もとへ戻る

『トニ・モリスン』 木内徹 森あおい(偏著) 彩流社

 本書は最近富みに研究者の注目をあびているトニ・モリスンについての日本で6冊目の

研究書である。モリスンとのアメリカの研究者のインタビュー3本の翻訳、森氏によるモ

リスンへの直接の質問へのモリスンの答え、モリスンのこれまでの経歴、森氏と木内氏の

メールによるモリスンの作品世界を巡る討論、木内氏による全作品の解説がその内容であ

る。

 インタビューや作家の経歴はこれからモリスンを學ぶ学生諸君にとって格好の読み物になるだろうと思われる。翻訳も読みやすい。

 書評という立場からは著者のオリジナリティーがもっともでているメールによる討論部分について言及すべきだろう。討論の一方の方、森氏はToni Morrison and Womanist

Discourse,  Peter Lang Publishing, 1999の著者であり、この討論での発言もそれをバ ックにしたものが当然のことながら多く、問題提起の多くをなしている。

 森氏の発言をその全体としてみたとき、奴隷制や黒人存在の無視のうえにたったアメリ

カ史の黒人の視点からの書き替えをモリスンの企ての根幹にあるものとしてとらえ、その

方法をさまざまな論点を通じて展開しているととらえることができよう。たとえばヨーロ

ッパの神話を下敷きにしつつ、それを修正する方法がほとんどの作品に通底しているとい

う。そのような新たな神話創造のひとつの帰結がヨーロッパの文化と科学に対置した新

たな価値観の探求だという。また一般のアメリカ歴史では無視されてきた黒人の独自の歴

史(奴隷制、北部への移住、第一次大戦後の人種暴動と等)が作品のなかに組み込まれて

おり、したがって読者がそういう黒人史を知っていることの重要性も強調される。

 だが提起されている論点には筆者として疑問を感じるものもある。たとえば木内氏は

『ビラヴィド』のセサとビラヴィドの関係を、子供が「もっとも大切にしている人を破壊

してしまう」ものとしてとらえている。たしかにそういうように見える局面も存在するの

であるが、そのメカニズムを分析すると違う見方がでてくるのである。すなわちセス自身

の心のなかに、奴隷主に思いがけず追い詰められたとき「娘を愛しているからこそ殺した

」という子供への弁明と、「愛するものを殺してしまった」という罪悪感が存在したので

ある。セスがビラヴィドの甘えと糾弾に屈伏し破壊されてゆくのはそのような心の葛藤・

矛盾を抜きには考えられないのである。さらにセスの社会的孤立がそのような心理的葛藤

をより深刻なものにしたということができよう。ポールDが立ち去り再び孤独と孤立のな

かに置き去りにされた母娘が凍てついた池の上でスケートをする場面について「時間がと

まってしまったようだ」という森氏の指摘は正しいと思うが、なぜとまったかといえば孤

立によって子殺しの時点に、解決のつけようのない永遠の葛藤に、心理が凍結されてしま

ったからであろう。そうした危機から母親を救ったのは恋人の帰還とコミュニティとの和

解による新たな人生の開始と「愛するもののために闘う」という新た選択肢を心理的に実

践したからであろう。

 

もう一つの論点はモリスンが西洋の文化や科学の伝統に対置しどのような新たな価値観を

提起しているのかという問題である。森氏は『ソロモンの歌』のサースを引き合いにだし

その根拠にしているが、もと主人の妻の死後も屋敷にサースがいつづけるのは自分を人扱

いしなかったことへの憎しみの深さゆえのことであった。しかしこれを死後も主人に忠実

な召使という黒人の古いステレオタイプを突き崩すという意味を超えて何か新しい価値観

に繋がるものを見出すのは困難である。『パラダイス』において権威主義的で非寛容かつ

偽善的な宗教に対置し修道院の既存の教会の権威に批判的な精神主義が提示されているの

は事実であるがその精神性の内容についてがグノーシス派の信仰とかかわりがあるという

研究もある。つまりヨーロッパの伝統の一部にである。安易にモリスンを新しい価値観の

提示者と主張することには反対である。他にも興味ある論点が数多く提起されているが与

えられた紙数も過ぎてしまったのでこの辺で筆を置く。

 もうひとつ論点として提示したいのは同じく『パラダイス』における冒頭の「彼らは最

初に白人の女を殺した」という文章にかかわって、モリスンは「人種は問題ではないとい

うことをいいたかった」と発言しているのだが、その意味について筆者たちは、「人種の

問題はやはり重要だ」という趣旨のを示している。だがこれはモリスンの意図の誤解では

ないかとわたしは考えている。読者は修道院に集う女たちの人生をその人種を意識しつつ

読むのであるが、そうするうち、実はわからないという体験を多くする。モリスンは意図

的に彼女は黒人だとか白人だとか言及せずに描いているからである。彼女たちの人生の

苦難には人種問題に還元できない女性としての要素があるのである。このような描き方を

モリスンがすることの意味は人種や肌の色にとらわれる文化の無意味さを示すことにある

とはいえないであろうか。