道徳はすべての人のために、
だがこの私はこの私でしかなく
--『理由と人格』*を読む--
伊勢俊彦(立命館大学)

『唯物論研究年報』第4号(1999)所収予定

*『理由と人格』デレク・パーフィット著、森村進訳、勁草書房、1998

 私、そして私とともに現在生きている人々がこうして存在するのは、過去の世代の人々が選択し、行なってきたことの結果である。そうした選択や行為の中には、称賛に値するものもあれば、非難に値するものもある。しかし、これらの非難に値する選択や行為をも、過去の世代の人々がなさなかったとしたなら、私も、現在生きている他の人々も存在しなかっただろう。たとえば、現在〇歳のある子供の父母が出会うことは、民主化と経済成長がもたらした教育の大衆化、とくに女性の大学進学率の向上なしには、あり得なかったことかもしれない。ところが、その子供の祖父母は、戦争の結果である彼らの世代の男性の人口の減少がなければ、出会うことがなかったかもしれない。このようにして、過去の世代の人々の行為がなければ、その人は存在していないだろうというストーリーを、各人について語ることが可能である。そして私たちの存在に不可欠だったそれらの行為には、非難に値する愚行や悪行も数多く含まれる。にもかかわらず、私は、過去の世代の人々の行為を非難し、それがなければ現在の世界はよりよいものだったろうと言うことができる。ではこのとき、私は、この世界のあり方は、私が存在しない方がよりよいものだったろうと言っていることになるのだろうか。

 『理由と人格』の著者デレク・パーフィットは、行為の評価や選択を、より非人格的なしかたで行なう方向に、道徳は進歩すべきであると言う。自分自身や、自分自身の近親者にとってよいことよりも、万人にとってよいことを選ぶべきである。さらには、よい、悪いということを、常に、誰かにとってよい、悪いと考えることさえもやめるべきである。過去の人々の行為が異なっていれば、私は存在しなかったかもしれない。私の生は十分に生きるに値するものだから、過去の人々の行為の結果は、私にとって悪いものではない。しかし、過去の人々の異なる行為の結果、私とは別の人間が存在し、私よりもよりよい質の生を生き得たかもしれない。だとすれば、その方が、私にとってもよりよくはないし、その場合現在生きているのと同じ人物が誰も存在しないとすれば、誰にとってもよりよくはない。しかし、それは、誰にとってもよりよくはなかったとしても、端的によりよかったであろう。パーフィットの議論は多岐にわたるが、その議論の一つは、こうしたいささか心が冷えるような帰結を含んでいる。

 『理由と人格』は四部からなる。第I部では、行為の理由の代表的な理論(自己利益説、帰結主義、常識道徳)の内的整合性の検討を通じて、個人の行為が別の個人に与える直接的帰結だけでなく、諸個人の行為がいっしょになってもたらす集団的帰結が考慮されなければならないというかたちで、非人格的な理由の重要性が主張される。第II部では、自己利益説が検討の対象となり、人格の別個性を重視し、他ならぬこの私の生が全体としてうまく行くことを至上原理とすることの理由のなさが指摘される。第III部は、人格の同一性の概念そのものの検討に向けられている。パーフィットによれば、人格の同一性は、心理的な継続性と連結性に還元され、人格の同一性に関わるそれ以上の深い事実(「さらなる事実」)などは存在しない。こう考えると、われわれは、自分の将来の経験の質をとくに気にかけるのではなく、誰の経験であっても、経験の質そのものに非人格的に関心を持つべきだという原理が説得力を増すであろう。第IV部では、未来の世代人々に影響を与える選択にかんする理論が論じられる。その中で提起されるの問題の一つが、「非同一性問題」である。未来の人々に影響を与える選択において、明らかにより悪いと思われる選択でも、誰にとっても悪いというわけではない場合がある。それは、選択の結果存在するのが別々の人々であり、より悪い選択の結果存在する人々にとっては、彼らの生が、彼らが存在しない場合より悪いとはいえないからである。だとすれば、その選択を避ける理由は、非人格的なものでなくてはならないであろう。

 この本はかくのごとく豊富な内容と、さまざまな性格の議論を含んでおり、それに正確な評価を下すためには、個々の議論を精密に分析して整理する必要があろう。ここでは、やや乱暴なしかたではあるが、この本の特徴を示す二つのタイプの議論をとりあげて検討する。

