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21世紀の黒人文学のゆくえーー90年代を踏まえつつ   
                                    加藤恒彦
 わたしは『世界の黒人文学』(2000年)のなかの「アメリカ黒人文学概論」におい
て奴隷制度の時代から90年代初頭までの黒人文学の大きな流れを素描した。ここではそ
れにつづく90年代の黒人文学の新しい動向を部分的ではあれ押さえ、その将来を占う試
みを行いたいと思う。
アメリカ黒人文学の90年代の展開は80年代の延長としての側面と新たな時代を背景と
した新しい展開という両方の側面をもっている。前者に関連していえばトニ・モリスンの
『ジャズ』(1992)、『パラダイス』(1998)アリス・ウォーカーの『 』、『
』グローリア・ネイラーの『ブルースター・プレイスの男たち』等の70年代から80年
代の始めにかけて台頭し、黒人女性作家というジャンルを確立した作家たちがその創作活
動を持続している。その活動の多くは沈黙を強いられ空白となっていた奴隷制度の時代か
らそれ以後の時代にいたる過去の取り戻しや女性の視点からの物語に重点が置かれてきた。
現代を語るに必要な足場をまずは固める作業であり、女性の声に耳を傾けさせる時代を創
出してたのである。
 そのような作家が活躍した時代は、黒人が音楽、スポーツ、映画等の分野はいうに及ば
ず、ビジネス、政治、学問等の分野においてもかつてない規模でアメリカ社会の主流へ進
出してきた時代でもあった。しかし、そのような人々はアファーマティブ・アクションに
よって切り開かれた教育と就職の機会を捉えた人々であり、その多くは黒人中産階級であ
った。その結果、貧困、犯罪、劣悪な教育環境に悩まされるゲットーに住む黒人との格差
もまたかつてなく広がったのである。このような黒人の間での両極化が今日黒人の最大の
問題として浮上してきつつある時代に、後者の新たな時代の作家たちは表れている。
新しい作家たちを生み出した最大の要因は上記の中産階級の形成である。それはとにも
隠さず黒人作家を求める読者層の形成である。とはいえそれは自然に生まれたのではない。
トニ・モリスン、アリス・ウォーカー等々の作家の旺盛な創作活動の結果、80年代の黒
人中産階級は沈黙させられ、失われた過去や女性の視点からの物語を彼らの作品のなかに
発見したのである。同時に自分たちの直面する新たな現実をもっと知りたいという思いを
人々がもつのも当然である。そのような要望にまず答えたのがテリー・マクミランであっ
た。
Terry MacMillan
 マクミランの作風は90年代の新しい黒人文学の基調を象徴している。それは黒人中産
階級の身近な生活を対象に、そこに生まれている問題や関心事をテーマにして描くことで
ある。たとえばマクミランを世にだしたベストセラー『消え入る行為』(1989年)の
テーマは黒人男女の恋愛関係である。これはアリス・ウォーカーの『カラーパープル』に
触発された80年代初頭以来の黒人男性対黒人女性の間の対立の流れに違った方向を提起
した小説である。つまりお互いにセックス以上の人間関係を求めるまともな男女が多くの
失敗した恋愛の果てにやっとお互いを発見するのだが、その恋の道程にはアメリカで黒人
の男女として生きることから生まれ、相互理解をはばむさまざまな障害が立ちはだかる。
マクミランは機知とユーモアにみちた文体で問題にぶつかった時の男女の心の機微を描い
ているのである。ここにはイデオロギーの対立の構図を越えた、普通の男女の恋愛の世界
が描かれ、読者に黒人男女の関係へのより深い理解を提供しているのである。
一番新しいのは『いかにステラは元気を取戻したか』(1996)である。主人公のステラは4
2歳で離婚暦があり、小さな息子をかかえている。これまでの主人公との違いは、ステラ
がMBAをもつ有能なビジネスウーマンであり、大きな投資コンサルタント会社につとめ、
高収入を得ているという点である。まさに新しい時代を代表する黒人女性なのである。
物語は彼女が子供を元の夫のもとに預け、一人で1週間のカリブのリゾート地に気分
転換に向かう所から始まる。オールインクルーシブの豪華なリゾート地でステラが体験
するのはホテルで働く地元の学生との恋である。42歳の彼女と21歳の青年との恋を
