研究室の窓から

新任教員インタヴュー:滝沢直宏先生

2013年4月に言語教育情報研究科に着任した滝沢直宏(たきざわなおひろ)教授にインタヴューしました。(以下、「言語研」とあるのは「言語教育情報研究科」の略称です。)

先生は、イリノイ大学言語学科で言語学の Ph.D.を取得され、イリノイ大学客員講師を皮切りに、名古屋大学の専任講師、助教授、教授を経て、2013年4月に本研究科に着任されました。2007年度から6年間は、本研究科での夏期集中講義も担当されていました。名古屋大学時代には、コロンビア大学客員教授、台湾の諸大学の客員教授なども歴任しています。まだ2年目ですが、とても demanding(要求度の高い)な授業をされているとの評判が既にあるようです・・・。

Q:ご専門についてお教え下さい。

 英語学です。English Linguistics のように英語名の方が分かりやすいかもしれません。英語名の方が情報量が多いからです。English Linguistics の意味は「英語言語学」でも良いのですが、より分かりやすく言うと「英語を対象にした言語学」ということになります。「英語学」というよりも長くなりますが、その分、その意図が伝わり易くなっていると思います。「英語を対象にした言語学」というのは、結局のところ、英語学は言語学の一部と言えます。

 この言語学という学問は、基礎的な学問です。「基礎的」というのは、何かに応用しようということを意図せずその対象自体の性質を探ろうとする学問です。例えば、英語学は、英語教育に役立つことをその目的とはしません。結果的に役に立つことは多々あるのですが、役立たせようと思って研究しているわけではなく、英語という言語の特徴を探ろうというのが本来の目的であるといって良いでしょう。

 英語というのは、多くの人間言語のうちの一つなので、「これこそ英語の特徴だ」と思ったものが実は日本語やフランス語にも見られるということもありえます。そうなると、もはや英語の特徴とは言えなくなります。ですので、英語の特徴を捉えようとすれば、必然的に他の言語にも目を向ける必要が出てきます。私の場合は、母語が日本語ですから、日本語に関心を向け、それと対比させながら英語について考えるということになります。更に、第2外国語のフランス語との対比も念頭にあります。英語と日本語は、「人間言語」という点では共通していますが、赤の他人で系統的に何のつながりもありません。一方、英語とフランス語は、従兄弟同士というかなり近い親族なので、似ていて当たり前です。「人間言語」という点以外には似ているはずがない日本語と、似ていて当然のフランス語を両方とも念頭において、英語の個別性に関心を寄せているということになります。「人間言語」から人間言語の「普遍的特徴」を引き算して残るGenius of the English language に関心があると言って良いと思っています。

 もう少し具体的に私の関心事をいうと、2つあります。一つは「言語の慣習的側面を捉える」という課題で、コロケーションやパターンに代表される語と語の慣習的な結び付きを探り、英語話者が知らず知らずのうちに使っている言語表現を捉えようとしています。この課題は、かなり直接的に英語教育にも役立つ面があるのではないかと思っています。もう一つは「周辺的言語現象を捉える」という課題です。どんなに分厚い文法書にも未だ記載されていないような文法現象について、理論的観点も交えて探究しています。

 両者には、共通性があります。慣習的側面や言語の周辺部を捉えようとすると、どうしても巨大なデータベースが必要になるという点です。コーパス(corpus)と呼ばれる言語資料です。これは電子化されていますので、コンピュータでの検索が可能です。これを使うことは、慣習的側面と周辺部の研究に大いに役立ちます。

 こうした言語の側面に関心があるので、コーパスを道具として使っているということですね。

Q:ご専門は「コーパス言語学」だとお聞きしたのですが、違うのですか?

 辞書をひかない日はあっても、コーパスを使わない日はないというくらいにコーパスを使っていますが、「コーパス言語学」という分野を研究しているつもりは私自身にはありません。まあ、あまり名称に拘っても仕方ないのですが、この名称、私には少々不思議な命名に思えてなりません。「コーパス」は言語を研究する道具の重要な一つですが、あくまで道具です。院生によく言っているのは、「コーパスは、研究の道具様であらせられるのでもなく、また、道具に過ぎないのでもなく、道具であってそれ以上でもそれ以下でもない」ということです。「道具」だから価値があるとかないとか、ということではなく、コーパスを活かした方が推進し易くなるような研究をしている限りは、それを大いに利用しましょう、ということに尽きます。

