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アメリカ黒人文学論

                                    加藤恒彦 

アフリカ黒人に先祖をもつ人々のなかで、新世界の発見によって貪欲な富の獲得に野心をもやしたヨーロッパ人によって北アメリカに強制連行され、奴隷として売買され、働かされた人々に起源をもつ文学がアメリカ黒人文学である。アメリカで奴隷制度が生まれたのは日本の江戸時代の初期であり、南北戦争によって奴隷制度が崩壊するのが明治維新とほぼ同じ時期である。つまり2世紀半にわたってつづいた日本の江戸封建時代の間、アメリカでは南部

を中心に奴隷制度が存続していたのである。だがその間アメリカは清教徒の植民により、キリスト教に基づくイギリスの植民地として出発し、イギリスからの独立戦争を経て世界で初めて「万人の自由と平等」を理念とするの民主主義国家を成立させ、産業革命を推し進めていた。日本が鎖国をつづけている間アメリカは前近代から近代への歴史的道程をダイナミックに駆け抜けていたのである。だがそれは、先住民族のインディアンを非キリスト教徒の野蛮人だと規定し、その土地を奪い、その後に奴隷労働に基づく綿花王国が拡大、強化されてゆく時代でもあった。

 しかし、どのようにして奴隷制度は、「万人の自由と平等」という高邁なアメリカの理想と共存しえたのであろうか。これにたいする答えはある意味で単純である。当時のアメリカ白人は黒人を同等の人とはみなさなかったのである。いやこれは当時のアメリカ白人に限ったことではない。フランス革命の思想的準備をしたヨーロッパの啓蒙主義の思想家たちでさえ、アフリカ人を文化や文明の創造者として認めない人種主義にとらわれていたのである。

 そのような当時のヨーロッパの人種主義的な知的枠組みが、19世紀末からの植民地主義の前提にあったことは明らかである。そして人種主義が大きく問われるようになるには第2次世界大戦後の植民地解放と独立の嵐の時代を待たねばならなかったのである。

 そのような大きな歴史的視野にたった時、資本主義的民主主義国家としてのアメリカが人種主義によって合理化された黒人奴隷制度を富の源泉の重要なひとつとしていたことも理解できるのである。

 しかし黒人の知性や文明創造力の否定を根拠に奴隷制度が合理化され、その上にたって文明の証としてのキリスト教を基礎とした民主主義の国家体制が成立したという事情が黒人文学の成立の根本条件を規定することになる。すなわち黒人奴隷はまず自らの人間性を主張し、そのためにも文明の最大の証としての書くという行為に戦略的な位置を与える必要があったのである。

 さらに黒人奴隷は自由と平等というアメリカの理念に誰よりも一体化し、それが黒人にも広げられることを望んだのである。さらに黒人はキリスト教をますは受け入れ、さらにキリスト教のなかの、奴隷としての境遇を生き抜く力となる部分を受け入れ、黒人にとってのキリスト教へと変容させてゆく。書くことによる人間性の主張、民主主義への一体化、キリスト教の受容とその変容がアメリカ黒人文学の基本的枠組みを形成したのである

 この事情を黒人で初めて詩集をを出版した女性、フィリス・ホイートリの例を取り上げながら見てみよう。

フィリス・ホイートリ(Phillis Wheatley, 1753?-1784)

フィリスは1761年、7,8才の時西アフリカからアメリカにつれてこられたが、彼女を買い取ったのがボストンの富裕な商人で敬虔なクリスチャンであったホイートリ氏であったことが幸いした。ホイートリー氏はフィリスを召使として使っていたが尋常ならぬ才能が彼女にあることを発見し、読み書きを教え、聖書、イギリス文学、ラテン文学を身につけさせたのである。やがてフィリスは10代後半の若さで当時の最高の芸術であった詩の形態を

