FDエッセイ


FD出現のタイミング
 財政圧迫による教員削減と負担の増加、絶えざる教育改革、18歳人口の減少と大学の増加、それらの中で「FD」は始まった。タイミング悪い。大学に余裕がある時代なら「FD」はまた違った捉えられ方をされていたかもしれない。ある大学で講演をした時、「FD活動をしたいのだが、FDという言葉自体がイメージ悪いので、何か別の言葉はないか」と話された方もおられた。もはや古典的条件づけである。


FDからこぼれおちるもの
 FDという名前が出回る以前にも、教員同士の「教育」に関する学び合いはもちろんあった。廊下で、こんな教材あるよ、とか、ここで学生がよくつまずくね、と話合うとか。あるいは、学科会議の場で、学生の現実をふまえて、カリキュラムに関していろいろ考えるとか。現在、それらは制度としてのFD、つまり、大学公認のFD活動として、認められないだろう。制度としてのFDからこぼれおちるいわば「真正のFD」。それを大切にしなければなるまい。


京大への期待はわかるが
 よく京大の高等教育センターの会議に出て、京大のプロジェクトに関する発表をきいていると、フロアから「それはうちのような大学では無理です」「もっと京大以外のことも考えてください」「京大だからできるんでしょ」という質問、というか要望がある。もちろん、京大の高等教育センターは、競争的資金も多く取っているし、日本の高等教育研究・FD研究をリードする責務があり、他大学も含めた日本の大学の多様性を考えた上で、いろいろな物事を位置づけるべきである。しかし、自分の大学の問題は自分たちで考えないといけない。京大の研究が、まずは京大(やそれに類似した大学)のことを中心にしているのはあたりまえのことである。


FDセンター関係者のケア
 たまに、「FDやってる人=執行部の手先」と考え、FDセンター関係者に過剰にからんでくる人がいる。アンケートでもわけのわからぬ非建設的な罵詈雑言をならべる人がいる。前いた大学では、教員には言いづらい(言う自信がない?)のか、「FDの招待状が来たがこんなの行きたくない」と事務局の人に高圧的に抗議した人もいるらしい。行きたくなければ、適当に理由をつけて休むか、堂々と議論すればいいのに。
私が知る限り、FDセンターのみなさんはそんなつもりはまったくなく、私も含めて、逆に、執行部からのきつい要請があると、適当にお茶をにごして、教員を守っていたのである。FD活動が一般的になってきて、このようなケースは減っているのかもしれないが、FDセンター関係者のケアも必要であろう。


FD以前のこと
 大人数講義(大手私立大学に多い)、貧弱な設備(PCやDVDやVHSが使える教室が限られている、など。国立大に多い。この前講演に行った国立大(前任校)には教室のコンセントに電気が来ていなかった)、教員の過剰な授業負担(私立大学に多いが最近は国公立も)、教材費不足(教員の自己負担で購入)。これらの改善の可能性を考えないままFDにより教育改善せよ、というのは、バランスを欠く。


いい感じのFD
 FD講演で何かを伝える場合。人間は、やろうと思っていたことをやれ、と言われると腹が立つ。やれないことをやれ、と言われても腹が立つ。できることをやれ、と言われても腹が立つ。とにかく、やれ、というのではなく、こんなのどうですか、というやわらかいスタンスで、しかも、いいな、と思わせる何かを提供する必要がある。
 授業評価。分かっていることを指摘されると腹が立つ。できないことを指摘されても腹が立つ。やればできそうなことで、現在できておらず、しかもプライドにかかわらないように指摘されれば(ほめられたあとに少し指摘されるなど)、なるほど、と改善しようとする。
 いい感じ、が分かっていないとFD屋にはなれない。


強気のFD
 他大学でFDプログラムの多くを任されたときは、強気で。「自分たちの大学のFDは自分たちでやらないといけない。大きな私立大学なのに、四国から地方国立大学を呼んでいる場合じゃないですよ!」ってな感じで。これで「動員」された人も少しは目覚める。「FDはやりたいようにやればいい。「学生をほっとらかしにする」大学ならそういう方針でFDをすればいい」ってな具合。


