いえても日本の歴史と称せられるものではない。この点をもう少しはっきりさせるために、福沢諭吉の言葉を引いておきたいと思います。福沢は明治時代を代表する有名な啓蒙思想家ですが、『文明論之概略』(明治八=一八七五年刊行)という書物の中で「日本には日本国の歴史はなくして日本政府の歴史あるのみ」と嘆いています[7]。それでは福沢は「国の歴史」をどこで知ったか。実はヨーロッパの歴史書で知ったわけです。「ヨーロッパには国民や国家をきちんと書いた書物が存在しているのに、日本には政権交代史、せいぜい何々家の興亡を記した歴史書が存在するにすぎない」と嘆いているのです。こうした状況を「国の一大欠点」といっています。福沢が『文明論之概略』を著した明治七〜八年段階で、基本的にはそれ以前において日本国の歴史と呼べる書物が一つもなかったということが浮かび上がってくるわけです。つまり、現在の私たちにとってあまりに常識になってしまった日本史=日本国の歴史は、新しい歴史の書き方、新しい歴史書であるということです。より正確にいうなら「近代以降に成立した歴史叙述の方法である」ということを、まず始めにはっきりさせておきたいと思います。

 

三、前近代の歴史叙述の特質

 それでは、前近代の歴史書はどんなものだったか。どういう形で歴史が叙述されていたのか。それを近代以降の歴史叙述と比較しながら考えてみたいと思います。江戸時代の歴史書、『大日本史』『読史余論』『日本外史』などは日本では大変著名で、高校の教科書にも載っていますが、これは儒学的な見地=朱子学的な見地からなる歴史書といえます。これには大きく三つの特色があると思います[8]。このことは、「つくる会」の教科書を見る際にも重要なことだと思いますので、やや詳しく見ておきましょう。

 一つは「治乱興亡史観」で、歴史は治まったり、乱れたりが次々と繰り返されるという考え方です。それが繰り返されるという意味では、「循環史観」といってもいいかもしれません。私たちがすでに失ってしまった歴史に対するものの見方です。歴史は繰り返すと言いますが、現代の私たちはこれを比喩でしか用いません。ところが江戸時代の儒学者にとっては、これは比喩ではありません。歴史は繰り返されます。しかも国境を超えて繰り返されます。中国の歴史書がなぜ必死で読まれるのか。私たちが読むように、他国の歴史書として読むわけではない。繰り返されるがゆえに必ず参考になるだろうということです。つまり、中国の歴史書は中国の歴史書であると同時に普遍的な歴史書でした。儒者は中国の歴史書を下敷きにしながら書くわけです。これは『日本書紀』からすでに始まっています。江戸時代までずっとそういう形で歴史書は書かれてきた。新井白石も朱子の『資治通鑑網目』などを横に置きながら『読史余論』を書いたことは先にのべました。「循環史観」は国境をも超えていく歴史の見方だということに注意しておいてほしいと思います。

 二つ目は、「鑑戒主義」です。歴史を鑑=鏡とする考え方です。過去の過ちから学ぶ。過去の過ちをきっちり見て、治乱興亡の叙述を見ながら、なぜ乱れたのか、そこを反省する。同じことが繰り返されるわけですから、現在の我々以上に緊迫して書物を読んで学ぼうとする。本当の鑑=鏡なのです。歴史を一生懸命、鑑=鏡として、そこから戒めを引き出す。この考え方は、日本の有名な歴史書の中に一様に共通して出てきます。『大鏡』『今鏡』『水鏡』『増鏡』などは古代・中世の有名な歴史書ですが、名前にもその考え方は出ています。まさに「古ヲ以テ鑑ト成シ、人ヲ以テ鑑ト成シ、以テ得失ヲ明カニスヘシ」(『貞観政要』)というわけです。失敗もちゃんと見ようというわけです。

 三つ目は「直書主義」です。朱子の言葉に「実ニ拠テ直書シテ、理自ラ現ル」(『朱子語類』巻八三)というのがあります。「事実」を「直書」すれば、余計なことを書かなくても「理」は自ら現れる。したがって、正式の歴史書の「紀」は解釈とは別に記述される。「何月何日こういうことがあった」と淡々と記していって、そこに「自ら善悪が現れる」といっているわけです。念のために申しますと、「事実」と解釈は不可分のものでありまして、現代のわれわれから見ると、かくいう儒学者・朱子学者の歴史書も解釈を離れてはありえません。「事実」を淡々と記して、そこに自ら「理」が現れるといいますが、なぜその「事実」を取り上げるのかということの中に、すでに一つの解釈が入っている。したがって、厳密には「直書主義」はかれらがいうほど解釈と無関係ではないわけであります。ただ少なくとも彼らの主観のレベルでは「直書」、記録に残っているものを淡々と断定型で記していけば、後は解釈しない。そうすれば「理は自ら現れる」。

 以上、大きくいえば、儒学系の歴史書にはこの三つの特色があろうかと思います。江戸時代は、儒学系の歴史書が盛んだったわけですが、それを通覧すると、直ちに気づかされるのが、この三つの特色であります。「治乱興亡史観・循環史観」「鑑戒主義」「直書主義」ということです。こういう歴史観は当然のことながら、近代以降、多くは見捨てられていくことになります。