マスターし、自ら詩をかいたのである。すでに述べたように黒人には人間としての知性がかけており、ましてや知性の最大の形態と考えられていた詩などかけるはずかないというのが当時の白人のエリートの間で定説であったため本当にフィリスがその詩を書いたのかがボストンにおいて大問題となり、ついにはマサチュセッツ州の知事・副知事、ボストンの政界、宗教界の有力者によりフィリス自身が面接を受け、確かに彼女が書いたという文書を冒頭につけてイギリスで1773年に出版される。そしてフィリスは自由人の資格を与えられたのである。

 さらにフィリスの詩の内容を見てみると、ギリシャ、ラテン芸術の詩神との一体化、慈悲深く、人類の罪のために身を犠牲にし、再び復活したキリストへの共感、アフリカの両親のもとからつれ去られた体験を基礎にした、自由を求めてイギリスの圧政と闘うアメリカへの共感等が重要なモチーフとなっている。

 フィリスのケースはアメリカが自由と民主主義をかかげて闘っていた独立戦争の時期のリベラルな時代精神の高揚という文脈においてとらえることができよう。しかし独立後のアメリカは保守化し、やがて19世紀にはいり北部における産業革命の時代を迎える。繊維産業の北部での発展は南部の奴隷制プランテーションで栽培される綿花への需要を急速に高め、奴隷制度の南部による自主的な廃止を夢物語と化してしまう。

 他方、北部の産業資本主義と南部の奴隷制度の間には経済的な利害の対立と政治的対立が生れる。それは根本的には奴隷制度のアメリカなのか、それとも産業資本主義のアメリカなのかという対立であり、ついには南北戦争に発展したのである。奴隷制廃止運動が北部においてラディカルな白人を中心に組織されてゆくのはそのような文脈においてであった。

ではそのような時代の変化のなかで黒人はどうしたのか。19世紀初頭には黒人の奴隷反乱があいつぐがいづれも鎮圧される。奴隷反乱に恐慌をきたした奴隷主たちは奴隷への管理・統制の強化によって応じる。その結果、南部における奴隷制反対運動は事実上不可能とな

る。そうしたなかで黒人の北部への逃亡が奴隷制廃止論者の白人の協力を得て大きな動きとなる。そうした展開のなかで成立したのが「奴隷体験記」(The Slave Narratives)というひとつの文学ジャンルであった。「奴隷体験記」は逃亡奴隷自身によるを奴隷制度の非道や残酷さ、アメリカの理念との矛盾を鋭く批判し、自由主義的アメリカ白人の良心に訴えたのである。

「奴隷体験記」やフィクション

 そのなかで特筆すべきは以下の三人の黒人による作品である。ウイリアム・ウエルズ・ブラウン(William Wells Brown, 1814?-1884)は『クローテルー大統領の娘』(Clothel; or, The President's Daughter)(1853年)のなかで、アメリカ大統領でもあったジェファソンが黒人に生ませた娘の悲劇的な人生を軸に自身の奴隷体験のみならずさまざまな黒人の奴隷体験記を織り込んだフィクションを書いた。フレデリック・ダグラス(Frederick Douglass, 1818-1895) は逃亡奴隷としてのみづからの体験を『フレデリック・ダグラスの人生の物語』(Narrative of the Life of Frederick Douglass, an American Slave,

Written by Himself)(1845年)を始めとする何冊かの自伝を出版するとともに、奴隷制廃止運動の指導者として歴史に名を残したのである。また黒人女性のハリエット・ジェイコブ(Harriet Jacobs(1813-1897)は『ある黒人娘の人生の出来事』(Incidents in the

 Life of a Slave Girl)(1861年)において美しい混血の黒人女性であったがゆえにこうむらねばならなかった白人奴隷主による性的ハラスメントと奴隷制度のもとからの決死の脱出のドラマチックな体験を描いた。こうした作品に共通するのはアメリカの民主主義的理念、キリスト教、ヴィクトリア朝のモラル等当時の白人文化の支配的傾向ををふまえつつ、黒人を奴隷として扱うことの非道や不合理を訴えた点である。

