『テオファネス年代記』(685/86-704/705)

凡例

  1. 原本(Theophanes Confessor, Chronographia, München, 1883-5)のページ数を黄字で示しています。
  2. は最小限のものに限定してあります。
  3. 『テオファネス年代記』は、世界年代(天地創造からの年数を基準とした年紀)を基準として、各年ごとの記述となっています。また世界年代に加え、皇帝やカリフ、総主教らの在位期間などを各年ごとに記述しています。本試訳では、各年の記述冒頭に数字列がありますが、「皇帝の在位何年目か. カリフの在位何年目か. コンスタンティノープル総主教の在位何年目か.」が基本情報として書かれ、年によっては西暦(ただし正確ではありません)や「コンスタンティノープル以外の総主教の在位何年目か」も書かれています。
  4. 世界年代の後のカッコ内に書かれているのは対応する西暦です。『テオファネス年代記』における世界年代は9月1日が年初なので、2年に及んでいます。
  5. 時折言及される「インディクチオ」は、15年周期の暦法です。世界年代と同様、9月1日開始です。
  6. この試訳の無断引用等は堅くお断りいたします

(363)6178(685-686)
ローマ人の皇帝:ユスティニアノス、治世10年間
アラブ人の長(カリフ):アビメレク(アブド・アル・マリク)、治世22年間
コンスタンティノープル総主教:テオドロス、治世3年間
678. 1. 3. 3. *1この年のように、西暦(正確ではない)が記載されている年が何ヶ所かある。

 この年、アビメレクは和平を確認するためにユスティニアノスのところに使者を送った。そして以下のような和平条件で同意した。すなわち、第一に皇帝はマルダイテス人の部隊をレバノンから撤退させ、彼らの攻撃を阻止すること、一方でアビメレクはローマ人に毎日1,000ノミスマタと馬1頭、奴隷1人を贈ること、第二にキプロス、アルメニア、イベリアの租税を折半すること、である。それで皇帝は和平条件の確認のため、署名入りの和平確認文書を発行してマギストリアノス*2マギストリアノスは古代末期には宰相(Magister Officiorum)の下僚であったagens in rebusを指した。7世紀末にこの役職が存続していたかは不明。のパウロスをアビメレクのところに派遣した。マギストリアノスは歓待を受けて帰還してきた。それで皇帝は使者を送って12,000人のマルダイテス人を受け入れたので、ローマ国家はひどく傷つけられることになった。というのも、現在はアラブ人が居住しているモスプエスティアから第四アルメニアまでの辺境部の全都市が、マルダイテス人の攻撃を受けて弱体化し、人が住まなくなってしまったからである。また彼らが退いてきたことによって、ローマ帝国は今日にいたるまでアラブ人によるひどい災厄を受けることになったのである。
 同じ年、アビメレクはマウイアス(ムアーウィア)の兄弟のジアドス*3ウバイダッラー・ブン・ジヤード。ムアーウィアの乳兄弟の息子。を、欺瞞者かつ纂奪者のムフタル(アル・ムフタル・ブン・アビー・ウバイド)に対峙させるためにペルシアに送った。だがジアドスはムフタルによって殺された。アビメレクはそれを聞くとメソポタミアに進出したが、その時にサイド(アムル・ブン・サイード・アル・アシュダク)が反乱を起こした。それで彼(アビメレク)は帰還して、彼(サイド)によって先に占領されていたダマスコスを開城するよう交渉して説得した。そしてその後、彼を策によって殺した。
 ユスティニアノスは若く、16歳であったが、国政に関して無思慮であった。そして軍指揮官のレオンティオスにローマ軍をゆだねてアルメニアに送り、そこにいたサラセン人を殺してローマ人に従属させ、さらにイベリアやアルバニア、ブカニア、そしてメディアをも従属させてこれらの地域に課税し、大量の財を皇帝に送った。アビメレクはそれを知ると、キルケシオンを制圧し、またテウポリス*4キルケシオン(キルケシウム)は現在のシリア東部、ユーフラテス川沿いにある都市。テウポリスはアンティオキアのこと。アブド・アル・マリクのキルケシオン制圧とユスティニアノス2世のアルメニア遠征はおそらく無関係。を従属させた。


(364)6179(686-687)
コンスタンティノープル総主教:パウロス、治世7年間
2. 4. 1.