 第一のタイプの議論は、人格に特別の重要性を与える主張の理由のなさを示す、ネガティヴな性格のものである。第II部、第III部の中心的議論はこのタイプのものである。第二のタイプの議論は、われわれが非人格的な理由を持つべき根拠を示そうとするものであり、ポジティヴな性格を持つ。第I部、第IV部がこのタイプの議論を含んでいる。私の意見では、第一のタイプの議論は妥当だが、倫理の実質的内容を与えず、第二のタイプの議論は、かなり説得力ある実践的な訴えかけを含むが、その根拠は純粋に理論的ではなく、直観に依存している。

 第III部におけるつぎの思考実験は有名である。自分が一卵性の三つ子の一人であると仮定せよ。自分は身体に重大な損傷を負ったが、脳は健全である。他方、残りの兄弟二人は脳に重大な損傷を負った。このままでは、三人とも死んでしまう。それを防ぐ手段の一つは、つぎのような手術を行なうことである。自分の脳は右半球と左半球に分割され、それぞれの半球が兄弟の一方の頭蓋内に移植される。このとき、手術の結果、手術前の自分と心理的な継続性と連結性を持つ二つの人格が存在することになる。これらの人格が手術前の自分と同じ人格であるとすれば、同一な二つの人格が存在することになるが、これは「同一性」の概念に反するので不可能である。二つの人格のうち一方のみが自分と同一であり、他方は同一でないとすることには、正当な理由がない。ゆえに、これら二つの人格はいずれも自分と同一ではない。したがってこのとき手術前の自分の人格はすでに存続していない。しかし、この状況では、自分と十分な心理的関係を持つ人格が二つ存在しているのだから、これが自分にとって通常の死と同じように悪いとはいえないだろう。むしろそれは自分にとって通常の生存と比べてそれほど悪くないか、ひょっとするとよりよいとさえいえるかもしれない。だとすれば、重要なのは、同一の人格の存続ではなく、十分な心理的継続性および連結性であろう。

 この議論は巧妙であり、一定の説得力を持つ。しかし、このような議論を通じて、人格の同一性、ないし、自己の他者との別個性に関する考えが変われば、将来の自己に配慮するしかた、他者に配慮するしかたは変わるのであろうか。また変わるとすればどう変わるのであろうか。パーフィットは、人格の同一性が「さらなる事実」を含まないという認識は、より非人格的なしかたでの道徳性と合理性への配慮へ導きうると考えている。しかし、パーフィット自身も認めているように、その認識は、将来の自己への配慮を著しく弱め、生存そのものを困難にする可能性もある。また、人格の同一性が「さらなる事実」を含まないという議論を理論的には受け入れながらも、実践的には、あたかも人格の同一性がそれ以上の深い事実を含んでいるかのように行為し続けることも可能であろう。これら可能な態度のうちどれを選ぶかは、人格の同一性をめぐる理論的議論だけでは決定できない。

 われわれが非人格的な行為理由を持つべきであるというポジティヴな議論は、現代社会における実践的問題の性格からのみ、引き出されうるであろう。現代の社会では、個人個人の行為がもたらす直接的帰結はきわめてささいであっても、それらがいっしょになってもたらす集団的帰結が重大となるような場合が、数多くある。こうした問題の考慮が、第I部でのパーフィットの議論を支えている。第IV部でパーフィットは、非同一性問題についてつぎのような例をあげている。現在の世代は、何らかの資源を保存するか枯渇させるかを選ぶことができる。枯渇を選べば、つぎの三世紀のあいだの人々の生の質は、保存を選んだ場合よりも少し高い。しかしそれ以降の生の質は、何世紀にもわたって、保存を選んだ場合よりもずっと低くなる。これは想像上の例であるが、同じような構造の問題に現在の世代が現実に当面しているという見方は、たとえば地球環境の問題を考えれば十分に成り立つであろう。このとき、枯渇の選択は実は誰にとってもより悪いわけではない。なぜなら、枯渇の選択の結果、つぎの三世紀よりあとに存在するであろう人々は、現在の世代が保存の選択を行なったら、決して存在しなかったであろうし、彼らの生は、生きるに値しないほど悪いわけではないから、枯渇の選択が彼らにとって悪いといえる理由はないのだから。それゆえ、あることをすべきでない理由が、それが誰かにとって悪いからというものだけであるとすれば、枯渇を選ぶべきでない理由はない。しかし、それにもかかわらず、現在の世代が自分たちの将来と自分たちの直接の子孫の将来の利益のみを考慮して、保存より枯渇の方を選んでもよいという主張を本気でできる人はいないであろう。枯渇よりも保存を選ぶべきは明らかに存在する。そしてその理由は、非人格的なものでなくてはならないのである。