 

再建期からジムクロウの時代

奴隷制度は南北戦争における南部の敗北によって崩壊し、「再建期」の改革によって黒人は法律上アメリカ市民となり、選挙権も認められる。しかし黒人に土地を分配する改革は頓挫し、そのほとんどが南部の農村にとどまった黒人の実際の境遇は小作人として、白人地主の属人的支配関係と貧困のもとのもとにおかれる。そして南部の新旧支配層の反撃がやがて

始まり、選挙権の行使や反抗はリンチを始めとするテロリズムによって厳しく押さえつけられる。そうした結果、ジムクロウ制度という徹底した人種隔離政策が南部において社会制度として定着してゆく。そのような動きを象徴するのが19世紀末の「隔離はすれども平等」というプラッシー対ファーガソン最高裁判決であった。

 そのような厳しい社会状況の展開のなかで南北戦争前後に生まれた黒人のなかから新しい時代を代表する黒人指導者が生まれる。

 そのうちの一人がブッカー・T・ワシントン(Booker T. Washington, 1856-1915)である。南北戦争 前夜に奴隷の子として生まれたたワシントンは解放後、働きつつ必死に学び、黒人とインディアンのための職業教育を施すハンプトン・インシュチチュートに入学する。優等で卒業するとハンプトンで引き続き教職につくが、やがてそして黒人教師を養成するためのタスキギー・インスチチュートを設立する許可を得る。

 ワシントンが全米の白人から黒人指導者として認められる機会となったのは1895年のアトランタ博覧会での演説であった。ワシントンは当時の厳しき人種関係のなかで黒人が教育を受け、その経済的地位させ向上と人種的誇りを保持するための方策として、黒人と白人の人種隔離政策を認めた上での南部での共存を打ち出したのである。その方向は北部と南部の有力な白人の支持を得、これ以後ワシントンのもとに黒人の境遇改善のための資金が集中されることになる。

 ワシントンが後世に名を残すことになったのは『奴隷より身を起こして』(Up From Slavery)(1901年)という自伝によってであった。世界各国に翻訳された本書はワシントンの戦略を自己の人生に即して世に明らかにするものであった。すなわち貧困や厳しき人種差別のなかを教育への情熱と努力と実際的な才覚によって切り抜け成功にたどりつくという自助努力にもとづく成功物語なのである。これが単なる個人的出世物語と異なっていたのは黒人全体のために奉仕するという視点がある点である。

ワシントンと対照的な黒人指導者はW.E.Bデュボイス(W.E.B. Du Bois, 1868-1963)であった 。ドイツの大学で学び、ハーバード大学で博士号を得たデュボイスは典型的な知識人であり、黒人の聖書と呼ばれる『黒人の魂』(The Souls of Black Folk)(1903年)によって新たな黒人の指導者として世に知られることになる。デュボイスは、現実主義的なワシントンとは違い、黒人のアメリカ社会での本来の地位や白人との関係を展望した方針を提起し、ワシ

ントンと対立してナイアガラ運動(1905年)をおこし、後の公民権運動において大きな役割を果たすNAACP(全米黒人地位向上協会)の創設メンバーとなり、歴史に名を残す雑誌「クライシス」(Crisis) の編集者としてその主張をアメリカ黒人に訴えたのである。

 19世紀末から20世紀の初頭にかけてワシントンやデュボイスが果たした役割を文学の面で果たしたのがチャールズ・チェスナット(Charles W. Chesnutt(1858-1932)である。三冊の短篇集と三冊の長編小説を発表したチェスナットは、黒人で初めて文筆のみで生きてゆことした作家であった。チェスナットは短篇集で、プランテーションに働く黒人奴隷の、一見素朴でくったくのない外見の裏に隠されたサバイバルのための創意的な知恵を描くことによって暗に黒人を市民権にあたいする存在であることを示したのである。