 この年、シリアで飢饉が起きて多くの人々がローマ帝国に流入してきた。
 皇帝はアルメニアに赴き、そこでレバノンで「銅の壁」を破壊したマルダイテス人を迎え入れた。
 彼はまた、彼自身の父によって作られた協定に動揺して、ブルガリアとの間に結ばれていた和平を破棄した。そしてトラキアに騎兵テマの軍を派遣して、ブルガール人やスクラヴィニア*5「スクラヴィニア」は「スラヴ人の土地」の意味。またここでの「ブルガール人」は、コンスタンティノス4世時代に成立した、いわゆる第一次ブルガリア王国のことではないと思われる。6180年の「ブルガリア」も同様。を荒掠するよう命じた。

 

6180(687-688)
680. 3. 5. 2.

 この年、ユスティニアノスはスクラヴィニアとブルガリアに遠征をおこなった。ブルガール人に対しては彼らの居住地を戦いつつ進撃して、テッサロニケまで進んだ。そして戦いの際に、あるいは進軍中に非常に多数の捕虜を確保した。彼らはアビュドスで海を渡ってオプシキオンの地域に配された。だが帰路に狭い峠道でブルガール人の襲撃に遭って自軍に多くの死者や負傷者を出したが、辛うじて(峠を)越えることができた。
 また同じ年に、アブデラス・ズベル(アブダラ・ブン・アル・ズバイル)は自らの兄弟のムサボス(ムサーブ・ブン・アル・ズバイル)をムフタロス(ムフタル)に対して送った。ムフタロスは彼と戦って敗北し、シリア方面に逃亡した。だが(ムサボスは)彼に追いついて彼を殺した。それでアビメレクはムサボスに対して軍勢を送って勝利して彼を敗死させ、ペルシア全土を支配下に収めた。

 

6181(688-689)
ローマ人の皇帝:ユスティニアノス、治世10年間
アラブ人の長:アビメレク、治世22年間
コンスタンティノープル総主教:パウロス、治世7年間
681. 4. 6. 3.

 この年、アビメレクはズベイル(=アブデラス・ズベル)に対してハガン(ハッジャジュ・ブン・ユースフ)を派遣し、ハガンはその地で彼を殺した。ハガンはアビメレクに抵抗していた地域を彼に従属させ、偶像崇拝の神殿を、彼らが崇拝していた偶像とともに焼いてしまった。(365)この功績ゆえ、ハガンはペルシアの司令官に任命された。こうしてペルシアとメソポタミア、そしてエトリボス(ヤスリブ)の大アラビアがアビメレクの支配下に入り、彼らの内戦が終結した。


6182(689-690)
5. 7. 4.

 この年、アラブ人の国家におけるすべての戦いが終結し、アビメレクがすべての人々を支配下に収めて平穏を生み出した。

 

6183(690-691)
6. 8. 5.

 この年、ユスティニアノスはアビメレクとの和平を無思慮にも破棄した。というのも、彼が分別なくキプロス島の人々の移住に熱中し、またアビメレクによって送られてきたコインを、新しいものであってそれまでにないものであったため、受け取りを拒否したからである。だがキプロスの人々の多くは海を渡る際に溺死し、また病によって命を奪われた。それで残りの人々はキプロス島に帰還した。アビメレクはそれを聞くと、和平の破棄をせず、自分たちの貨幣を受け入れるように〜アラブ人はローマ人のコインを自分たちの貨幣制度に受けいれることはできないが、金の重量を基準として送るので、アラブが新たに発行したコインによってローマ人が損害を受けることはないという理由で〜、サタンのように偽りの要請をおこなった。皇帝はその要請を怖れに由来するものと見なし、彼らが追求しているのはマルダイテス人による攻撃を中止させることで、その上でもっともらしい理由をつけて和平を破棄することであるということを理解できなかった。そして実際にそうなった。
 アビメレクはマッカ(メッカ)の神殿の建設(再建)を命じた。彼はまた聖なるゲッセマネの列柱の撤去をも望んだ。すると彼に対して、マンスールの息子のセルギオス*6ダマスクスのヨハネの父である、サルジューン・イブン・マンスールのことだと思われる。〜彼は非常に敬虔なキリスト教徒で、税務長官をも務めていてアビメレクと非常に親密な関係にあった〜と、彼に匹敵する立場にあり、パレスティナのキリスト教徒たちの有力者であったパトリキオス=クラウシュスが、そのようなことをせず、彼らの嘆願を通じてそれらの代わりとなるものをユスティニアノスに送ってもらうよう要請するようにと乞うた。そしてそのようにした。

 

6184(691-692)
7. 9. 6.