他大学の人を呼ぶ
 自分の大学のFDセンターの人が講演するよりも、他大学の人が講演するほうが素直に聞くし、ありがたく聞いてくれる。言いたいことで言いにくいことは他大学の人の口を通して・・・


相互研修型か啓蒙型か
 相互研修型か啓蒙型か、あるいは、トップダウンかボトムアップかというFDの図式は、一見わかりやすいし、議論もヒートアップするので、よく使われるが、この2つをもとに実際行われているFDプログラムを分類するのは難しい。
 たとえば、ある学科が「この人の話をぜひ聞いてみたい」と考え、ある専門家を読んできて啓蒙してもらった場合。 これは自主的なFD活動であり、啓蒙でありながら相互研修的に意味があることではないか。
あるいは、始まりは「トップダウン」(だれかの強いリーダーシップ)でやられつつも、学内で浸透し、各学部に合った形に変えられ、ボトムアップになることもある。
 逆に「ボトムアップ」(学内のローカルな集団から自発的に出てきた)の活動であったとしても、形骸化してやられ続ければ、惰性の「ボトムでアップアップ」になる。
 具体例を語らずに、この二元論で論を敷衍してゆくことは、ダイナミックなFDのなされ方、「FD」の意味の社会的構成を無視したものになり、本来は多様なFD実践に、単純にレッテルを張ることになる。
ただし、思考実験として、まず極論たる二元論を立てて、理念型で考えるのも必要かと思うが。
 いずれにせよ、ある方向、ある形しか認めない、というのはよくない。中教審の学士課程に関する答申も、競争重視から、競争と協働のバランスへとシフトしていっている。FDも、右往左往しながら最適値に落ち着き、また問題が出てくると、試行錯誤する、そういう繰り返しであろう。そういう意味で、柔軟に構えるのがいい。


逆説的FD論
 FDプログラムに反発を示す人がいたとして、その人がそれをエネルギーにして、「おれはFDなんかいらん、おれはおれでがんばる」と思わせるのも、ある意味FDの成功。目の前の成果(参加人数など)だけではなく、効果を広くとらえよう。「動かない人」「無視する人」も、自分の大学でFD活動がおこなわれていること自体は知るわけであるから、それだけでも「教育がんばらな」というメッセージを、サブリミナル効果ではないけれど、どこかで受け取っているはずである。


ポジティブ・リスト
 東大におられた苅谷剛彦先生が出席された研究会(京大のCOE関係)で、先生から、「ポジティブ・リスト」という言葉を聞いた覚えがある。つまり、教育をきちんとしよう、とすると、あれもやろう、これもやらねばならない、といろいろな課題リストが出てくる。ところが、それらはすべて、「いいこと」「やるべきこと」なので(ポジティブ・リスト)、やらなければならなくなる。正論でもっともなことなので、「やるのいやだ」と言いにくいのである。現場は、やらなければ、と考え、無理してでもやってしまう。教師の負担は重くなる。
 FDで言われることもそういうことが多い。シラバスきちんと、15回きちんと、学生主体型、双方向、授業評価きちんと、いろいろなメディアも使おう、ペーパーテストだけではなく真正の評価もしよう、などなど。それぞれ正論であるし、FD屋はきちんと伝える必要がある。しかし、実際場面では、厳しく教員を指導する、尻を叩くというのではなく、「まあまあ」のところで許して?見逃してあげないと、しんどいことになる。まるっきりサボルのはよくないだろうが、「まあ、ぼちぼちと徐々にやっていきます」というのを許容するような、制度的余裕と精神的余裕が必要である。