 実は、「教科書問題」について考える時、このような儒学的な歴史観を置きながら、色々なことを考えさせられたことがあったわけですが、この点はのちにまたのべます。

 ところで、ここで「史」という漢字にも注目しておきたいと思います。立命館大学名誉教授であった故白川静先生の有名な『字統』を引きますと[9]、それぞれの漢字の成り立ちが詳細に書いてあります。「史」とは何か。「史」が「中」という漢字と、「手」を意味する「又=ユウ」という漢字から成っていることは、ほぼ全ての漢和辞典に書いてありますが、「中」については諸説があるようです。白川先生は「中」について、祈祷の器である「□=サイ」を木に著けた形としています。これを手に持ち、神に捧げて祭る形式の祭儀が「史」の原義であるとしています。やがて、祝詞というものを保存し、その伝統を保持し、記録するという職掌を通じて、さまざまな王権の祭儀などの記録を管理する、保持する人が「史」とされていったのではないかとのべています。

 「史」という漢字を調べて面白かったのは、後漢に成立した『説文解字』という中国最古の漢字の辞書がある。これではどういっているか。「中」を「中正」と解して、「中正を記録する人」[10]。この説は、白川先生は間違っているとしていますが、考えさせられるところがありました。何を「中正」とするのかは難しいのですが、少なくとも「中正」「中庸」を記録する。偏らないことを厳格に記録する。儒者はそのようにいっているわけです。今日、何が「中正」なのかということは大問題ですが、儒者は基礎に『経書』がありますから、それを基準に見れば「中正」はわかる。現代のわれわれにはそれがない。ないわれわれが「中正」を記録するのは甚だ難しいところがあります。『説文解字』は「史」をそのように解している。「中正を記録する」。「歴史教科書」を考える意味では、なかなか含蓄深い言葉ではないでしょうか。

 こういう語義を持った「史」、「史」についての考え方が、日本の前近代までの歴史叙述や歴史書に大きな影響を持っていた。江戸時代の歴史書を書いた人たちのものを読みますと、かれらは皆、われわれから見れば偏っていますが、少なくともかれらの中ではできるだけ「中正」に書こうという努力が伺える。林羅山・林鵞峰の『本朝通鑑』なども一生懸命書かれています。『大日本史』の編纂官も議論をしています。面白い議論を紹介しますと、『大日本史』は、徳川光圀から始まって近世を通じて書き継がれ、完成は明治になったということになりますが、現在の学説では、前期と後期に分けられます[11]。後期の方は後期水戸学につながっていくもので、大体、立原翠軒のあたりからいう。有名な徳川斉昭=烈公や藤田幽谷・東湖親子、会沢安など、後に尊王攘夷運動につながってくる水戸学・天保学の母体になっていくのが後期ですが、前期はそうではありません。前期の『大日本史』は「中正」を期すためにすべての天皇の「得失」を書いていくわけです。天皇の「失政」も書いていく。この天皇はこういう悪いことをした、と。ところが後期水戸学は、これは天皇に対して不謹慎であるとして削除していく。このあたりに後期水戸学が近代以降の歴史の見方にグッと近づいていく流れを感じますが、天皇の「失政」も全部書いていくというのは「中正」を期し、鑑とするためには正確に書かなければならないという見方が根底にある。新井白石も、『読史余論』の中で「後醍醐、中興の政正しからず」「後醍醐、不徳にておはし」「南朝既に亡び」といっている。そして、ここで王朝が交代し「天下はまったく武家の代とはなりたる」といっています。新井白石は、「王朝交代」にはそんなに違和感がない。「天命が去れば、易姓革命が起こって当然である」というのは儒者の立場でありますから、そのように見ております。江戸時代までは、わたくしたちが思う以上に、比較的辛辣なこと、「後醍醐、不徳にておはし」ということを書く[12]

 このようにのべておりますのは、別に江戸時代がよかったということを申すつもりではなく、近代以降の歴史書、歴史叙述のあり方を見る時、江戸時代のものを置いてみることは意味があると思うのです。われわれも近現代の中に生きていますから、近現代の見方があたりまえになってしまっている、あたりまえになってしまっているものを相対的にとらえていくには、江戸時代のものを見ることは有効だと思っています。こういうものを横に置きますと、近代以降に著された歴史書は前近代までと明らかに異質なものであるといわざるをえない。

 

四、近代以降の歴史叙述

 近代以降の歴史叙述の一つの特質は「一国史」、国民の歴史を叙述しようとすることです。福沢が「日本には日本国の歴史はない」といい「早くつくらないといけない」と考えたことを、明治政府は大急ぎで始めていく。明治期、概ね二つくらいのところでその作業が行われているように思います[13]。一つは大学=東京帝国大学です。もう一つは在野です。在野の方が、より庶民的なレベルまで目が届いていた。東京帝国大学の人たちは儒教の影響を受けている部分がありますので、どうしても王朝興亡史観的な見方から自由になれない。それに対して、山路愛山、徳富蘇峰、竹越与三郎などは庶民を叙述しようとする。戦後の歴史叙述は愛山とか蘇峰、竹越の流れを意識した部分もあると思います。戦前の教科書は国民の歴史書を書こうとしたのですが、王朝興亡史観的なものにならざるをえなかった。帝大史学会が編纂した『校本国史眼』が近代以降の最古の日本通史といってよいのではないかと思いますが、それは過渡的な性格を持っていて、天皇家と武家を中心に記述しているのではないかと思います。庶民・国民がどういうふうな生活をしていたのかを叙述し始めるのは在野の方が早かったという印象があります。