 この年、ユスティニアノスは彼によって移住させられた(366)スラヴ人の中から、30,000人の軍勢を選抜した。彼らを武装させて彼らを「選ばれた民」と名付け、ネブリオスという名の人物を指揮官とした。彼らに自信を得て、(ユスティニアノスは)アラブに手紙を書いて、以前合意に達していた和平の文言を破棄することを伝えた。そして「選ばれた民」と全騎兵テマを率いて海辺のセバストポリス*7一般にセバストポリスと比定される場所は、海辺にはない。に進軍した。一方アラブ人たちは和平の破棄を望まず、皇帝の都合や無分別によってそれ(和平破棄)を強制されたふりをした。そして武装してセバストポリスに進み、相互に誓約をおこなって成立した合意を破棄すべきではないと皇帝に申し立てた。それから神はこのことに関する罰と裁きを彼に下した。皇帝がそれらに聴く耳を持たず、戦いに駆り立てられていたので、和平協定文書をほどいて棒に結びつけて旗印の代わりに高く掲げて前に示し、ローマ人に向かって進撃した。そしてムアメド(ムハンマド・ブン・マルワーン、アブド・アル・マリクの兄弟)の指揮下、戦闘状態に入った。最初アラブ人は敗北した。だがムアメドは戦いに参加していたスラヴ人のローマ軍指揮官をそそのかし、彼に金貨の詰まった筒を送り、また彼にさまざまな約束をおこなってだまし、ローマ軍のもとから20,000人のスラヴ兵とともに脱走するよう説得した。その結果ローマ人は助けを求めて逃走することになった。それでユスティニアノスは彼らの残りを、妻子とともにニコメディア湾に面した断崖の地であるレウカテという所の近くで殺した。

 

6185(692-693)
8. 10. 7.

 この年、アルメニアのパトリキオスのサッバティオス(スンバット=バグラトゥニ)が、ローマの敗北を知ってアラブに降伏した。また内ペルシア、いわゆるホラサン地方もアラブに従属した。その地にサビノスという名の詐欺師が現れて多くのアラブ人を殺し、ハガノス(ハガン)を川で溺死させかけた。
(367) それからアガレノイはさらに大胆にローマ帝国を傷つけるようになった。


6186(693-694)
ローマ人の皇帝:ユスティニアノス、治世10年間
アラブ人の長:アビメレク、治世22年間
コンスタンティノープル総主教:カリニコス、治世12年間
686. 9. 11. 1.

 この年、ヒュペルベレタイオス月の5日の日曜日(693.10.5)、第3時に日食があり、そのため明るい星が見えた。またムアメドがローマ帝国に侵入してきたが、彼はローマ帝国のことを熟知しているということで逃亡してきたスラヴ人をも引き連れてきていた。そして多くの人々を捕虜とした。またシリアで、豚の虐殺がおこなわれた。
 一方ユスティニアノスは宮殿の建設に注力しており、いわゆるユスティニアノスのトリクリノスと宮殿の防壁を建設した。また彼のサケラリオス(財務長官)であり第一の宦官であったペルシアのステファノスを、その任の監督官、主人、統括者に任じた。彼は恐ろしく血に飢えた冷酷な男で、労働者を容赦なく罰するだけでは飽き足らず、彼らや彼らの親方たちを石で打ちすえていた。また皇帝が不在の際には、この残忍な獣のような男は、皇帝の母親であるアウグスタのアナスタシアを子供扱いして、大胆にも鞭打とうとさえしたのである。このような多くの悪しきことを、彼は市民すべてに対してもおこなったので、皇帝への憎悪が生み出されることになった。また彼は国家の税務(ゲニコン)を、テオドトスという名の修道士に委ねた*8後にロゴテテース・トゥー・ゲニクー(税務長官)として知られる役職への就任?。彼は最初、(ボスポラス)海峡のトラキア側にいた隠者で、彼もまた悪辣で野蛮な人物であった。彼は非常に多数の国家のアルコンたちや名望ある人々〜高官たちだけでなく首都の住民たちもいたのだが〜に、まったくでたらめに容赦なく、(税の)要求や徴発、そして財産の没収をおこない、彼らを絞首刑にしたり、わらで火あぶりにしたりした。さらにエパルコスは皇帝の命により多数の人々を牢獄に閉じこめて何年間も監視した。こうしたすべてのことが、皇帝に対する人々の憎悪を増大させたのである。
 皇帝は(368)総主教のカリニコスに、宮殿の近くにあったメトロポリトゥの聖なる生神女(マリア)の教会の破却のために祈りを捧げるように要求した。というのも(皇帝は)この場所にフィアレ(泉、貯水槽)を設置し、青組のデーモスのために腰かけを据え付けようとしていたのである。総主教はこう応じた。「我々は教会の建立のための祈りはおこないますが、教会の破却のための祈りは引き受けません。」だが皇帝は彼に強要し、祈りをおこなうようあらゆる方法で要求した。それで総主教はこう言った。「今も、常に、そして永遠に、すべてを耐え忍ぶ神に栄光あれ。アーメン。」これを聞くと教会を破却し、フィアレを作った。そしてメトロポリトゥの教会をペトリオン*9金角湾に面した地区。に建設した。


