『モネンバシア年代記』

凡例

  1. 原本(I.Dujcev(ed.), Cronaca di Monemvasia, Palermo, 1976)のページ数を黄字で示しています(原本の奇数ページはイタリア語訳なので、偶数ページのみです)。
  2. は最小限のものに限定してあります。
  3. この試訳の無断引用等は堅くお断りいたします

(2) 天地創造から6064年、大ユスティニアノス帝の治世32年(西暦558年、以下同じ)に、コンスタンティノープルにアヴァール人という珍しい人々の使節がやってきた。そして彼らを見ようと首都のすべての人々が集まった。というのもそうした人々を誰も見たことがなかったからである。彼らは非常に長い髪をひもで縛って編んでいたが、残りの衣服は他の(4)フン人たちと同様だった。*1
 彼らは〜エヴァグリオスが彼の『教会史』の第5巻で述べているように〜コーカサス山地を越えた向こう側の平地に居住し、車の中で生活していた人々である。だが隣接していたトルコ人の攻撃を受けて避難し、自分たちの故郷を立ち去ったのである。そして黒海の沿岸を通ってボスポロスに移動した。それからその地を出発してたくさんの人々の中を通過し、敵対する者たちとは戦って、イストロス(ドナウ)川のほとりまでやってきてその地を占領した。そしてユスティニアノスに使者を送ってその地の下賜を請うたのである。
 皇帝は彼らに好意を示して受け入れ、彼らの居住地としてミュシア地方の(6)ドロストロン、今はドリストラと呼ばれている都市をわりあてた。それで彼らは困窮状態から富裕な人々へと変わり、とても広く広がった。そして過去を忘れて忘恩の民となって、ローマ人の土地へと侵入を開始してトラキアやマケドニアに侵入し、さらに首都にまで押し寄せてそれらの地を容赦なく略奪した。さらに彼らはヨーロッパ側のよく知られた都市であるシルミオン(シルミウム)を征圧した。この地は今はブルガリア領にあってストリアモスと呼ばれていて、かつてはユスティノス(2世)帝によってゲピード人*2にわりあてられ、彼らのものとなっていたところである。その結果彼らとローマ人たちとの間に恥ずべき協定が結ばれた。すなわち彼らに毎年8万(ノミスマタ)の黄金を貢物として差し出すというものであった。これによってアヴァール人たちが静かになるよう求めたのである。
(8) マウリキオスが6090(582)年に帝笏を持つようになった時、アヴァール人は皇帝のところに使者を送って8万(ノミスマタ)の黄金を要求した。それをローマ人から受け取ると、さらに2万要求してきた。皇帝は平和を望んでいたため、それに従った。だが和平はその後2年しか保たれなかった。というのも彼らの君主であるカガンが、戦争の理由を作るためにいくつもの口実で過度の要求をしてきたからである。それに従わなかったため、(カガンは)和平を破棄して守備の手薄な場所〜イストロス川にある大きな島であるアウグスタ島とビミナキオス島〜を見つけて突然トラキアの都市であるシンギドン(シンギドゥヌム)を征圧した。それからさらにアンキアロス、マケドニアのメッシナ、そしてイリリクムの他の多くの都市を征服したのである。
(10) それから彼らはビュザンティオン近郊にまで進出してすべてを荒らし尽くし、長城*3を征圧すべく迫ってきていた。また彼らの中の一部はアビュドスの海峡を通ってアシア地域を略奪し、再び戻っていった。それで皇帝はカガンのところに使者としてパトリキオスのエルピディオスとコメンティオロスを派遣し、休戦協定を結ぼうとした。そしてバルバロイも和平を結ぶことに同意した。だが平和は続かず再び条約は破棄された。そしてスキュティア・ミュシア地域が恐ろしい戦いの場となり、多くの城塞が征圧された。
(12) また別の侵入によって、テッサリア、ギリシア、かつてのエピロス、アッティカ、エウボイア島のすべてを手中に収めた。彼らはペロポネソスにも戦いをしかけてそこを征服し、高貴なヘラスの人々を殺したり追い出しながらその他に定住した。先住の人々のなかで、この殺人者たちの手から逃れるのに成功した人々は各地に散らばった。パトラス市の人々は、カラブリアのリギオン*4の地域に移住した。アルゴス人たちはオロベという島へ、コリントス人はアイギナという島へ移住した。またこの時、ラコニア人も自分たちの地を捨てて移住した。彼らの中のある者たちはシチリアヘ逃げた。彼らはその地にあるデメンナ(デメナ)という場所に今もなお住んでいて、(14)ラケダイモン人(スパルタ人)ではなく、デメニタイ(デメンナ人/デメナ人)と名乗っていて、まだ自分たちのラコニア方言を保持している。また、(ラコニア人たちの)別の者たちは、海岸沿いの近づきがたい場所を見つけて、そこに堅固な都市をつくって住みつき、そこをモネンバシアと名付けた。なぜならここは入り口が一方向しかなかったからである。彼らはこの都市に自分たちの主教と共に住んでいた。(16)また牧畜をしていた人々や、田舎に住んでいた人々はそこに近接する岩だらけの土地で、後にツァコニアと呼ばれるようになった所に移住した。
 このようにペロポネソスに侵入してこの地に移住したアヴァール人*5は218年間、ローマ人の皇帝にも、他の何者にも従うことなく、それは世界創造よリ6096(587)年、マウリキオスの治世の6年目から、6313(805)年、スタウラキオスを子に持つ古ニケフォロス*6の治世の4年目までのことであった。
(18) 一方ペロポネソスの東部、コリントスからマライオス*7までのみが、その険しさと堅固さゆえにスラヴ人の手から残された。この地にはペロポネソスのストラテーゴスがローマ人の皇帝によって派遣されていた。そうしたストラテーゴスたちのなかで、小アルメニア出身で、スクレロスという名の一族の者が(20)スラヴ人に対して遠征を行なって彼らを完全に抹殺し、かつての住民たちに故郷を回復させた。先述したニケフォロス帝はそれを聞き非常に喜んだ。そしてその地に都市を作り、バルバロイが破壊した教会を再建し、そしてバルバロイをキリスト教徒にさせようと考えた。そのため、皇帝はパトラスの人々の移住地を調べ、彼らの主教〜当時はアタナシオスという名の人物であった〜とともに彼らの故郷に都市を再建するように命じた。さらに本来主教座だったパトラスに、彼らのために大主教座の特権をも認めた。
(22) こうして皇帝は、彼らの都市と神の聖なる教会を、我らの聖なる教父であるタラシオスがまだ総主教の地位にあった時期(784-806年)に、基礎から作り直したのである。皇帝はラケダイモン市も基礎から再建し、その地に多くの人々〜カフェロス人*8やトラケシオン人、アルメニア人、そしてその他の地方の各地や都市〜を集めて移住させた。またその地に主教を再び置き、パトラス府主教の管轄下にあることと公告した。さらに二つの主教〜メトネとコロネ*9〜も(パトラスの)管轄下に入った。こうして蛮族たちは神の援助と恩寵によって改心して洗礼を受け、キリスト教の信仰を受け入れたのである。今も、いつも、そして何世紀もの間、父と子と聖霊の栄光と恩寵がありますように。アーメン。