 他方、チェスナットは長編小説のなかで再建期以降の南部社会を大きなスケールで写実的に描きつつ、美しい混血の黒人女性の悲劇や有能な黒人医師を黒人であるというだけの理由で医師として認めようとしない白人社会を描き、差別的偏見の非合理や悲劇を描く。 チェスナットは当時の白人社会の著名な批評家からも高い評価を受けるが出版のみで家族の生活をささえることに絶望し、法廷リポーターの仕事にもとることを決意しなくてはならなかった。

ジェームズ・ウエルドン・ジョンソン(James Weldon Johnson, 1871-1938)は教育者、作曲家、雑誌や黒人詩のアンソロジーの編集者、アメリカ政府の外交官、NAACPの代表、大学教授等き わめて多彩な人生を送った人物であるが、その人生を貫くことになった基本思想をを

アトランタ大学の学生としてジョージアの田舎で黒人のこどもたちに教えた経験から得ている。フロリダの黒人中産階級の恵まれた境遇のもとで育ったジョンソンは、南部の田舎で黒人大衆と自分との間にある血よりも濃い絆を見いだし、黒人を前におしやる究極の力は黒人大衆にあると確信をもつにいたったのである。

ジョンソンの名を後世に残すことになったのは『元黒人男性の自伝』(The Autobiography of an Ex-Colored Man)(1912年)である。あたかも本当の自伝であるかのような体裁でかかれたこの小説は、上記のジョンソン自身の確信とは逆の方向に生きる黒人男性の人生を綴っ

たものである。つまり黒人大衆とともに歩もうとするのではなく白人社会のなかに紛れこむことによって黒人に降り掛かる悲惨な人生から逃れる道を選んだ黒人の人生である。だがこの小説ほど黒人の音楽、教会、黒人の庶民の生活が豊かに描かれた小説はなく、主人公の歩む方向とは裏腹に黒人への作家の共感を感じさせるのである。

 

ハーレム・ルネサンス(Harlem Renaissance)

20世紀の初頭から20年代にかけての時代は黒人史と文学の歴史にとって大きな飛躍の時期であった。この時期黒人は北部の都会に向けて一大民族移動を行なうのである。農村での不況、黒人へのリンチ事件の多発、第一次大戦による北部の都会での労働力不足を背景に黒人は南部から北部の大都会へと大量に移住する。そしてそこに新たな黒人社会をつくりだすの

である。自由や豊かな生活を求めて北部に移住した黒人は職業差別、住居上の差別、人種暴動等に直面するが南部とは比べものにならぬ自由と活気に満ちた都会生活のなかから新たな黒人としての意識と運動、知的・芸術的活動を展開するのである。

黒人の中産階級はNAACP,National Urban League(NUL)などの黒人の権利や職業上の差別に反対する組 織を持ち、新聞、雑誌を発行し、詩や小説を書き、黒人特有の音楽を発展させ、演劇、絵画の分野にもユニークな貢献をする。他方、黒人の庶民はマーカス・ガーベイ(Marcus Garvey, 1887-1940)のアフリカ帰還運動に共感し、黒人史上始めてての大規模な草の根の

大衆運動を繰り広げる。ガーベイ運動はアメリカの人種主義の絶望的なまでの根強さにたいする黒人庶民のナショナリズムを反映したものであり、後の公民権運動の展開を予見させるものである。

このような黒人の新たな意識と行動の覚醒を1925年に発刊された「ナショナル・ジーオグラフィック」(National Geographic)の黒人特別号のなかで、黒人の哲学者アラン・ロック(Alain Locke, 1886-1954)は「新しい黒人」と名付けた。この「新しい黒人」の文学的・芸術的開花が「ハーレム・ルネサンス」である。ハーレムとは「新しい黒人」のメッカと呼ばれたニューヨークのマンハッタンのセントラル・パーク以北の黒人居住地域であった。ここに