彼女は最初は信じられないのだが、彼女がアメリカに帰ってからも続くにおよんで真剣に
考えるようになり最後は結婚にいたるという展開である。
だがこの小説には42歳になっても自分が男性からの恋の対象になりうるということへ
のナルシシズムが全面にでてしまっていて、『消え入る行為』にはあった黒人としてアメ
リカで生きることへの真剣な社会的関心が欠落しており単なる通俗的恋愛小説になってし
まっている。成功はマクミランを通俗作家にしてしまったのだろうかと痛感させられたの
である。
Jerome Dicky
ジェローム・ディッキーは、 マクミランの『消え入る行為』を90年代において受け継い
だ人気作家である。つまり黒人がアメリカ社会の主流に進出するという新たな展開のもと
での恋愛関係をマクミラン風に描いているのである。ただマクミラン以上に波瀾万丈の筋
立てで面白く描いているところに独自性があると思われる。やや通俗的であるが、90年代
の都会を背景にした恋愛が仕事の世界をバックにリアルに描かれていて外から眺めていては
知り得ぬ黒人社会の今風の人間模様をうかがい知ることができるのが魅力である。
紙数の関係で作品の中身の紹介は別の機会に譲りたい。
BeBe Moore Campbell
ビービー・モア・キャンベルは恐らく、新しい世代の作家の代表格であり、brothers and
sisters(1994)はその代表作であろう。この作品を読むと黒人を巡る新しいい状況としてわ
たしが述べてきたことをまさに例証することにもなるので、すこし詳しく紹介しておきた
い。
この小説の新しさはまず登場人物に表れている。MBAをもち大銀行で中間管理職とし
て働く黒人女性エスタが主人公でありその他の重要な登場人物にその銀行で新たに重役に
迎えられる黒人男性ハンフリーがいる。だがマクミランの最新作とは対照的にイナーシ
ティに住む人々もこの小説では重要な役割を果たし、物語の展開に有機的に組み込まれて
いる。
この作品のリアリズム的性格はそのリアルな状況設定に表れている。背景には93年4
月29日に勃発したロサンジェルス・サウスセントラルでの人種暴動があり、一気に人種
問題が吹き出した時期にどうロサンジェルスの企業社会や教会を中心とする黒人地域社会
が人種対立とその背景にある人種差別や貧困の問題に取り組んだのかが描かれている。
さらにこの時期は80年代のアメリカ企業社会の地盤沈下を反映し、アファーマティブ
アクションにたいする白人中産階級の一部からの不満も鬱積していた時期でもある。
この小説の直接の発端はエンジェル・シティ・ナショナルバンクの新社長プレストンが
暴動以後の人種関係改善施策として「多様化プログラム」に取り組むこをと決意し、その
ために重役として銀行界で黒人として最高の地位についているハンフリー・ボーンという
男性を迎えいれる決意をしたことである。その背景にはプレストン自身の知事選挙に共和
党から立候補の推薦を得ようという野心がある。大企業自身による「多様化プログラム
」の推進が自分への社会的評価につながり、政界への転身にプラスとなるというい計算も
あったのである。
しかし、プレストンの知らないところでそれに反感をもつ人々が銀行内に存在したので
ある。時期社長の椅子を狙う白人の他の重役とハンフリーの就任によって昇進の機会を奪
われた中間管理職の白人がそれである。後者は黒人へのアファーマティブアクションが自
分を犠牲にして行われるととらえ、黒人への反感を心に秘めているのである。彼らは本心
をひた隠しにし、巻き返しの機会をうかがうのである。アメリカの政治・経済・社会の大
きな動きを背景にし、それに企業戦略にからむ企業内権力闘争の物語が大きな柱となって
いるのである。黒人文学がそのようなテーマを扱ったことはこれまでなかったことといえ
よう。黒人がアメリカ社会の主流に参加する過程が本格化し始める次期の物語といえよう。
社長のプレストンが共和党から知事に立候補するためにハンフリーの抜擢を考え付くとい
うあたりもその事情を反映している。
他方、物語のもう一つの柱は、銀行のなかでのよりやり甲斐のある仕事への昇進をめざ
す野心的で有能かつ正義感の強い独身のビジネス・ウーマン、エスタ・ジャクソンを中心
にするものである。エスタにからむ物語はエスタが取り結ぶ人的関係の網の目の広がりに
したがって、それぞれ異なったテーマの展開として描かれてゆく。