 ところで、こうした近代以降の歴史叙述と比較すると、前近代までの歴史書は実は共通性の叙述が強く意識されていたことに気づかされます。中国や東アジアなど全体が同じ歴史で動いていく。そういう見方が強くあります。儒教という立場に立って見るのであれば、自らそうなります。「道理」「正理」は前近代の歴史書、儒教系の歴史書にとってのキーワードです。『愚管抄』などもそうですが、これは仏教系と見るか、儒教的と見るか、議論があるのですが、『愚管抄』のキーワードも「道理」です[14]。これはいやしくも日本列島、日本の王権だけを支配しているものではない。かれらにとっては少なくも世界全体、当時の世界は中国を中心とする世界にならざるをえませんが、われわれから見たら狭い世界ですが、当時の学者からすれば、日本だけではない、世界の「道理」です。「道理」が歴史というものを貫いているという見方で一本筋がポーンと通っているわけです。したがって、歴史叙述に国境がない。同一の「道理」が貫かれていく。日本のことを書いているのに、いきなり中国の話が書いてあったりすることがよくある。日本の事件の話を書いている時に「中国もこれに相当する」と平気で書いてしまえる。それがなぜ可能なのか。「道理」ということが貫いているという見方がはっきりしているからだと思うわけです。

 そういうことを横に置いて、近代以降の歴史叙述を見ますと、あまりにはっきりしていることは日本の「固有性」に重点が置かれていることです。明治時代の学者がヨーロッパに留学して帰ってきてのべていることですが、明治時代の学者、たとえば井上哲次郎とかがドイツに留学して歴史の書き方を学んでくる。かれらは驚いて帰ってくる。何に驚いたか。発想の逆転があった。つまり「我が国にしかないものを書かなければならない。そうしないと自国史にならない」[15]。あっちにもこっちにもあったのでは、我が国の歴史にならないわけです。我が国固有の文化、我が国固有の特色、こういうものを書かないと、自分たちの歴史にならないということを明治時代の学者たちはヨーロッパに行って感じたわけです。われわれは、あまりにもそういうものを読まされて慣れていまして、われわれの方がそういうことに鈍感なんですね。「我が国固有」といういい方は、今ではあたりまえのいい方です。あまり違和感なく聞いてしまう。「日本文化の特色」「日本の歴史の大きな特色である」「日本的美である」ということに慣れっこになっている。ところが明治時代の学者たちはびっくりして帰ってきた。逆転するわけです。何とかわが国固有のものを発見しなければならない。

 もう一つ例を挙げると、岡倉天心という人が日本の美を「発見」したといわれますが、わたくしは、かれはヨーロッパ美術を介在しないと、日本の美は見えてこなかったと思います[16]。「日本の固有の美」をフェノロサがいう。そのことによって「なるほどこういうものを固有の美というのか」と日本の美は「発見」される。ちなみに美術書、美術史は江戸時代までたくさん存在しているわけではありませんが、パラパラ見ていますと、申すまでもありませんが、禅とか仏教との関係で論じられているものが多い。江戸時代後期になりますと、西洋との比較の見方が出てきますが、明治期、東アジアの中での共通する美が、日本固有の美にガラッと変わっていく。これも近代と前近代の歴史を見る場合、押さえておかなければならない点だと思います。

近代以降の歴史書はどうしても自国中心史観という傾向を持っている。それは自国の固有文化、自国の特質を記述する。これは前近代にはない、近代特有の歴史の記述方法であり、ナショナリズムの重要なイデオロギー装置として存在している以上は、日本だけの特色ではないということに注意する必要があります。ドイツの歴史の書き方、フランスの歴史の書き方、特色はそれぞれ違いますが、固有の歴史の書き方、ヨーロッパで創出されたそれが一つのモデルになるわけです。そして、わたくしたちは自分たちの国の歴史、自分たちの固有の特色に染め抜かれた歴史書に、近代以降慣らされ、それを自明のものとして歩んできたところがあると思います。たとえば日韓相互の教科書を見ていて面白いのは、目次が全然違うわけです[17]。それぞれの自国史は自国民用につくられている。他の国民に読んでもらうことは想定されていない。ですから読んでもほとんどわからない。「こんなの、うちの国では小学生でも知っています」「知りません」ということになる。共通の項目が立たない。自国史はそういうところがあるのだとあらためて感じます。解釈以前の問題で、そもそもどういう事件を取り上げるかが違う。日本史のいい方での元寇とか豊臣秀吉の朝鮮侵略、そして近代以降の歴史で、やっと共通の事件が登場してくる。しかしいかに重ならないものが多いかということに驚きました。したがって、「教科書問題」を根底から考えていくためには、「同時性」「共時性」という視点がいかに重要なのかというのが、今のわたくしの認識の出発点にあります。つまり、今までの一国史はあまりにも固有性の議論ばかりをしてきたので、逆に共通性に視点を据えてみようということです。そのためには、国境を超えてわれわれが少なくとも到達したとされる原理を議論することから始める必要があります。互いの国民というものを尊重し、人権・平和について互いにきちんと確認すること。何を共通性とするのかということから興味深い議論になるでしょう。異質性は書いてある、どちらの教科書にも。「我が韓民族の特色はこうである」「日本人の歴史の固有性はこうである」。そうではなくて、共通性をもう一度探し、共通の価値を互いに基礎にしながら、共通の価値の中で、歴史記述をめざすこと、このことがとくに重要な点と考えます。

 

五、「つくる会教科書」前近代史批判――初版本を中心に

今の話を、今日のテーマのベースに据えなければならないと思います。やっと本題のところにきました。「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書の特色は何か、について次に検討していきたいと思います[18]。「新しい歴史教科書をつくる会」は一九九七年に結成されました。電気通信大学の西尾幹二氏、マンガ家の小林よしのり氏、さらに生長の家とか神道政治連盟という宗教団体、日本会議、日本青年協議会などで会を作り、それまでの歴史書は「自虐史観」である、そうではなく、もっと自国に誇りをもてる、自信を持てる教科書を作らなければならないと主張したわけです。西尾氏は今回の教科書のパイロット版ともいうべき『国民の歴史』を書き、さらに藤岡信勝氏との共著『国民の油断』も発刊しました。