6187(694-695)
10. 12. 2.

 この年、ムアメドが第四アルメニアに侵入し、多くの捕虜を捕らえて帰還していった。
 同じ年、ユスティニアノスが以下のような次第で皇帝の座から追われた。皇帝はパトリキオスかつ軍指揮官のステファノス=ルシオスに、夜の間に総主教からはじめてコンスタンティノープルのデーモスを殺すように命じた。一方パトリキオスで以前アナトリコンの軍指揮官をつとめて戦功を挙げていたレオンティオス〜中傷を受けて3年間投獄されていた〜が突如釈放され、ヘラスの軍指揮官に任じられた。彼は3隻のドロモン船隊に乗船し、その日のうちに首都を出発するよう命じられていた。それでその晩、マウロス地区近郊にあるソフィアのユリアネシオス港で首都からの出港の準備を行っているところへ、友人たちが彼に別れを告げるためにやってきた。やって来た者たちの中には彼の親友もいた。カリストラトス修道院の修道士で天文学者のパウロス、カッパドキア出身のクレイスラルケスで、後に修道士かつフロロス修道院長となったグレゴリオスである。彼らは頻繁に牢獄の彼のもとへ赴き、彼がローマ人の皇帝の座を確保することを調べ(て伝え)た。それでレオンティオスは彼らにこう言った。「君たちは牢獄で私に、皇帝の地位を保証してくれた。だが今や、私の命運は(369)ひどい状況の中で尽きようとしているのだよ。というのも私の背後には四六時中、死を期待するものがあるのだ。」友人たちはこう答えた。「あなたがためらわなければ、それはもう目前にあるのです。私たちの言うことだけを聞いて、私たちについてきて下さい。」それでレオンティオスは手勢を集め、彼の手持ちの武器を携え、ごく秘密裏にプライトリオンに向かった。そして扉をノックして、そこにいる人々の誰かに関する政務の都合で皇帝がやって来たとでっち上げを言った。それはその時そこにいたヒュパルコスに伝えられ、彼はすぐにやって来て扉を開けた。それで彼はレオンティオスに捕らえられ、暴行を受けたあげくに手足を縛られた。それからレオンティオスは中に入り、牢獄を開いて投獄されていた多くの勇敢な男たちを解放した。その多くは兵士で、6年から8年間閉じこめられていた。そして彼らを武装させてフォルムに進出し、彼らとともにこう叫んだ。「キリスト教徒たる者は聖ソフィアへ!」また各レギオに人を送って、同じことを叫ぶように命じた。それで首都の民衆は大騒ぎしながらすぐに教会の中庭に集まった。レオンティオス自身は2人の修道士、2人の友人、そして牢獄から連れ出してきた者たちの中の名高き者たちとともに総主教庁に赴いて総主教と会見した。彼らは総主教もまた、パトリキオスのステファノス=ルシオスへの命令によって混乱していたことを知ると、総主教も中庭に赴いてこのように叫ぶよう説得した。「今日のこの日は神が作りたもうた日!」すると全ての民衆がこう叫んだ。「ユスティニアノスの骨を掘り返せ!」*10皇帝に対する反乱やクーデターの際などに発せられる決まり文句。こうして人々はヒッポドロームに殺到した。そしてこの日のうちに、スフェンドネ*11ヒッポドロームの一角。を経由してユスティニアノスをヒッポドロームに引きずり出し、鼻と舌を切断してケルソンに追放したのである。それから民衆は修道士でゲニコンのロゴテテースであったテオドトスと、サケラリオスであったペルシア人ステファノスを捕らえて彼らをロープで縛り上げ、メセーを引き回してから雄牛のフォルムへ連行して火あぶりにした。そうしてからレオンティオスを皇帝として歓呼した。

 

6188(695-696)
1. 13. 3.