 「コーパス言語学」という名称は、道具である「コーパス」と学問名である「言語学」を結び付けているという点で、奇異に感じています。「望遠鏡天文学」、「顕微鏡生物学」という言い方はないと思いますが、それと同様です。

 コーパスを使って、生成文法の枠組みで研究している人もいます。認知言語学の人もいます。辞書学の人もいます。文体論の人もいます。英語教育学の人、応用言語学の人もいます。分野は全く別なわけですが、道具が共通しているからといって「皆、コーパス言語学者だよね」というわけにはいかないと思うわけです。同じく「「コーパス言語学」をやっています」という人たちであっても、コーパスを使っているという点を除くと共通点が見られるとは限らないわけです。研究目的や言語観、言語学観などもまちまちです。

 「コーパス言語学」という名称に違和感を感じる理由がもう一つあります。上に書いたことと無関係ではありませんが、「コーパス言語学」の定義が人によってまちまちであるということです。「コーパス言語学」には、生成文法におけるチョムスキー、認知言語学におけるラネカー、レイコフのようないわば「創始者」がいるわけではありません。だから、言う人によって定義さえ異なります。加えて、チョムスキーが生成文法を樹立するにあたって続々と出版した書籍(Aspects of the Theory of Syntax など)やラネカーの Foundations of Cognitive Grammar のような、その分野の人であれば誰でも精読するような本が、「コーパス言語学」の場合には挙げにくいということもあります。

 私は、コーパスの価値は100%認めており、言語研究において使うことも重要だと信じていますが、「コーパス言語学」をやっているという意識がないのは、こうした理由によります。

Q:担当されているコーパス関連の授業には、どのようなものがありますか?

 コーパス関連では、前期に「言語記述方法論」という名前の授業を担当しています。ここでは、言語を記述する際に用いうる種々の道具・手段を紹介し、コーパスもそのうちの一つとして位置付けています(教科書は自作です)。コーパス以外の道具・手段としては、まずは母語話者の内省判断に基づく報告、そして、いつの時代にも重要な紙とカードによる例文収集、刺激に対する反応時間の測定、非侵襲的脳観測などです。授業ではまず、それぞれの道具・手段がもつ長所・短所・特徴を考えます。

 その後は、コーパスに焦点をあて、テキストエディターを使って、テキスト処理の初歩を扱います。中でも「正規表現(regular expressions)」の習得に多くの時間を使っています。コーパスを使っている人は最近多くなってきていますが、「正規表現」を駆使してコーパスを用いている人はあまり多くないのではないかと思います。実際、初回の授業で院生に「コーパスという言葉を聞いたことがある人はどれくらいますか?」と聞くと、ほぼ全員が手を挙げます。しかし、「正規表現という言葉を聞いたことがある人は?」と尋ねると、10%くらいしか手を挙げません。また、その人たちの中でも、正規表現を複雑に組み合わせてコーパス検索に使っている人となると、一人もいないというのが現状です。正規表現を駆使すればコーパスから抽出できる情報は遥かに増えますので、この状況は、実にもったいないことだと思っています。

 具体例を挙げましょう。日本語に「聞くとはなしに聞いてしまった」のような表現があります。このパターンに現れる動詞には、「聞く」以外にどんなものがあるでしょうか。直観では「見る」が思いつく程度でしょう(「見るとはなしに見てしまった」)。しかし、実際の日本語ではどうなのか。実際、以前、言語研で教えた院生で現在、日本語を教えている方から、このパターンに現れる動詞が何かをコーパスで調べることはできますか、と質問されたことがあります。正規表現を使えば、こうした疑問にも答えることができます。品詞解析その他の処理も必要なので「正規表現」だけでできるというものではありませんが、「正規表現」無しで行うことはできません。

 前期の「言語記述方法論」では、「正規表現」の習得、そして英語・日本語の語法・文法上の様々な問題を「正規表現」を駆使して解明する方法に全体の3分の2ほどの時間を使います。前期では「正規表現」を駆使できるようにして、後期の授業へとつなげていきます。

 後期のコーパス系の授業は「コーパスを用いた英語の分析演習」と「コーパスを用いた日本語の分析演習」です。前期は日英語を同時に扱いますが、後期は、日本語と英語に分かれて授業をしています。前期は「正規表現」に集中できるようにするために Windows マシンで、マウスを使って作業しますが、後期は、コーパスを載せている Linux マシン上で、コマンドラインから命令を入力して処理をするという方法をとっています。Linux サーバーを利用するには Linux の基礎的なことを学ぶ必要があります。Linux については多くの参考書が市販されていますが、言語研でのコーパス利用に特化した教科書を自作して、受講生に配布しています。マウスを使うことなくコマンドラインから命令を入力して処理するのでちょっと敷居が高いですが、慣れればこの方法の方が作業しやすいはずです。