は真新しいブロック建築のアパートが立ち並び、富裕な黒人から庶民まで様々な階層の黒人、大学教授、医師、法律家、芸術家、音楽家等の新たな知識人、芸術家の集団、様々な宗派のキリスト教やその教会がより集っていたのである。もとより黒人の文学・芸術活動がこの地域にのみ限定されていたわけではないが、他を圧倒するダイナミックな展開を見せたのかハーレムだったのである。

 そのようななかから生まれたのがラングストン・ヒューズ(Langston Hughes, 1902-1967)、ゾラ・ニール・ハーストン(Zola Neale Hurston, 1891-1960)、ネラ・ラーセン(Nella Larsen, 1893-1964)、ジーン・トゥーマー(Jean Toomer,1894-1967)、ジョージ・スカイラー(George Samuel Schuyler, 1895-1977)、ウオレス・サーマン(Wallace Thurman, 1902-1934)、ジェシー・フォーセット(Jessie Redomond Fauset, 1884-1961)、ドロシー・ウエスト(Dorothy West, 1907-1998)クロード・マッケイ(Claude Mckay, 1889-1948)、アーナ・ボンタン(Arna Bontemps, 1902-1973)、カウンティ・カレン(Countee Cullen, 1903-1946)は等の文学者である。

 個々の作家についての解説は各論にゆずるとして、ここではハーレム・ルネサンスの全体を見渡した場合の今日的な視点からの議論についてに触れておきたい。

黒人芸術家の創作の源泉は、もちろんのこと貧困と人種主義にたいする批判であったが黒人大衆とエリートとして黒人知識人の間のギャップは思いのほか大きかったのである。それを典型的にしめしているのは黒人大衆が熱狂的に参加したガーベイ運動にたいするデュボイ

スを始めとする黒人知識人の批判である。このギャップのゆえに黒人芸術家の庶民の描きかたには大きな幅があった。また黒人大衆も読者として黒人芸術家をささえるにはいたらなかったのである。そのため読者として白人中産階級を想定して書くという伝統は依然として主流であった。

他方、黒人芸術の在り方そのものについても新旧の黒人知識人の間で意見の違いもあった。一方では人種の前進のために黒人芸術は奉仕すべきであるとして政治方針と芸術の関係を狭くとらえる方向と、モダニズム芸術の影響を受け、芸術の自由と手法の実験的追求、ある種

のデカダンスやボヘミアン的傾向を示すものもあった。またホモ・セクシュアリティの自由を暗に主張するこの時期としては大胆な動きもあり、保守的な黒人知識人の反発をかったのである。

 またこの時期はすでハーストンを始めとする黒人女性作家の先駆ともいうべき作家たちの活躍があったのであり、今その新たな評価が進行している。

ハーレム・ルネサンスのもうひとつの大きな特徴は、黒人や黒人芸術が白人知識人の大きな関心のまととなり、財政的にも貧困な黒人芸術家を庇護する白人の富豪もあらわれたことである。では白人の関心とは何であったのか。それは現実の黒人の姿や芸術への理解に基づ

くというよりも、白人社会の文化的抑圧性からの解放を黒人のなかに求めたのである。すなわち黒人や黒人芸術のなかに原始性、奔放性、エキゾチックさ、エロチシズム等を求める傾向である。したがって黒人芸術家がその枠組みをこえて独自な道を歩み始めるとそれを抑圧しようというパトロンもあらわれたのである。

 しかしそのような白人の関心や庇護もアメリカのバブルがはじけ大恐慌の時代を迎えると一気にしぼんでしまう。だが重要なのは20年代に作家生活を開始したこの時代の作家には30年代に入り、新たな傾向を模索したり、世間の忘却にもかかわらず傑作を発表した人々もいたことである。

 