 戦後、何度も教科書に関して問題にされた時期があり、人によっては今回は「戦後の第四次教科書問題である」という人がいます。今回のものは、一九九〇年代以降のグローバリズムの進展、日本の構造不況、さらに一九九一年以降のいわゆる「従軍慰安婦」問題などが絡み合った現代日本の右傾化と密接につながった動向といえます。右傾化については最初に述べたとおりです。ここで「従軍慰安婦」問題に関していえば、三一新書からずいぶん前に千田夏光氏の書物が出ていました[19]。決して新しいことではなかった。ところが、俄然、問題になってきたのは裁判と戦後補償をめぐる問題が起きてからです。さらに「従軍慰安婦」問題が教科書に記述されるようになった。個人的にはそれは当然だと思っていますが、教科書に載ったことが「つくる会」にとっては問題になります。一九九一年に「元従軍慰安婦」だった金学順(キムハクスン)さんが名乗りを上げ、日本政府に補償を求める訴訟が提起され、一九九三年には教科書が一斉に記述を始めた。ところが、これを記述することは日本の教科書としてふさわしくないと「つくる会」の方々はいうわけです。しかも、この運動は一定成功して、現在多くの教科書では記述しなくなったことも事実です。さらに最近の政府の開き直り的発言もその延長線上にあると考えられます。この意味では、「つくる会教科書」の運動は、のちに述べるように採択率等においては少数派の運動といえますが、一定の成果を挙げていることは、決して過小に評価されるべきものではないと思います。

内容について、前近代史部分については、改訂版では大きく変わっていないとも考えられますので、初版本(二〇〇〇年版)を中心に検討します。白表紙本、修正本、市販本を見て比較しました。どこがどう変わったか。どこが変わらなかったか、詳細に検討したのですが、かい摘んで特色だけいいます。まず、グラビアに美術作品があります。「ミケランジェロに匹敵する」という解説が市販本に出ています。最終的に残った言葉です。最初は「イタリアよりはるかに早い」とも書かれてありました。こういうものを見ていますと、個人的に滑稽なものを感じます。「欧米と対抗できる日本の美」という見方が露骨に出ています。ある意味では西尾幹二さん、西部邁さんの特色だと思いますが、かれらは欧米中心史観というものに強く影響を受けているのではないか。その意味では、明治以降の日本の近代的なものの見方、ヨーロッパと比較しながら叙述をしていく、欧米中心史観的な見方を色濃く持っていて、それが奇しくもドロッと出ているという印象を持ったのです。「世界の肖像画の中でも見事なもの」「世界美術の中でも類例のないもの」「世界にほこる日本の美」。こういうふうにしか書けないのかと。しかしながら、逆に言えば一国史というものは「そういうものなのかもしれない」ということがよく現れているのではないかと思いました。こうした表記は、西部氏らの退会もあってか(後述)、二〇〇五年改訂版では削除されています。その代わり、安倍政権の「美しい日本」を意識した、「美を感じ取る豊かな心を持つ日本人」が前面に出る形になっています。

 原始・古代に関しては「縄文」をクローズアップしています。この点は、改訂版でも変わっていないといえます。市販本では「縄文文化」となっていますが、白表紙本では「縄文文明」と書いてありました。「世界四大文明よりさらに古い」といわんばかりで、滑稽なのですが、上高森遺跡について、「日本の旧石器の文化は五〇万年、六〇万年以上に遡る」と書いてあった。さすがに捏造問題が起こって書けなくなって、市販本では削除されていますが、最初の本では出ています。写真入りです。白表紙本が出た時点で改ざん問題は起こっているのです。白表紙本は、改ざん問題が明かになった後に出されたわけです。たとえ、改ざんでも引用して自分たちの主張を繰り返すところには、「事実」に対する無神経さがよく表れていると思います。

 縄文文化をなぜ絶賛するのか。分かりやすいのですが、弥生文化、大陸文化云々とくるところを極端に少なく記述する。これは一国史をどうやって書くかということをよく表している。独自の文化、文明をきちんと置いておかないといけない。それは縄文になる、と考えている。弥生文化は大陸から渡ってきた文化だといわれているので、そういうものをできるだけ少なくして、独自性・固有性をいうためには縄文をクローズアップせざるをえないのだろうと思っています。「森林と岩清水の文明」、後には「森林と岩清水の文化」と変わりましたが、最初は「文明」となっています。弥生文化については、のちに削除されましたが、「外から入ってきた少数の人々が伝えた新しい文化」というのが当初の書き方です。「少数」というのは削除されました。大陸文化の話を書く時には『魏志倭人伝』に触れる必要があります。『魏志倭人伝』から邪馬台国の話を記述するのが普通の教科書で、日本の歴史はここの部分は中国の古代史書を参照するのは通例なんですね。今のところそれ以外に有力な史料がない。中国の古代史書によるしかないわけです。歴史家としてはそう思います。ところが「『魏志倭人伝』を書いた歴史家は日本列島に来ていない」とわざわざ書いている。何がいいたいのか。「いかに『魏志倭人伝』があてにならないか」という印象を与えたいのだろうと思いますが、それだけでなく、中国文化の影響、大陸文化の影響をいかに少なく書きたいかということがあるのだと思います。改訂版でもこの点は同じで、『魏志倭人伝』は「不正確な内容も多く」と記述されています。

