松山のロシア兵捕虜の研究

 Мацуяма

1904年、松山にロシア兵の捕虜収容所がおかれた。

  日本で初めておかれたロシア兵捕虜収容所の実態は?

     

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  ●ロシア兵捕虜が松山に

19042月から19059月(明治37年~38年)の日露戦争では、最大時で4000名をこえるロシア兵捕虜が松山にいました。捕虜と、当時約3万人に過ぎなかった松山市民の間には国際文化交流がはぐくまれ、双方に大きな刺激を与えました。捕虜は政府の方針や地元の歓待によっておおむね厚遇され、捕虜は自由外出の際には市内の商店街や道後温泉にも向かいました。

たいていのロシア兵将校は十分なお金と時間を有していたので道後温泉本館の最高級の部屋にて入浴したり、家具を購入したり、夕食のためのコックを雇うことができました。

下士卒の捕虜たちは、将校に比べて制約が多く、自由散歩も許されませんでした。しかし集団で、道後温泉で入浴したり、梅津寺での海水浴、石手川での水浴に向かったり、また1905年7月末には大街道の新栄座で(希望がようやくかなって)観劇を行っています。

同年8月には、自転車店や伊予鉄の協力をえて、道後公園で捕虜と市民の自転車競走が行われました。

 

●遠足にもいった捕虜たち

ある程度の散歩は許されたものの、基本的には行動が制限されていた捕虜に、本当の日本社会を知ってもらい、厚遇し、地元や国の国際的地位を高めようという気持ちをもつ者が現れました。捕虜のうち、将校に対して、是非、郡中町(現在の伊予市郡中)に来てもらい、当時完成して数年たったばかりの彩浜館に呼ぼうと、郡中町の有志が捕虜の将校を招待することとなりました。こうして、1904925日、約20名の捕虜将校が、松山駅(現在の松山市駅)から伊予鉄道の上等車を借り切って郡中に向かいました。また、190521819日に久々に外出が許され郡中などに捕虜将校が向かったとの記事が『海南新聞』にでています。

1905年9月には、砥部焼見学のために砥部の向井製陶所に捕虜将校たちは遠足にいきました。他にも、石手寺、宝塔寺、朝日八幡神社、高浜、などに遠足にいっています。また1904年11月には松山城天守閣にも行った、と当時の『海南新聞』で報道されています。

 

●捕虜の厚遇伝説の再検証

しかし、現実には、捕虜と収容所側、あるいは捕虜と市民との間のトラブルもありました。こうしたトラブルの原因は、日本語─ロシア語のコミュニケーションの問題、異なる社会にほうりこまれた捕虜側の戸惑いもさることながら、捕虜という身分によって自由が制限されていたことも挙げられるでしょう。

こうしたトラブルについては当時の史料にも掲載され新聞でも報じられていますが、日本側の文献史料や写真史料にはあまり残っていません。こうした点についてはロシア側の史料を今後研究することで、松山捕虜収容所の全体像を検証する必要があると思われます。

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● 1次史料データベース

 海南新聞

 愛媛新報

 

関連リンク

ロシア兵がなぜ松山に?(2003年12月の松山大学市民フォーラムの内容解説)

  ロシア兵捕虜関係の資料(上の企画の資料展示解説)

松山ロシア人墓地データ(2003年現在)(松山大学宮脇ゼミ調査)

松山大学編 『マツヤマの記憶 日露戦争100年とロシア兵捕虜』(成文社、2004年、「愛媛出版文化賞 第1部門賞」受賞)

彩浜館1904(主催:松山大学宮脇ゼミ)

写真は語る 百年前のロシア兵捕虜とマツヤマ(主催:松山大学宮脇ゼミ)

チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会

国立公文書館 アジア歴史資料センター

『松山ロシア兵捕虜収容所研究』(日露戦争史料調査会松山部会編集、松山市発行、2006年)

  

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