『続テオファネス年代記(バシレイオス1世伝)』(第2・3章)

凡例

  1. 原本(Ihor Ševčenko (ed.), Chronographiae quae Theophanis Continuati nomine fertur Liber quo Vita Basilii Imperatoris amplectitur, Berlin, 2011)のページ数を青字で示しています。(テキストが英語との対訳となっているため、偶数ページのみです)
  2. 読みやすくするため、適宜改行しています。
  3. は最小限のものに限定してあります。
  4. この試訳の無断引用等は堅くお断りいたします

(10)2 さて、この著作が今から明らかにしていくように、バシレイオス帝はマケドニアの地の出身であるが、またアルメニア、アルサケス一門の出である。(12)というのも、パルティア人の支配者であったかつてのアルサケスは、栄誉と美徳の点で抜きんでていたため、その法はその後の世代にも受け継がれ、パルティア人もアルメニア人も、そしてメディア人も、アルサケス一門とその子孫以外から王を得ようとはしなかった。*1古代のアルメニア王国の王家は、パルティア王家(アルサケス家)の分家であった(アルシャクニ家)。これは、バシレイオス1世の出自を高く見せかけるために、バシレイオス1世がアルメニア系であることを利用して作られた創作である。実際にはバシレイオス1世の両親以前のことはほとんど何もわからない。
 こうしてこれらの諸国ではこの一族によって王位が受け継がれてきたのだが、ある時アルメニア人を支配していた人物が世を去り、王位とその領土の継承をめぐって内紛が生じた*2実際にはアルメニア王国は387年にローマ帝国とササン朝ペルシアによって分割され、ローマ側では390年、ペルシア側では428年に王国が廃止されている。。その時アルタバネス*3ユスティニアヌス1世時代に活躍したアルサケス家出身の人物として、アルタバネスという人物がいる。とクリエネスは、先祖伝来の領土から追われただけでなく、生命をも危機に陥ったため、帝都コンスタンティノープルにやってきた。当時ローマ帝国の皇帝だったのはゼノンの義父のレオン大帝*4レオ1世(在位457-474年)。であった。彼はこの者たちを受け入れ、彼らの生まれの良さにふさわしい待遇をして、彼らにふさわしい邸宅と生活の場を首都で与えた。しかし彼らが祖国から逃げ出して首都に逃亡し、また逃亡先の支配者たちによって厚遇されていることを知ると、ペルシアの当時の支配者は彼らを呼び戻そうとして手紙を送り、彼らを祖国の支配者に擁立すると好意的なふりをして約束した。そしてそれによって、(アルメニアの)人々の従属を得ようとしたのである。彼らはその手紙を受け取ると、どうするかよく考えた末、自分たちの家来を通じてそれを皇帝に知らせ、手紙も渡した。
 事態―すなわち、ペルシア人が彼らを招き入れることによって、領土にとどまらず住民たちまでも自らの支配下におこうとしており、そしてそれは招かれているこの者たちにもローマ人にも有益ではないことであった―が明らかになると、ペルシア人の策謀を実行できないように策が練られた。そのために皇帝は、彼らが機会を見て逃亡する可能性を断ち切る(14)ため、より広くて安全な地所であるという口実を作って、彼らを妻子—彼女たちは後になって彼らのところにこっそりやって来たのである—とともにマケドニアのニケ市*5アドリアノープル(エディルネ)の南東にある都市。現在のハウサ。に移住させた。
 それから時が経ち、サラセン人がより大きな力を持つようになると、時のエミール(カリフ)が同様の試みをかつてのアルサケス家の子孫たちに対しておこない、手紙を送って彼らを父祖の領土と権力に呼び戻そうとした。だがこの行為も時の皇帝であったヘラクレイオスの知るところとなり、この手紙も彼の手に渡ることになった。皇帝には、彼らへの好意ゆえに(彼らを)呼び寄せようとしているのではなく、(併合に向けての)準備をしているその地を自分たちの支配領域に併合する意図からであることがわかっていた―なぜならサラセン人は、旧アルサケス一門への好意ゆえに、彼らを味方に引き入れればたやすく(アルメニアの)人々を制圧できるだろうと考えていたからである。それゆえ皇帝はマケドニアにある別の都市であるフィリピ*6マケドニア東部にある都市。現在のカヴァラ市の北北西にあった。へ、より安全な場所であるとして彼らを再び移住させた。さらにそこから、より良い環境であるという理由をつけてアドリアノープルへ移住させた。その地は彼らにふさわしい場所であったので、一族郎党が集結した。そして人数も多くなり、充分に裕福にもなったが、父祖以来の育ちの良さや一族の無垢さは保持された。

