『シュメオン年代記』(レオン5世・ミカエル2世)

凡例

  1. 原本(St. Wahlgren(ed.), Symeonis Magistri et Logothetae Chronicon, Berlin, 2006)のページ数を黄字で示しています。
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《アルメニア人レオン、逸脱者*1原文はparabates。「逸脱者、背教者」の他に、「戦士」と読むことも可能な単語。》(レオン5世、在位813-820年)

(210) 逸脱者であるアルメニア人レオンは7年と5カ月統治し、総主教のニケフォロスによって戴冠された。そして(その際に)自らの正統信仰について文書をもって確約した。
 新しきセナケレイム(センナケリブ)であるクルム*2ブルガリア王。811年にブルガリアに侵入して来たニケフォロス1世(在位802-811年)を敗死させた後、コンスタンティノープル近郊にまで迫ってきていた。は勝利に思い上がり、自らの兄弟をアドリアノープル*3当時のトラキア地方の中心都市で、現在のエディルネ。包囲のため残すと、レオンの統治開始の6日後に首都に到達し、ブラケルナイからいわゆる金門までの城壁の前に軍を展開させて自らの軍事力を誇示し、金門前の草原で異教の供儀をおこなった。そして自らの槍を金門に突き刺すのなら、皇帝との和平を結ぶという要求をした。だが皇帝がそれを受け入れなかったので、自陣に戻った。そして首都の城壁、そして皇帝軍の秩序だった編成に驚嘆した。そのため(彼は)方針を変更して和平を結ぶことにし、その準備のための交渉に入ろうとした。一方皇帝は機会を見て彼を待ち伏せて攻撃しようとしていた。だが結果として、実行者たちの能力不足ゆえにうまくいかなかった〜彼を襲ったものの、致命傷を与えられなかったのである。それゆえこの悪しき人物は激怒して聖ママス*4コンスタンティノープル郊外にあった離宮。競馬場もあった。に騎兵を差し向け、そこにあった宮殿に火を放った。また競馬場にあった青銅の獅子を、(211)熊と海蛇、およびその他の宝石と一緒に荷車に積んで撤退し、アドリアノープルを包囲してその地を制圧した。そしてよき生まれのマケドニア人たちを多くの人々とともに連行し、ダヌビオス川*5ドナウ川。の向こう側に住まわせた。
 レオンは即位から2年後、自らを戴冠した聖なるニケフォロスに激怒して追放し、テオドトスを後任の総主教とした。彼は常軌を逸した男であり、魚ほども口の利けぬ男だった。そして教会に対する掟破りの迫害を再開した。
 そのころ、彗星が現れた。それは二つの輝く月が一つにまとまったかのような形をしており、後で再び二つに分かれて様々な形になった。それはまるで、首のない男の乗り物を表象しているようだった。そして神から憎まれたこの男の治世に、大地震や飢饉、干ばつや猛暑が起きた。
 さて(皇帝は)彼と同様の心根と性質をもった、かの忌まわしい異端の創始者*6レオン3世(在位717-741年)。を模倣して、異端(イコノクラスム)を再開した。そして自らと同じ心を持つ聖職者を探し求め、グラマティコスのヨハネス〜むしろヤンネス、あるいはシモンである〜を見いだした。彼は皿占いや魔術、破廉恥な行為を公然と行っていた。さらに(皇帝は)他にも彼と同じ心を持つ人々を探しだした。
 さて(皇帝は)高名なる総主教ニケフォロス(212)や、彼に賛同する主教たちを呼び、元老院で対面してこう言った。「イコンを崇拝すべきではない、と主張する人々が再び現れたということを、汝らはよく知っているだろう。」だがすぐにサルディス主教のエウテュミオスが聖書を引用して反論し、犯罪者の邪魔をした。さらに彼の後に、正統信仰の熱き戦士である、ストゥディオン修道院のヘグメノスであるテオドロスがこう言った。「皇帝陛下、教会の秩序を荒立ててはなりません。なぜなら陛下に託されているのは、国家の秩序と戦争に関することなのです。どうかそういったことに専念し、教会が正統信仰にとどまることをお認め下さい。」暴君は彼らの言葉を聞いて激怒し、猿のような男は獅子のように叫んで、すべての者たちを暴虐に追い出した。そして大ニケフォロスを首都から追放して幽閉し、同様にストゥディオンのテオドロスも追放した。そしてテオドトス=カシテラスを総主教に昇格させた。さらに怒りや心からの悪だくみを、他の心を同じくする聖職者たちにも注ぎ込み、自らの傲慢さを信頼した。皇帝の傍らに仕えていた人々にも、皇帝によって提示された3条件を支持し、皇帝に黙従した。すなわち我々の正統信仰の拒否、聖なるイコンの撤去、そして信心深き人々の弾圧である。軽薄な人々がこうした詐術に乗せられ、不幸な者が哀れなる情動に突き動かされ、まず教会に置かれていた全ての聖遺物を取り去った。そしてそれから、キリストや他の聖人のイコンの所持が発見されると、その人は悲惨なる拷問を受けたり処刑された。多くの高貴な人々や名高き人々も殺された。また同様に、数えきれない修道士たちが死に追いやられた。
 (213)それから、エクスクビタイのタグマを率いていたミカエルが、謀反を企てているとして皇帝に非難された。(皇帝は)彼を投獄して足かせをはめ、監視した。救世主の誕生日だったので、夜に彼を殺そうと考えた。しかし彼の皇妃に祝祭を理由に止められて、阻止された。一方ミカエルは牢獄にいたが、そのことを知ると、彼とともに企てに参加していた全ての人々に対して、「もしおまえたちが私を急いで牢獄から開放しなければ、おまえたち全員のことを皇帝に暴露するぞ。」と伝えた。彼らの共犯者の中には、ミカエルの一族である宮廷のパピアス*7宮廷内の雑務を行う小役人。もいた。それで彼らは夜になって準備を行った。彼らは身中に剣を携えていた。そしてパピアスが(宮廷の)扉を開けた、フェロニオン*8フェノリオン。聖職者のローブ。を着用して聖職者のふりをして、中に入った。皇帝が(宮殿内の)教会に入ると、彼らは皇帝を襲撃して殺し、ばらばらに切り刻み、彼の不信心なる魂を宮殿内で粉砕した。彼に先行するいかなる皇帝といえども、宮殿内で殺されてはいない。同じころ、牢獄へ向かった者たちはミカエルを解放し、足かせの代わりに冠を着けさせて典礼に連れ出し、詩編の言葉が彼(ミカエル)によって実現したと言い立てた。「夜は夜もすがら泣き叫んでも、朝とともに喜びが来る。」(『詩編』30.5)
 それから不信心者の四肢を安物のボロ裂で包み、彼の汚らわしい死体を小舟に乗せて(214)プロテという名の島へ運び出して埋葬した。またそこで彼の子らを剃髪して修道士にした。

