国際刑事学協会(IKV)ロシア・グループの実像

 

                                                         上田  

 

はしがき

帝政末期ロシアにおける刑法学と犯罪学

国際刑事学協会ロシア・グループの成立と活動

内部分裂,政治抑圧,終焉

ソビエト時代へと残したもの──むすびにかえて 

 

はしがき

 

新派刑法学の影響力の退潮もあってか,わが国においては国際刑事学協会(独 Internationale Kriminalistische Vereinigung,略称 IKV)への関心自体さほど高いとは言えないが,19世紀末から20世紀初めにかけてのその華々しい活動が,当時のヨーロッパのみならず中南米諸国などを含めた世界各国の刑事立法と矯正実務に決定的な影響を及ぼしただけでなく,その熱烈な刑事政策の世界水準化への志向は二次の世界大戦を経た後に世界的な準則として確立を見た「被収容者処遇最低基準規則」の制定や国連犯罪防止会議の活動へと繋がっており,その歴史的意義は決して小さくない。

この問題についての研究は,現代ロシアにおいても必ずしも多くない。より正確には,むしろ例外的な研究テーマである。一つには,ソビエト時代の刑法学において社会学派を中心とした新派刑法学に対する厳しい評価が固定されていたことから,あえてそれに関連する研究課題を設定しようとする研究者が少なかったことが遠因となっていよう。それはそれで後述するとおりイサーエフが1904年にドイツで発表した論文による「支配階級の利益の擁護者」としての社会学派という決めつけがロシア革命後も権威を持ち続けたことによるところが大きいのであろうが,現代ロシアにおいても状況は基本的に変わっていない。しかし事実を委細に見てみると,19世紀後半から20世紀初頭にかけて,帝政ロシアの刑法学者の中に社会学的な立場を鮮明にする一連の研究者が存在し,彼らと西ヨーロッパの刑法学者との連絡,共同しての活動が展開されていたことが知られる。イタリア学派に属するフェリーやガロファロの著作だけでなく,ドイツのリストやベルギーのプリンスなど,社会学派の著作も多くがロシア語に翻訳され,それらを受け止め,正面から議論する多数の刑法学者の存在とその研究の展開を確認することができるのである[1])

本稿は19世紀末から20世紀初めにかけてのロシア刑法学の黄金期におけるその一側面を研究対象としている。この時期のロシアは,農奴制を廃止して近代化を図り,古典的な農業経済に鉄道と工業を結合して国力の増強を図ることで,予想される帝政の終末を遅らせようとあがいていたのであるが,わが国との関係でも1904年の日露戦争という手荒い接触を含めて,直接的な交流の局面をも多く生み出し,経済的・文化的な相互関係も生じつつあった。しかし,我われにおいて時として忘れそうになるのは,ロシアと西ヨーロッパの諸国との関係の深さである。

  ピョートル大帝(1672-1725)の事績にも明らかな,西ヨーロッパへの渇仰は近代以降のロシアにおいても抗いがたい衝動として,とりわけ知識人・文化人の階層の行動に影響しているかのようである。ここで取り扱う19世紀末のロシアにおいても,多くの実業家や政治家だけでなく,芸術家,作家,思想家,研究者,学生その他が,さまざまな理由と目的で国外に出て,西ヨーロッパの都市を訪問し,その社会意識と文化を吸収して,それをロシアに持ち帰った。何よりもヨーロッパ鉄道網の発達が彼我の距離を縮めた。19世紀末のロシアでは,パリとサンクト・ペテルブルクを結ぶ定期路線・北急行Nord Express1896年運行開始)の以前から,鉄道を用いれば容易にベルリンやパリに移動することが可能であり,人々は頻繁に国境を越えて交流していた。我われの関心の領域でも,ロンブローゾもリストもサンクト・ペテルブルクやモスクワに現れていたし,フォイニツキーは再々にわたってベルリンやリスボンで開かれる国際刑事学協会の中央委員会に出席している。そして,何よりも,ロシアの多くの刑法学者は主としてドイツの大学に学生・研修員・共同研究者として滞在した経歴を持っていた。同様に,リストはロシア刑法典草案の審議に参加しており,たとえば草案の総則についての彼の評釈が1883年の『民法・刑法雑誌』に掲載されている。まとまった業績としてリストの犯罪学に関する著作『フランツ・フォン・リストの刑事政策の課題』がロシアで1895年に出版され,1897年にリストはペテルブルグ大学の栄誉教授として選ばれこの選任は1914年に,ロシアの対ドイツ宣戦布告を背景に,教授たちの愛国主義行動の一環として取り消されることとなる)1902年には国際刑事学協会の大会がサンクト・ペテルブルクで開催され,多くの国々の研究者とともにリストも来訪している。