エスタの融資分野への転身の願いは上記の銀行の上層での政治と人事のなりゆきと大き
くかかわってくる。すなわちハンフリーの就任はエスタが昇進上の願いに大きく有利に働
くが、上層での逆風とハンフリーの失脚は彼女の失職という事態となって跳ね返るのであ
る。
同僚の白人女性マローリーはフェミニズムに共感をもっているが、黒人の友人とのつき
あいは初めてであり、エスタが黒人の女性としてこれまで、そして現実に体験してきたこ
とには無知であり、エスタはマローリーに一定の距離を置いて付き合うのだが、しだいに
二人の間の率直な話し合いによって理解と友情が深まってゆく。そして二人の友情は
上層でのクーデターにたいするどんでん返しをもたらすことにもなる。
ブルーカラーの黒人男性タイローンとの恋愛も重要である。エスタは荷物の搬送業務を
しているタイローンとの間に相性の良さを見出すのだが、彼が高卒で貧乏であることから
結婚の対象とは考えられないのである。「経済的裏ずけのない恋はしない」というのが彼
女の信条なのだ。にもかかわらず、さまざまな出来事を通じ、そういう男性観の修正をせ
まられてゆくことになる。高学歴の黒人女性とそうではないが人間的魅力や誠意のある黒
人男性との関係という現実に黒人社会に発生している問題がここで描かれることになる。
他方、エスタは自分の基準にかなうハンフリーに心を寄せ始めるのであるが、当のハン
フリーはエスタには黒人どうしとしての友情関係は感じるが、恋愛感情をいだくのは白人
のマローリーであった。それを知ったエスタは「わたしたちじゃものたらないというわけ
ね」と反発する。しかしハンフリーには少年時代の苦い黒人女性体験があった。肌の色が
黒く、人生や学ぶことに真剣であったハンフリーは小さいときから同年代の魅力的な黒人
の少女に無視され、軽蔑されてきたのだ。この背景にはゲットーの学校での文化がある。
そこではまじめに勉強する生徒は「ガリ勉強」「白人」などと呼ばれ、逆にギャングに属
する生徒が幅をきかしているのである。
このようにして恋愛における白人対黒人の壁の問題、黒人の男と女の難しい関係の一端
が描かれている。このテーマはグローリアネイラーが『ママ・デイ』で描いたものを想起
させる。
エスタが窓口業務員として採用するイナーシティの貧しい黒人女性ラキーシャの物語は
イナシティの黒人の世界とこの小説の世界を結びつけている。ラキーシャには小さな子供
がいるがその若い父親はろくに家によりつかない。家族はアル中の母親、二人の高校生の
妹、そして祖母からなっていて、小さなアパートに6人が同居している。この家族はこれ
まで福祉の世話にならず自活した経験をもったことがなかったのである。しかしラキー
シャはそのような未来になんの夢もない生活から抜け出そうと決意する。そのきっかけを
与えてくれたのが自活を助けるボランティア組織であった。そこで彼女は銀行の窓口業務
の職業訓練を受け、エスタの銀行の採用試験を受けたのである。ラキーシャは客にたいし
ていねいで業務も正確にこなすことができた。しかし、もう一人経験や能力においてはラ
キーシャにわずかにまさる白人の青年がいたのだ。そのどちらを選ぶのかでエスタは悩む
のである。同じ黒人の女性として、会った瞬間からエスタはラキーシャに好感をいだく。
しかし管理職としての公平な判断という立場からは白人の青年を選ぶべきなのではと思う
のである。悩んだあげくエスタは「血は水よりも濃し」という論理でラキーシャを選ぶの
である。そしてそういう判断を下した責任を強く感じ、エスタの英語の間違いを始め彼女
の足らないところを個人的に指導するのである。
ラキーシャの家族のなかでは彼女が働き始めたことによって大きな変化が起きる。ラ
キーシャが自立しようとする努力の足をひっぱろうとさえしたアル中の母親は娘をサポー
トし始めるし、高校生の妹たちもラキーシャを誇りに感じ、勉強し始める。
しかしある時ラキーシャはひどく落ち込み、仕事も投げやりになってしまう。それはエ
スタの自宅で行われたパーティに参加したためである。ラキーシャは自分のアパートとエ
スタの豪華な家とのあまりの違いに驚き、そして自分にはどうあがいてもそのような家に
住むことができないという現実に打ちのめされるのである。同じ黒人であっても受けた教
育の差が貧富の差となって露骨に反映する時代が訪れたのである。