大学はなぜあるのか
 大学は何のためにあるのか、を考えると、専門教育、教養教育、社会に出るために必要な能力の付与・・・といった教育、最先端研究、社会に役立つ研究・・・といった研究活動などいろいろ考えられる。これらははすべて正しいが、もっとも本質的なものは、「多様性の担保」、であろう。役に立つような研究や教育はもちろん必要である。その一方で、教員は役に立たないようなことを研究し、学生はわけのわからないことをするべきだ(前にいた大学で、とりあえず意味なく、やぐらの上で住む、というサークルもあった)。教員と学生で浮世離れした議論をする。わざと変人ぶる必要はないけれど、これらは長い目で見ると意義のあることである。いつどんな知識が必要になるか、いつどんな思考法や行動が必要になるかわからないのである。社会がぼろぼろになったとき、ある種の文学がそれを心理的に救うかもしれない。「いまこのままで順調にいけている」人間たちが、絶えず自分たちの過信を疑い反省するための装置として、大学は「役立つ」のである。自らへの過信への対応としての「多様性の担保」である。もっともその多くは役立たない無駄なものとして葬り去られる。無駄を横目で見ているのは、かったるく腹立たしいことかもしれぬし、限度もあろうが、本当にただの無駄であったとわかるのは、えらく先のことなのである。 このように大学というのは倫理的存在である。


FD屋を別の職業で
 FD屋=コンサルタント。個人を相手にするときは、事前に相手のこと(授業概要はもちろん、専攻分野の概要、教員歴、学内での状況(コマ数など)、所属講座の様子)をよく知っておく。
 FD屋=お笑い芸人。自ら公開授業とか、負け戦のようなことも買って出る。自分の失敗をネタにする。険悪なムードがあると和らげる。
 FD屋=カウンセラー。相手の精神分析をする。あの先生の攻撃性、抑うつ性の背後にあるのはなにか。それにふりまわされず、一歩ひいて、精神分析でいうところの転移分析を。陰性転移だけではなく、陽性転移も結構あるような気がする。


全学FD担当者の学内でのふるまい
 FD担当者も結局は個人的なつながりで、学内の人から信頼を得ることが重要。別に特別に足しげく「営業」するべきとか、媚びるべきというのではなく、自然な感じで接すればよい。そうなると、失敗も許してくれるし、いろいろ手伝ってもくれる。それと、一般教員(それもFDめんどいなーという教員)の感覚も持っているべき。執行部の悪口的なこと?もたまには言うとか、普通の感覚をもっていよう。


「相互研修」論ふたたび
 前に、たとえば、ある学科が「この人の話をぜひ聞いてみたい」と考え、ある専門家を読んできて啓蒙してもらった場合、啓蒙でも、相互研修っぽくなると書いた。それ以外にも、単純に教員たちが順番に啓蒙しあうというミーティングを持ったら、それは相互研修である。したがって、啓蒙か相互研修かという2分で考えるのは難しく、教員たちが疎外された感情や意見をもったまま、ずるずるとそのような感情や意見を出さず、FDプログラムに参加し続けている状況にあるかどうか、が問題である。


専門的研究の場とFDの場は違う
 ミニ授業を実施したさいに、新任教員にその授業内容について専門的な立場からビシビシ批判する人がいる。たとえば、理系の授業で少し人文科学系の話をしたら、その筋のバリバリの専門家が、それはおかしい!と一般人にはわからんような事項についてネチネチ言うような感じで。言うにしてもやさしく言ってほしい。学際的な興味を学生にもたせるために、脱線、というのは、教養教育の観点からもいいことではないか。もちろん授業で、専門外にしてもあまりにもずれていることを言うのはいけないが、FDの場なのに専門学会のように「厳密な批判」でバトルをするべきではない。このような場合、FD屋はすぐに新任教員擁護にまわろう。私もそうした。


