『テオファネス年代記』

凡例

  1. 原本(Theophanes Confessor, Chronographia, München, 1883-5)のページ数を黄字で示しています。
  2. は最小限のものに限定してあります。
  3. この試訳の無断引用等は堅くお断りいたします

(486) この年、ニケフォロスは不名誉な撤収ののち、軍をあらゆる点でおとしめようと考えて、全てのテマのキリスト教徒に、財産を売却してスクラヴィニア*1へと移住するよう命じた。これは敵の捕虜になることと変わりのないことであった。それゆえ多くの人々は愚かさをののしり、敵からの攻撃に遭うように願った。またある者たちは先祖代々の墓の前にぬかづき、死を祝福した。さらに苦難を逃れるために死を選ぶ者もあった。それは父祖たちが働いて獲得した財産の喪失を知っていたからである。こうした困難は全ての人々にふりかかるものであった。すなわち貧民たちはこうしたことや次に述べることによって、また富裕な者たちもまた彼らと同様に、救われることなくより厳しい運命におののいていたのだ。この政策は9月に始められ、復活祭まで続けられた。*2
 彼による第2の悪行として、皇帝は貧民も徴兵し、同じ村落の者たちが(その貧民のために)彼の分の税金の共同保障に加えて18.5ノミスマタを国庫に支払って(彼を)武装させるように命じた。
 第3の悪行として、すべての人の(財産を)再調査してその税率を引き上げた。その際に手数料(カルティアティコン)として一人当たり2ケラティア*3徴収した。
 第4に、すべて減税されていたものを再増税するよう命じた。*4
 第5に、孤児院や病院、養老院、教会、皇帝の修道院といった慈善施設の小作人たちから、(487)彼の治世の初年度にさかのぼって炉辺税(カプニコン)を徴収することにした。またこの時財産の中のより良い部分が皇帝の直領地に編入されたのにもかかわらず、税は残された慈善施設の財産や小作人たちに課税されることになった。そのため、居住地や農地が狭くなったのにもかかわらず、彼らの税金は倍増した。
 第6に、貧困状態から突然脱却した人々をストラテーゴスたちに調査させ、宝を発見したとして代価を要求した。
 第7に、20年前から現在までに瓶や容器を発見した人全員から金を奪った。
 第8に、過去20年間に祖父や父親たちから財産を分割相続した貧民たちから国庫に納税させることにした。それからアビュドス*5以外、特にドデカネソス諸島方面で購入された家内奴隷に対して、一人当たり2ノミスマタ徴収するように命じた。
 第9に、特に小アジアの、沿岸部に居住している者たちに対して、彼らは船乗りで、土地を耕作して生活したことがないにもかかわらず、皇帝によって勝手に算出された価格で強制的に、皇帝が没収した土地を購入させた。*6
 第10に、コンスタンティノープルで良く知られていた船乗りたちを集めて、彼らに1ノミスマあたり4ケラティアの利息で金12リトラを貸しつけた。*7またそのうえに商業税(コメルキア)も従前通り徴収した。

*1:「スラヴ人の土地」の意味。7世紀以降バルカン半島の大半はスラヴ人が居住し、ビザンツ帝国の実効支配の領域外となった。
*2:この事件に関しては『モネンバシア年代記』も参照。
*3:24ケラティアが1ノミスマ。72ノミスマタが1リトラとなる。
*4:これは一般に、先任者のエイレーネー(在位797-802年)が行っていた免税・減税措置の撤回と解釈されている。
*5:アビュドスはマルマラ海に面した港町。エーゲ海方面から入ってくる物産の交易拠点。この時期奴隷の利用は限定的だったため、家内奴隷はぜいたく品と見なされて課税されたと考えられる。
*6:船乗りの生活が不安定だったため、彼らの生活基盤の安定のために行われたと考えられている。後にコンスタンティノス7世(在位913-959年)も同様の法律を発布している。
*7:ここでは、皇帝が高利貸を行うことが主に非難されていると考えられる。

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