ハンフリーの物語も貧しい階層の黒人の世界と結びついている。彼の個人的に華々しい
成功にもかかわらず、彼の母親と妹は貧困な黒人の階層に属し老齢の母親の面倒と、刑務
所とストリートを往復する妹の夫の援助に悩まされている。
作品の背景にあってしかも重要な要素をなしているのがサウスセントラルの教会とその
牧師のライスである。ハンフリーもタイローンも違ったレベルではあるが教会とつながり
がある。ライスは黒人のコミュニティのサバイバルと経済的自立をめざしており、
黒人独自の銀行の設立を構想しており、陰謀によって職を去ったハンフリーはその
銀行に向かえられることになるのである。
キャンベルの手法は徹底してリアルに現実や人間関係に迫るもので、特別の文学的
手法を駆使するものではない。語りの視点は主要な主人公のエスタに置かれている場合
が多いのだが、必要に応じ、それぞれの人物の視点に移行し、行動の背景、過去、動機
考え方などがくっきりと提示されている。そのために多元的にスケールの大きな現実が
読者に了解できることになっている。この小説を読みながら久し振りに「時代の鏡」とし
ての小説というスタンダールの言葉を思い出した。小説という小世界にアメリカ社会を
縮図的に盛り込んだタイプの小説なのであり、キャンベルの共感は深くゲットーの現実に
まで届き、黒人小説としての原点を決して忘れてはいない。
キャンベルの最近の作品Singing in the Comeback Choirではテレビのバラエエィー
ショーのプロデューサとして活躍する黒人女性が主人公であり、その仕事の領域において
は黒人問題は存在しない。視聴率競争のなかでのプロデューサーとしてのサバイバルが問
題なのである。彼女を黒人社会に結び付けるのは元歌手でゲッとーから離れない母親であ
る。彼女は母親のために久し振りにゲットーを訪れるのであるが、その荒廃ぶりにあきら
めの感情にとらわれるのであるがタバコと酒に溺れ生きる意慾を失っていた母親がやがて
歌の世界に戻ってゆく体験を共有することによって新たな希望を抱くことになる。

The Seasons of Beento Blackbird
この作品の作家アコスア・ブシアはガーナ生まれでヨーロッパで教育を受けロスアンジェ
ルスに住む女性作家であり、映画『カラーパープル』にも出演したことがあるという異色
の作家である。黒人文学のグローバルな展開を体現しているといってもよいであろう。
この作品はソロモン・ウイーバーというカリブ生まれでニューヨークを拠点に活躍する
世界的に著名な黒人の児童文学者であり、アメリカやカリブの貧しい黒人たちのための社
会的活動にも積極的な人物である。
この小説はそのソロモンと三人の女性をめぐるラブ・ロマンスである。ソロモンは作品
の執筆や契約は春ニューヨークで行い、そのあと夏はカリブの生まれ故郷、冬はガーナに
姿をくらますという生活を送っている。ソロモンがカリブとガーナを行き来するのはそこ
にそれぞれ妻がいるためである。カリブにはミリアムという中年にさしかかった昔からの
妻がおり、ガーナにはとし若い妻がいる。他方、ソロモンの編集者の白人の女性サムも彼
に密かに恋をしている。ソロモンはこのように名声と富みと魅力的な女性にかこまれ至れ
り尽くせりの状況いあるかにみえる。だがこの物語はそのようなソロモンがそのような生
活の破綻に苦悩し、果てにカリブの島の洞窟に立てこもり一種の行の後に再生し、それま
での生活を一新するするという構造をとっている。
だがなぜソロモンは再生する必要があったのか。そこには引き裂かれたアイデンティ
ティの問題があった。ソロモンの母親はカリブの女性であったが父親はアメリカの富豪の
白人であり、カリブを家族で旅している折に妻に隠れてソロモンの母親にソロモンをはら
ませ、「帰ってくると」言い残しながらも帰ってこなかったのである。母の死後ソロモン
は父親を頼ってアメリカにわたるが、その家族から迷惑あつかをうけ、寄宿舎にいれられ
教育だけはアメリカで受けることができたのである。このようにやっかいもの扱いを受け
た経験からソロモンはアフリカとアメリカとカリブの黒人に対し連帯の感情をもつように
なり、彼はアフリカの語りべからきいた過去の物語を素材に児童文学の世界を作り上げて
きたのである。

ソロモンのアイデンティティの危機もたらしたきっかけは父親の死であった。ソロモンは
父のすむフィラデルフィアの豪邸を訪れるのであるが、そこで彼は父親の家族から冷遇を