授業批評
 授業を構築するための理論には、行動主義的なものから、認知的構成主義、社会的構成主義的なものがある。これによって目標も、「○○ができる」というように行動の習得に重きをおくか、認知的変容に重きをおくか、さらには、コミュニケーションに重きをおくかが変わってくるだろう。もちろん実際授業するさいには、(無意識にせよ)想定する授業理論も、目標も、これら3つを適当に混ぜ合わせておこなわれることが多いであろう。
 授業をどう評価するかということはもちろん重要なことであるが、実際評価してみると難しい。授業者の「授業のわかりやすさ」ということひとつとっても、一般的にはわかりやすいのはいいことではあるが、何らかの意図をもって「あえて」わかりやすくしていないということもありえる(実際、京大の授業でバトルになった例があった)。さらに、学生の好み(一方的な講義のほうが好きなど)や適性(ATI)や、教員間の見解の違い(パワーポイント命、とか)もあるし、その学科ならではの事情(板書に数式延々と書くのが美しき伝統、とか)もあり、自信を持ってこれがいい、とは言いにくい。しかし一方で、だれもが「これはあかんな」と評価する授業もあろう。商品の場合は、長期的には「売れるかどうか」、工場出荷の段階では「規格に合致しているかどうか」という評価の基準が一応ある。
 しかし、授業、特に大学授業は、そのように機械的に切っていくわけにはいかない。その意味で、授業は「文学作品」に似ていて、だれもが「これはあかんな」というのがある一方、いろいろな主観的評価が許容される。
 そこで文学批評理論のような、さまざまな主観的(というか首尾一貫した世界観を持った)観点に立った批評理論、というのが大学授業評価のシーンに登場することはないのだろうか、と考えるが、それは文学批評理論と大学授業が交錯する『文学部唯野教授』の読みすぎなのかもしれない。「受容理論」「現象学」「記号論」「構造主義」「ポスト構造主義」「精神分析理論」「マルクス主義」「フェミニズム」といった理論で大学授業批評(もはや評価ではなく)をする、というのが考えられるが、絶対ケンカになるだろうな、と思うので、やはり今のような軽いのが「実践的」「臨床的」にはいいのであろう。研究的、理論的、理念的には、こういうのもあっていいと思うが。


FDの流派
 FDプログラムが標準化されていく一方で、FD先進大学によって個性的な流派が出てくるかもしれない。京都流、愛媛流、というように○○流という形で。京都には、ぜひ上方FD協会をつくって、FDの稽古をつけてほしい。


FDネットワークと各大学のFD哲学
 FDのネットワークが次々にできている。地味にFDをやっているところ、華々しくFDをやっているところ、それぞれあっていい。
 しかし、華々しくやっているところが、地味にやっているところ、あるいはローカルな文脈で四苦八苦していたり、足踏みを余儀なくされているところを、自らの文脈で位置づけ、外に宣伝してゆくならば、それは、後者の大学にとって、ひいては日本のFDにとって、不幸なことである。
 FDのネットワークは、ひとつのやり方、ひとつのFD観にとりこまれるために入っているのではない。
 地味にFDをしている大学、小さな大学が、「FD有名校」の戦略にとりこまれたら、たとえば、文部科学省などからのお金のおこぼれにありつけるかもしれないし、マスコミ等への登場機会のおこぼれをもらえるかもしれない。
しかし、FDのネットワークへの参加の仕方は、各大学のプライドをかけたものであるべきで、教育観の反映、FD哲学の反映でなければならない。
 各大学で、独自のFD研究、教育観やFD哲学の構築をする必要がある。
 他大学のために、おこぼれ頂戴のためにFDをやって、自大学の構成員をまきこむのはやめなければならない。
その意味で、各大学のFDセンター(のとくに上層部)は、ネットワークに入っている意味を問い続ける必要がある。


