Tama,
Our Most Favorite Cat

(circa 21 Sep. 1991
17 Apr. 2000)

1 Hello, Kitty!
2
 Every Cat Has His Days
3
 He Was Not Alone
4
 Suddenly, He Was Gone...

version 1 (08 May 2000)
version 1.1 (08 May 2000)


prologue

 日付のない、季節も知れぬ写真(c. 1999)である。
 1998年に越してきた京都の住まいのキッチン脇、
 勝手口のまえで、彼はカメラを見つめている。…
 その彼ことタマが2000年4月17日、8歳7ヶ月で逝った。
 以下はその哀しみもいまだ癒されぬうちに編集された、
 追悼のための、きわめて暫定的なアルバムである。
  注: サムネイル画像をクリックすると、新しいウィンドウにキャビネ大ほど
  に拡大されたイメージが映し出されます。ただし、どれも200kbを超える画像
  ですので、ダウンロードに時間がかかるだろうことはあらかじめ記しておきます。


1 Hello, Kitty!――子猫がわが家にやってきた

 彼がわが家にやってきた事情については、ここに
 詳しくはしない。いずれにしても、1991年の10月初旬
 であったはずだ。生まれて2、3週間目くらいだろう、と
 日数分ほどさかのぼって9月21日を誕生日と
 勝手に決めた。それまでネコを好まなかったぼくが
 とにかく夢中になった。その最初期の愛らしい1枚。 
 うちにきて2、3日目くらいだろうこの写真の時点では、
 彼はまだロロ〔ろろ〕とかと呼ばれていたはずだ。
 どういうわけか、それが、江戸時代には半数のネコが
 そう呼ばれていたというタマの平凡な名におちつく。
 サザエさんのなかのあのタマが念頭にあった
 のかもしれないし、ちがうかもしれない。  
 洗面所隅の最初の寝床に彼を襲った写真だが、
 言葉による説明は不要であろう。ただただかわいい。
 ペットといえば金魚や小鳥しか知らなかったぼく
 (すでに30歳になっていた)はといえば、なぜ
 このような無償のかわいさがこの世に存在するのか、
 すこしもおおげさでなく不思議でたまらなかった。
 ベッドのうえで遊ぶタマ。が、たぶんこの直後である。
 そのベッドから飛び降りただけでビッコをひいた。
 医者の話では、白いネコは比較的体力がないうえに
 この子は生後まもない頃の栄養状態が悪かったらしく
 とくに虚弱であると。ビタミン&カルシウムによる治療が
 始まった。が、それでは治らない障害も彼にはあった。
 あとでもっとよくわかる写真がでてくるが、彼の眼は
 左右の色が異なっていた(右が黄、左が青)。
 いわゆるオッドアイだ。が、当時はまだ、全身が白で
 眼がオッドアイのネコは遺伝的に耳が聴こえない
 という説を、信じていなかった。知ってはいたが、まさか
 タマが、と。が、彼の耳はほんとうに聴こえなかった。


2 Every Cat Has His Days――りっぱな美しい猫なのであった

 いきなり1歳になったころの写真。ビタミン&カルシウム
 の効果ももちろんあったろうが、耳が聴こえないことが
 逆に幸いして眠るときはひたすら眠る(家人が戻っても
 まったく気づかない!)のも、よかったのだろう。
 いずれにしても、もらわれてきたときにはまったく
 想像もできなかったほど、りっぱな猫になったものだ。
 とはいえ彼には、ひとにいえない習性もあった。
 指、それも他人のではダメであくまでもぼくの指を、
 吸うのが大好きなのである。要は子どもなのだが、
 親の乳を吸うことができなかった不幸な境遇が、
 彼にその習性を身につけさせたのにちがいなかった。
 かくてこの手のカッコよくない写真が多数残ることに。 
 さあ、汚名返上と、その美しい姿を伝える写真を。
 タンスの上の、さらに段ボール類が積まれた上から、
 彼はわれわれを見下ろすのが好きだった。猫なんだし
 当然か。でも、その高みにいる姿がやはりいちばん
 りりしかった。くっきりとした目鼻立ちで、それは
 われわれも知らないその親猫の美形をも想像させた。
 どうだ、これもなかなかにかわいいであろう。
 別に隠れているという意識もないであろうけれど、
 5kgほどもあるカラダを洗濯物用バケツに潜めて、
 自身の帰巣本能を満たしているらしいのである。
 ちなみにこういう写真だと、両眼の色のちがいが
 歴然としている。ちなみに尻尾も短く変形していた。
 タマは生涯、家のなかで暮らした。とくにこの当時は
 住んでいたマンションの窓は擦りガラスだったので、
 ときどき病院に通う道すがら以外はこうしてわずかの
 隙間から覗くのが、彼と外界の唯一の接点だった。
 こういう閉じた世界で幸せなのだろうかと、疑問に
 思ったことも。が、その状況にまもなく変化が訪れる。


