Unemployed Wrokmen Act of 1905:

社会立法と国家介入の進展は、必ずしもCOSにとって絶望的な状況をもたらしたわけではない。とくに20世紀初頭の社会立法には、むしろボランタリワーカーの存在を認知するだけではなく、これとの協動を前提にしたものが少なくない。1906年のEducation (Provision of Meals) Actの下で、LCCはChildren's Care Committeeを組織した(1907年)。これはボランティアベースの組織である。また、同じ年のSkilled Apprenticeship Committeeもまた同様の構成をとっていた。COSもまたこれらの組織と協動している(もっとも学校給食の導入に反対していたCOSとしては、この協動がつねに望ましいものではなかったが)。

1905年のUnemployed Workmen Actもそうしたボランティアとの協動を前提とした社会立法の一つである。この法制は社会主義的な側面と個人主義的な側面をともにもっている。ことに、その個人主義的な側面は、そのインプレメンテーションをチャリティに依拠していたことに現われている。その目的は、救貧法制の枠外で失業者救済を行なうこと、すなわち選挙権剥奪を伴わない公的扶助を実現することにあった。この目的のために、ロンドンにはCentral Unemployed BodyならびにDistress Committeeが、地方都市にはDistress Committeeが設置された。Distress Committeeを構成していたのは、市会議員、地方救貧法委員、救援活動経験者(すなわちチャリティ団体の代表)である(ベヴァリッジは、のちにこの法律の失敗を、Committeeの中に地方救貧法委員を含めたことと、Committeeの名称そのものにあったと指摘している。この法による救援が救貧法のイメージと重なり合い、思わぬところで「抑止効果」が働いてしまったからである)。

困窮委員会(Distress Committee)は税源による予算をもっていたが、これは労働登録制度(Labour Register)の運用と労働力移動のための移住支援にあてられた。ただし、これらの活動は概して低調だった。救援雇用のための資金は慈善基金と地方自治体から支出された(もっとも1906年以後は議会の決議で地方行政庁に特別補助が行なわれるようになった)。ロンドン中央失業機関はホレズリーベイにファームコロニーを開設している。その他に、道路舗装、下水清掃などの通常の救援雇用が多くの自治体によって行なわれた。したがって、この政策は1886年のチャンバレン通達の線にそったものだったといえる。

このようにUWAはチャリティ団体・基金の参加を前提にした法制であったが、COSは「救援雇用」の観念それ自体に批判的だったこともあり、この法には概して懐疑的な態度をとった。救援雇用は良質な労働者にとっても劣等な労働者にとっても害悪である。救援雇用は良質な労働者のスキルを摩滅させ、「悪い集団」の中に放り込むことになる。救援雇用は劣等な労働者に先見の明のない生活スタイルを促すことになる。とはいえ、COSはUWAに関して何もしなかったわけではない。1905年から1906年の冬期にCOSはウェストハムの困窮委員会と協力して調査を行なっている。この調査では、4,199人が検証された。そのうちの56.2%が救援価値があるとみなされる集団であり、43.8%はその価値がないと判断された(労働しない、できない、意志がない集団が19.8%であり、24%はその他となっている)。しかし、救援価値があるとみなされた2,359名の申請者のうち、実際に仕事を与えられたのはごく少数だった。