 また、「日本は中国から独立し、朝鮮半島諸国が日本に朝貢した」と平然と書いてあります。「中国から独立し」というのは、聖徳太子の「日出づる処の天子」云々という箇所がありますが、古代史の学問的な中では「東夷の小帝国論」というがあり、そういう意味では一定程度、大陸から離れた分だけ独立性を維持していたことは現在、認められていることではありますが、「中国から完全に独立した」ものとしてあったのではないことは、現在の古代史では通説だと思います。なおかつ「朝鮮半島諸国が日本に朝貢した」という記述は大いに問題です。戦後の古代史が、精密に考証を重ね、古代史の史料を渉猟し、「任那日本府」問題とか「高句麗の好大王碑」問題とかを検討し、今では大和朝廷が朝鮮を支配していたのはほとんど史実ではなかろうということが通説になっているわけです[20]。他の教科書は、それを反映しているわけです。大方が疑っていることを、この教科書は断定的に記述している。「大化の改新」も学校で古代史をやれば出てくるには出てきますが、戦後は「大化の改新」の詔に『日本書紀』編纂段階での潤色が認められるようになって、律令制確立の画期として考えられるかどうか論争になっています。したがって教科書でも、律令制との関連では、過度にクローズアップして取り上げることはないはずです。ところが、この教科書では、「君臣の名分を明らか」にしたものとして、大きく取り上げている。戦前の皇国史観ばりの箇所といえます。ここも改訂版でも大きくは変えられていません。

 神話も、「史実」ではないことは今日では明白になっています。念のため申しますと、わたくしは個人的には神話を取り上げることには反対ではありません。古代の神話が古代の朝廷の考え方や豪族の世界観を反映していることを必ずしも否定するものではありません。しかしこの教科書ははっきりと白表紙本の段階で「史実を反映している可能性が考えられる」と書いてある。「神武天皇の東征」のところです。こういうことを学界で堂々といっている人はいないと思います。したがって、明確に歪曲したいい方です。ここには、「史実として神話を入れたいのだ」という意図がはっきりしていると思います。これは神話を取り上げる上では適切な記述方法ではないと思います。改訂版では、判型をA五判からB五判に変更して一〇〇ページ減らしています。それにともなって、神話を九ページから三ページに減らしています。しかし、「神武天皇東征」を大和朝廷成立のところで扱い、実在しない神武を初代天皇とするなど神話をあたかも史実であるかのように描いているのは、初版本と同じです。

 中・近世部分では分量が少ないことも注目されますが、これはこの教科書だけの問題ではなく、自国史=一国史は一般に古代に多くのページをさきます。この意味では、この教科書は見事にその構図を体現していると思います。中・近世の分量が少ない。世界的にもそういう傾向があることに加えて、この教科書では特にそうならざるをえない理由が二つあるように思います。第一に室町時代、明らかに幕府が明王朝に朝貢していた事実がある。この記述はわずか一行です。しかも「それを嫌って中断した時期があった」とある。中国に朝貢していた事実を隠蔽したいのだと思います。それと全体を通じてはっきりしているのは、この教科書は「天皇中心史観」に立っているといってよいと思います。天皇を中心に叙述が進んできて、最後は昭和天皇について、「平和を愛された昭和天皇」というコラムで紹介されて終わる。一貫して天皇中心で叙述する。これも苦笑せざるをえないのですが、そうなると中・近世は少なくならざるをえない。天皇王権を軸に書きにくいからです。ただしそれでも書く。最後に残った記述は「幕府が実力を伸ばしても国家統治の正統性を伸ばすために朝廷をないがしろにできなかったのである」。幕府がいかに朝廷を崇敬したかということを残したわけです。改訂版でも「幕府は、朝廷をうやまいながらも」という表記は残っています。苦しい書き方だと思いますが、「江戸幕府は朝廷を敬いながら、同時に牽制しようと努め」とあります。史料からは「牽制」としてしか読めない。でも「敬おうとした」と書きたい。中・近世部分でそういうことが入っていることを特色として挙げてよかろうと思います。これが分量が少なくなった理由だと思います。

 

六、「つくる会教科書」近現代史批判――改訂版を中心に

次に最も問題の多い近現代史を見ていきたいと思いますが、今度は改訂版を中心に、初版本と比較しながら検討してみます。

改訂版でも、初版本同様に、日清・日露戦争以降の日本の戦争を美化・正当化し、アジア太平洋戦争を「大東亜戦争」とよんで、それが侵略戦争だったことを認めず、日本の防衛戦争、アジア解放に役立った戦争として美化し肯定する立場が貫かれています。わざわざ「植民地にされていた民族に、独立の希望をあたえた」「日露戦争と独立への目ざめ」というコラムが登場しているほどです。韓国併合・植民地支配への反省はなく、むしろ正当化する内容も初版本と同じです。「欧米列強は、…日本が韓国を影響下におさめることに異議をとなえなかった」とのべ、欧米の「承認」があったからと正当化しています。「創氏改名」については、改訂版の申請本ではそれを韓国人が望んだから認めたように記述していましたが、検定によって初版本と同じ「日本式の姓名を名乗らせる創氏改名などが行われた」と修正されました。「つくる会」は会報『史』において、「日本を糾弾するために捏造された、『南京大虐殺』『朝鮮人強制連行』『従軍慰安婦強制連行』などの嘘も一切書かれていません。旧敵国のプロパガンダから全く自由に書かれて」いると主張しています[21]。その意味では、申請本こそ本音であることは明らかです。また、日本軍「慰安婦」の事実を無視し、南京大虐殺についても「犠牲者数などの実態については資料の上でも疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている」とあえて記述しています。さらに、韓国や中国などアジア諸国の歴史を侮蔑的に描いている箇所が、この近現代史部分では特に目立ちます。初版本では削除された「朝鮮半島は日本に絶えず突きつけられている凶器となりかねない位置関係にあった」という箇所が、「この日本に向けて、大陸から一本の腕のように朝鮮半島が突き出ている」「朝鮮が他国におかされない国になることは、日本の安全保障上にとっても重要だった」と実質的に復活し、地理的にその侵略が正当なものであったといわんばかりの記述をしています。「アヘン戦争に衝撃を受けたのは、中国よりもむしろ日本だった」と断言し、ここに「中国・朝鮮と日本の分かれ目」があったとされ、中国・朝鮮が世界情勢に対応できなかったとする初版本以来の見方は継承されています。戦争が不可避的なものであった、庶民もよく戦ったという記述も、初版本以来変わっていないといえます。

