「鉄はいかにしてつくられてきたか」 要約

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本書は、近代日本工業化のシンボル的な位置を占め、戦後日本経済の高度成長過程では、鉄鋼産業の高度化の牽引力としての役割を果たした八幡製鉄所の、1900年創設から1970年に至る70年の歴史を、特にその生産活動現場に密着して辿ったものである。
 本書の元になった原稿が書かれたのは、実は今を遡る35年前のことである。それは、私が現在も奉職している立命館大学経済学部の研究誌『立命館経済学』に1970年から71年にかけて4回にわたって掲載されたものである。当時私は、まだ大学院を出て間もない駆け出しの大学教員であったが(1968年4月立命館大学経済学部専任講師に就任)、その頃工場見学などをとおして関心を高めていた鉄鋼業の生産現場、銑鋼一貫製鉄所での技術と組織の現状とそれに至る歴史を、歴史的にも当時の段階においても日本を代表する八幡製鉄所を具体的な対象としてまとめたものであった。
 この4回に分けて掲載された論文は、合計300ページに及ぶものであり、いつか再整理して、単著にしておきたいと考えていた。しかし、この論文を終えた後、私の処女作となる『現代巨大企業の生産過程』(1975年刊行)をまとめる作業に入ったため、そのような作業に取り組む機会を逸し、今日まで放置されてきた。この論文で実証的に確認できたことのエッセンスは前掲の拙著に取り入れられたという思いも、これには作用していた。
 しかし、この論文は、当時高度成長期の日本の産業発展の1つのシンボルであったコンビナートの技術と組織についての理論的な課題を実証するという役割と同時に、八幡製鉄所という日本鉄鋼業のシンボル的な生産現場の歴史的な変容を相当微細にフォローしたものであり、それ自体としても多少の価値があるのではないかという思いを私自身はずっと持ち続けていた。しかし、時間の経過の中で、私にとってこの論文の存在は、全く遠く昔の存在になっていた。
 このような、すでに忘却の彼方に去っていたようなものを、こうして改めて陽の目を見させようという気持ちになったのには、実は、私自身のある生活体験がかかわっている。
 私は、2000年4月から2004年3月の4年間、大分県別府市で開学した立命館アジア太平洋大学(APU)の学長を務め、その準備期間を含めると7年間、APUの仕事にかかわった。この間、私は、九州、特に北九州での社会的な関係構築のために、ひんぱんに日豊本線、鹿児島本線を乗り継いで、別府と博多間を往来した。その際、毎回、小倉から黒崎あたりの車窓に展開する八幡製鉄所の光景を目にし、かって1970年前後、この製鉄所の実地調査に訪れた頃からの変容になんともいえない時代の変化を感じさせられていた。
 特に、かって八幡製鉄所の南側の敷地境界に沿って走っていた鹿児島本線が変更になり、かっての東田地区の中を突っ切る形で走る車窓から展開するスペースワールド(遊園地)と、今は産業考古学的記念碑となっている東田溶鉱炉群(日本ではじめての本格的な溶鉱炉。1972年に休止)が目に入るとき、毎回、何ともいえない感慨を持った。
 このような経験を繰り返す中で、あるとき、私は、自分自身かつてこの製鉄所の70年にわたる歴史を発掘したことがあったことを思い出すことになった。
 私はその論文の中で、今車窓からみえる日本最初の本格的溶鉱炉、東田溶鉱炉で、当時実際に人々がどのようにして働いていてか、どのような掛け声を掛け合って灼熱の銑鉄を炉から取り出していたか、を細かく洗い出したことを思い出した。今目の前に残されているのは無機質の古い炉体だけであるが、実際はその灼熱地獄のような炉前で、当時の人々が、ドイツ人技師の指導を受けながら、初体験の仕事の技能を身につけるべく奮闘していた様子が目に浮かぶようであった。
 このようなことがあって、私は、私の人生の終盤に、APU開設という仕事とかかわって得た北九州での貴重な体験の記念の一つとして、30数年前の若き日に残した草稿のような論文を再整理してみようという気持ちになった。その結果が本著である。
 いずれにしても、元の論文が刊行されてから35年が経過し、私自身が定年を迎える年齢になったし、何よりもこの間、日本の経済や産業の状況も大きく変化してきている。その中で、対象となっている八幡製鉄所の状況も、先に述べた電車の車窓からの光景に象徴されるように大きく変貌している。したがって、このような過去の論文を改めて世に問うのであれば、それ以降35年間の変化を何がしか書き加えるのが私たちの世界のルールであろう。
 日本製鋼業は、1970年代以降、世界との熾烈な競争の中で、さまざまなレベルでの厳しいリストラクチャリングに直面し、大きな変貌をとげてきた。しかし他方、鉄鋼業の発展を象徴する銑鋼一貫製鉄所の新設は、日本では、1970年に開設された新日本製鐵大分製鉄所を最後に、途絶えてしまった。経済や産業全体の状況がそうであったように、日本鉄鋼業の発展も、1970年代以降、大きく転換した。その意味では、上記の私の論文の時期的区切りとなっている1970年という時期は、今から思えば、明治以来の日本鉄鋼業の上昇的展開の1つの頂点を印する時点であったともいえる。そこで、私は、1970年時点での状況の分析を結びとしている前掲の論文を、基本的にそのままの形で取り込み、本書を構成することとした。これによって、日本鉄鋼業の生産現場の状況が明治以来、どのように頂点に上り詰めてきたかを示すことができると考えるからである。
 もちろん、それ以降の変化が重要ではないというわけではない。私は今も、1970年以降今日に至る変化をさらに追及したいという気持ちを持ち続けている。今自分がおかれている環境からすると、すぐ果たせそうな課題ではないが、自らの宿題としておきたいと思う。
 ただ、前掲の論文を本書に収録したといっても、論文の体裁は大幅に変わっている。本書に収録されているのは、もっぱら、事実の変化にかかわる分析の部分だけである。当時元の論文を著したときの理論的な問題意識は今の私には、殆ど意味を持たなくなっているからである。しかし、理論的な問題意識は、時代の推移とともに残念ながら色あせてしま ったが、そこで掘り起こされた歴史的な事実の認識そのものは、時代を超えて受け継がれる価値があると確信している。
 八幡製鉄所は、1970年代以降、高度経済成長の終焉と国際化時代への本格的突入という時代の変化の中で、日本鉄鋼業全体と同様、大きく変貌した。創業から日本経済、日本産業の発展とともに稼動を続けてきていた東田・洞岡地区の溶鉱炉群が1978年の洞岡第四高炉の休止をもって消滅することになった。他方、製銑・製鋼を軸とする鉄源供給部門を戸畑地区に集約すると同時に、高級鋼・多品種化の方針の下に製鉄所全体の新たな高度化が進んでいる。さらに、地元北九州市の新都市開発方針とも呼応して、環境負荷の少ない「エコプロセスでエコプロダクツを生み出す」、アジアに開かれた製造拠点として生まれ変わりつつある。こうして、八幡製鉄所は、21世紀に再び、新しいタイプの製鉄所モデルに挑戦している。

 ※ 本書ができた以上のような事情から、本書に使われている資料も1970年までに刊行されたものに限定されている。本論文が書かれて以降、八幡製鉄所の公式の歴史記録として1980年に、新日本製鐵株式会社編『八幡製鉄所八〇年史』総合史・部門史・資料編全四巻、2001年に『NIPPON STEEL MONTHLY 特集・八幡製鉄所100年』2001年8・9月号(VOL.111)が刊行されている。参照されたい。