赤い30年代と黒人文学

 大不況は1200万人の失業者を生み出しアメリカ資本主義の屋台骨を大きく揺るがした。ソビエトでは不況知らずの社会主義計画経済が効果を上げ、人々の助合による新しい社会秩序が建設されているかのように思われたからである。1933年に出発したニューディール政策は労働組合を認め、政府主導の公共・福祉政策を打ち出したが、不況は第2次大戦の勃発によってしか解決できなかったのである。

 アメリカ共産党はそうした状況のなかで労働組合運動や知識人の間で影響力をおおいに拡大する。ジョンリード・クラブや、そのより幅広い展開としての全米作家会議は左翼的作家知識人の結集点であった。

 不況の痛手をもろに受け、社会の最下層に位置付けられ、無視されていた黒人やその知識人にとって革命戦略のなかに黒人を大きく取り上げ、黒人の才能ある作家を発掘しようとしていたたアメリカ共産党が魅力的に映ったのも当然である。

 そうした時代の流れのなかであらわれたのがリチャード・ライト(Richard Wright, 1908-1960) 、チェスター・ハイムズ(Chester B. Himes, 1909-1984)、ラルフ・エリスン(

Ralf Ellison, 1914-1994)、アン・ペトリ(Anne Petry, 1911-1997)等の黒人作家であった。そうしたなかでライトは『アメリカの息子』においてこの時代の最良の作品を残すことができたが、アメリカ共産党への幻滅によって他の作家と同様に文学傾向を転換してゆくのである。

 

2次大戦後の黒人文学

第二次世界大戦とその後の新たな世界秩序は黒人にとって新たな希望をもたらす。第2次世界大戦は、人種主義のナチズムとの戦いでもあったことからアメリカ国内における人種主義是正への動きをもたらし、また黒人も軍隊内部や軍関係の企業における差別に抗議する積極

的な行動を提起し、大統領行政命令をださせることに成功する。また戦後の、社会主義体制の拡大による冷戦体制の始まりと、それまで植民地であったアジア・アフリカ・ラテンアメリカの諸国の独立と国連加盟、そしてアメリカが資本主義的自由主義の旗頭となるという動向は、南部の人種隔離政策を時代遅れのものと化してゆく。

 こうしたなかで1954年に「公立学校における人種隔離政策は憲法違反である」というブラウン最高裁判決がだされ、それに励まされた黒人はキング牧師の指導のもと非暴力直接行動の理念に基づきモンゴメリーのバスボイコット運動に勝利する。これがそののち一五年間にわたる黒人の公民権運動、黒人解放運動のきっかけとなるのである。

 公民権運動は、草の根の黒人大衆と牧師、学生、知識人等の黒人エリート層との結合であったこと、良心的な白人学生との共闘であったこと、女性が参加するなかでフェミニズム運動を育んだということ、そして公民権法の成立という形で南部における人種隔離制度を崩壊させたこと、とりわけ暴力の行使によらずそれが行なわれたという点で歴史に先例をみない20世紀の記念碑的出来事であった。

 文学史的に見れば、この時期は次の3つの時期に区分することができよう。

1期

 ライトやエリスン等30年代のプロレタリア文学運動や共産主義運動への幻滅を大きなモチーフにした作品が描かれる。それはまたアメリカにおける人種主義の解決への色濃い絶望に根ざしたものでもある。そうしたなかでエリスンは黒人の民衆的文化伝統に新たなモチーフを見いだし文学として結実させた。

 ジェームズ・ボールドウィン(James Baldwin, 1924-1987)はライトの抗議小説の伝統への批判から出発するが、アメリカにおける人種主義の根強さへの絶望感を共有し、ライトと同様にパリに逃れたのである。だがボールドウィンの特徴は、公民権運動による新たな時代精神の息吹を受けとめ、公民権運動時代の黒人スポークスマンとして転身しえたことである。

ロレーヌ・ハンズベリ(Lorraine Hansberry, 1930-1965)は、30年代の黒人の左翼的運動の伝統を引き続き公民権運動に結びつけていった作家である。ハンズベリーは政治的意識の高い、シカゴの裕福な黒人中産階級の家庭に生まる。1938年、ハンズベリが8才の時に一家はシカゴの人種差別的住宅政策に抗議し裁判を起し、1950年には最高裁で勝訴する。こうした