ところで、今回の改訂版において特色的なことは、初版本にあった反米色を一掃して「脱亜入米」的になったことです。たとえば、初版本の冒頭にあった「欧米列強に対する恐怖」といった表現や「日本軍守備隊は…米軍を相手に一歩も引かず」といった表現は、一切姿を消しています。これに伴って、初版本には濃厚であったアジア太平洋戦争の原因は、アメリカの側にあったといわんばかりの表現は、一切姿を消しています。これには「つくる会」の内紛が関係していると思われます[22]。実は、「つくる会」は、内部分裂を繰り消し、必ずしも一枚岩ではありません。ことに大きいのは、二〇〇二年に小林よしのり氏・西部邁氏が西尾幹二氏・藤岡信勝氏・八木秀次氏らと対立して退会したことです。これは、親米か反米かの分裂といわれており、反米右派が「つくる会」と決別した事件として知られています。小林氏は、歴史教科書の執筆も降り、西部氏は公民教科書の代表著者を辞める事態となりました。また、二〇〇六年一月に、西尾名誉会長が辞任・退会し、遠藤浩一・工藤美代子・福田逸副会長が辞任し理事になり、二月には八木会長、藤岡副会長、宮崎正治事務局長が解任され、宮崎氏が退職(解雇)するに至りました。この内紛は、二〇〇五年の採択で一〇%以上は確実に取れるといっていたのに、歴史〇.三九%、公民〇.一九%と「惨敗」した責任のなすりあいが一番の原因といわれています[23]。現在も、宮崎氏の解任をめぐって、日本会議派の理事(内田智・勝岡寛次・新田均・松浦光修氏)と西尾・藤岡グループの間で、泥仕合のような応酬がつづいています。西尾氏によれば、日本会議派四理事のうち三人と宮崎氏は、憲法を「改正」して大日本帝国憲法体制に原点回帰し、天皇を中心とした「神の国」をめざすことを方針として、青年教員や教育系学生に浸透を図ってきた日本青年協議会の仲間だということ。こうした事態は、一言でナショナリズムといっても、その方向性に関しては、さまざまな路線があり、しかも先にのべたように、現在のグローバリズム社会に規定されながら、その再編・篩い分けが次第に激しくなってきていることを物語っていると考えられます。結果的には、親米ナショナリズム派が主導権を採ったといわれているのも、グローバリズムや帝国化に規定されつつ、「つくる会」が存在していることを、鮮やかに示すものといえるでしょう。

戦後史は、初版本の白表紙本では「戦後の戦争」という表題から始まっていました。一つの大きな戦後観があると考えられる表題です。「日本は戦争に負けたよりも、戦後の戦争に負けたのだ。そのことの方がはるかに深刻である」と、戦後全体を否定したい。これは強い主張として感じました。アメリカの占領によって始まった一連の日本の民主化といわれている時代、平和憲法が制定された時代は、戦後の戦争に破れた結果としてそういうことになった。「戦争に負けたことより、戦後の戦争に負けたことの方がはるかに問題だ」ということが、初版本の最後の方の大きな主張だと思います。改訂版でも、東京裁判や占領政策によって「戦争への罪悪感」が広がったという視点が前面に出ています。ただし、興味深いのは、先にのべたように親米的になった分だけ、そこには一種の屈折が見られることです。アメリカの戦後政策を否定できないにも拘わらず、現代日本のナショナリズム喚起のためには、戦後史をそのように表現せざるをえない「苦渋」「ねじれ」のようなものが、そこにあるように感じます。

「かつての日本は常に外国の歴史に理想を求めたりせず、自国の歴史に自信を失わない確固とした独立心があったが、敗戦後の日本は自分の歩みに突然不安になってきた。どこか自信かなくなっている」というのが、この教科書の最後ところのメッセージです。これは初版本と同じです。はっきりした戦後観、この教科書が現在立っている視点をよく表していると部分だと思います。

さて、この他に、この教科書には初歩的なミスが多いことも特色です。教科書としては論外なミスが多い。歴史観の問題以前に、あまりにもお粗末としかいいようがない、きわめて初歩的なミスが多い。改訂版においては、『多武峰縁起絵巻』(三九頁)ですが、大化改新期(七世紀)の挿図に平安時代(九〜十二世紀)の十二単衣や衣冠束帯を描くこととなっており、『楠公一代絵巻』(七六頁)ですが、南北朝時代(十四世紀)の挿図なのに鉄砲穴のある近世城郭建築(十六〜十七世紀)を示すなど、その時代にはありえない絵図を掲載して、相変わらず「笑える」初歩的ミスが存在します。初版本にも、きわめて初歩的なミスが多いことはよく知られているとおりです。たとえば、全部が「勅撰」でもない万葉集が、「朝廷の命によって編集された」と書かれていました。「万葉集は長くその後の模範とされた」ともありました(万葉集は江戸時代までは埋もれた歌集でした)。コラムに「源頼朝が武家で最初の征夷大将軍に任じられた」とありますが、木曽義仲が武家最初の征夷大将軍です。さらに「富岡製糸場など紡績業」とありました。製糸業と紡績業の区別もできない。この教科書は、荒っぽく仕上げたということを、これらのミスがよく物語っていると思います。そして、検定というものも、そんなものだということがよく分かる事例だと思います。