 私には、その能力はないのですが、できることなら Perl などのプログラミング言語の授業があって、院生たち自身が自分の研究目的に合ったプログラムをさっと書けるようになるといいな、と思っています。今の時代、単にコーパスを使うというだけでは「売り」にはできません。誰でも当たり前に使っているからです。しかし、言語学的なことも踏まえ、正規表現も駆使でき、更にプログラミングまでできるとなると、「売り」になると思うわけです。今後、折に触れ、その実現に向けた努力をしたいと思っています。

 言語研の修了生には、「Linux マシン上で、正規表現を駆使したテキスト処理ができ、その技術を使って英語・日本語の言語学的研究ができる」ようになってほしいと思っています。

 もちろん、言語を研究する以上、コーパス云々の前に言語学、英語学、日本語学的な訓練は必要です。これなしでコーパスを使っては、かえって「危ない」と思っています。子供が劇薬を扱うようなもので、誤った結論に行き着く危険性が高いです。言語それ自体の性質を扱う他の授業も同時にとって貰い、「言語学+正規表現を駆使したテキスト処理」が良いと思っています。それもあって、私は、学部生には、コーパスを使った研究は薦めないという立場をとっていますし、実際、学部生対象にコーパスを教えたことはほとんどありません。

 既にお分かりの通り、私の授業では、コーパス分析に特化された優秀で使いやすいソフトを使うことはありません。この点は、私の授業の特徴かもしれません。それには理由があります。まず、誰かが作った「便利な」ソフトだと、そのソフトがどのような処理をして結果を出しているのかが分からず、途中段階がブラックボックスになってしまっていて、結果の正しさについての責任がもてないということがあります。今一つの理由は、そのソフトが想定していない処理を行うことができず、そうした処理を行おうとすると、結局、自分で段階を追って処理する必要が生じるので、それなら初めから自分でテキスト処理ができた方が良いということです。使い勝手の良いソフトがあるからと言って、それにばかり頼っていると、自分の目的に合った小回りの利いた処理を行う力がいつまで経っても身に付かず、応用力もつきません。どんなに高機能なコーパス分析用ソフトであっても、全ての要望を完璧に満たすものなど原理的にあり得ないわけですから、そうしたソフトにできるだけ頼らずに処理できる力を身に付けることが重要だと思っています。

 旅行に譬えて言えば、コーパス分析用ソフトを使った処理は団体旅行で、個人旅行ではないということです。団体旅行は、旅行会社が全ての段取りをつけてくれ、自分でものを考える必要はありません。添乗員の指示に従っていれば、観光、食事、宿泊などの一切を問題なく行うことができます。しかし、個人の勝手はほとんど認められません。(「自由時間もあるでしょ」という反論はしないで下さいね、あくまで譬え話なので。)この教会ではなくあの教会を訪ねたい、このレストランではなくあのレストランで食事をしたいといったことはできません。折角、京都に来たのだから、京料理ではなくフランス料理を食べたいと思う人(少々ひねくれていると思われるかもしれませんが実は京町家で食べるフランス料理は格別です!)がいても、それがコースに入っていない団体旅行では実現させることはできません。そうした個人の希望を実現させようと思ったら、個人旅行をせざるを得ないでしょう。切符の手配をし、訪ねるべき観光地を選定し、レストランを探し、ホテルを予約する、といったことを自分自身で行う必要があるわけです。一見、面倒に思えてもそれをしていれば、完全に自分の希望を生かした旅行が可能になります。コーパスは、団体旅行ではなく個人旅行を行うように使うべきだと思っています。それを行って初めて、かゆいところに手が届く細かな処理が可能になり、自分の研究目的に合致した利用が可能となるからです。

 できるだけ処理過程を透明にして、コーパス利用をすることは、言語研究上、とても重要なことだと思っています。(こうしたテキスト処理技術、正規表現を身につけておけば、言語研究のみならず、日常生活の様々な面で、とても役立ちます。routine化された仕事を機械処理する際にも役立ちます。)

 私のコーパス系の授業の特徴を言えば、以上のようになります。まとめると、

  1. 既存の便利なソフトを使うことなく、できるだけ自力でテキスト処理ができるようになる。
  2. 正規表現を駆使して、複雑なパターン検索ができるようになる。
  3. Linuxマシン上である程度のテキスト処理ができるようになる。
  4. 機械処理的な部分と言語学的側面を分離せず、有機的に関連をもたせてコーパスを処理できるようになる。

のようになると思います。

Q:コーパスは「便利」だと思うのですが、結構、色々なことを知らないといけないのですね?

