『テオファネス年代記』(669/670-684/685)

凡例

  1. 原本(Theophanes Confessor, Chronographia, München, 1883-5)のページ数を黄字で示しています。
  2. は最小限のものに限定してあります。
  3. 『テオファネス年代記』は、世界年代(天地創造からの年数を基準とした年紀)を基準として、各年ごとの記述となっています。また世界年代に加え、皇帝やカリフ、総主教らの在位期間などを各年ごとに記述しています。本試訳では、各年の記述冒頭に数字列がありますが、「皇帝の在位何年目か. カリフの在位何年目か. コンスタンティノープル総主教の在位何年目か.」が基本情報として書かれ、年によっては西暦(ただし正確ではありません)や「コンスタンティノープル以外の総主教の在位何年目か」も書かれています。
  4. 世界年代の後のカッコ内に書かれているのは対応する西暦です。『テオファネス年代記』における世界年代は9月1日が年初なので、2年に及んでいます。
    なお、ここで訳している時代に関しては、テオファネスの編集処理における誤解の結果、『テオファネス年代記』の記す年代と実際の年代に1年のずれ(1年早い)があることが指摘されています。
  5. 時折言及される「インディクチオ」は、15年周期の暦法です。世界年代と同様、9月1日開始です。
  6. この試訳の無断引用等は堅くお断りいたします

(352)6161(668-669)
ローマ人の皇帝:コンスタンティノス、治世17年間
1. 14. 2.

 この年、コンスタンティノスが弟たちとともに皇帝となった。またサラセン人がアフリカに侵入し、人の言うところによると80,000人を捕虜にした。
 アナトリコンのテマの人々がクリュソポリス*1コンスタンティノープル対岸。現在のユスキュダル地区。にやって来てこう言った。「我々は三位一体を信じています。3人を戴冠しましょう!」コンスタンティノスは困惑した。彼だけが戴冠されており、弟たちは何の地位も持っていなかったからである*2実際には弟たちは、コンスタンス2世時代に共治帝として戴冠されている。。それでパトリキオスであるコロネイアのテオドロスを派遣した。そして彼らに同意し、元老院で協議した上で彼らの望みを実行するふりをして彼らをだまし、彼らのリーダーたちを連れて首都の市内に入った。すると皇帝はすぐに彼らを絞首刑に処し、シュカイに渡った。それを見て、(アナトリコンの人々は)辱めを受け悲嘆しつつ自らの故郷に戻っていった。そして皇帝は弟たちの鼻をそいだ。*3弟たちの鼻をそいだのは、この年のことではないと思われる。6173年の記述も参照。


(353)6162(669-670)
ローマ人の皇帝:コンスタンティノス、治世17年間
アラブ人の長(カリフ):マウイアス(ムアーウィア)、治世24年間
コンスタンティノープル総主教:ヨハネス、治世6年間
662*4西暦(正確ではない)が記載されている。. 2. 15. 3.

 この年は酷寒で、多くの人々や家畜が苦しめられた。
 ファダラ(ファダラ・ブン・ウバイド)がキュジコスで越冬した。


 

6163(670-671)
3. 16. 4.

 この年、ブスル(ブスル・ブン・アブー・アルタート)が進撃してきて、数多くの捕虜を得て帰還した。


 

6164(671-672)
4. 17. 5.

 この年、デュストロス月(3月)に天に虹が現れ、終末が来たとみなが言い合ってすべての人々が恐れおののいた。
 この頃、キリストを否定する者たちが大艦隊を準備した。そしてアブデラの子のムアメド(ムハンマド・ブン・アブド・アッラフマン)がキリキア沖を通ってスミュルナで越冬し、またカイソス(アブダラ・ブン・カイス?)はキリキアとリュキアで越冬した。エジプトで疫病が発生した。またエミールのカレー(カリード?)に、戦いの際に強力かつ大胆になれるよう、彼らの支援のために別の艦隊を委ねて派遣した。先述したコンスタンティノスはこうした神の敵たちがコンスタンティノープルを攻撃しようとしていることを知ると、彼は「ギリシアの火」を装備した非常に大きな二段櫂船や、サイフォンを備えたドロモン船を建造し、それらをカイサリオスのプロクリアネシオン港に停泊させるよう命じた。


 

6165(672-673)
5. 18. 6.