 また、通説で否定されていることを、あえて断定的に書いているとすれば、少なくともその根拠を示すべきだと思います。実は、西尾幹二氏は、正確に論旨をつかんでいるかどうかはともかくとして、さまざまな研究書を読んでいるように感じられます。『国民の歴史』を見ると、都合のいいところは引っ張っている。引っ張られた人は困っているのですが。網野善彦氏の研究とか、近世史では荒野泰典氏という外交史の研究者の説、また自由民権運動に関しても新しい研究を見ている節があります。引用するなら、なぜ古代史にそういうものがないのか。疑問にさえ思います。恣意的な引用であるといわざるをえない。

 次に歴史観ですが、この教科書の歴史観は、きわめて分かりやすい歴史観だと思います。自国史=一国史としての教科書の主張や書き方、記述方法は分かりやすい。すっきりしていると思います。まず、既にのべましたが、原始古代から一貫して天皇中心の記述方法です。天皇中心というのは大いに問題を感じるのですが、一貫した日本という主張を行う上で天皇を持ち出すのは、本居宣長以来の論法です。したがって、この教科書だけの問題というより、近代の歴史叙述、自国史の叙述が持っている傾向を極端に出してみせているわけです。天皇中心というところは特にそう思います。現在の教科書叙述ではあまり採用されていない叙述方法です。全体のバランスは古代史と近代史にシフトしていてアンバランスであることは前に述べました。これも近代以降の歴史叙述の特色をよく表している部分です。

 自国中心史観は、この教科書だけが持っている傾向ではない。近代以降の歴史叙述は自国史中心的な傾向を持っていることは先にのべました。それにしても、この教科書に問題を感じるのは、対外関係の叙述で、対外関係は全部、力対力、要するにパワーバランスで記述されている点です。一般的には、海外交流とか文化交流に重心を置いて記述されるのが現在の教科書の記述のあり方です。この教科書は力対力、国と国がどういうふうに配置されていて、どこかがグーンと伸びてきたとか、あたかもシミュレーションでパソコンゲームの『三国志』を見ているような、国取り合戦のように見ている。これは一貫していると思います。この見方も、かなり異常なものであると思います。

 また、国家以外の世界の動向やアジアの民衆はほとんど出てこない。最初、この教科書は「日本史」の本だと思ったのですが、冷静に考えると、中学に「日本史」という教科があったのかなと思いました。中学では「歴史」なんですね。世界の歴史全体を記述しながら、その中に日本の歴史を記述していくのが中学の歴史教科書ですが、これは明らかに日本を中心にして、世界の動向とか、アジアの民衆とか、琉球とか、日本のさまざまな地域の記述がない。「地域を調べよう」といっている割には、この教科書の中には地域は、ほとんど登場しない。庶民も不在です。女性に至ってはほとんど登場していません。被差別民に対する言及も極端に少ないというのも特色です。

 

七、おわりに

そろそろまとめに入ります。この教科書は初版本・改訂版ともに非常に問題の多い教科書だということはお分かりいただいたと思います。しかし、強調しておきたいのは、この教科書を免罪するつもりは毛頭ありませんが、教科書問題を考える際、見ておかなければならないのは、一国史=自国史が元来もってきた特質という問題です。この特質は、この教科書だけではなく、明治以来、戦後も、いろんな歴史叙述がそういう特質をもってきた。しかしながら、互いの国が自慢話ばかりを記述して、誇りを持っていくような記述の方向をどんどん進めていけば、どこへ向かっていくのか、ということです。これは絶対止めなければならない方向だと思います。しかも、他の日本史の教科書もそういう問題を持っているのです。したがって、「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書だけではない。自国史全体、一国史そのものの記述のありようを見直すところまでいかなければならない。この教科書にだけに攻撃を集中したのでは、そこまでいかない。この教科書は極端にそれを示してくれているわけですが、この教科書を批判することから始めて、互いが自慢話ばかりをするような、異質性・固有性だけを書いていく歴史叙述をストップしていくことが大事だと思います。

 ところで、歴史記述にはいろんな歴史観があるからそれでいいのではないか、というもっともらしい意見があります。それに対して二ついいたいことがあります。まず、多様な歴史観を議論できる教科書を書くべきだということです。歴史教育というのは、ある歴史観を、これが正しい歴史観だということを押しつけるのではなく、いろんな歴史に対する見方を議論していくことが大事なのではないでしょうか。そういう意味で、この教科書は、わたくしたちがめざしているものとは明らかに反対を向いています。

 もう一つ、歴史観は自由だから何を書いても許されるか、という問題です。それは歴史叙述にとどまる問題ではなく、社会意識、世論形成の問題として考えなければならない問題です。たとえば、「戦争大好き」「戦争をどんどんやりましょう」というような書き方。この教科書もそこまでは書いていませんが、そう書きたいのではないかと思わせるような箇所があります。また、他の国民を冒涜する記述があります。人種差別的記述についてはアメリカではよく問題になります。そのような記述はアメリカでは社会的に許されないわけです。ヨーロッパでは、ナチスを美化する教科書は、世論が許さないわけです。そういうレベルの問題が、もう一つ重要なのだと思います。それを教科書だけの問題にしてしまうと、また同じ問題が繰り返されると思います。「歴史観は自由だ」というレベルの問題ではなく、わたくしたち自身が少なくとも、未来志向的に「どういう価値を大切に育てていくか」ということが重要な問題だと思います。

そしてその価値を本当に独りよがりなものにしないためにも、韓国や中国の方々との対話は、きわめて重要であることを強調して、この報告を終えていきたいと思います。


 