 条件に合った例文を引っ張ってきたりできる点では、「便利」ですね。ですが、私は、コーパスは「便利ではあっても、不都合な道具」だと思っています。どんな仮説を立てようとも、反例が観察されてしまう可能性が、コーパスがなかった時代に比べ、格段に高まったからです。「コーパスを使うと、論文が書きにくくなる」という側面もあります。しかし、「論文を書くこと」自体というよりも、「きちんとした言語事実に基づいて研究すること」の方がはるかに重要だと思っています。業績が必要な若い人にとっては、こう理想論を言っていても仕方ないかもしれませんが。

 よく「コーパスがあると楽に研究できる」みたいにいう人がいますが、私は見解を異にしています。

 ついでに言いますと、IT時代だとか情報化だとか、そういうこととコーパスを結び付ける向きもありますが、私はむしろコーパスと古文書や古記録を結び付けて考えています。歴史の研究の資料として使われる古文書・古記録です。古文書・古記録は、誰か昔の人が書いた文書ですが、コーパスだって、誰かが書いた文書を集めているわけですから、その点では同じです。古文書・古記録との違いは、「コンピュータで検索できる」いうことで、それはそれで重要な相違点ですが、「誰かが過去に書いたもの」という点では同じです。

 コーパスを使って文法研究をするということは、誰かが過去に書いた文章を利用して文法研究をするということです。これは、20世紀前半のイェスペルセンなどの文法書だけではなく、大昔、コンスタンチノポリスで書かれた分厚いラテン語の文法書でも同じです。有名なプリスキアヌスのラテン文典『文法学教程』などは、いまでも入手できます。このように、誰かが書いたものを参考にして文法書を書くというのは、大昔から行われていることです。(実を言うと、私が最初に使ったコーパスは、ラテン語のコーパスなんです。)それがコンピュータのお蔭で大量・高速・正確に処理できるようになったという点は、昔と今では異なりますが、誰かが書いたものを集めているという点では何一つ変わりはないわけです。

Q:コーパスを使った研究というとIT時代に合致しているという印象をもっていましたので、ラテン語の文法書の話が出てきたので驚きました。

 私は、古代ギリシャ・ローマにおいて「文法学」がどのような思想的、文化的背景の中で誕生し、今日の文法研究に至っているのか、という点に関心をもっていました。ラテン語読解力は高くなかったので、その電子化されたテキストを使って重要な箇所を見付け出し、その箇所を丁寧に読む、というのが、私が最初に電子テキスト(コーパス)を使ってやったことです。こうした経験の記憶が無意識のうちに残り、コーパスの総語数が数千万語を超えたあたりから、これはもともとの専門である英語学研究にも大いに役立つにちがいないと思って、コーパスにのめりこんでいったというのが経緯です。

 コーパスを使って研究されている方々は、様々な経緯でコーパスと出会っていると思いますが、私の場合は「古代ギリシャ・ローマにおける文法学の誕生」への関心が出発点にあった、ということです。かなり珍しいだろうとは思います・・・。

Q:言語研のコーパス環境はいかがですか?

 現在、言語研では、多くの予算を注ぎ込んで、できるだけ多くのコーパスを入手しようと試みています。ここ数年以内にできるだけ買い揃え、研究の便宜に供したいと考えています。言語研は、英語と日本語を研究対象にしているので、両言語のコーパスを整えていくことにしています。コーパスは、結構、高価です。こうしたコーパスを院生が使えるというのは、非常に恵まれていると思います。言語系・言語教育系の大学院としては、日本でも有数のコーパス環境が構築できる予定です。(まあ、これはお金を注ぎ込みさえすればできることなのですが・・・。)

 2013年度には、高性能の Linux マシンを導入することができました。言語・言語教育系の大学院としては、トップクラスのものだと自負しています。そのマシンを、コーパスサーバーとして用いています。ただ、上で言いましたような利用形態を考えていますので、利用にあたっては Linux の基礎的なことに習熟しておく必要はありますが・・・。