*1:このパラグラフは『テオファネス年代記』232ページ(557/558年、『テオファネス年代記』では世界年代は6050年)とほぼ同様。なお『モネンバシア年代記』8ページの記述も『テオファネス年代記』282-283ページの記述と非常に似ている。
*2:ゲルマン人の一派。454年にフン人を撃破。ランゴバルド人とアヴァール人の攻撃を受けて567/8年に敗北、以降資料に現れなくなる。
*3:首都から約65[km]の場所にあり、黒海とマルマラ海の間を結んでいた城壁。全長は約45[km]。おそらく5世紀後半に建設された。実際にはコンスタンティノープルの防衛にはあまり効果を発揮していない。
*4:レッギウム。現在のレッジオ・ディ・カラブリア。
*5:ここではスラヴ人のこと。アヴァール人とスラヴ人が混同されている。
*6:ニケフォロス1世(在位802-811年)。ニケフォロス2世(在位963-969年)ではないことを示すため、息子がスタウラキオス(在位811年)であること、また「古いほうの」ニケフォロス帝であることを書いている。なおニケフォロス3世ボタネイアテス(在位1078-1081年)ではないことを示そうとはしていないことから、『モネンバシア年代記』が遅くとも1078年までに成立した(そしておそらくは963年以降の成立?....この部分は後世付加された注釈の可能性もあるため明確には断言できない)ことがわかる。
*7:マレア岬。モネンバシアの南方、ペロポネソス半島の南端部の岬。
*8:詳細不明。アラビア語の「カフィール(不信心者)」からきたとする見解もある。
*9:ペロポネソス半島南部の港。後にヴェネツィアが拠点とするモドンとコロンのこと。

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