[1] この論文は、以下の各所で行われた講演・発表を下に、幾度か改稿し、今回新たに註を補い原稿化したものである。

二〇〇一年 立命館大学人文科学研究所主催 立命館土曜講座

二〇〇三年 大韓民国東西大学校大学院主催 特別講演会

二〇〇五年 中華人民共和国広東外語外貿大学主催 特別講演会

二〇〇七年 大韓民国暻園大学校東北アジア研究所主催 国際学術シンポジウム

このうち、二〇〇一年に立命館土曜講座で行われた講演は、『立命館大学土曜講座シリーズ11 いま教育の現場で』立命館大学人文科学研究所、二〇〇一年に掲載されている。そこでは、いわゆる「新しい歴史教科書」の初版本(二〇〇〇年)に対する批判が中心となっているが、二〇〇五年の講演以降は、改訂本(二〇〇五年)に対する批判を補った。また、暻園大学校での報告は、『アジア文化研究』第一三輯(二〇〇七年)に掲載されている。

韓国や中国で行われた教科書問題についての講演は、いうまでもなく極度の緊張を伴うものであった。会場で厳しい批判を寄せてくださった韓国・中国の研究者・教員・院生・学生には心より感謝する次第である。

[2] アントニオ・ネグリ(Antonio Negri)、マイケル・ハート(Michael Hardt)『帝国』以文社、二〇〇三年、水嶋一憲訳。

[3] 姜尚中『ナショナリズム』岩波書店、二〇〇一年、とくに「はじめに」を参照。

[4] 高吉嬉「『韓流ブーム』と朝鮮半島イメージの二極分化現象」韓国近代学会特別シンポジウム報告、二〇〇六年(釜山・韓国放送広告公社講堂)。

[5] 「俵義文のホームページ」(http://www.linkclub.or.jp/~teppei-y/tawara%20HP/)や「子どもと教科書全国ネット21」のホームページ(http://www.ne.jp/asahi/kyokasho/net21/)など参照。

[6] 以下、徳川時代の歴史書については、丸山真男編『日本の思想E 歴史思想集』筑摩書房、一九七二年、『日本思想大系48 近世史論集』岩波書店、一九七四年、小沢栄一『近世史史学思想史研究』吉川弘文館、一九七四年、玉懸博之『近世日本の歴史思想』ぺりかん社、二〇〇七年などを参照した。

[7] 福沢諭吉『文明論之概略』岩波文庫、一九三一年、一八九頁。

[8] 前掲註6小沢栄一『近世史学思想史の研究』参照。

[9] 白川静『字統』平凡社、一九九四年、三六一頁。

[10] 『説文解字』は電子版http://chinese.dsturgeon.net/1923を参照原文は「記事者也从又持中中正也」。『康熙字典』子集下「又部」も参照。

[11] 水戸学については、日本学協会編『大日本史の研究』立花書房、一九五七年、『日本思想大系 水戸学』岩波書店、一九七三年、『日本の名著 藤田東湖』中央公論社、一九七四年、『水戸市史(中)』第一巻〜第四巻、一九七六年などを参照。

[12] 新井白石『読史余論』岩波文庫、一九三六年、一〇五頁など。

[13] 近代史学史については、伊豆公夫『新版日本史学史』校倉書房、一九七二年、初版は一九三六年、『本邦史学史論叢』下巻、富山房、一九三九年、大久保利謙「明治初年の史学界と近代歴史学の成立」『明治史論集(1)』筑摩書房、一九六五年、初出は同『日本近代史学史』白揚社、一九四〇年、『日本歴史講座第八巻日本史学史』東京大学出版会、一九五七年、『日本における歴史思想の展開』吉川弘文館、一九六五年、小沢栄一『近代日本史学史の研究』吉川弘文館、一九六八年、『大久保利謙歴史著作集F日本近代史学の成立』吉川弘文館、一九八八年、『日本近代思想大系L歴史認識』岩波書店、一九九一年などを参照した。

[14] 全巻を通じて「道理」は、一三九回出現している。なお、前掲註6丸山真男編『日本の思想E 歴史思想集』所収の石田雄「『愚管抄』と『神皇正統記』の歴史思想」を参照。

[15] 「東洋史学の価値」『史学会雑誌』二四号、一八九一年など。

[16] 宮川寅雄『日本美術史叢書 岡倉天心』東京大学出版会、一九五六年。

[17]『新版韓国の歴史 国定韓国高等学校歴史教科書』明石書店、二〇〇〇年などを参照。

[18] 以下、「つくる会」教科書に関しては、初版本については、『歴史家が読む「つくる会」教科書』青木書店、二〇〇一年、和仁廉夫『歴史教科書とナショナリズム』社会評論社、二〇〇一年、上杉聰・君島和彦・越田綾・高嶋伸欣『いらない!「神の国」歴史・公民教科書』明石書店、二〇〇一年、『歴史教科書大論争』新人物往来社、二〇〇一年、改訂版については、ひらかれた歴史教科書の会編『「新しい歴史教科書」の〈正しい〉読み方』青木書店、二〇〇七年などを参照した。また、「つくる会」自体については、前掲註5のウェブサイト以外に、『季刊戦争責任研究』第一五〜一七号、第二九号、第三五号、一九九七年、二〇〇〇年、二〇〇二年を参照。

[19] 『従軍慰安婦』三一新書、一九七三年。

[20] 前掲註18『歴史家が読む「つくる会」教科書』を参照。

[21] 『史』四五号、二〇〇四年など。

[22] 前掲註5の「子どもと教科書全国ネット21」サイトの「【資料】つくる会内部抗争の歴史」を参照。

[23] 俵義文の解説を参照、前掲註5「俵義文のホームページ」内。

      

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