環境のなかでハンズベリは筋金入りの左翼的知識人として成長し、ポールロブスンのラディカルな新聞「自由」の記者として働いたこともある。やがて公民権運動の高揚のなかハンズベリは、「学生非暴力調整委員会」の活動を支援する運動にも関わる。

 ハンズベリが一躍脚光をあびることになったのは、黒人家族の白人居住地域への移住の夢を描いた戯曲『日向の乾葡萄』(A Raisin in the Sun)(1959年)のブロードウエイでの成功によるものである。

2期(60年代「黒人芸術運動」(The Black Arts Movement)の時代)

 公民権法(1964年、1968年)、投票権法(1965年)の成立にもかかわらず南部における公民権運動への白人の暴力的抵抗は治まらず、黒人の怒りと焦燥感をつのらせた。また公民権運動は、都市における貧困、失業、劣悪な教育、住宅等の問題を解決できず、やがて都市の黒人の絶望と怒りが都市暴動という形で爆発することになる。

 このような状況のなかで黒人の運動は白人への怒りと黒人自身の自治を優先する民族主義的傾向を強め、政治的にもよりラデイカルな方向へとむ向かってゆく。

黒人民族主義には19世紀以来の歴史があり、20世紀には先に述べたガーベイ運動があるが、60年代に表れた民族主義はブラック・モスリム(黒人回教徒)に強く影響されている。ブラック・モスリムは白人からの人種主義的抑圧への深い憎悪に根ざし、白人を悪魔と規定しつつ、黒人であることの誇りと自助、黒人自身による経済、社会生活におけるブラック・パワ

ーの支配を求めたのである。マルカムX(Malcom X)を最大のスポークスマンとした この運動は公民権運動が南部で展開してゆく時期に北部の都市の黒人労働者を中心に大きな力を得てゆく。そして60年代の中盤以後の都市での黒人満と結びつき、そのメンタリティはラデイカルな黒人の政治運動のなかに反映してゆく。そしてこの民族主義的ラディカリズムと結びついて発展したのが「黒人芸術動」であった。

「黒人芸術運動」は、黒人の芸術・文化的な活動を、黒人解放運動の文化戦線と位置付け、孤立し、疎外された芸術家という在り方を否定し、黒人全体の自由と解放、白人のアメリカによる三〇〇年間にわたり押しつけられた黒人像を否定し、黒人自身による自己定義をめざす音楽、詩、小説、演劇、絵画等の分野から黒人の美学のような理論的な分野にも広がる広範な運動であった。芸術を政治的運動に結びつける「黒人芸術運動」の理論は芸術を政治や社会から切り離して論じる当時の主流の芸術観、文学観に鋭く対立するものであり、黒人文

学を無価値であるとするアメリカ文化の前提への意義申し立てでもあった。しかしその反面、現代では「黒人芸術運動」のなかにあった特定の政治的主張の作家への押しつけや政治的主張による検閲的行為、男尊女卑的な考え方、反ホモセクシュアル、反ユダヤ主義等か批判されている。

この時代で重要な作家は詩、戯曲、音楽批評の分野で活躍したアミリ・バラカ(Amiri Barama, 1934- )、詩人のニッキ・ジョバンニ(Nikki Giovanni, 1943- )、ソニヤ・サンチェス(Sonia Sanchez, 1934- )、小説家のジョン・A・ウィリアムズ(John A. Williams, 1925- )、マクフ ァーソン(James A. Mcpherson,1943- )、戯曲家エド・ブリンズ(Ed Bullins, 935- )

、黒人の美学の批評家、理論家としてとしてはアディソン・ゲール・ジュニア(Addison Gayle, Jr., 1932-1991)、ホイト・フラー(Hoyt Fuller, (1923-1981)、ラリー・ニール(Larry Neal, 1937-1981)等がいる。