 この年、レオンティオスが皇帝となり、全地域が平穏となった。

 

(370)6189(696-697)
2. 14. 4.

 この年、アリドス(アル・ワリード?)がローマ帝国に侵入し、多くの人間を捕虜として帰還した。またラジカのパトリキオスで、バルヌキオスの息子のセルギオスが反乱を起こし、アラブ人にその地を服属させた。


6190(697-698)
690. 3. 15. 5.

 この年、アラブがアフリカに侵入してその地を制圧し、守備隊をも配置した。レオンティオスはそれを知ると勇敢な人物であるパトリキオスのヨハネスに、ローマ艦隊を委ねて送った。彼はカルタゴに達すると、(カルタゴの)港に張られていた鎖を突破して敵に向かって進撃し、撃破した。そして全アフリカのカストロンを解放して自らの守備隊を配置し、皇帝に状況を報告した。そしてそこで越冬して皇帝からの指示を待った。だがカリフはそれを知ると、より強力で大規模な艦隊を彼に向かって送り、先述したヨハネスを艦隊とともに港から駆逐した。そして内部には単に放浪して入っただけで*12原文の意味の通る解読が不明な箇所。9世紀に『テオファネス年代記』をラテン語訳したアナスタシウス・ビブリオテカリウスはこの部分を省略している。、軍を外部に布陣させた。先述した司令官はローマ帝国に一旦帰還して、より大規模な軍を皇帝から得ようと考え、首都に赴く途中でクレタまで戻った。だが軍は自分たちの指揮官たちに焚きつけられ、帝都に帰還することを望まなかった〜彼らが恐怖と恥辱にさいなまれていたからである〜。そして凶悪な企てに転じていった。すなわち皇帝の骨を掘りだし(=皇帝に対して反乱を起こし)、コリュコスにいたキビュライオタイ*13いわゆるテマ・キビュライオタイの初出などともされる箇所だが、「キビラの軍隊」と訳す方が適切だと思われる。キビラは小アジア南部にある都市(キビラ・マグナとキビラ・ミクラの2ヶ所、有名な都市があるが、ここでのキビラがどちらかは不明)。のドゥルンガリオスであるアプシマロスを皇帝として歓呼し、彼をティベリオスに改名させた。その頃レオンティオスはコンスタンティノープルでネオレシオン港を整備していたが、首都でペストが発生して4ヶ月間で数多くの人々が命を落としていた。アプシマロスは(首都に)やって来ると彼の仲間の艦隊とともに首都に対峙してシュカイに停泊した。この頃首都の人々は(371)レオンティオスを裏切ろうとはしていなかったが、恐るべき誓いを通じて聖なるテーブルから陸の城壁の鍵を預けられていた地方出身の指揮官たちによって、ブラケルナイ地区の一重城壁から裏切りがおこなわれた。すなわち彼らが裏切って首都を引き渡したのである。艦隊の兵士たちは市民たちの家に乱入して住民たちを身ぐるみはがした。一方アプシマロスはレオンティオスの鼻をそいでデルマトス修道院に幽閉して監視するよう命じ、また彼とともに死ぬつもりでいる、彼に味方した高官や友人たちを、拷問を加え財産を没収した上で追放した。そしてアプシマロスの有名な兄弟であるヘラクレイオスを、きわめて有能であるという理由で地方の全騎兵テマの単独指揮官に任じ、カッパドキア地方や峠道を巡回しての敵に対する監視、および指揮のために派遣した。

 

6191(698-699)
ローマ人の皇帝:アプシマロス、治世7年間
アラブ人の長:アビメレク、治世22年間
コンスタンティノープル総主教:カリニコス、治世12年間
691. 1. 16. 6.

 この年、アプシマロスが皇帝となった。アブデラフマン(アブド・アッラフマン・ブン・アル・アシュアト)がペルシアで反乱を起こして彼らの支配者となり、彼らの所からハガンを追い出した。

 

6192(699-700)
2. 17. 7.