(16)3 その後、コンスタンティノス*7コンスタンティノス6世(在位780-797年)。がその母のエイレーネーとともに帝国を統治していた頃、アルサケス一門の血を引くマイクテスなる男が、使者としてあるいは用事があって、賞賛すべき町コンスタンティノープルにやってきた。彼はたまたま、同族のレオンという人物と出くわした。そして外見と身なりから、彼が身分の低い平民ではなく育ちのよい名の知れた人物であると考え、彼と交際を始め、親しくなった。それから彼の家柄を調べてアドリアノープルにまとまって住んでいるアルサケス一門のことを知るに及んで*8この付近の箇所では、新校訂本には旧校訂本(Theophanes Continuatus, Chronographia, Bonn, 1838)になかった文や語句が追加されている。、彼はこの人物の美徳ゆえに自らの故郷ではなく他の地(アドリアノープル)を選んだ。そしてこの人物の娘の中の1人と結婚してその婿となった。
 この夫婦から、この物語の主役(バシレイオス)の父親が産まれた。彼は見事に成長し、良き鍛練と教育を受けて成人となった。彼は健康な肉体と体力を持ち、あらゆる種類の美徳を持った人物となったので、彼と婚姻関係を結んで親密になりたいと、たくさんの人々が考えるようになっていた。一方、アドリアノープルには生まれのよく、身持ちの良い女性が住んでいた。彼女は自分の夫が死んでからも未亡人として節度ある生活を送っていた―全く根拠がないというわけではない噂によると、彼女はコンスタンティヌス大帝の血を引く一族の出であるという。それゆえ彼も彼女のことを、近くに住む人々の中で(亡失)他の人々よりも尊敬するに足る人物と考えていた。そしてそれゆえに、育ちと美しい身体、そして慎み深さの点で抜きん出ていた彼女の娘(18)と結婚したのである。この夫婦から、皇帝家の根幹となるバシレイオスが生まれた。これまで述べてきたように、彼は父方ではアルサケス一門であった。また母方ではコンスタンティヌス大帝の子孫であることを誇示し、さらに(母方の)別の祖先として高い名声を持つアレクサンドロス大王をも誇ることができた。こういった祖先たちの子孫であるバシレイオスは、その後の栄光を表象する多くの証しをすぐに示すようになった―すなわち、髪が最初に伸びてきた時に頭に見ることのできた緋色のヘッドバンドであり、また紫色に染められた産着である。

*1:古代のアルメニア王国の王家は、パルティア王家(アルサケス家)の分家であった(アルシャクニ家)。これは、バシレイオス1世の出自を高く見せかけるために、バシレイオス1世がアルメニア系であることを利用して作られた創作である。実際にはバシレイオス1世の両親以前のことはほとんど何もわからない。
*2:実際にはアルメニア王国は387年にローマ帝国とササン朝ペルシアによって分割され、ローマ側では390年、ペルシア側では428年に王国が廃止されている。
*3:ユスティニアヌス1世時代に活躍したアルサケス家出身の人物として、アルタバネスという人物がいる。
*4:レオ1世(在位457-474年)。
*5:アドリアノープル(エディルネ)の南東にある都市。現在のハウサ。
*6:マケドニア東部にある都市。現在のカヴァラ市の北北西にあった。
*7:コンスタンティノス6世(在位780-797年)。
*8:この付近の箇所では、新校訂本には旧校訂本(Theophanes Continuatus, Chronographia, Bonn, 1838)になかった文や語句が追加されている。

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