FDをどうとらえるか

・FDのためのFDではなく、 参加すれば楽になるFDへ
 例えば、シラバス作りとか授業計画とかの日常業務を皆で楽しく学びながらおこなうというような、日常の文脈に根を張ったFDという方向性をさらに豊富にしてゆく必要がある。FD研修に参加したらシラバスや授業計画をつくる手間もはかどる、というような認識が持てるように。それによって啓蒙的なFD活動もより意義深いものになると考えられる。

・FDと聞けば(普通に真面目な)教員が喜ぶように
 FDは、法令的には「当該大学の授業の内容及び方法の改善を図るための組織的な研修及び研究の実施」ということになっている。ここでいう研修は、「教員や職員個人(さらには学生)の努力を促す」ために組織が行うものであると同時に、集団(大学として、学科として(あるいはワンマン経営者なら経営者として?)に努力を促すものであると理解するべきである。環境整備や、教員への過剰な負担の軽減、教員への教材研究費の増額、「教育方法研究」のためのサバティカルなどである。

・「砦(とりで)」としてのFD
 FDの義務化の中、相互研修型FDの組織化が、自主性、大学教員のプライド、大学教員の教育への責任性、自分にあったFDの要求等々・・・を担保するということを考える必要がある。
 「義務」というより「砦」「権利」としてのFDと考えるのである。世間の波に抗って「学術中心」あるいは「人文科学教養重視」、「自由放任」という大学をつくりたいという場合は、FDによってその思想をブラッシュアップし、カリキュラムや授業内容に反映させることができるのである。
 FDを、教育改革、改革で自主性という言葉を忘れかけてきた大学教員の味方、砦にせよ!