3 He Was Not Alone――けんかもしたが、ひとりじゃなかった

 かつてタマの最初の寝床だった洗面所隅にいるのは、
 やはり拾われてきたマリである(グレイのじゃないよ)。
 こうして「隔離」したのには理由があった。カラダじゅう
 ノミだらけだったのと、「異物」に接した「先住者」が
 何をしでかすかわからなかったことの2点がそれ。が、
 タマがしばらく体調不全に。相当ショックだったらしい。
 そのマリも、じつは誕生日は9月21日なのである。
 もちろん便宜的な設定だ。で、その誕生日から9週目、
 わが家にきて6週目あたりの、とある日の二人の姿が
 左のとおりである。もっとも、これはヤラセではないか、
 という内部告発もある。彼らはあまり仲がよくなかった。
 が、一瞬でも親子みたいにしている。貴重な写真だ。
 で、彼らの実態をむしろ直截に伝えるのが、この写真。
 年下のマリのほうが攻撃的で、彼女がこうして下から
 メンチを切って(笑)挑んでいった。寝込みを襲うことも
 あった。うしろに回られたら、聴こえないほうが弱い。
 もちろんタマは自分だけがそういう境遇にあることなど
 知るよしもない。マリだってそのことは理解していない。
 さあ、決定的瞬間である。陽がさんさんとふりそそぐ
 絶好の場所をめぐる闘いだが、力関係がよくでている。
 力ではまさるタマがマリの首根っこをつかまえる。が、
 マリの抵抗で、美しいタマの顔がゆがんでいる(笑)。
 まもなくタマはマリに逃げられ、姿を見失ってお手上げ
 となる(逆に背後から逆襲されたりする)。
 かくて、ともに去勢した事情ゆえもあってか、二人は
 けっして仲のよいパートナー同士ではなかったけれど、
 いずれにしても、タマはひとりじゃなかったのである。
 そしてだから、いまひとりになったマリが不憫に思える。
 ちなみにこのあと、わが家には人間の子が登場する。
 いきおい彼らの写真も減る。少し悔いが残っている。


4 Suddenly, He Was Gone...――別れは突然やってきた

 京都にきて3年目の春も数日で桜が終わるというころ、
 タマがはげしく嘔吐した。いまにして思えば、いつもと
 ようすはちがっていたが、医者に連れていったのは
 脱水症状が出てから。腎不全の診断にうろたえる。
 予後良好を願うも、発症から6日目に入院し、その日の
 午後には危篤に。それはあまりに急な展開だった。
 心臓マッサージをとめてもらった。生体反応がないこと
 を確認して、酸素マスクをはずした。4月17日の15:13。
 ちなみに、これに2日先立つレントゲン検査で、若干の
 心臓肥大も指摘された。全身に血流を送る力も弱く、
 それが腎機能低下の一因となったと考えられる、と。
 ひ弱なカラダでよく8年7ヶ月生きたと褒めてやりたい。
 お誂えの段ボールを用意して、一夜の仮の棺とした。
 好物の煮干を口元におき、毛布をかけ、香を炊いた。
 朝までタマの横で過ごした。お通夜なんて、これまで
 リアルに感じたことはなかったが、彼を一人にしては
 おけない心境だった。いきなりはげしく発症した6日前
 を思い出したが、急すぎてすべてが悪夢のようだった。
 便は2日前から失禁するしかなかった彼が、死の当日、
 病院に行く前に自力で用を足し、浴室に向かった。
 水分もスポイト頼りだったのに、かつてよくしたように
 洗面器の残り水を舐めた。一杯に水を張ってやった。
 回復の兆しかと一瞬は思ったものだ。だが、それは
 ほとんど最後の力を振り絞っての本能的営為だった。 
 翌日。家内は仕事を休めない。後ろ髪引かれる思い
 だったろうが、一人で子を保育所に連れていき、あとは
 ぼくとタマの二人きりとなった。業者が来て略式葬儀。
 玄関に急造したミニ祭壇(写真左右)で焼香のみ
 済ませ、彼の棺(写真中央)を見送った。どっと疲れが
 襲ってきたが、すぐに職場に向かわねばならなかった。


Epilogue

 それから3週間。彼が好きだった出窓のスピーカ上に
 いまは彼のお骨〔こつ〕がおかれていて(上田家たま号
 の字!)、そこにマリが…、のヤラセの図である(笑)。
 いずれにしても、彼をすぐに土に返すことはやめた。
 ずっと家で過ごした猫だったのだからである。しばらくは
 ここから、彼はわれわれを見つめ続けることになる。



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