FDのことば、FDの政治学
・PDSサイクル、相互研修、FD共同体、双方向といった、FDセンターに所属する人が使う、FD研修会やFD論考で出てくることば。
・FDを批判する論考で出てくることば。
・文部科学省がFDを推進させるために使うことば。
・マスコミが大学でのFDについて(大学の教員も大変だ、大学はここまで幼稚化している、ダメな大学教員がたくさんいる、などの文脈が多い)述べることば。
・一般の大学教員間でふだんかわされるFDやFDセンターに関することば。
・経験をもとにして書かれた、既成のFDを批判したブログやコメントのことば。
・「(仮に)研究する人生」や匿名のブログなど、ネット上で飛び交うFDを揶揄することば。
 それぞれの言説は、なぜ交流がないのか。それぞれの言説は、妥当性があるか。それぞれの言説は、どのような政治的意図で用いられているか。
 FDする側、される側。
 FDにどっぷりつかる人、既成のFDから距離をおいて独自のFDをやっている人、FDを冷笑する人、FDはひとごとな人、FDを恐れている人、しかたなくFDに参加している人、素直にFDに参加している人。
 個別の営みだったことが、一挙に全国的な営みとして要請されたときに、そのプロセスにおいて何が起こるのかを記述する必要がある。
 FDに限らず、教育に関することは、このようなことが多いともいえる。
 あと、「FD」という言葉自体、「(教育を中心とした)ファカルティメンバーの発展」を意味するが、FD活動(教育方法にかかわる、大学教員対象の研修活動)や「FDプログラム」(全学あるいは学部等のまとまりごとの正式な会議体を経て、実施が決定されている、教育方法にかかわる大学教員対象の研修。大学間をまたいで実施されるものもある)をさすこともあり、コミュニケーションの齟齬が生まれることもある。


FDへの温度差
 「FDの専門家、FDの有名人がいろいろとやってはるわ。あの人ら、ようがんばらはるわ。わたしらは、蚊帳の外で、関係ないわ。あんな授業でけへんわ。まあ委員になったら、しゃあないから、ちょこっとFD講演でもききにいくくらいはするか」などという状態は、FD啓蒙期にはある程度仕方がないが、このような状態は、だんだん解消しているのか、逆に強まっているのか。


