大映史 中心人物を通して読む大映史


1 はじめに
2 永田雅一の生涯と大映史
3 永田の親友、川口松太郎と溝口健二
4 京都の撮影所及び映画会社の変遷
5 最後に

蛭川 幸太郎(HIRUKAWA Kotaro)

1 はじめに
  大映の歴史とは設立者永田雅一の人生そのものと言って良いと思う。また永田雅一の人生をなぞることで大映の設立過程から隆盛を極めやがておとずれる崩壊までの様子も容易に理解を得ることができるし、記述もより興味をそそるようなかたちで描くことができると考える。従って永田雅一自身とその親友溝口健二と川口松太郎の伝記の形をとった。最も強調したいのは永田とその友人達の友情だ。映画人がカツドウヤであった頃の空気を伝えられれば幸いと思う。また彼等がどこで製作をしていたのかが分かるように京都の撮影所の変遷についても調べた。

2 永田雅一の生涯と大映史
 イ 少年時代
 1906(明治39)年、永田雅一は京都市油小路三条の商家に長男として生まれた。三歳の時商売に失敗して二条城近くの神泉苑の町に移居。父親は呑んだくれてしまう。母の影響を受けて法華経信者に。13歳にして父を亡くす。一念発起して単身上京。関東大震災に遭うも混乱の中で上野で手配師の真似事をして評判になり、京都千本組の顔役荒寅に見込まれる。千本組少年党血桜組となり留置所送りもしばしば。
 ロ カツドウヤヘ
  千本組を通じて19歳の時日活大将軍撮影所の池永浩久に預けられる。所内の案内役に始まり巧みな弁術と機転が認められてロケーションマネージャーを経て、恩人池永の退社後に齢27にして日活撮影所の総務、脚本、制作部長に抜擢される。新興キネマなどからしきりにスターの引き抜きを画策する。
 ハ 一人立ち
  しかし、政界出身の社長中谷とそりが合わず日活を退社、多数の日活スター、監督を引き連れて1934(昭和9)年、第一映画社を設立する。溝口健二監督の『浪華悲歌』『祇園の姉妹』等を送り出すも資金難に喘ぎ、1936(昭和11)年に第一映画社は解散。永田はしかし其の手腕をかわれて東宝等への相次ぐ人材流失で岐路に立たされていた会社、新興キネマの専務兼京都撮影所所長として迎えられる(同年)。永田お得意の「化け猫」物や「狸御殿」等の娯楽作品が当たって業績が上向きとなり、株価も鰻のぼり。
   ニ 大映誕生
  1941(昭和16)年、太平洋戦争の激化に伴い内務省情報局による映画事業統合案が浮上。新興キネマが松竹に吸収され、松竹、東宝の二社のみとなる案を聞いて「そうなればおれの天下取りもなくなる」(星川 1997:24)と永田は情報局に直談判。「ラッパと異名のあった永田は、もともと喧嘩好きで、怖れというものををしらなかった」(星川1997:24)。新興キネマを枢軸とする第三会社設立に成功し、「一躍其の名を中央に知られるにいたった」(田中 1980:52)。この事が原因で戦後に、官僚との癒着を疑われ厳しい取り調べを受ける。
  1942(昭和17)年、新興キネマ、大都映画、日活の三社を併合して大日本映画製作株式会社を発足、永田は専務取締役に就く。「合計九百万円余の負債をもって、新会社は出発しなければならない(中略)私は何としても業務を開始し、発足しなければならぬと、昼夜そのことにのみ心痛した」(田中 1980:28 原文は1941年8月18日の朝日新聞より)。
 ホ 大映躍進
  1942(昭和17)年の贈賄疑惑後、会社のイメージを一新するため、翌年文芸春秋社主の作家菊地寛を社長に迎える。さらに時代劇の四大スター、阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、市川右太衛門が京都撮影所に入る。大映時代劇は大当たりし、大映は映画三社のトップに躍り出る。
 ヘ 終戦と混乱
  1945(昭和20)年、終戦。占領軍の統制により大映お得意の剣戟時代劇が禁止され、致命的な打撃。翌年労働組合が次々に結成され大映でも賃上げ闘争。副社長となった永田の「ないもの、出せんやないか」(星川 1997:145)との説得により早期解決、以降労働運動の嵐が吹き荒れる中で大映に於いては争議はなりをひそめる。「永田は極めて仁義を重んじたから」「決して解雇しようとしない」「組合闘争はやっても、永田についていくのである」(星川 1997:145)。1947(昭和22)年、事態の収集を見て菊池寛が社長を退く。製作担当に友人の川口松太郎を迎えて永田が社長に就く。とし41歳。満映引き揚げの親友牧野光雄に東京、京都の大映所有の撮影所を貸与(現東映)。翌年、戦争犯罪人として公職追放の目に遭うが占領軍指令部に直談判、追放解除となる。