 

本稿では帝政末期のロシアにおける刑法・犯罪学研究の特異な一面,刑法学者を中心に犯罪現象を研究しその克服に向けた取り組みに関わる研究者や実務家の多数が,時には生物学的・人類学的な関心からの犯罪学研究者すらをも含めて,一時期,国際刑事学協会への参加を選択し,そのロシア・グループを形成して研究活動と対社会的な発言を行なった事実を紹介し,検討したい[2])。それは,最近に筆者が発表した,同時期のロシア刑事人類学派の活動の検討[3]から欠落していた問題側面を補おうとするものでもある。

 

内田博文さんとは1968年の秋,当時筆者の所属した京都大学法学部の中山研一先生のゼミに,既に大学院進学が決まっておられた内田さんが浅田和茂さんと共に顔を出された時に初めてお会いし,以来47年余の歳月を通じて,大学院の刑事法研究室や学会・研究会を通じて,近しい先輩として親しくご厚誼をいただき,今日までその問題意識においても研究方法においても,多大な学問的刺激を受け続けて来た。そのことに改めて感謝しつつ,このたびの古稀を祝賀する論文集に本稿を寄せることとしたい。

 

帝政末期ロシアにおける刑法および犯罪学研究

 

ロシアにおける大学法学部として例外的に長い歴史を有するのはモスクワ大学法学部(1755年創立)であるが,1804年創立のカザン大学法学部,1819年創立のサンクト・ペテルブルグ大学法学部,1834年設立のキエフ大学法学部など,19世紀の前半に法学教育の体制が整えられ,多数の官僚や法曹だけでなく,政治家,文化人を輩出し始めた。その法学教育における刑法学の内容についても,すでに19世紀の初めには体系的な刑法理論がロシアに持ち込まれ,その教育と研究が大学法学部において行われ始めていたとされる。そして,農奴制の廃止に象徴されるロシア社会の近代化に並行して法学教育の普及が要請され,法律学の重要性が広く認識された19世紀の後半に至って,刑事法学もまた一大黄金期を迎える。

1860年代以降,刑事法の領域で著名な大学教授として,キスチャコフスキー(А.Ф. Кистяковский 1833-1885),タガンツェフТаганцев Н.С. 1843-1923),セルギエフスキー(Сергеевский Н.Д. 1849-1908),ドゥホフスコイ(Духовской М. В. 1849-1903)らの名前が挙げられるが,彼らの活躍によってロシアの刑法学は一挙にその時期の世界最先端の理論平面にまで到達した[4])。彼らは例外なくドイツ,フランス,イタリアなどへの留学経験をもち,たとえばタガンツェフはペテルブルグ大学法学部においてベルナー(Berner A. F. 1818-1907の教科書を下敷きにしたスパソヴィチ教授(Спасович, Владимир Данилович 1829-1906の刑法講義を聴き,研修のために派遣されたドイツで直接にべルナーやミッテルマイヤー(Mittermaier C. J. A. 1787-1867の講義や演習に参加してその直接の影響を受けている。当然に,彼らの刑法理論は基本的に古典学派の体系にしたがったものであった。

一方,刑法学における社会学的な視座と研究方法の展開は,旧来の刑法学の観念的・形而上学的な教義に対する反発から始まり,旧来の刑法理論学の枠を超えた,犯罪現象の科学的な認識とそれへの対応を目的とする科学,犯罪学の成立をもたらすこととなる。ロシアの場合,犯罪学研究は多くの社会科学分野がそうであったように,19世紀の前半を通じたナポレオンのロシア侵攻(1812年),クリミア戦争(1853-56年),ロシア・トルコ戦争(1877-78年)などでその後進性を露呈したロシア国家の改革をめざす全社会的な動き,農奴制の廃止,科学技術の導入による工業化,政治諸制度の近代化,司法制度改革などの施策の推進といった状況を背景に,開始され,活発化した。それはまさに,一足早く国民経済の工業化に着手し社会制度の近代化へと進みつあった西ヨーロッパにおいて進行した,古典主義的な刑法理論による犯罪との対抗に限界を見取り,より合理的,効果的な対応を発見しようとする,この分野での動きに刺激され,それに追いつこうとする取り組みであった。