《アモリオン出身のミカエル》(ミカエル2世、在位820-829年)

 アモリオン出身のミカエルは8年と9カ月間統治を行った。彼はしばらくの間は悪事に屈するのを控え、牢獄にいたり、苦しんだり、追放されていた人々に赦免や減刑といった夢のような措置をとっていたのだが、邪悪な前任者の神からも憎まれた考えに身を燃やすようになった。というのも彼もまた恐るべき異端の釣り針に、最高の愚かさと無教養ゆえに引っかかってしまったからである。それから皇帝は謁見の際にこう言った。「我々以前に教会法を探求していた人々は、良きことを述べていようと悪しきことを述べていようと、それに関連する言葉を諸教義から集めていた。しかしながら我々は、教会が歩んできたものの中に見いだし、その中で守ってきたものから選びだしていく。」
 彼にはエウフロシュネ*1コンスタンティノス6世(在位780-797年)の娘。修道院に入っていたが、ミカエル2世の即位後にミカエル2世と結婚した。なお、実際にはテオフィロスはエウフロシュネの実子ではない。の生んだ子であるテオフィロスがいたが、彼を大教会*2聖ソフィア教会。で戴冠した。
 その頃反逆者トマスがアナトリコン地方から出発し、乞食のような者たちやさまざまな人々を(215)引き連れ、不当にも帝国の纂奪のためにビュザンティオンに向かった。彼は生まれが低く、卑しい男だったため、ローマ帝国の領域から出てシリア地方へと向かい、女帝エイレーネーの子のコンスタンティノス(6世)と自称していた。そのため野蛮人やキリスト教徒の中の多くの者たちをだまして、多くの人々を集めてコンスタンティノープルへ接近した。彼は軍勢の多さに慢心し、「この大軍があれば皇帝の命も長くはない」と考えて熟慮を怠った。そしてそれから1年にわたってコンスタンティノープルを攻囲した。しかし市民たちは勇敢に防衛して城壁や海上で戦闘を繰り広げた。すなわち多くの船団を焼き尽くし、敵の精鋭を打ち破ったのである。そこで(トマスは)攻囲に疲弊したので、首都を離れてトラキアへ退き、その地を略奪した。それでミカエルは首都から大軍を率いて出撃し、彼を攻撃した。そしてすぐに包囲して容易に彼をとらえ、彼の両手足を切断して串刺しの刑にした。こうして、トマスによって始められ、続けられた3年間の苦しい内戦が終息した。
 ミカエルが反逆者トマスへの対応に忙殺され、そして彼に関心を集中させたために、他の全てのことがなおざりになってしまった。そのためクレタとシケリア*3シチリア島。、そしていわゆるキクラデス諸島がローマ人の支配から脱落し、アフリカから来たアラブ人が支配権を奪取した。それはひとえに、人々の罪と支配者たちの不信心ゆえの屈辱である。こうしてキリスト教徒に関することが、彼らの手に委ねられることになった。
 このようなことが起き、このような状態に陥ったころ、ミカエルは排尿困難および(216)腎臓の激痛のため、この世を去った。彼に代わって彼の息子のテオフィロスが、母親のエウフロシュネとともに統治を引き継いだ。

レオン5世

*1:原文はparabates。「逸脱者、背教者」の他に、「戦士」と読むことも可能な単語。
*2:ブルガリア王。811年にブルガリアに侵入して来たニケフォロス1世(在位802-811年)を敗死させた後、コンスタンティノープル近郊にまで迫ってきていた。
*3:当時のトラキア地方の中心都市で、現在のエディルネ。
*4:コンスタンティノープル郊外にあった離宮。競馬場もあった。
*5:ドナウ川。
*6:レオン3世(在位717-741年)。
*7:宮廷内の雑務を行う小役人。
*8:フェノリオン。聖職者のローブ。

ミカエル2世

*1:コンスタンティノス6世(在位780-797年)の娘。修道院に入っていたが、ミカエル2世の即位後にミカエル2世と結婚した。なお、実際にはテオフィロスはエウフロシュネの実子ではない。
*2:聖ソフィア教会。
*3:シチリア島。

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