 ト 大映頂点へ
  京都撮影所の現代劇製作も軌道に乗り、長引く争議に不振を極める東宝を後目に松竹に迫る勢いとなる。1948(昭和23)年知恵蔵、右太衛門が相次いで退社するも、翌年長谷川一夫が大映入り。株主配当年二割を決定。この年、永田は渡米映画人第一号となる。京マチ子主演『偽れる盛装』が国内の賞を総嘗め。
  1951(昭和26)年、東宝争議に遭い、各社を渡り歩いていた黒澤明が大映で撮った作品『羅生門』が伊ヴェニス映画祭で日本初のグランプリを、翌年にはアメリカでアカデミー外国映画最優秀作品賞を獲得、世界中から買い付け注文が大映に殺到。永田は当初、作品が理解できず「なんだこれは」と怒鳴った(星川 1997:66)。大映は十周年記念祝典を盛大に開催。翌年には総収入15億円、株主配当6割を実行し業界は騒然となる。このとし他社で撮っていたがたびたびの誘いについに応じて溝口健二が大映入り。
  1953(昭和28)年、溝口の『雨月物語』がヴェニス映画祭銀獅子賞を獲得。日本映画の輸出に熱心な永田は東南アジア市場の開拓に乗り出す。1954(昭和29)年、初めて導入したイーストマンカラーによる大作、『地獄門』が永田の狙いどおりにカンヌ映画祭でグランプリを獲得。アメリカの外国映画史上最長ロングランを記録する。「よろしいか、これからは世界が相手だよ」(星川 1997:118)と永田。翌年には溝口の『山椒大夫』が再びヴェニス映画祭にて銀獅子賞。永田は昭和30年に第一回紫綬褒章を受ける。口癖は「絶好調」(星川 1997:140)。政界との交流が活発に。政治家達は羽振りの良い永田に群がった。 
 チ 盟友溝口の死
 1956(昭和31)年、日活時代より長きに渡り共に歩んで来た溝口健二が白血病により急死。遺作は『赤線地帯』。以降永田はことあるごとに溝口がいれば、とこぼし会議中に彼の死をおもって泣きだしたりすることがたびたびあった。翌年専務曾我正史ら16名が退社して日映株式会社を創立。後に曾我は永田のワンマンぶりをして「大映という会社は社長を中心に重役幹部がくつろいで相談しあうという場が全くない会社である」(星川 1997:146)「われわれは、すべて無視されていた」(星川 1997:148)と述べた。永田は急遽渡米を中止し、社内の安定に努め日映の失敗もあり事なきを得る。1957(昭和32)年、この年、神武景気と呼ばれ映画界全体が活気づくも移籍組の千恵蔵、右太衛門らを擁する東映に映画興行1位の座を奪われる。東映は娯楽映画の王道を突き進み牧野光雄の死後も躍進を続ける。永田はそれを振払うかのようにパリにて日本映画館をつくるため奔走する。昭和34年には東映にならった2本立て興行に失敗して1本立て興行に戻すが、製作本数の減少をまねき大映は業界4位へと転落する。「われわれがいくらうまいカステラを作っても大衆は食べなれた東映のマンジュウを好む」(田中 1980:293)と永田は警句を吐いた。
   リ 永田奮起する
  1958(昭和33)年、市川崑監督、市川雷蔵主演の『炎上』が批評家にも評判を呼ぶ起死回生の傑作となった。しかし永田は「(溝口のように)人情を描いてない」(星川 1997:154)と不満をもらした。この頃より雷蔵は次々にヒット作品に出演し、大映の顔として長谷川一夫を凌駕する程になっていった。大映は1959(昭和34)年には日仏合作映画『二十四時間の情事』を制作し、カンヌ映画祭に於いて国際批評家賞と映画・テレビ作家協会賞をもらい、上々の評判を得た。1960(昭和35)年、アメリカ映画『ベン・ハー』が世界中で空前の興行成績をあげたのを見て、永田は日本初の70ミリフィルムの映画(「日本映画にとって特筆すべき偉業」田中 1980:401)をつくることを決意する。監督はシベリヤ帰りの三隈研次とし、5億円という巨額の制作費を投じ大規模な野外セットを建てた。翌年映画人からは酷評されながらも70ミリ巨篇『釈迦』は配給収入7億円と成功をおさめた。三隈はその後、勝新太郎の「座頭市」シリーズや雷蔵主演の『斬る』等によって独特の作風を示す。この頃勝新太郎も遅まきながら1960(昭和35)年の「悪名」シリーズで注目をあびるようになる。大映はこのとし製作方針の混乱等もあり1億円の減収となり、永田は社内の諸経費1割り引きの指令をだした。映画界はテレビの勢力拡大に伴い、徐々に後退の気配を見せ始めていた。
 ヌ 大映、大作物中心からシリーズ物へ