FDの研究と実践
 大学においてFDに携わる人はだれかと問われると、もちろんファカルティ全員である。学生や事務職員・技術職員も含める考えもある。しかし、周知の通り、多くの大学には、FDセンターのメンバー、つまりFDを専門とする人たちがいる。前任校では私もそのメンバーであった。
 FDを専門とする人たちとは、だれか。
 大学教員(授業を持ち、研究分野を持つ)かFD専門職員(純粋なFDer)か。
 FDを対象とした仕事の主体は、このような観点から、下のように分類できる。なお、FD研究とは、FDそのものの研究であり、授業法等研究とは、授業法や評価、学生との関わりなどの研究である。また、FD活動実践とは、各種FDプログラムの講師やファシリテーターを務めることを指す。
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○ 同僚型
「FD研究=特になし、授業法等研究=一般大学教員、FD活動実践=一般大学教員、FD受講者=一般大学教員」・・・A
「FD研究=FDセンター教員、授業法等研究=FDセンター教員、FD活動実践=FDセンター教員、FD受講者=一般大学教員」・・・A’
○ 分担型
「FD研究=FDセンター教員、授業法等研究=FDセンター教員、FD活動実践=FD専門職員、FD受講者=一般大学教員」・・・B
○ FD専門職員型
「FD研究=特になし、授業法等研究=FD専門職員、FD活動実践=FD専門職員、FD受講者=一般大学教員」・・・C
「FD研究=FDセンター教員、授業法等研究=FD専門職員、FD活動実践=FD専門職員、FD受講者=一般大学教員」・・・C’
「FD研究=FD専門職員、授業法等研究=FD専門職員、FD活動実践=FD専門職員、FD受講者=一般大学教員」・・・C’’
○ 混在型
「FD研究=特になし、授業法等研究=一般大学教員・FD専門職員、FD活動実践=一般大学教員・FD専門職員、FD受講者=一般大学教員」・・・D
「FD研究=FDセンター教員、授業法等研究=FDセンター教員・FD専門職員、FD活動実践=FDセンター教員・FD専門職員、FD受講者=一般大学教員」・・・D’
「FD研究=FDセンター教員・FD専門職員、授業法等研究=FDセンター教員・FD専門職員、FD活動実践=FDセンター教員・FD専門職員、FD受講者=一般大学教員」・・・D’’
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 前任校である徳島大学は、同僚型の「A’」であり、私はFDセンターである「大学開放実践センター高等教育支援研究部門」に所属(任期制なしテニュアの助教授・准教授)していた。
 「FDセンター教員」とは、FDを対象として研究を行っている者、大学授業や大学教育評価を対象として研究を行っている者である。
 「一般大学教員」には、もともとFD活動に関心のない教員の場合のほか、教育学関係の研究者(教育学者、心理学者、社会学者)、さらには、たとえば数学教育に関心を持つ数学者というような場合もあろう。
 また、「FD専門職員」をどれくらいの力量・キャリアを持った職員として考えるか、どのようなFD活動を想定するか(ファシリテーター役か啓蒙的講師役か)によって、FDの質が変わってこよう。
 大学院生をTAのように「使う」という安易なものもあろうし、テニュアトラックにのらない短期任期制の助手・助教ポストをつくるというところもあろう。これらは、「テニュアの大学教員ポスト待ち」であり、FDerを「キャリア」として考えていないことになる。長期的なFDerのキャリアを考えるならば、たとえば、それらの人を養成する専門職大学院を作るといったことが考えられる。いずれにせよ、「FD専門職員」には、専門的知識や技術のみならず、海千山千の教員や、生意気な若手教員を相手にすることに耐えうる人格も必要であり、総合的な力量が求められる。
 上のうち、A、C、C’’、Dの場合は、「FDセンター教員」、すなわち、FDセンターに所属する大学教員はいらない、と判断された場合である。
 Aはラジカルで純粋な同僚型FDであり、FDセンター教員もFD専門職員も、つまりFDに特化した人材はいらない、という場合である。
 C、C’’は「FDセンター教員」はいらない、FD専門職員に任そう、という場合である。
この場合は、「教員」であることで担保される「同僚性」はいらない、専門職から合理的に知識を得るのがよい、と判断された場合である。
 みたようにいろいろのなされ方があるが、重要なのは、自大学のFD哲学を作ったうえで、
・「同僚性」とは何か、これがないとどうまずいことになるのか、あるいはならないのか
・FD専門職を作る場合はどれくらいの力量・キャリアを持った職員として考えるか
・FDセンター教員とは何か、一般教員とどうかかわるのか
を全学的に考えることである。
 そうでなければ、「FDセンター教員にまるなげ」「FD専門職員にまるなげ」「FDセンター教員なんて必要なの、何してるの」「FD専門職員に教わるのはいや」などなどの不満・誤解が出てくるもとになる。


地味なFD
 FDは元来地味なものである。外に向けて、派手に宣伝するべきものではない。
 もちろん、FDに関する研究(宣伝ではなく、研究的に位置づけをしているもの。課題や問題点などにも言及していること)としてなら、どんどん外に発表するべきである。
 しかし、企業等で、研修努力をHPで大々的に外に宣伝するところはあまりないし、あったとしても、体力勝負の会社であろう。
 もっとも、大学が外部資金をもらうには宣伝する必要があるし、税金を投入されているならそのような説明責任も必要な場合もあろう。
 FDに関して、大学間の、<実際やっていることの差>と<宣伝力の差>は、前者の方が小さいのではないだろうか。FDに関して精力的に活動(外部的に)している個人がひとりいるかどうかが、後者の差に結びつく。
 その意味で、地味にFDをしている大学や学部・学科、FDとことさら言わないで、FDとなっていることさえ気づかずにFDを実践している大学や学部・学科を「FDやっていないダメな集団」と決めつけないようにしなければならない。