 この年、先述した神の敵たちの艦隊が移動を開始してトラキア地方で、ヘブドモンの最西端、いわゆるマグナウラから、東端はキュクロビオンまでに、停泊した。そして毎日朝から夕方まで戦いがおこなわれ、黄金門のブラキアリオンからキュクロビオン*5ヘブドモンは現在のバクルキョイ地区。「マグナウラ」はコンスタンティノープル市内のマグナウラ宮殿のことではない。キュクロビオンは現在のゼイティンブルヌ地区と思われる。までで(354)攻撃や退却が繰り返された。このようなことが4月から9月まで続いた。それからキュジコスに退いて、その地を制圧して越冬した。そしてまた春が来ると戦いを再開して海上でキリスト教徒と戦った。そして7年が経ち*6通説では674-78年におこなわれたとされる、第2回(回数に関してはコンスタンス2世のページの注14参照)コンスタンティノープル包囲に関する記述。コンスタンティノープル包囲の前後の期間を含めて7年続いたとする『テオファネス年代記』の記述の信憑性に関しては、近年の研究で疑問視するものが出てきている。、神や聖母の加護によって(アラブ人は)劣勢となり、多くの勇敢な戦士を失い、また負傷者も多数に上ったため、非常に苦しみながら撤退した。
 それから、神によって海中に沈められることになる艦隊が出航したが、シュライオン*7小アジア南部、パンフュリア地方の主要都市。地域で冬の嵐と暴風に遭遇して完全に破壊された。
 またアウフの息子で次男のスフィアン(スフヤーン・ブン・アウフ)は、フロロスやペトロナス、そしてキプリアノスが率いるローマ軍と戦い、アラブ軍に30,000人の死者が出た。
 一方技術者のカリニコスがシリアのヘリオポリスからローマ帝国に逃亡してきて、「海上の火」を作り出し、アラブ人の艦船に火をかけて乗務員共々焼いてしまった。このようにしてローマ人は勝利を得て帰還し、「海上の火」も見いだした。


 

6166(673-674)
コンスタンティノープル総主教:コンスタンティノス、治世2年間
6. 19. 1.

 この年、カイスの息子のアブデラ(アブダラ・ブン・カイス)と、ファダラがクレタで越冬した。


 

6167(674-675)
7. 20. 2.

 この年、土曜日に天に徴が出現した。


 

6168(675-676)
コンスタンティノープル総主教:テオドロス、治世2年間
8. 21. 1.

 この年、シリアとメソポタミアで大きなイナゴが発生した。


(355)6169(676-77)
ローマ人の皇帝:コンスタンティノス、治世17年間
アラブ人の長:マウイアス、治世24年間
コンスタンティノープル総主教:テオドロス、治世2年間
669*4西暦(正確ではない)が記載されている。. 9. 22. 2.

 この年、マルダイテス人たちがレバノン地域に進出し、黒い山々(アマノス山地)から聖なる都市(イェルサレム)までを制圧し、レバノンの高地部を手に入れた。そしてたくさんの奴隷たちや捕虜たち、そして地元民たちが彼らの下に逃亡し、わずかの間にその数は何千人にも及んだ。それを知ったマウイアスとその側近たちは大いに恐れをなし、ローマ人の帝国が神によって守護されていることを思い知った。そのため和平を乞うためにコンスタンティノス帝のもとに使者を派遣し、皇帝に毎年貢納を支払うことをも約束した。皇帝はその使者と会って彼らの要請を聞くと、パトリキオスのヨハネス=ピツィガウディスを、国家の古くからの家門に属し、経験豊かな人物で十分な判断力を持っていたので、アラブ人と適切な交渉を行って和平を結ぶために、彼らとともにシリアへ送った。彼がシリアに到着するとマウイアスは、エミールたちやコラセノイ(クライシュ)の人々を集めて、大いなる栄誉をもって彼を出迎えた。そして彼らとのあいだで多くの和平交渉が行われ、和平文書を誓約の上で各々が合意した。それはローマ人の国家にアガレノイ(アラブ人)から毎年3,000の金(貨)と50人の捕虜、そして50頭の良馬を貢納するという条件であった。そしてこれらの取り決めに関する2通の書面を互いの誓約の上で相互に交換してから、この何度も言及してきたきわめて(356)幸運なる男は、多くの贈り物を得て帝国に戻ってきた。
 このことを知ると西方に住んでいる人々、すなわちアヴァール人の可汗やそれより向こうにいる諸王や首領、カスタルディ*8ランゴバルド語で、国王所領の管理官。ガスタルディウス(gastaldius)。ここでは「小領主」程度の意味?、そして西方に住んでいる人々の長たちは、使者を送って皇帝に贈り物をおこない、自分たちに愛情を示して協約を結ぶよう乞うた。その結果、東方でも西方でも、大いなる平穏が現出したのである。


6170(677-678)
コンスタンティノープル総主教:ゲオルギオス、治世6年間
670*4西暦(正確ではない)が記載されている。. 10. 23. 1.