 この議論は、非人格的な理由の必要性を強力に示しているが、その説得力は、枯渇よりも保存を選ぶべきだという直観に依存しており、その直観のさらなる根拠づけは与えられていない。とはいえ、このような場合に直観に訴えるのは論法として不当ではないと私は考える。パーフィットもまた、ときには直観への訴えという「低い道」をとっていることに自覚的であり、その限りで、こうした論法の採用自身は、問題とするに当たらない。

 しかしながら、われわれの直観は、非同一性の問題の一部には答えを出せるけれども、それに一般的に答えることはできない。たとえば、一定数の人々が高い質の生を生きる結果と、それより多くの人々が、それほど高い質ではないが、十分に生きるに値する生を生きる結果と、どちらを選ぶべきなのか。こうした「異なる人数の選択」には多くの変種があり、それらのケースをカヴァーする一般原則を含意する「理論X」を、結局パーフィットは見いだし得ていない。このことは、直観に依存する議論の妥当性が限られた範囲にしかおよばないことを示し、そうした直観の根源に改めてわれわれの目を向けさせる。

 ここで話は、私が本論の冒頭で述べた事柄に戻る。現在の世代と未来の世代との関係について、非同一性問題が指摘できるとすれば、同じ問題が、過去の世代と現在の世代との関係についても指摘できるであろう。すると、私が存在しない結果を招くが、世界をよりよくするような選択が過去に一度もあり得なかったのでない限り、私は、この世界のあり方は、私が存在しない方がよりよいものだったろうと言わねばならない。この場合、少なくとも私は、枯渇より保存の方がよいと言う場合ほど躊躇なく、私が存在しない方が世界はよりよかっただろうとは言えない。

 この躊躇は笑うべきものかもしれない。よいと考えようが悪いと考えようが、過去になされた行為をなされなかったようにはできないし、現に存在する私が存在しなかったようにすることはできない。私が存在しないような世界を考えることができるのも、現にこの世界に私が存在しているからに他ならない。この事実があるから、私は安心して、過去の人々の行為を非難することができるのである。それらの行為がなければ、私は存在しなかったであろうにもかかわらず。

 おそらくこのとき、私は、過去にどのような選択が行なわれた場合にも、そのとき存在する人々の経験が私の経験となりうるかのように考えているのであろう。パーフィットであれば、これを誤った信念と呼ぶかもしれない。しかし、これは異なった可能世界における自己の存在についての信念というよりは、他者の経験についての想像力のあり方であり、このような想像力の働きがなければ、他者の経験と自己の経験に等しい重みを与えるということは不可能であると、私は考える。未来の世代の人々についても、私は、あたかも、実際には同一であり得ない人々の経験が、いずれも自分自身の経験であり得るかのように考えることによって、枯渇よりも保存を是とすることができるのではないだろうか。このように想像力を用いることによってではなく、より直接に、異なる人々の経験の質を比較考量することができれば、よりよいことかもしれない。しかし、それは少なくとも私にはきわめて困難である。

 道徳的な直観が、自己の経験から出発する想像力の働きに基づくとすれば、直観が整合的な答えを与えないパラドクシカルなケースの存在は驚くに当たらないだろう。しかし、直観は変えることができる。たとえば、自分の子供に特別な配慮をするのではなく、すべての人の子供に公平な配慮を行なうべきであるという主張は、一見してかなり反直観的なものである。しかし、われわれは、行為の集団的帰結の重要性を示す例を考察することを通じて、非人格的な理由を受け入れるような直観をもつことができるようになる。つまり、われわれは、さまざまな物語を語ることを通じて、想像力の向かう方向を変えることができるのである。物語は、現実に可能なことがらそのものでなくてもよい。しかし、物語が想像力に働きかけうるかどうかは、それが現実の何らかの側面に光を当てる力によるであろう。その点で、異なる人数の選択にかかわる非同一性問題にはじまる一連のパラドックスは、われわれの想像力を十分引きつけるだけの明らかな光を投げかけるにはいたっていないように思われる。

 道徳は、非人格的な方向に進歩することができ、進歩するべきだというパーフィットの主張は受け入れることができる。しかし、その進歩のあり方は、どこかに存在するはずの正しい理論を見いだすというものではなく、想像力の自然な傾向を方向転換することによって、新たな直観や信念を産み出すというものであると考えるのが、より妥当であろう。そしてわれわれの想像力は、常に現在のこの私の経験から出発する以外にない以上、想像力に依存する道徳的直観や信念もまた、この経験の主体の観点をまったく離れ去ることはできないのではないだろうか。


書評・その他の短文インデクスへ戻る
ホームページへ戻る