受ける。残された息子たちはソロモンの存在そのものを母親への侮辱だと感じ家族の輪か
ら排除するのであった。ソロモンの心は怒りと孤独に引き裂かれる。ニューヨークに帰っ
てきたソロモンは傷ついた心の癒しを求めてサムと会い、初めて自宅に彼女を招待する。
ソロモンに恋心をいだくサムはその機会を捉えソロモンを誘惑する。ソロモンは気持ちを
そそられながらも必死にあらがう。それに激怒したサムは「あなたは結婚しているの」と
彼の私生活を詮索する。ソロモンは二人の妻をもちガーナとカリブを行き来する自分の私
生活を始めて打ち明ける。それにたいしサムはソロモンの生活スタイルや二人の妻との関
係を批判し同時に自分だけがソロモンの心の全てのニーズに応えることのできる人間だと
主張する。
サムはソロモンの2人の妻との生活を「惨めなライフスタイル」ときめつけ、それが
「幻想」に基づくものだという。「奴隷制と不平等な権利のすべての結果。あなたの旅行、
あなたの多民族的な育ちには目的がある。そしてその目的はあなたがもの珍しい外国の妻
を集めることではないと私は思うの。わたしたちに必要なのはあなたのような人がアフリ
カをわたしたちの心と精神と文化にとりもどしてくれることなの。あなたはここアメリカ
のものなのよ」。この言葉を聞きながらソロモンは「基本的な生活の鼓動が失われてゆ
く」のを感じ動揺する。
ソロモンとミリアムの関係が危機を迎えるのはこのサムとの会話のあとミリアムのまつ
カリブに帰ってからである。ソロモンはミリアムと性的関係をもつことができなくなるの
である。ソロモンはサムとの間のように知的な会話が存在しないことが不満となり、思い
のたけをミリアムにぶつける。ソロモンはミリアムが彼と一緒にアメリカに移って住もう
とはしないこと、アメリカ人としての彼を認めないこと、彼のアイデンティティを一つに
制限しようとすることを不満とし、ガーナのアーシャがアフリカ人としての彼だけではな
く、特定のアイデンティティに制限されない全てをあわせもった人間として受入れてくれ
たことが彼女に愛を感じた原因だという。そしてアシャーと関係をもつのを我慢し、許し
を得にミリアムのもとに帰ってきたのだという。
それにたいし、ミリアムは「それはわたしにも辛いことだったのよ。でもあなたへの愛
があったからできたことだったのよ」という。しかしソロモンは「もし君が僕と一緒にア
メリカに来てくれたなら僕はアーシャを必要とはしなかっただろう。もし君がこの島にし
がみつこうとしなかったなら」という。それにたいし産婆をしているミリアムは「この島
はわたしを必要とするのよ」と応える。それにたいし「でもこの島は僕のものではない」
と叫ぶのである。そして2人の関係を「幻想」のうちになりたっているのかも知れないと
いってしまう。するとミリアムは緘しで自分の腕を傷つけ「わたしは幻想なんかじゃない
わ。生きているのよ」と叫び家を飛び出してゆく。ミリアムはソロモンとの関係の危機の
本質をアーシャではなくサムに起因するものであるととらえ、自分に「生き返るのよ。闘
わず引き下がったりはしないんだから」と呼びかける。
このようにしてミリアムとの間に訪れた関係の危機のためにソロモンは夏になっても
アーシャがまつガーナを訪れることができない。しかし、ガーナではアーシャがソロモン
の初めての子どもを妊娠しソロモンの帰りをまちわびていたのである。そしてアーシャは
乳飲み子をかかえたまま単身カリブの島を訪れるのである。こうしてソロモンは2人の妻
との共同生活に入ることとなる。一夫多妻制のガーナからやってきたアーシャにはミリア
ムとソロモンを共有する生活はそれほど苦痛ではなかったであろう。しかし、ソロモンが
ミリアムに愛情を注ぐ場面を目撃することは決して気持ちのよいものではなかった。他方
ミリアムは愛するソロモンがアーシャを愛し、自分の子どもを見て喜ぶ姿を耐えなくては
ならなかった。とりわけソロモンとの間に子どもがなかったのは自分の側の責任だと感じ、
子どもを産めぬ自分の体を恥じる。このような関係のなかでミリアムは最初、ソロモンか
ら遠ざかるがやがて週のうちのいく晩かは自分と過ごすようにたのむ。
こうしたなかでサムがこの島を訪れ再び彼等の生活にゆさぶりをかける。ソロモンは遅
父の死とそのあとでのサムとの会話、そしてミリアムとの関係の危機のなかで創作意欲を