 この年、メソポタミアで大地震が起き、バタン(バトナン村)やエデッサの教会のドームが崩壊した。それをマウイアスが、キリスト教徒の熱望をいれて再建した。


 

6171(678-679)
11. 24. 2.

 この年、サラセン人の最高司令官のマウイアスが、第1インディクチオのアルテミシオン月*96171年は正確には第7インディクチオ。ムアーウィアは680年の4月に没した。の6日に世を去った。彼は軍司令官を20年間、エミール(カリフ)を24年間つとめた。彼の息子のイジド(ヤジード1世)があとを継いだ。
 この頃、ブルガール人がトラキアにやって来た。ここでウンノグンドロン=ブルガールとコトラゴイについて叙述しておかなければならない。北方の、黒海の対岸側にマイオティスという湖(アゾフ海)があり、この湖に外洋から流出している、アテルという大河(ボルガ川)がサルマティア人の地を通って流れ込んでいる。この川には、コーカサス山地のイベリア門から流れ出しているタナイスという川(ドン川)が流入している。タナイス川とアテル川の合流点から〜上述したマイオティス湖の上流からアテル川が分かれている〜クフィスという川(クバン川?)が流れており、(357)最終的にはネクロペラ付近のポントス海(黒海)の果て、クリウー・プロソポン(牡羊の顔)という岬に流れ込んでいる。上述した湖からは大河のような海があり、ボスフォロスとキンメリア(or キンメリアのボスフォロス)の地を通って黒海に流入している*10この部分の地理的な説明は、現代の地理的知識を持っていると非常に理解が難しい(例えば、実際にはドン川もボルガ川もクバン川も合流していない)。。この川からはムルズリンという魚や、その同種のものが漁獲できる。
 上述の湖の東側、ファナグリアやこの地に住んでいるヘブライ人の地域の近くに、数多くの部族が居住していた。そしてこの湖からクフィス川〜この川ではクシュストンというブルガリアの小魚が漁獲できる〜までの地域にはかつての大ブルガリアがあり、彼らの同族であるコトラゴイもいた。コンスタンティノス帝の時代、西方では先述したブルガリアとコトラゴイの首領であったクロバトスがこの世を去り、残された5人の息子たちに決して相互の日常生活を放棄しないように言明した。それは、すべてのことに関して自分たちで決定し、他の部族に隷属しないようにするためであった。だが彼が死んでまもなくすると、この5兄弟には互いに不和が生じてそれぞれの配下の者たちとともに分断されることになった。長男のバトバイアンは自らの父の命に従って今日にいたるまで先祖代々の地にとどまった。次男のコトラゴスはタナイス川を越えて彼の兄の対岸に居住した。四男と五男はイストロス川、すなわちドナウ川を渡り、前者はアヴァール人支配下のパンノニアに赴いてアヴァール人の可汗に従い、アヴァールの軍勢とともにその地にとどまった。また後者はラヴェンナ付近のペンタポリスに進んでキリスト教徒の帝国の配下に入った。そして三男のアスパルクはダナプリス(ドニエプル川)とダナストリス(ドニエストル川)を越え、(358)ドナウ川よりも北にあるオグロス*11ドナウ・デルタと思われる。を占領し(別読:ドナウ川よりも北にあるダナプリスとダナストリスを越えてオグロスを占領し)*12オグロスがドナウ・デルタであるなら、別読のように解釈しないと地理的に意味が通じなくなる(別読は原文の語順を一部入れ替えて解釈している)。、彼らの中間地点に居住した。それは、この地点がいかなる方向からも安全で攻略しがたいと判断したからである〜前方が沼沢地で、その他の方向が川で囲まれていたのだ〜。この地は分断を強いられた集団に、戦いにともなう脅威を大きく和らげることになった。このように彼らが5つの部分に分かれて細分化された頃、カザール人の大集団がベルジリア、すなわち第一サルマティア(ダゲスタン?)の奥深くから進出してきて、ポントス海にいたる対岸の地全域を支配下に収めた。それでブルガール人の筆頭支配者であった長男のバトバイアンに、今日にいたるまで貢納の義務を課したのである。