  1962(昭和37)年、大映は『釈迦』の全国興行が好評をよんだことや市川崑の監督作品に『私は二歳』等の佳篇が続き、また勝の『座頭市物語』も好評を得たことにより前年より5800万円の増収となった。「悪名」シリーズに引き続き、「座頭市」がシリーズ化されることになった。だが、70ミリ第二作目の『秦・始皇帝』は『釈迦』より6割減の配給収入となった。1963(昭和38)年、大映は不況による映画業界全体の停滞と前年の『秦・始皇帝』の失敗が響き、株主配当を取り止めた。もっとも『雪之丞変化』や『越前竹人形』等10本近い話題作を世に送った。このとし、大映のトップ女優山本富士子と大映との間に契約を巡っていさかいが起きて、彼女が1年近く映画界から干されてしまった。永田はこの時「おれの目のくろいあいだは、二度とあの女優を使うな。役者仁義をしらんやつだ。実に怪しからん」(星川 1997:148)と息巻いた。1964(昭和39)年、大映は珍しく増収となる。勝新太郎の「座頭市」と「悪名」、雷蔵の「忍び」と「眠狂四郎」、田宮二郎の「黒の」等のアクションドラマ各シリーズが順調な観客動員に成功したからである。特に勝は他社の追随を許さぬ人気を得た。それに比べ佳篇は少なかった。この年テレビの普及が原因で、映画の観客動員数が5億人を割った。翌年も不況が続き大映は再び減収となったがシリーズもの各篇は安定した人気を維持した。また労働組合と賃金に関してもめてストライキが起こったが、永田は指導者を解雇する等厳しく対処した。
   ル 崩壊前夜
  1966(昭和41)年、大映は勝の「座頭市」や「兵隊やくざ」等のシリーズ物が相変わらずの好調を維持、『白い巨塔』、『大魔神』等のヒットもあって減収はわずかに留まった。翌年もシリーズ物の好調は続いたが、現代劇の不振が響き3億円強の減収となり、累積欠損は20億9千万円に達した。永田は政治や野球への傾倒ぶりが目立ち、企画力の低下等もあってジリ貧の様相を呈してきた。1968年(昭和43)は現代劇部の不振が続くも、従来のシリーズ物に加え江波杏子の「女賭博師」シリーズと、「セックス」シリーズが新たに人気をよんだため12%の増収となった。しかし累積赤字は23億7600万円に達し、劇場の売却や旧作をフジテレビに放出する等をよぎ無くされた。また人気が上り坂の俳優の田宮二郎と永田がポスターの序列を巡って対立し、永田は彼を首にしてしまった。
  ヲ 大映落城
  1969(昭和44)年、大映の生命線であるシリーズ物の人気にかげりがさし、映画界全体の縮小の中で配給収入は15%減となってしまう。赤字続きの決算のなか累積赤字は26億円に達し、永田は採算のとれない直営館を整理して赤字減らしを図った。さらに泣きっ面にハチ、市川雷蔵が37歳にしてこの世を去った。そして映画の観客人口は3億人を、翌年には2億5千万人を割った。1970(昭和45)年、永田が大博打のつもりで70ミリ映画『釈迦』をリバイバル上映したが大失敗し、シリーズ物も不振に喘ぎ、他社に比べ製作の減少が最も目立ったのが大映だった。累積赤字は資本金を上回る55億8千万円にのぼった。共に負債に喘ぐ日活と配給の提携を決定したが結果はふるわずだった。そのためこの提携はわずか15ヶ月で解消されるにいたったが既に大映は単独での映画配給が維持できなくなっていた。しかしこの頃の大映東京には増村保造の『でんきくらげ』『遊び』などの若者に評判をよんだ新鮮な作風の映画がうまれた。
  1971(昭和46)年11月29日、3月に売却した本社ビルに代わり移転した東京駅前の共同ビルにて、永田の息子の秀雄副社長の口からついに「大映はこれ以上経営を続けることが不可能になった。残念だが全員解雇の上、事業整理を決断した」(田中 1980:216)との発表があった。「高血症と自律神経失調症を理由に、永田雅一はマスコミの前から姿を消した」(田中 1980:217)。倒産後の大映残留組と管財人の交渉の後、1974(昭和49)年に徳間書店の資本のもと、大映映画株式会社の設立が発表された。これは旧大映とは別物の徳間コンツェルンの一部としての会社だった。永田はその相談役となったが、夢一度とて別に個人として永田プロダクションを起こした。だが夢はついえ永田プロは数本の作品を製作して消えた。大映は潰れてもその職人スタッフ達は「映像京都」という会社を起こし、その後も太秦でシャシンを撮り続けた。
そして大映崩壊から14年後、
  1985(昭和60)年10月24日
  永田雅一永眠。享年79歳。
  大映京都撮影所はその後跡形もなく取り壊され、この世から消え失せた。現在は碑が残るのみである。