「FDする人」と「同僚性」
 「FDする人」、つまり、FDerと呼ばれる人であれ、ファシリテーターと呼ばれる人であれ、FDプログラムを企画・実施する側の人は(厳密にいえばファカルティ全体が「FDする人」なのだが、ここではこのように定義する)、基本的には大学授業をやっていなければなるまい。
 基本的には、と書いたのは、たとえば、特定の技能や技術(メディアの高度な使用法など)を学ぶ場合や、「たまには大学とは違う世界の人の話を聞いてみよう」といった場合は例外として考えたいからである。
同じ苦労をともに味わっているであろう人、あるいは、自分がしている苦労を克服して新たな段階に入っているであろう人、そのような人が「FDする人」であるということの意義は大きい。
 まずそういった人の実感をこもった話は、感情的に受容されやすいのはもちろん、お互い大学(異なった大学であれ)というシステム内にいるので、細かい部分まで納得いくまで話し合うことができる。
 さらに、言葉ひとつひとつに、高度な責任性が要求され、人ごと(ダイガクのセンセイの世界はよく知らないので、などと)として逃れられないので、豊かなコミュニケーションが生まれる。
 また、「FDする人」は、自らの事例(失敗も成功も)を豊富に話せる。
 「FDする人」も、一般の教員から学ぶこともあるし、したがって、相互形成をすることになる。
 しかし、これらのことは、裏を返せば、「FDする人」は、同僚としてFDを企画・実施する際に、極度の緊張を強いられることにもなる(特に学内同士の場合)。
 啓蒙的なFDプログラムの際には、例えばトップダウンで忙しいときに一般教員が集められた場合や、内容がイマイチだとと、「なぜ同僚から教えられなければならないのか」「おれのほうがプレゼンうまいやんけ」と反発をくらうし、相互研修的なFDプログラムの際でも「教育のプロとして何も教えてくれることはないのか」「忙しいのに、うちはあんなFDセンターいるのか」などと反発をくらう。
 以上のように、「FDする人」が同僚性をもった存在であることは、利点が多いが、その場合は「FDする人」と「FDされる人」の間に、<極度に緊張感のある関係(さらには敵対関係)>ができるか、<相互形成をする関係>ができるか、前者になってしまった場合、後者に向けてどのように動くか、細心の注意を払わなければならない。


FDにおける相互行為的客観性と自然科学的客観性
 もちろん、FD活動は、人間を対象とする営みである。したがって、「この教授法は効果があります」とか、「教員はこうあるべきです。それによって学生はこうなります」というような(自然科学的客観性と呼ぶことにする。詳しくは以下)啓蒙は、とっかかりにはいいかもしれないが、だんだん底が浅いのがばれてくる。そこで、以下で述べるような相互行為的客観性によって記述してゆくことが考えられる。なお、主観と客観はどう異なるかといった議論はここでは措く。
・自然科学的客観性:条件Yのもとなら、Aを実施するとZが必ず(高い確率で)生起する。その場合、実践者が、Yであることが認識できたならば、Aを実施するとZが必ず(高い確率で)生起する。たとえば「初速度と加速度」が分かれば、直線を走る台車が10秒でどれだけの距離を進むかがわかる。
・相互行為的客観性:条件Yは認識できない(いわば複雑系)。実践者が、A、B、C、Dのいずれかを実施してみて、それぞれにおける対象の反応をさぐって試行錯誤すると、必ず(高い確率で)Zが生起する。AでだめならB、BでだめならC、CでだめならDを実施してみると、いつか必ず(高い確率で)Zが生起するといったことである。これは、人間関係や経済現象などでみられることであろう。
 物理的な現象は「自然科学的客観性」で記述し、と人間科学的な現象は「相互行為的客観性」で記述するべきだ、という2分法のような言い方をしてしまった。しかしながら、実は、相互行為的客観性と自然科学的客観性の違いは、実践者が、ある現象をどのようなスパンで切り取るかの違いだけである。
 人間関係や経済現象でも、実践者の頭の中では「AをすればZが生起する可能性が高い」「BをすればZが生起する可能性が高い」という自然科学的客観性の認識が頭の中にはあるのである。したがって、「AをすればZが生起します」と、強引には、記述することができるのである。わかりやすさもあって、こう言われると気持ちがよいし、FDなんかでも、ウケる場合も多い。
 しかし、それだけで止まるならば、臨床論にはなりにくい。なぜなら、われわれは、「一般的には、AのほうがBよりもZを生起させる可能性が高いが、相手の性格や気分やいろいろな偶然(すなわち条件Y)が認識できないので、AがだめならBをしてみよう」「Aをしてみて、相手がこう出てきたので、いろいろ考えて、Bをしてみよう」と考えるのである。さらには、「相手はこう言ってきたので、まったく考えてもみなかったCをしてみよう。ちょっと冒険だが」という場合もあろう。この場合はなぜその状況でCが出てきたかを記述し分析することが、すぐれた臨床論となろう。
 直線を走る台車を考えても、途中で空気抵抗が変わるかもしれないし、偶然的な何かがが起こるかもしれない。ただ、そのスパン(空気抵抗が変化したり、偶然な何かが起こるまでの時間)が長いので、自然科学的客観性による記述が可能なだけである。直線を走る台車を相互行為的客観性でもって記述してゆくとかったるいことになる。
 人間関係や経済現象では、そのスパンが短いので、自然科学的客観性による記述ではおおざっぱになり、したがって相互行為的客観性による記述をするほうが臨床的な記述になり、実りが多くなる。
 ただし、人間関係や経済現象において、「AをすればZが生起します」と言われても、言われた側が相互行為的客観性のもとでその言明を再構成するならば、それは豊かなものになることもあろう。その場合は、「AをすればZが生起します」という言明の内容が、より具体的な諸現象まで目配りを利かせて発言されているかが問われることになる。