 コンスタンティノス帝は野蛮で不潔な人々が突然ドナウ川を越えてオグロスに居住し、ドナウ川周辺地域を攻撃して荒廃させていて、かつてキリスト教徒が支配していた地域を今や彼らが征服してしまっていることを知ると、深く苦悩した。そしてテマの全軍をトラキアに渡らせるように命じた。さらに艦隊も出撃させて海陸から彼らに対して戦いをしかけて駆逐しようとした。陸上ではオグロスとドナウ川に兵力を展開し、また艦隊を陸地近くに停泊させた。ブルガール人は無数の大軍を目にすると絶望して身の安全のために上述した要塞に避難し、防備を固めた。3〜4日のあいだ、その要塞からは誰も出撃しようとはしなかった。またローマ軍も前面に広がる沼沢地のぬかるみのため、接近しようとしなかった。憎むべき部族民たちはローマ軍の動きの鈍さを見て気を取り直し、士気が上がった。一方皇帝は通風の痛みに悩まされて、湯治のために5隻のドロモン船と自らの側近たちとともにメセンブリアへの撤退を余儀なくされた。そして軍指揮官たちと軍勢を後に残し、(359)彼らに小競り合いをしかけて城塞から引きずり出し、もし彼らが出撃してきた場合は会戦するように、そしてまた出撃してこなかった場合には彼らを包囲して城塞を監視するよう命じた。だが騎兵部隊には皇帝が逃亡したと伝わり、彼らは恐怖のあまり誰も攻撃してきていないのに逃げようとした。それを見たブルガール人は彼らを追撃し、彼らの多くを斬り殺したり負傷させたりした。そして彼らをドナウ川まで追い、さらに川を渡ってオデュッソス付近のヴァルナという地、およびその内陸部まで進んだ。そしてその地が後方がドナウ川で守られ、また前面と側面が山峡部とポントス海によって守られている非常に堅固な所であることを見て取ると、彼らはこの地を支配し、また近くに住んでいた7部族といわれるスラヴ人の部族をも支配下に置いた。そして協約を結んで東側ではベレガバ峠の近くから(彼らの中の)セヴェレイス部族を定住させ、また南側とアヴァール人支配地域にいたる西側では残る6部族を定住させた。このようにして彼らの勢力が拡大していったために、(彼らは)態度が大きくなり、ローマ帝国の領域内にあるカストロン(城塞、城塞都市)や農村を攻撃し、人々を捕虜にしはじめた。それゆえ皇帝も彼らと和平を結ぶことを余儀なくされ、彼らに毎年貢納することで合意した。かくして数多くの過ちゆえ、ローマ人に恥辱が与えられたのである。
 東方であれ西方であれ北方であれ南方であれ、すべての人を支配下に置いている人物(皇帝)が、不浄で新たに出現した部族に敗北したということは、それを聞いた者を〜遠方であれ近隣であれ〜驚かせた。だが皇帝は、それは神の深慮によってキリスト教徒に降りかかったことだと考え、福音書に従って考え、平和を保持した。そして自らの死まで、戦争を全くおこなわない状態の保持に努めた。彼は自らの曽祖父のヘラクレイオス帝や、不適切にもコンスタンティノープル総主教の座にあった悪意あるセルギオスやピュロス〜彼らは主なる神とわれらの救世主であるイエス=キリストが単一の意思やエネルゲイアを持つということを教義として主張したのだ〜の時代以来、いたる所で分断状態にあった聖なる教会の統合を望んでいた。それでこの悪しき教義を論駁するために、この(360)きわめて正しくキリスト教徒である皇帝は、全地公会議の開催を推進してコンスタンティノープルに289人の主教たちを集め、先行する5回の聖なる全地公会議で承認されていた教義を再確認し、このきわめて厳格で聖なる第6回全地公会議において二つの意思とエネルゲイアの存在こそが敬虔なる教義であることを共に確認した。この公会議には、きわめて敬虔なるコンスタンティノス帝と、敬虔なる主教たちが参加した。


