Training of Social Workers:

COSによるソーシャルワーカーの教育プランの起源は、Mrs Dunn Gardnerによる1894年11月26日の評議会での報告("The Training of Volunteers")にあると言われている。報告のなかで彼女はボランティアワーカーのトレーニングが地区委員会の主要な職務と責務の一つであるとした。トレーニングと救援活動は外在的な関係にあるのではない。救援活動は、貧困層の生活条件改善に必要な層の人々を組織化する唯一の手段でもあり、それ自体がトレーニングとしての性格をもつ。地区委員会が一つ一つの事例を細心の注意力を払って処理すれば、そのケースが最善の教材になる。新しいワーカーたちは、こうした観点から、委員会の活動に関心をもつことが必要であり、その中で責務感覚を培われることが必要である。新しいワーカーは日常業務の全般を学び、手紙の返信を作成し、ケースペーパーを探し出し、かつ自分でケースペーパーを書かなければならない。また、新しいワーカーは専従幹事(Secretary)の職務を知り、将来この職責を担うことができるようにならなければならない。読書もまたトレーニングの一環である。しかし、この報告のなかで、とくに強調されているのは、「実務経験を通じたトレーニング」であった。

Gardnerの報告のあと、1896年度の年次報告(第28回)には「ワーカーの教育」と題された長いセクションが登場する。「ワーカーのトレーニングもしくは教育は年々、本協会の中で重要性を増しつつある」。有能なボランティアの確保は協会内の問題に留まらない。「規則性の欠如した救援活動が有害無益であることが認識されるにつれて、質の高い救援方法を学びたいという要求が増大しつつある」。年次報告によると、トレーニング需要には次の四つのタイプがある。第一は「フィランスロピへの好奇心をもつ層」、第二は「善意の慈善家」、第三は「教会その他の慈善団体の活動家」、第四は「小さな集団ではあるが慈善組織化協会の指導者となる層」である。そして、トレーニング担当の専門職員の配置の必要性が指摘されている。地区委員会の中にもこの指摘に呼応する動きがみられた。ホルボーン地区委員会はすでに「10人のジェントルマンとレディ」をトレーニング業務に投入していた。また、地方の慈善組織化協会では、数週間の日程でワーカーをロンドン協会で研修させる動きをみせはじめた。

1897年5月に評議会は「トレーニング委員会」を発足させ、その第一次答申が1898年12月に採択されている。この答申は、トレーニングを、(1)僧侶、地域訪問活動家、その他あらゆる種類の他団体のワーカーの「改宗」を促すもの、(2)協会の幹部候補生の育成をはかるものの二種類に分け、後者の重要性を強調した。それは「近年における本協会のケースワークの増大」によって生まれはじめた危険性に促された指摘でもあった。これは、新たに参加したワーカーが救援活動そのものに限定された知識しかもつことができず、慈善組織化協会が依拠する原則が十分に理解されない事態を指している。「ケースワークは組織化の手段であること、個々の救援よりも貧困集団総体の改善がより高い目標であること」が理解されなければならない。いずれも、1894年のGardner報告の線に沿った指摘である。

このようにしてCOSは次第にトレーニングの理論を発展させていくことになる。新たな参加者に、地区委員会の古参ワーカーが協会の原則と方法を徹底的に印象づけることに重点がおかれた。地区委員会の専従幹事候補者は、協会主催の連続講義などに参加することが要請され、各施設の訪問が義務づけられた。成績優秀者は一定の期間、中央事務局で研修をうけた。

トレーニングの制度化は、1901年に次の段階を迎えることになる。この年、「社会教育特別委員会」が発足する。これは、従来から行なわれてきた大学による公開講義実行委員会(Joint Committee on Lectures)の事実上の改組であり、メンバーはほぼ留任という形をとった。この委員会の目的は、(1)家族の重要性と(2)個人的自助の二つの原則による「社会教育の組織化」をはかることである。委員会が全国の地区委員会に送付した通達の成果の一つが、1904年に発足したリヴァプールの「社会科学スクール(School of Social Science)」である。その推進者はリヴァプール大学のE. C. K.Gonner教授、ヴィクトリア・セツルメント、救援センター、COSである。

ロンドンでも同様の動きがみられた。1902年10月に「社会教育特別委員会」はカンファレンスを開催している。開会講演を行なったのはAlfred Marshallである("Economic Teaching at the Universities in Relation to Public Well-Being")。ここでは、大学教育と実務的トレーニングの結合の可能性が論じられた。主催者である委員会は、モラルサイエンス、歴史、経済学などの大学教育科目と信託事業との結合可能性に関して、ペーパーを準備し、シラバスの概要が提案されている。1908年6月8日に報告書が提出された。その中では、大学にソーシャルワーク関連のコースを設置する必要性が論じられている。LSEの名前があがっているが、これは退けられた。その理由は、LSEのコースには「社会的、倫理的」側面が欠落していること、また、「一つの思想学派」の強い影響下にあることだとされている。報告は、大学における既存の教育コースが「社会問題との実務的関連性」を欠落させていることを指摘した。具体的な提案としては、E.J.Urwickが作成した二年間の教育コースがあげられている。これは、実務的訓練を原則、経済学、社会構造の理論とむすびつけたものであり、第二年次の科目としては救貧法史、国家理論、保健衛生実習、教育学、身心病理学、政治経済学などが配置されている。また、これとは別のプランも掲載されている。これはRev. C.F.Rogersnよるもので、労働・産業・経済の学習を柱として、第二年次には家族、子供、成人、女性、高齢者の諸問題について学ぶというものである。また、Miss Sewellは3ヶ月間のCOS地区委員会での実習を提案した。その他に、慈善活動家、新たに赴任した牧師、救貧扶助官を対象とする短期講座も提案された。

こうした議論をもとに、1903年10月、「社会学スクール(School of Sociology)」が発足した。これもまたCOSと強い関係をもちながら生まれた組織である。ただし、その後の行跡はCOSにとってはやや悲劇的である。社会学スクールは社会教育特別委員会が設置したものではあるが、この委員会自身が評議会の決定をうけてCOSと組織的には切り離されることになった。もっとも、COSの本部がデニソンハウスへ移ったときに、社会学スクールもそこにいくつかのスペースを確保した。その後、財政的な困難から社会学スクールは、皮肉なことにLSEに吸収されることになった(1912年)。カンファレンス報告の中で指摘されている「一つの思想学派」とは、いうまでもなくフェビアン主義のことである。1912年当時のLSEからフェビアン主義と左翼の影響力が一掃されていたわけではない。Helen Bosanquetは、この「悲劇」にごく簡単に触れて次のように書き残している。

"Like all pioneer work it was attended with difficulties, especially in the way of raising funds; and in 1912 it was thought well to place it on a firmer basis by incorporating it with the London School of Economics, which was in possession of large grants from the Government. The fundamental principle of the School, that of combining practical work with the teaching, was safeguarded in the new arrangements, and Professor Urwick was secured in his position as Director"[SW 405].