  永田には共に夢を追い、大映を支えあった二人の友人がいた。永田の右腕として裏から大映を支え、一方で直木賞作家であり劇団経営者の顔も持つ川口松太郎と、鬼才として海外を含め多くの監督や役者から尊敬された溝口健二である。2人は幼馴染みであり、永田と彼等は幼い頃からの境遇も良く似ている。三人の絆は強く、永田は2人のことを「芸術家」と呼んで尊敬した。今度はその川口と溝口の二人の人生を振り返ってみたい。

3 永田の親友、川口松太郎と溝口健二
 共に1898(明治31)年、東京の浅草に生を受ける。2人は同じ山谷堀小学校に通うが共に貧しかった。溝口は父親が家業に失敗したため貧窮のどん底生活。やむなく盛岡に移り卒業はかなわなかった。川口は警察署の給仕をやる等して少年時代を過ごした。
 その後溝口は縁あって東京の日活向島撮影所に職を得る。22歳で助監督になり、24歳にして早くも監督に昇進する。関東大震災に遭い京都の日活大将軍撮影所に移る。その時に大阪に居て雑誌の編集長をしていた川口と再会する。さらに同じ撮影所に勤めていた永田と知り合う。それから二年後に初めて川口のシナリオに溝口の監督で『狂恋の女師匠』を撮る。
 溝口は昭和9年に永田が日活を飛び出して第一映画社を設立するとそれに加わった。溝口は『浪華悲歌』『祇園の姉妹』の傑作2作を世に送りだす。第一映画社は敢え無く倒産するが、翌年永田とともに新興キネマに移る。そして川口原作の傑作『愛怨峡』を撮り、2年後には親会社の松竹に移り再び川口原作で名作『残菊物語』を作った。溝口の次の6作品の内、4作品が川口原作の映画だった。この頃溝口と川口が寄り添って作った映画には他に『祇園祭』(新興キネマ、(1933)、『愛憎峠』(日活、1934)、『マリアのお雪』(1935)、『芸道一代男』(松竹、1941)、『團十郎三代』(1944)などがある。
  1947(昭和22)年に大映の製作担当になった川口は社長の永田と共に当時良作に見はなされていた溝口を誘うが溝口は松竹で撮り続けた。溝口は松竹を離れ新東宝にてヴェネチア映画祭銀獅子賞を受賞した『西鶴一代女』(1952)を撮った後に大映入りした。「もしかすると、これぞ最良の作であるとおのれ自身にいえるようなものを作らぬかぎり、旧友川口松太郎や永田のいる撮影所の門をくぐるまいと心にきめていたのかもしれない」(星川 1997:72)。その後溝口は川口脚本の『雨月物語』『近松物語』の名作2作を始め、死に至るまでの4年間はまさに王のように映画を撮り続けた。そして1956(昭和31)年8月24日京都の病院にて白血病により死去した。享年58歳。
  溝口の死後も直木賞作家にして新生新派主事の川口は多忙にもかかわらず、菊池寛の言う所の「書を読まぬ永田」(星川 1997:69)を良く支えた。だが大映は崩壊した。川口は奇しくも永田と同じ年1985(昭和60)年6月9日に世を去った。享年85歳。