 

6172(679-680)
アラブ人の長:アジド*13ヤジード1世のことだが、ここ(と翌6173年)では「アジド」と書かれている。、治世3年間
672*4西暦(正確ではない)が記載されている。. 12. 1. 3.

 この年、聖なる第6回全地公会議がコンスタンティノープルで開催され、敬虔なるコンスタンティノス帝の監督のもと、289人の主教や聖職者たちが集まった。


 

6173(680-681)
ローマ人の皇帝:コンスタンティノス、治世17年間
アラブ人の長:アジド、治世3年間
コンスタンティノープル総主教:ゲオルギオス、治世6年間
673*4西暦(正確ではない)が記載されている。. 13. 2. 4.

 この年、コンスタンティノスは自らの兄弟であるヘラクレイオスとティベリオスを帝位から排除し、自らの息子のユスティニアノスとともに単独で統治した。


 

6174(681-682)
14. 3. 5.

 この年、欺瞞者のムフタル(アル・ムフタル・ブン・アビー・ウバイド)が反乱を起こし、ペルシアの支配者となった。彼は自らを預言者と呼んでいた。アラブ人たちは混乱状態に陥った。


6175(682-683)
アラブ人の長:マルアム(マルワーン1世)、治世1年間
15. 1. 6.

 この年、イジドが世を去り、エトリボス(ヤスリブ)のアラブ人たちは混乱状態に陥り、ズベルの息子のアブデラ(アブダラ・ブン・アル・ズバイル)を自分たちの長とした。フェニキア人とパレスティナ人たちはダマスコスに集まると、パレスティナの統治官であるアサンのいるガビタまでやって来た。彼らはマルアムに右手を捧げて(忠誠を誓い)、彼を(信徒たちの)長(カリフ)に擁立した。彼は9ヶ月間、信徒たちの長の地位にあった。彼が死んだ後、(361)彼の息子のアビメレク(アブド・アル・マリク)が地位を受け継いで21年半のあいだ、信徒たちの長であった。彼は反乱者たちを打破してズベルの息子のアブデラとダダコス(アル・ダハク・ブン・カイス・アル・フィフリ)を殺した。


 

6176(683-684)
アラブ人の長:アビメレク、治世22年間
コンスタンティノープル総主教:テオドロス(再任)、治世3年間
16. 1. 1.

 この年、シリアで致命的な大飢饉が発生した。またアビメレクが国家を掌握した。マルダイテス人がレバノンの一部に進出し、また疫病が流行したため、アビメレクは皇帝のところに使者を派遣して、マウイアス時代に追求された和平の締結を乞うた。それは365,000ノミスマタの金と365人の奴隷、そして同じく365頭の育ちのよい馬を貢納することで同意した。


 

6177(684-685)
17. 2. 2.

 この年、敬虔なるコンスタンティノス帝が17年間の治世の後この世を去り、その息子のユスティニアノスが皇帝となった。*14この後(362ページ末尾まで)約1ページ強にわたって、第6回全地公会議の開催年に関する考察、及び9世紀前半のヨハネス=グラマティコスにいたるコンスタンティノープル総主教の在職年数に関する分析・列挙が続く。この部分はおそらくテオファネスが編纂した本文ではなく、後代に(ただし9世紀中盤までに成立)付加された注釈(が筆写の過程で本文化した部分)だと思われる(末尾の一部をのぞいてテオファネスによる、とする説もある)。本試訳では省略した。

*1:コンスタンティノープル対岸。現在のユスキュダル地区。
*2:実際には弟たちは、コンスタンス2世時代に共治帝として戴冠されている。
*3:弟たちの鼻をそいだのは、この年のことではないと思われる。6173年の記述も参照。
*4:西暦(正確ではない)が記載されている。
*5:ヘブドモンは現在のバクルキョイ地区。「マグナウラ」はコンスタンティノープル市内のマグナウラ宮殿のことではない。キュクロビオンは現在のゼイティンブルヌ地区と思われる。
*6:通説では674-78年におこなわれたとされる、第2回(回数に関してはコンスタンス2世のページの注14参照)コンスタンティノープル包囲に関する記述。コンスタンティノープル包囲の前後の期間を含めて7年続いたとする『テオファネス年代記』の記述の信憑性に関しては、近年の研究で疑問視するものが出てきている。
*7:小アジア南部、パンフュリア地方の主要都市。
*8:ランゴバルド語で、国王所領の管理官。ガスタルディウス(gastaldius)。ここでは「小領主」程度の意味?
*9:6171年は正確には第7インディクチオ。ムアーウィアは680年の4月に没した。
*10:この部分の地理的な説明は、現代の地理的知識を持っていると非常に理解が難しい(例えば、実際にはドン川もボルガ川もクバン川も合流していない)。
*11:ドナウ・デルタと思われる。
*12:オグロスがドナウ・デルタであるなら、別読のように解釈しないと地理的に意味が通じなくなる(別読は原文の語順を一部入れ替えて解釈している)。
*13:ヤジード1世のことだが、ここ(と翌6173年)では「アジド」と書かれている。
*14:この後(362ページ末尾まで)約1ページ強にわたって、第6回全地公会議の開催年に関する考察、及び9世紀前半のヨハネス=グラマティコスにいたるコンスタンティノープル総主教の在職年数に関する分析・列挙が続く。この部分はおそらくテオファネスが編纂した本文ではなく、後代に(ただし9世紀中盤までに成立)付加された注釈(が筆写の過程で本文化した部分)だと思われる(末尾の一部をのぞいてテオファネスによる、とする説もある)。本試訳では省略した。

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