 

3期(女性作家の時代)

 

 60年代の「黒人芸術運動」を踏まえつつ、それを批判的に乗り越えるところに成立しているのがアリス・ウォーカー(Alice Walker, 1944- )、トニ・モリスン(Toni Morrison, 1931- )、ポール・マーシャル(Paule Marshall, 1929- )、グローリア・ネイラー(Gloria Naylor, 1950- )、、オクタビア・バットラー(Octavia Butler, 1947- )、ジャメイカ・キンケイド(Jamaica Kincade, 1949- )、マヤ・アンジェルー(Maya Angelou)、オードレ・ロード(Audre Lorde, 1934-1992)等の黒人女性作家である。

これらの黒人女性作家は、50年代から60年代の黒人の解放運動の巨大なエネルギーにそれぞれの人生のある時期に触れ、それまでの黒人作家には見られなかった現実は変えられるものだという確信、黒人大衆への信頼、黒人の歴史や文化伝統への関心を共有している。さらに黒人女性作家は、「黒人芸術運動」のなかにあった上記の欠陥への批判、とりわけ反フェミニズムの傾向への批判に立ち、白人中産階級のフェミニズムとは一線を画しつつブラック・フェミニズム、あるいはウーマニズムを主張している点である。また黒人の解放、あるいは個人の人生の救済に果たす芸術の社会的役割の自覚にたちつつも、狭い政治主義には立たず、個々のの作家のスタイルの自由、創作の自由を認めていることである。その結果、広い意味での黒人女性作家の文学共同体が成立しているのである。

 このような女性作家のかつてない活躍によって、それまで無視されたり、忘却の淵に沈んでいた過去の黒人女性作家の掘り起こしも進んできている。その最も顕著な例はアリス・ウォーカーによって先駆者として再び脚光を浴び、いまやアメリカ文学のキャノンに名を残すことになったゾラ・ニール・ハーストンである。

他方、女性作家の活躍で影が薄くなった感のある黒人男性作家であるが、個々に優れた作品を発表しつづけている人々として、イシュメール・リード(Ishmael Reed, 1938- )、ジョン・ワイドマン(John E. Wideman, 1941- ) 、オーガスト・ウイルソン(AugustWilson, 1945- ) 、チャールズ・ジョンソン(Charles Johnson, 1948- )、デイビッド・ブラッドレー(David Bradley, 1950- )、ウオルター・モズリー(Walter Mosley, 1952- )等がいる。

現在黒人文学を論じる上で忘れてはならないのは、黒人文学を自己定義し、アメリカ文学の歴史を修正する主体としての黒人の学者、批評家がアファーマティブ・アクションの成果としてかつてない質と量をもって生まれてきていることである。それを象徴的に示すのが『

ノートン版・アフリカ系アメリカ人文学集』(The Norton Anthology -African American Literature, 1997)の完成である。10年近くにわたる全国の黒人学者の総力を結集して編集された本書は、アメリカにおける黒人文学の綿々たる伝統の確固として示すものであり、個々の時代、作家についての現代的な観点からの評価をも示している。

このような文学の面での近年の成果とは裏腹に、現実の黒人の置かれた状況は決して明るくはない。70年代から90年代の末にかけてアファーマティブ・アクションの成果として教育の恩恵に浴した黒人の間からは各界に進出し、成功を納める人々を多数輩出する反面、都会の黒人居住区にとり残されたブラック・アンダークラスと呼ばれる若年層の黒人の状況はか

つてなく悪化している。その背景には人種主義的差別のみならず、貧富の差をかつてなく拡大させているアメリカ経済の再編があるだけに解決が困難な課題である。そのような黒人社会がかかえる課題にこれからの黒人文学がどのように答えてゆけるのであろうか。ここに黒人文学を見るひとつの重要な視点があると考える。