4 京都の撮影所及び映画会社の変遷

*撮影所表は現在工事中。


 正映マキノはマキノ省三の死後の会社。東横映画は東映の前身。 溝口は当初在籍していた日活の東京向島撮影所が1923(大正14)年の関東大震災によって壊滅して、稲垣浩等現代劇部と共に京都大将軍撮影所に合流してきた。松竹下加茂撮影所も震災によって撮影所が倒壊したために建設されたわけだから、震災が京都映画界にもたらした収穫は大きかったと言える。太秦、嵯峨野地域には1935(昭和10)年には8つの撮影所が群立し、まさに日本のハリウッドと呼べる程になった。翌年には京都市内だけで一挙に45ものバスの路線増加の申請が行われている。太秦地域を行政側が重要視して、右京区設立となったのは1931(昭和6)年のことである。太秦地域には初めは竹薮が広がるばかりであったにもかかわらず、阪妻はじめカツドウヤ達が果敢に乗り込んでいって、行政の施策等に先んじて右京区の隆盛に寄与した。北野線の開通(1926)により人口が倍増したのも、そもそもは映画産業が放っておけない程に成長したから線路を敷く必要性が出てきたからこそだろう。
  だが現在、映画撮影所として残っているのは東映京都と松竹京都の2ケ所のみである。多くの映画界社が倒産、解散した。撮影所も建物すら残っていないものが大半である。それでも太秦界隈は竹薮に戻ったわけではないし、ひとびとの記憶の中にかつての栄華が留められている。あるいはいつの日か京都は再び映画の都として復活するのではないかと夢想する。

5 最後に
  今となっては想像することすら難しいが、かつて日本映画は世界を席巻しその映画産業の中心は京都だった。太秦はただの竹薮から一大産業都市へと変貌した。そしてその産業のまん中で、永田雅一引き入る大映は最高の評価を得た作品を創り続けた。彼は初めは全くの落ちこぼれだった。2人の親友も同様である。永田達を突き動かしたのは貧困の中で芽生えたハングリー精神だと思う。今でこそ芸術と認められた日本映画もかつてはやくざ稼業の一種であり、それを芸術と言わしめる程の意識改革が起こったのは他の会社も含め彼等カツドウヤ達の活躍があったればこそである。最も当の永田は「映画は(中略)全部娯楽品だと思っている。娯楽品でなくてはいけないのだ。ただ、脚本、監督、カメラ、演技、それぞれがそれぞれの分野で、最高度に結集した場合に、それが芸術性を持つことになるのだ」(星川 1997:155)と言っている。私も職人気質を重んじるという点でこの意見に賛成する。
  永田の経営手腕は抜群であったが、他人の意見は一部の人間以外はほとんど聞かなかったと言う。その独裁体制に反発したものもいた。すべて思いどおりに支配しようというやり方は誉められたものではない。だが大映という会社と、そこに集まった職人スタッフ達はまぎれもなく永田のもとに集まって来ていた。永田がいたからこそ、『羅生門』も『雨月物語』も生まれたと言えると思う。
  現在京都を初めとして日本全体の映画産業が冷えきっているが、それは日本人全体にかつてのカツドウヤ達のような活力が無くなってしまっているからではないか。覚悟のないまま芸術家気取りで映画を作っても、とても世界に通じないと思う。転んでも転んでも起き上がらなければそもそも世界の頂点になど立つことはできないと思う。現代を生きる我々は、大戦と、どん底の生活をくぐり抜けて逞しく生きた先人にもっと敬意を払うべきだと思う。

【参考文献】
星川清司『大映京都撮影所カツドウヤ繁昌記』(日本経済新聞社、1997,11)
田中純一郎『日本映画発達史U-W』(中央公論社刊、1975)
永田雅一『映画道まっしぐら(伝記 永田雅一)』(大空社、1998,6[復刻])
佐藤忠男、登川直樹、丸尾定『新興キネマ 戦前娯楽映画の王国』(山路ふみ子文化財団1993,3)
佐藤忠男『日本映画史』(岩波書店、1995,3)
今村昌平他『講座日本映画-戦後映画の展開』(岩波書店、1987,1)
他、冨田助教授の講議、ゼミで配付のレジュメとレポートを参考にした。