『聖エウテュミオス伝』(第11章)

凡例

  1. 原本(P. Karlin-Hayter (ed.), Vita Euthymii Patriarchae CP., Bruxelles, 1970)のページ数を黄字で示しています(原本の偶数ページは英訳なので、奇数ページのみです)。
  2. は最小限のものに限定してあります。
  3. この試訳の無断引用等は堅くお断りいたします

(67)11 聖なる殉教者モキオスの教会で皇帝に向けられた襲撃について

 それからすぐ、聖霊降臨祭の中日の祝日に、皇帝は習慣通りに元老院議員とともに聖なる殉教者モキオスの聖所に赴いた。そしてその場所に到着して総主教のニコラオス(=ミュスティコス)とともに教会に入ろうとした。その時突然アンボの下からソレアの方へ、ステュリアノスと呼ばれ、全ての人から知られず、誰も知らない男が飛び出してきて皇帝の頭を襲って狂ったように棒を振りおろした。もしその場所にポリュカンデロン*1がぶら下げられていて棒の激しい動きを受け止めていなかったら、恐らく皇帝は命を失って死体となっていただろう。というのも皇帝はわずかに(棒に)触れただけで血まみれになってしまったのである。突然のことにみな取り乱し、全ての元老院議員と聖なるベーマにいた人々は逃げ出した。それで皇帝は、中ヘタイレイアから来ていた6人がいなければ一人になるところであった。そして彼らの中の一人で、カンタリスという者がすぐにこの暴漢を地面に投げつけて剣を突きつけた。そして「斬ってよいですか、陛下?」と言った。皇帝はそれを禁じてこう言った。「彼を縛り上げてしっかり見張っておけ。」それから総主教のニコラオスについて、彼の聖職者たちが誰もベーマの付近に残ろうとしなかっただけでなくニコラオスまでもがそうだったと、激しく怒った。また共同皇帝で兄弟のアレクサンドロス〜皇帝は兄弟のようには思っていなかったが〜もまた、カテクメニアと呼ばれる場所から自らの身を隠そうとしていた。それから皇帝は海辺のペトリオンという場所に避難した。一方大胆な行為に及んだステュリアノスは厳しく激しい拷問を加えられたが耐え抜き、彼の共犯者の名前を言わなかったので、焼き殺された。そして皇帝は父から彼に示された予言を理解し、他の誰でもなく彼自身を献げ、また和解させて*2、再び父に守られる者に戻ったのである。父は皇帝が後悔しているのを知って心から彼を受け入れ、(69)許しを与えた。(皇帝は)彼を聖アガトスから宮廷へ連れ出し、3日間共にいてくれるようにと言ったのである。
 すぐに首都内ではドゥークス一門*3の蛮行によって混乱が生じた。というのも(彼は)反乱を企てて、カバラと言う街に6ヶ月のあいだ逼塞し、そして落胆してアガレノイのもとへ逃れたのである。だが帝国から、恐ろしい誓いの書き込まれた多くのクリュソブリオンや、さらには皇帝の安全保障が送られたにもかかわらず、彼は心を閉ざして良き改心を行おうとはせず、アッシリア人のもとに去って、その後のキリスト教徒たちに哀れむべき風評を残したのである。皇帝は彼に対して怒り、何をすべきなのかと悩んでいた。その時ドゥークスのところから、皇帝に何か言うことがあるとするある避難者がやって来た。皇帝を見ると彼は書きつけを他の3つと共に手渡した。それはアンドロニコスがカバラに立て篭もっていた時に首都から受け取ったものであった。皇帝はそれらを手にして、その書きつけや各の言葉の意味について知ろうと考えた。その中の一つに(皇帝は)言葉の組み立てだけではなくその筆跡までもが総主教ニコラオスによるものを見つけた。皇帝はそれを彼のものと認めると完全に表情を変え、震えながら他の者に読ませて彼に聞かせるよう命じた。それはこのような内容のものであった。「きわめて栄光ある、荘厳でかつ未来の皇帝たるアンドロニコス=ドゥークスよ、私はあなたに伝え、そして忠告します。あなた自身の身をさらしたり、皇帝からの言葉に唆されたり、あなたのところに送り出されるものを信じたりしてはなりません。というのもそれらは示されたものであれ書かれたものであれ、みな偽りで古びたものだからです。