「気が付いたらFD」「状況に埋め込まれたFD」
 FDプログラムは「はい、これからFDしますよ〜」と言われてなされるものである。参加者は、「これはFDだ」ということを頭におきつつ受講する。何かを食べながら飲みながら、というように、FD色をなくしたプログラムでも、参加者は、FDなんだなという意識でプログラムに参加する。
 これに対して、何かわからんけど状況に正直に行動していて、後で気が付いたら、実はそれが立派なFDになっていた、ということもあろう。名付けて「気が付いたらFD」。
 たとえば、教職課程で、現行カリキュラムが齟齬をきたしている、ええ加減な学生がたくさん教職課程を受講している、教育実習に行かせて教職免許状を取らせていいものか。そこで、教職課程のカリキュラムは現状どうなっていて、今後どうあるべきか、を構成員で議論する。そこでは、教職課程のカリキュラムや授業のあり方、学生の実態、他大学の教職課程の実態について話されるであろう。さらに今後あるべき方向性が展望される。
 その議論が終わったとき、ファカルティメンバーは、ディベロップメントするであろう。まさに「気が付いたらFD」である。
 あるいは、「状況に埋め込まれたFD」といってもいい。ある組織にコミットしている限り、その組織の営みを考えざるを得ない文脈が発生する。「気が付いたらFD」「状況に埋め込まれたFD」は、自然な文脈で起こる、事後的に「FD」として生成してくるFDである。


ハレとしてのFD活動、建設的なうっぷん晴らしとしてのFD活動
 大学に限らず、組織の中で仕事をしていると、納得のいかないこと、なぜやっているのかわからない習慣などで、ストレスがたまってゆく。
 FD活動では、ホンネが大切である。したがってこのようなストレスに思うことも、ぶつけて、みんなで考える必要がある。ことさらに、大学の制度、大学執行部の方針、大学の習慣などを攻撃する必要はないが、FDでは社会性の許される範囲で、「無礼講」にならなければいけない。
 ハレとしての場、建設的なうっぷん晴らしの場として、FD活動を位置づけることである。ハレというのは、日常の構造をこわしたりズレさせたりして、日常を活性化させる装置である。
 ふだんのうっぷん晴らしは、単にむなしいだけであるが、FD活動の場であれば、それが教育や研究に位置づけられる。突拍子もない意見であっても、少々ズレた意見であっても、すべての人は、それについて耳を傾ける必要がある。それらの意見に対しては、またホンネで返そう。もちろん「声の大きい人」「ふだんからしゃべっているうるさい人」だけがしゃべるのではない工夫を、「FDする人」はしなければならない。
 その意味で、「FDする人」はハレの支援者、祭りをしかける人である。