 この年、大飢饉が発生した。
 ムアメドがアラブの大軍とともにアブデラフマンと対峙するために出撃し、ペルシアを制圧してハガンと合流した。そしてアブデラフマンと戦って彼を殺し、ハガンをペルシアに再任させた。一方ローマ軍はシリアに侵入してサモサタまで到達し、周辺地域を略奪して多くの人々〜人々の言うところでは20万人のアラブ人〜を殺した。そして大量の戦利品や多数のアラブ人の捕虜を獲得して撤退し、彼らに大いなる恐怖を植えつけた。


(372)6193(700-701)
3. 18. 8.

 この年、アブデラス(アブダッラー・ブン・アブド・アル・マリク)がローマ帝国に侵入し、タラントンを包囲した。だが何の成果も得られないまま撤退し、モプスエスティアを建設してそこに守備隊を配置した。


6194(701-702)
4. 19. 9.

 この年、バアネス=エフタダイモンが第四アルメニアをアラブに従属させた。
 それからアプシマロスはパトリキオスのニケフォロスの息子のフィリッピコス*14後の皇帝フィリッピコス(在位711-713年)。を、皇帝になる予兆となる夢を見たことを理由に、ケファレニアに追放した〜というのも彼は、自分の頭が鷲によって隠されるという夢を見たと言ったのである。皇帝はそれを聞くとすぐに、彼を追放した。


6195(702-703)
5. 20. 10.

 この年、アルメニアのアルコンたちがサラセン人に対して反乱を起こし、アルメニアにいたサラセン人を殺した。そしてアプシマロスのところに再度使者を派遣して、ローマ人を自分たちの領域に導き入れた。それでムアメドは遠征をおこなって多くの人を殺し、アルメニアをサラセン人に従属させるとともに、アルメニア人の有力者たちを一ヶ所に集めて生きたまま焼いた。
 同じ年、アザルが10,000人の軍勢を率いてキリキアに侵入してきた。皇帝の兄弟のヘラクレイオスが彼と遭遇して多数を殺し、残りを捕縛して皇帝のところに送った。


6196(703-704)
6. 21. 11.

 この年、フーネイの息子のアジドス(ヤジード・ブン・フナイン)がキリキアに侵入し、シシオンのカストロンを包囲した。それで皇帝の兄弟のヘラクレイオスが(そこに)到達して彼と戦い、12,000人のアラブ人を殺した。
 一方ユスティニアノスはケルソンで過ごしていたが、再び帝位に就く意志を公言していた。それでこの地の住民たちは皇帝側からの危険を恐れて彼を殺すか、皇帝のところに送りつけようとした。だが彼はこれを知って逃亡に成功し、ダラスまで到達するとカザールのカガン(可汗)に味方になってくれるように頼んだ。彼(カガン)はそれを知ると彼(ユスティニアノス)を受け入れて(373)歓待し、自らの嫡出の娘のテオドラを妻として彼に与えた。そしてすぐにカガンに、ファナグリア*15ファナゴリア。タマン半島にある都市で現在のセンゴイ近郊。に赴くことを乞い、そしてテオドラとともにそこに滞在した。それを聞いたアプシマロスはカガンに使者を送って、もしユスティニアノスが生きているのなら彼を、そしてもし死んでいるのなら彼の頭だけでも、自分のところに送ってくれるよう依頼し、大量の贈り物をすることを約束した。カガンはこうした要請を受け入れ、自らの配下の者たちの陰謀を防ぐためという口実で彼のところに監視を送った。そしてかの地にいた彼の代官であるパパチュスと、ボスフォロスのアルコンであるバルギツィスに、指示があったらすぐにユスティニアノスを殺すように命じた。だがこのことはカガンの使用人を通じてテオドラに露見し、ユスティニアノスの知るところとなった。それで彼は上述したパパチュスを自分のところの会合に呼び出し、弓の弦で彼を絞め殺した。同様に、アルコンのバルギツィスも殺した。そしてすぐにテオドラをカザリアに送り、自らは秘密裏にファナグリアを脱出してトミス(ケルチ海峡周辺?)に去った。そして出港できる状態にあった漁船を見つけるとそれに乗り込んでアッサス海を渡り、ケルソン近郊のシンボロン(現バラクラヴァ)まで来た。それから密かにケルソンに使者を送ってバリスバクリオスと彼の兄弟であるサリバス、及びステファノス、モロパウロス、そしてテオフィロスを仲間に引き入れた。彼らとともに出港してケルソンの灯台付近を通過した。そして航海を続けてネクロペラ(カルキニット湾)、ダナプリス(ドニエプル)河口、ダナストリス(ドニエストル)河口と進んだが、大波に遭遇してみな自らの身の安全に絶望した。それで彼の側近であるミュアケスが彼にこう言った。「ご主人様、これでは私たちは死んでしまいます!あなた様の身の安全のために、『もし神が帝国を回復させてくれたならば、敵たちへの復讐をおこなわない』と神に約束しましょう!」だが彼は怒りつつ彼にこう答えて言った。「もし彼らの誰も殺せないのなら、神よ、私をここで溺死させよ!」それから彼は危ない目に遭うことなく大波から脱出して、(374)ダヌビス(ドナウ)川に入った。それから先祖伝来の帝国の回復のための支援を求めてステファノスをブルガリアの首領のテルベル*16第一次ブルガリア王国の2代目の王。6171年に言及されるアスパルク(アスパルフ)の息子。のところに送り、大量の贈り物と自らの娘を妻として与えることを彼に約束した。彼(テルベル)はすべてを受け入れ、彼とともに戦うことを誓約し、彼を大いなる名誉とともに受け入れた。そして彼の支配下にある全ブルガール人とスラヴ人を動員した。
 翌年、彼らは武装して首都に進軍してきた。