 コーパス利用というと、一般的には WWW のインターフェイスや便利なコーパス分析用ソフトで使うというのが普通になってきていますが、私の授業ではそうした使い方ではなく、テキストファイルとしてのコーパスを直接、処理することを利用者には求めています。そうすることで、修了までには、言語学や言語教育学を専攻した者としては、それなりに高いコンピュータ能力(テキスト処理技術)も身に付きます。修了後の研究・教育や就職先などにおいて、大きな力になると思います。英語学・英語教育学・日本語学・日本語教育学などを学ぶことのできる研究科は多々ありますが、今述べた点が大きな特徴の一つと言えると思います。

 立命館大学には、大学院修了後に「研修生」になる制度があります。年間5,000円弱の費用を払えば、メールのアドレスがそのまま使えるなど色々な特典があります。研修生も立命館大学の一員ですので、コーパスサーバーについても、利用可能に致します。コーパスの利用契約上の問題で一部、使えないコーパスが出てくるかもしれませんが、問題がないものに関しては、研修生である限り、ずっと使い続けることができます。これは大変素晴らしい特典だと思います。私学は色々な奨学金制度があるとはいえ国立大学より授業料は高いですが、こういった制度は私大だからこそでしょう。

Q:入学前にコーパス関連の勉強は必要ですか?

 全く不要です。何の前提もなしに進めますので、コーパスの勉強は不要です。むしろ言語学的な勉強、生の英語・日本語を分析的に見る方にこそ、力を注いで欲しいと思います。その代わり、入学後は急な階段を走り登るつもりで頑張って欲しいと思います。そのための学問的基礎体力と研究意欲があれば、大丈夫です。

Q:他にどんな授業をもっていらっしゃるのですか?

 コーパス系の「言語記述方法論」の他に、前期には「言語科学研究基礎論」、「英語学習文法論」、「英語語法文法研究」をもっています。

 「言語科学研究基礎論」は、言語に関する根本的、根源的なことを扱っています。正解がない問題ですから、私にとっては一番教えるのが難しく、思考錯誤しながら、また受講生の方々と意見交換をしながら、授業をしています。「基礎論」となっていますが、決して「入門」とか「易しい」とかいう意味ではなく、「根本的、根源的」という意味での「基礎論」です。

 「英語学習文法論」では、20世紀を代表する Quirk et al. (1985) の文法書を教科書にしています。一学期に3分の1程度は読みたいと思っているのですが、実際にはそうはいきません。1,500ページもある分厚い本なのでそれなりの値段はしますが、英語研究のための必携本ですし、一生にわたって使う本ですので、この機会に購入して欲しいと思っています。

 「英語語法文法研究」では、受講生に、語彙・語法・文法・表現・言語理論の観点、文化的視点、文体的・修辞的視点など幅広い観点から英語を観察し、興味深い例を発見することを求めています。その上で、受講生各自が読書などによって一週間の間に発見した例のうち、特に興味深いと思われるものを数例を限度に紹介し合い、それを全員で検討しながら、英語の語法文法に関する理解を深めるということをしています。収集した各例には、その例を特徴づける分類タグをできるだけ多く付与することを求めています。キーワードのようなものですね。付与した分類タグの分だけ、一つの例を多角的に見たことになるからです。分類タグには、関連する言語学上の専門用語を正確に用いることも重要になってくるので、言語学関係の用語辞典を頻繁に参照することも必要となりますし、同時に、Quirk et al. (1985) など、既存の文法書を随時参照することも重視しています。

 「英語学習文法論」では、「はじめに英文法の体系ありき」で Quirk et al.を読み、「英語語法文法研究」では分析的な視点で多くの普通の英文(新聞、雑誌、小説など)をたくさん読み、そこから語法文法上の問題に目を向けるということですので、前者をトップダウン的とすれば、後者はボトムアップ的と言えます。ということで、「英語学習文法論」と「英語語法文法研究」は相互補完的な授業にしているつもりです。ですので、こうした分野に関心がある人は、相乗効果を期待する意味でも、両方を同時にとって欲しいと思っています。

 「言語科学研究基礎論」で言語に関する根本的、根源的なことを考え、「英語学習文法論」で20世紀を代表する英文法書を読み、「英語語法文法研究」で実際の英文を分析的に読みます。こうした訓練は、コーパス関連の授業のいわば前提として重要だと思っています。

 後期は、コーパス系以外では「言語科学講義」、「英語語法文法論」をもっていますが、「言語科学研究基礎論」、「英語語法文法研究」の発展版です。

 コーパスの授業は、言語学・語法文法関連の授業を受けてから受講するのが本来良いのですが、修士課程は2年なので、そうも言っていられませんね。せめて同時並行で学んで欲しいと思います。

Q:授業のやり方としては、どのような点に工夫をされていますか?