喪失し、出版社との連絡を断絶していたのである。しかしサムはエイジェントとしての仕
事越えて個人的な目的をもってやってきたのである。すなわちサムはソロモンをカリブと
2人の女たちから引き離し、ニューヨークに連れ戻し、創作に専念させようとするのであ
る。サムはミリアムに「こんなところにソロモンをおいておくと彼は死んでしまうわよ
」「わたしは彼を連れて帰るためにきたのよ」と宣言する。興味あることは、ミリアムは
サムの言葉に影響されたソロモンが2人の関係を「幻想」に基づくものだといいだしたと
き「彼は死にかけているは」といっていたことである。ここから理解できることはソロモ
ンを本当に生かすことができるのはどちらなのかという闘いがこの小説の深いテーマであ
るということである。
サムはソロモンを連れて帰ろうとするがソロモンはサムの気持ちに感謝しながらも帰り
はしなかった。しかしミリアムはソロモンがサムとともに自分と島を捨てるかもしれない
という恐れのなかでかつて自分の腕を切り裂いた干支を再び手にとり自殺する覚悟をして
いた。それを知ったソロモンは自分の「夢」がどれほどミリアムを傷つけているのかを知る。
そしてこの事態をどう解決するのか考え始める。アーシャがイギリスの大学への入学試験
に最高の得点で受かったという知らせがやってきたのはそのようなときであった。思い惑
いながらもソロモンはアーシャを大学にやろうと決意する。それを聞いたアーシャは、
「自分を追いやろう」とする行為だと猛反発し「いままでどおりの生活で十分みんな幸せ
ではないか」と主張し、ミリアムにも必至に同意を求める。しかしミリアムはその訴えに
何も言わずきびすを返したのである。こうしてソロモンはアーシャをも深く傷つけること
になり、それが自分の行為から生まれたことを深く恥じ、アーシャを送り出したその日か
ら姿をくらましてしまう。彼は近くの島の洞窟に5ヶ月の間隠遁し、聖書をたよりに自分
の人生を反省したのである。そしてソロモンはミリアムに「あなたさえよければ愛させて
欲しい」と申し入れ、「言葉ではなく、何があろうと無条件で自分を愛してくれたことが
どれほど自分を成長させてくれたのが最近になってやっとわかった」というのである。そ
してミリアムの気持ちがそれを受入れる用意ができるまで35日間、家の外で生活し、ま
つのである。ミリアムとの愛の再生がソロモン自身の再生となるというのがこの小説の帰
結となっている。
サムは彼女の知性によってソロモンを発見し、社会にだし、創作への意慾を奮い立たせ
る役割を果たしたのだが、ミリアムはソロモンの存在の根底を支えていたのである。

ブシアのこのような黒人男性の描きかたは80年代の黒人女性作家との違いを印象づけ
る。すなわちブラック・マッチョ対ブラックフェミニズムとの二項対立が見られないので
ある。黒人の男女の間の溝は男性の側の家父長主義的女性蔑視ではなく黒人男性の自身の
黒人としてのアイデンティティの揺らぎだとされ、その再確立によるより深い愛の成立が
描かれているのである。

以上、垣間見てきた90年代の新たな展開を通じ、21世紀に向けての展開として何を果し
ていいうるであろうか。恐らく、黒人文学は二極化に道をたどるであろうということであ
る。すなわち一方では、マクミランの『ステラ』に見られたような黒人の社会的成功とと
もに黒人としての問題意識の希薄化、それにともなう通俗文学的方向が増大してくるだろ
ういうということである。他方、黒人の過去を現代的問題意識から真摯に掘り起こそうと
いう動きは今後も続くであろうし、また現代そのものをより深く描こうとする文学も生ま
れてくるだろうと期待される。80年代までの展開では重要な意味をもったブラックフェミ
ニストとしての観点が今後は薄れるであろうがより語るべきものをもつ女性作家の優位は
揺るがないであろう。またゲットに取り残された同胞への問題意識をどれほど持ち続けら
れるのか今後の黒人文学の質を計る重要なものさしとなるであろう。もう一つの重要なも
のさしはディアスポラ的観点である。アフリカやカリブ、イギリスへの黒人移民などの体
験や観点が新しい方向として今後もっとでてくるのかも知れない。いずれにせよ黒人問題
としていまだ未解決の部分が今後の展開を支えるとわたしは考えている。








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