6197(704-705)
ローマ人の皇帝:アプシマロス、在位7年間
アラブ人の長:アビメレク、在位22年間
コンスタンティノープル総主教:カリニコス、治世12年間
697. 7. 22. 12.

 この年、アラブ人の長のアビメレクが没し、彼の息子のワリド(ワリード1世)が権力を掌握した。
 この年、ユスティニアノスがテルベルとともに首都に到達した。そして彼とともにブルガール人がカルシオス門*17現在のエディルネカプ。からブラケルナイまで布陣した。3日間彼らは市内にいる人々に呼びかけをおこなったが、市民は彼らを軽蔑しており、何の成果も得られなかった。それでユスティニアノスは心を同じくするわずかの者たちとともに、水道を通って戦うことなく市内に入り、呪いの言葉*18「骨を掘り返せ!」。注10参照。を叫んでこの都市を制圧した。そしてすぐにブラケルナイ宮殿に腰を据えた。

*1:この年のように、西暦(正確ではない)が記載されている年が何ヶ所かある。
*2:マギストリアノスは古代末期には宰相(Magister Officiorum)の下僚であったagens in rebusを指した。7世紀末にこの役職が存続していたかは不明。
*3:ウバイダッラー・ブン・ジヤード。ムアーウィアの乳兄弟の息子。
*4:キルケシオン(キルケシウム)は現在のシリア東部、ユーフラテス川沿いにある都市。テウポリスはアンティオキアのこと。アブド・アル・マリクのキルケシオン制圧とユスティニアノス2世のアルメニア遠征はおそらく無関係。
*5:「スクラヴィニア」は「スラヴ人の土地」の意味。またここでの「ブルガール人」は、コンスタンティノス4世時代に成立した、いわゆる第一次ブルガリア王国のことではないと思われる。6180年の「ブルガリア」も同様。
*6:ダマスクスのヨハネの父である、サルジューン・イブン・マンスールのことだと思われる。
*7:一般にセバストポリスと比定される場所は、海辺にはない。
*8:後にロゴテテース・トゥー・ゲニクー(税務長官)として知られる役職への就任?
*9:金角湾に面した地区。
*10:皇帝に対する反乱やクーデターの際などに発せられる決まり文句。
*11:ヒッポドロームの一角。
*12:原文の意味の通る解読が不明な箇所。9世紀に『テオファネス年代記』をラテン語訳したアナスタシウス・ビブリオテカリウスはこの部分を省略している。
*13:いわゆるテマ・キビュライオタイの初出などともされる箇所だが、「キビラの軍隊」と訳す方が適切だと思われる。キビラは小アジア南部にある都市(キビラ・マグナとキビラ・ミクラの2ヶ所、有名な都市があるが、ここでのキビラがどちらかは不明)。
*14:後の皇帝フィリッピコス(在位711-713年)。
*15:ファナゴリア。タマン半島にある都市で現在のセンゴイ近郊。
*16:第一次ブルガリア王国の2代目の王。6171年に言及されるアスパルク(アスパルフ)の息子。
*17:現在のエディルネカプ。
*18:「骨を掘り返せ!」。注10参照。

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