 全ての授業に個別のメーリングリストを立ち上げて、質問に対応しています。私は朝型なので、夜のうちに来た受講生からのメールに朝5時台から対応することも多いです。院生は朝、起きると返事が来ている、という感じでしょうか。

 これには、実は、ニューヨークでラテン語を勉強した時の経験が生きています。研究の必要があって受講したのですが、一日6時間 x 週5日 x 10週間という、かなりきつい講座でした。毎日大量に宿題が出るのですが、疑問が生じたら「24時間いつでも」先生のご自宅に電話をして、質問して良いという仕組みになっていました。私は、ほとんど毎晩1時半頃に電話していました。最初の5週間で分厚い文法書を一冊終えてしまい、後半ではラテン語の詩や散文をかなりの速度で読んでいく講座でした。私が受けたのは「初級」ですが、かなり高度なところまでやりました。その講座には「中級」もあり、「一体、どんな内容なのですか?」と先生にお尋ねしたら、「ラ文ラ訳」という答えが返ってきました。ラテン語を英語に翻訳する、逆に英語をラテン語に翻訳するというのは初級までで、中級では「ラテン語をラテン語に翻訳する」とのこと。例えば「キケロの文章をタキトゥス流に書き換える練習」。日本語でいえば「鴎外の文章を漱石流に書き直してみましょう」という感じなのだと思います。それが「中級」と聞いて、驚いたのを覚えています。

 話をもとに戻しますと、その「初級」の講座で、ある時、少々落ちこぼれ気味の学生がいました。その学生は質問があっても深夜だからという理由で遠慮して電話をかけずにいました。ある時、先生が「分からない点があるのに、なぜ電話してこないのだ」ときつく叱っていました。「でも深夜2時だったので」と答えると、先生は「24時間いつでもいいということになっているでしょう」と言い、その後 That's what we're paid for.「我々はそれで給料をもらっているんだ」と言われました。脇で聞いていた私は、今でもその様子が目と耳にはっきりと残っています。素晴らしいプロ意識だと感銘を受けました。そして、その少々落ちこぼれかけた学生も、見事に挽回することができました。

 そこまでは遠く及びませんが、努力を惜しまない院生には、こちらも可能な限り土日返上で対応したいと思っています。院生の皆さんにも、払った授業料に見合うもの以上を取り返す、という気で貪欲に勉学・研究に励んで欲しいと思います。

 もう一つの特徴・・・それはコーパス系の授業でやっていることですが、自作の教科書(プリント)の配布ですね。自作教科書は、最初に一人につき2部ずつ配布することにしています。1部は自分自身の勉強用です。もう1部は私へのコメント用です。つまり、読んでいて分かりにくい箇所、日本語として直した方が良い箇所、内容面でのコメント、単純な誤植など何でもいいので、教科書をより良いものにするためのコメントを書いて貰って、学期末に回収することにしているんです。どんな些細なことでもいいし、「この日本語、下手です!」というような文句でも構わない。どこが分かりにくいのかを指摘することさえ難しい場合には、欄外に大きく「??」と書くだけでもいい。とにかくできるだけ真っ赤にして返して欲しいと依頼します。そして学期末に戻ってきたコメントを参考にして、できるだけ加筆修正を加え、次年度はその改訂版を配布する、ということにしています。それと同時に、コメントへのお礼として、改訂版の PDF 版を差し上げるようにしています。受講生たちは、自分が分かりにくいと思った箇所などについて、改善された教科書を入手することができ、同時に次年度の受講生への貢献もできることになります。真っ赤にすることを求めているので、粗を見付けようと懸命に、批判的に読むことになり、そのこと自体が勉強にもなっているはずです。そして私はと言えば、詳細なコメントを受講生から貰うことで自作教科書を改善できるので、とてもためにもなる。一石四鳥です。私は、信条として、日常生活であれ、研究・教育関係であれ、一石一鳥はできるだけ避け、一石多鳥になるようにいつも心掛けています。

