森首相の「日本は天皇を中心とする神の国」発言を聞いて

小渕前首相の突然の入院・意識不明状態で自民党ならではの「密室会議」で総裁となり、急遽登場した森喜朗首相は、これまでの文部大臣時代にも「靖国神社」参拝などで公人・私人おいてとしての言動ばかりではあるまい、森首相の“見識”への批判が一層高まり としての言動において分別のつかない保守的な政治家の一人として見られていた。

5月における少年犯罪の増加などに危惧する立場から出た「教育勅語」発言と「神道政治連盟国会議員懇談会」での「日本は天皇を中心とする神の国」発言、そして6月に入ってからの衆議院議員総選挙応援時における「国体」発言と、次から次へと問題発言を繰り返し、内外のメデイアが大きく取り上げ、波紋が日増しに大きくなってきている。

「国体」は国の主権のあり方を意味し、戦前の日本では、教育勅語で「国体ノ精華」と強調されるなど、国民教育の基本的な理念だったことは識者なら誰でもお分かりだろう。「国体」という言葉は、戦前には「万世一系の天皇」の統治する国の優秀性を鼓吹する観念として用いられただけに、国の代表である森喜朗首相の“見識の無さ”への批判が一層高まっていくことは言うまでもない。

彼の発想はこれまでの言動から明らかなように、旧憲法そのものからのもので、戦後確立された民主主義の基本理念を否定し、「自分の世界」の中だけで生きているようだとも言える。「現憲法をきちんと読んで理解していただきたい」と言いたいところだが、「失格政治家」にとってはそれも無理であろう。今回の衆議院総選挙において、その地域特有の政治的・文化的背景から推察すると、落選は多分しないであろうことは予想できるが、どれだけの石川県民が彼を選択するかあるいは別人を選ぶか是非とも注目してみたい。また、国民=有権者は、こういった首相を選出する党に対してもっと怒るべきだし、「昭和の日」制定の動き、国旗・国歌法の成立、改憲派の増加などの政治動向をよく理解し、その怒りを積極的に投票に参加することで示すべきであろう。


「神の国」「国体」という言葉は、主権たる国民の集合体としての国家観とは異なり、天皇のために命を捧げるという戦前のイメ−ジがどうしても付き纏う。言葉感覚は、その人の本質的な人間性(文化性、精神性、思想性)を表し、国の代表である首相の発言としては前近代的・非国際的であり、筆者は全く理解できない。
米国のメデイア(例えば、ワシントン・ポストの6/4社説)でも「日本の首相が自国を『天皇を中心とする神の国』と呼ぶ時、米国の政策決定者は注意を払う必要がある」と勧告しているし、その上で、日本で高まりつつある民族主義を「日本の拡張主義の機運を駆り立ててアジアに走らせ、さらに米国との戦争に向かわせた神秘的で熱狂的な愛国主義への郷愁を内包している」と分析し、「神の国」「国体」発言と戦前・戦中の軍部・右翼思想との連続性をも指摘している。その結果、大戦時の犠牲者であるアジア諸国でも日本の政治体制の近未来を危惧する声が出ていることを否定できないし、これまで地道に構築してきた信頼関係が一挙に崩れてしまうことも考えうる。それをどうしても避けていってもらいたいと願っているのは筆者だけではないと思う。今後とも内外の動きに注目していきたい。

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