サタンのごときサモナスがあなたに刃を向けて待ち受けているのですから。なので今は我慢して強くなり、名声と事実を示して下さい。そうすれば首都は我々の勧告によってすぐにあなたを招き寄せるでしょう。我々が遜っていることを(71)成功者になってもお忘れないように。さようなら。」かくてドゥークスから得て読まれたものの中に、そこにいる人の名前が現れたので、皇帝は驚いて近くにいるその人物を呼び寄せるよう命じた。だが彼らによって確認されたのに(皇帝は)総主教には何も言わず、自身の中に悲しみを持ち続けていた。というのも彼は皇帝にとっては義兄弟であり、学友でもあったからである。だが行ったことや言ったことが彼に気づかれずにはすまなかった。なぜなら皇帝の寝室係の何人かが彼に全てを知らせたからである。彼はこうしたことに恐れをなして、皇帝の意志を全て実行することで皇帝と妥協し、和解しようとした。つまりゾエから産まれた皇帝の息子で新帝のコンスタンティノス(7世)を、それをすべきでないとするラオディケイアのエピファニオスや他の何人かの府主教たちの強い抵抗や反対にもかかわらず、大教会に受け入れ、また自らの手で洗礼を行ったのである。この時我らの父エウテュミオスもその場にいてこの若いコンスタンティノスの代父になっていた。この時父エウテュミオスに総主教のニコラオスはこう言った。「聖なる父よご覧なさい、彼を見れば祈りの成果が分かるでしょう。我々の時代に、真に神のしもべである人々がいるのですから。我々が任につくよう指示した7人の聖職者たちはもう何日もの間この偉大で聖なる神の智慧の教会にあって、毎日聖なるベーマの方に向かいつつ、聖なる神に対して和解の祈りを彼らが行って皇帝陛下の望みを実現しているのです。ご覧なさい、あの子が愛されていることを我々が陛下と共に祝福しているのを。」
 だが総主教はさらに皇帝に結びつこうと考えて〜彼は自らの失敗の繋がりに支配されてしまっていたのだ〜、彼に関して府主教たちが示し、述べたことを全て、毎日統治者に報告しようとし、(彼が)彼らに言ったことと対置させ、そして個別に府主教たちから自分の方へ引きつけようと知らせたのである。それで彼は宮殿の大教会の奉献式に彼と共に入場することに同意し、さらにそれ(73)だけでなく主の変容の祝日に彼が教会に直接入るのも認めたのである。それを多くの証人たちの前で行った。だが平和の勝利者である皇帝は教会の安寧を求めていたので入場の儀礼を延期してこう言った。「もしローマからの司教たちが来ていないとわかったなら、彼ら抜きで入場式を行うというあなた方からの申し出に従うわけには行きません。」それで総主教はさらに続けてこう言った。「私はどのような言葉も行ったり考えたりしていませんし、ローマから、あるいは東方からの知らせを待っているのではありません。私は皇帝陛下の入場を認めているのです。」そしてこれは大アタナシオスの全ての書簡が収められているのですと言ってある書物を示した。そしてそれに身をあずけてこう言った。「もしこの父が〜他の父たちは彼を先導者かつ教師としていますが〜、3回の結婚を非難できないとしているのなら、4回の結婚を一定の罰を与えた上で認めることにし、なぜ私が脅えることがありましょうか?もしこのことについてなおそのような心でいて延期したとしても、他の全ての人々の話を聞いても、あるいはローマからの使者の到着をなお待っても、それは虚しく破滅的なことです。私は教会の中に、全てのことから陛下を受け入れます。」たとえこの有害かつ悪意ある人物が、以下の話で明らかになるように教会の状態を大いなる炎に結びつけ、投げ入れなかったとしても、このようなことを行っていたのである!

*1 シャンデリアのような灯具。
*2 『新約聖書』「コリント人への第2の手紙」5.18以下などを踏まえた表現。
*3 一般にはドゥーカス家の名前で知られている軍事家門。11世紀後半に帝位に就いた人物を輩出する。ただしレオン6世時代のドゥークス家と11世紀のドゥーカス家とのあいだの血縁関係を直接示す資料はない。

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