 私は、他大学でもコーパス系の集中講義をしていますが、そこでも同じことをやり続けています。数年前の教科書からは、はるかに良くなっていると思いますが、いつまで経ってもミスがなくなりません。そのうちあるところで見切りをつけ、出版したいとは思っているのですが・・・。

Q:メーリングリストだけの参加も認めていると聞きましたが・・・。

 メーリングリストだけの参加を認めているのは、例文を検討する「英語語法文法研究」のメーリングリストだけの話です。立命館の学生には、単位を取る取らないに拘らず、ちゃんと授業にも来て貰うことにしていますが、前の職場(名古屋大学大学院)で教えていたゼミ生(卒業生もいます)についてはメーリングリストだけで参加することを認めています。こちらとしても参加者が多くなるので歓迎しています。2014年度も6名が名古屋大学大学院時代の旧ゼミ生です。博士後期課程の学生だったり、あるいは博士前期課程を終えて高校の先生をしている人たちです。加えて、2014年度は京都大学の文学研究科と(前期だけですが)奈良女子大学の人間文化研究科でも同様の授業をしているので、この2大学の受講生も同じメーリングリストに登録しています。ということで、今学期(2014年度前期)は、立命館大学(本務校)+名古屋大学(前任校)+京都大学(客員教授)+奈良女子大学(非常勤講師)という4大学合同の授業が実現していることになります。なかなか活気があって、私も充実しています。

 決められた締切時間までに、その一週間のうちに出会った例文がメーリングリスト上に流れます。その際、出典+分類タグも一緒です。そして、私はその全てに対して、何らかのコメントをつけて、授業前までに同じメーリングリスト宛に返信します。授業では、それを印刷して、参加者共々議論をします。もちろん院生が互いの例文にコメントすることも奨励されます。望ましいのは、私よりも前にコメントの交換が活発に行われれば良いと思うのですが、実際には私が大抵一番最初にコメントしています・・・。

 他大学を巻き込めるのはメーリングリストがあればこそです。言語研では、まだ私の直接の指導生で修了した人はいませんが、もちろん修了後も希望があればメーリングリストに参加することを認め続ける予定です。

 これを長年やっていれば、言語に対する分析力が徐々に研ぎすまされていくと思います。

Q:英語教師に必要なものは何だと思われますか?

 私独特の考えでも何でもありませんが・・・、私が学生だった頃、先生方や諸先輩が異口同音に言われていたのは、調音音声学、英文法、英語史の3つが格別重要だということです。こうしたことは、いつの時代にも、また教育の現場がどのように変わろうとも、その重要さは変わらないと思いますし、教育実践の基礎として大切だと思います。あと、学習者の母語に関する知識も加えるべきでしょうね。日本人対象の場合には日本語です。(日本語教育の場合だと、中国語とか韓国語になるのでしょうか。東南アジアの言語も大事だと思います。別におしゃべりができるということではなく、その言語の特徴を理解できていれば良いと思いますが。)

 文法は、文の骨格を司っている規則の体系ですので、重要なことは当然です。(「英語学習文法論」で Quirk et al. を講読することにしているのは、その本が20世紀を代表する文法書だからです。)文法は決して無味乾燥なものではなく、奥が深く、全てが解明されているわけではありませんので、研究の種は尽きません。と同時に、英語教育の実践から見ても、重要な基礎だと思います。

 世の中には、文法中心の語学教育を悪者扱いする風潮があるやに感じられますが、それは文法自体が悪者なのではなく、文法の位置づけ、教え方が悪いだけだろうと思います。先ほどニューヨークでのラテン語講座のことを話しましたが、そこでの教授法は徹底した、但し「良質の」文法訳読法でした。わずか5週間で、ウェルギリウス、キケロ、カエサル、タキトゥス、ホラティウスなどなどの原文が辞書の助けを借りれば何とか読めるようになるのですから、正に「文法は魅力的」(Grammar = glamour)だとあらためて感じました。先生方の名朗読も時々ありますから、文法訳読法の実践者が音声軽視などということはありませんし、先生方同士、時々ラテン語で会話をなさっていましたので、会話軽視などということもありません。どうも文法訳読法の上手な実践者が少ないために、文法や訳読が悪者扱いされているように思えてなりません。これは非常に残念なことだと思っています。(英文解釈が一筋縄ではいかないことは、安井稔先生の『納得のゆく英文解釈』(開拓社)のような本がとても参考になります。)

 最後に英語史(英語が辿ってきた歴史)です。これがなぜ必要なのかは、ちょっと分かりにくく思うかもしれませんね。例えば、不定冠詞には a と an がありますが、この an の n の正体は何か、have to が義務を表すのは何故か・・・といったことは、中学生でも漠然ともつ疑問です。こうしたことは、英語史を学べば、答えが得られます。英語史を学ぶのは、それを専門にしたり、あるいは昔の文献を研究したいというようなことだけではなく、中学生がもつような素朴な疑問にちゃんと答えられるにしておくためにも必要です。これまで英語という言語がどのような歴史を辿って現代英語に至っているのか、それをある程度、学んでおくことは英語の教壇に立つ際にも重要だと思うわけです。言語研には、英語史の授業はありませんが、授業の中などでその分野の良本を紹介することは随時しています。院生が、そうした本を使って読書会をする、というようなことがあるといいのですが・・・。

 学習者の母語(多くの場合、日本語だと思いますが)に関しても、その文法的なことなどの言語学的側面について知識があるといいのではないかと思います。英語教師も、母語の日本語に関しては無意識のうちに使えるようになったわけですから、勉強しない限り、日本語に関して客観的な知識を得ることはできませんね。幸い言語研には日本語学の授業もあるし、立命館の文学部にもありますので、そうした授業で日本語について深く学ぶ機会をもつことも重要だと思います。

Q:最後に、在学生や受験生に一言お願いします。

 自分の「気質」を大切に、と言いたいですね。ホワイトヘッドという哲学者・数学者がいますが、彼は

The new tinge to modern minds is a vehement and passionate interest in the relation of general principles to irreducible and stubborn facts. All the world over and at all times there have been practical men, absorbed in 'irreducible and stubborn facts'; all the world over and at all times there have been men of philosophic temperament, who have been absorbed in the weaving of general principles. It is this union of passionate interest in the detailed facts with equal devotion to abstract generalisation which forms the novelty of our present society.

Whitehead, Alfred North. 1925. Science and the Modern World Cambridge University Press.

と言っています。Irreducible and stubborn facts「原理にまで還元しつくせない頑固な事実」と general principles「一般原理」の両方が大切ということです。たしかに、「一般原理」の探究ばかりに関心があって、事実についての関心が不十分だったり、逆に細々した「事実」にばかり関心があって、その背後にある一般原理の探究には無頓着というのはどちらも宜しくなく、両方が相俟って研究が行われるのが良いのだろうと思います。ただ、どちらがより自分の関心事かということはあるし、それ以上に個性もあります。両方大切ということをしっかりと認識しつつ、自分がどちらにより貢献できる「気質」なのかを自分によく問うて、研究を進めることが大切だろうと思います。私は、「原理にまで還元しつくせない頑固な事実」にやや偏っているからこそ、コーパスを使っているのだと自分では思っています。(もちろん「一般原理」に無頓着という意味ではありませんし、事実を見る際に重要な視点を提供してくれるのは「一般原理」だろうと思いますが。)「神は細部に宿る」という言葉も、私は好きです。

 ただ、自分の気質を自分でちゃんと理解しているとも限らないので、他の人と議論したりする過程で、自分がもっている意外な一面に気付くということもあるだろうと思いますし、そうした交流や学問的議論を通じて、個性自体が変わっていくこともあります。ですので、あまり「自分はこう」と決めつけてしまうのは良くないと思います。

 立命館の標語に Beyond Borders というのがあります。その文章の中に、「ここには、個性が集まる伝統がある。個性と個性を掛け合わせ、新たな化学反応を引き出す環境もある。」という一節があります。実際、こうしたことはとても重要だと思います。言語研は独立研究科ですので、様々なバックグラウンドをもった方が入学してきます。教員のバックグラウンドも様々です。この標語は、立命館全体のものですが、言語研とも非常に相性が良い標語だと思っています。

 最後ですが・・・言語研がある立命館大学の衣笠キャンパスは、古都・京都の中でもとても風光明媚なところにあります。石庭で有名な龍安寺まで徒歩5分、金閣寺は徒歩10分、桜の名所でもある御室仁和寺は徒歩15分です。世界文化遺産に取り囲まれているわけです。関西の方々にとってはそれほどでもないのかもしれませんが、私のような関東人には、とても贅沢な環境です。これから大学院を目指す方々は、研究内容は何より重要ですが、是非こうした文化的環境のことも考慮に入れて大学院を選ばれたらいかがでしょう。

(聞き手:言語教育情報研究科1回生)