当時西ヨーロッパでは,統計に表れた犯罪現象の変動と社会経済的諸要素との相関に注目するゲリー(GuerriA.M. 1804-1866)やケトレ(Quetelet, L.A.J. 1796-1874)の流れを受けて,社会的な環境要因を重視しようとする犯罪学者達と,ロンブローゾを起点として急激に流行を見た,犯罪者個人の生物学的あるいは人類学な特徴に注目する犯罪学派との対立構造が形成され,とりわけ19世紀末に近づくと,前者に属するタルド(Tarde, J.G. 1843-1904)やラカッサーニュ Lacassagne, A. 1843-1924)とロンブローゾ派との華々しい論争が繰り広げられ,大きな社会的関心を呼んでいた。

それに対応してロシアでも,同様の対立構造が形作られることとなる。ロシアにおける犯罪現象の経験的な研究の最初の試みとしては,1823年のアカデミー会員ゲルマン(Герман, К.Ф. 1767-1838) の犯罪統計についての研究[5])が挙げられることが普通である。ゲルマンは統計学者であったが,その後の犯罪学的研究はむしろ刑法学の枠を広げる試みとして,19世紀後半,主としてドゥホフスコイ(Духовской, М.В. 1849-1903)やフォイニツキー(Фойницкий, И.Я. 1847-1913)といった刑法学者によってその展開が担われることとなった[6])。たとえば,モスクワ大学法学部教授であったドゥホフスコイは次のように言う。つまり,古典的な刑法理論によれば犯罪の唯一の原因は人間の自由な意思にある。しかし,そうであればなぜ,犯罪の各種の統計が示すように,毎年同じような数の犯罪が記録されることになるのか,と彼は問い,「犯罪は偶然の現象ではなく一つの自由な意思の結果なのだが,それ以外に明らかに不変の原因に依存」しており,そのような原因を明らかにできるのは,統計研究および「人間の身体,その生活している諸条件」の研究,そして社会体制の研究を通じてである,と書く。その上で,ロシアの各地方の犯罪数を比較し,犯罪率と死亡率の相関,犯罪と教育との相関などについての統計研究を自ら行い,すでに1872(ドゥホフスコイは未だ23歳のはずである)の著作で,「劣悪な政治体制,社会倫理の劣悪な状態,社会経済の劣悪な状態および劣悪な教育」こそが犯罪の最も基本的な原因であるとの確信に至っている[7])。その公表後間もなく,当時既に刑事法学者として著名であったペテルブルグ大学助教授フォイニツキーの論文「犯罪の分布に対する時候の影響」および「刑法,その対象,その課題」が登場した。その中でフォイニツキーは,「犯罪は,それが自然と社会の諸条件の産物だという限りで,特定の人格の産物である」,と述べ,刑罰は言われるような犯罪予防の手段という意味を持たないことが明らかだと結論する[8]。犯罪との闘争を合理的に進めるためには,刑罰ではなく,人々の生活条件と福祉が発展するような施策こそが必要だ,としたのである。

彼らの主張が,これら論文の公表に前後しての彼らの西ヨーロッパ留学(ドゥホフスコイはハイデルベルグ大学およびハレ大学で学び,フォイニツキーはベルリン大学,ライプチヒ大学などに滞在している)の間に触れた西ヨーロッパの刑法学の動向に触発されてのものであることは確実であるように思われるが,要約すれば,<1> 犯罪統計は,犯罪の原因が犯罪者の人格にだけでなく,社会に根ざしていることを示している,<2> 刑法の古典学派のように,犯罪原因は個人の自由意思だというような立場にとどまることはできない,<3> 刑罰は犯罪との闘争における唯一の手段ではない,<4> そのような闘争の別の手段を探すべきであり,そのためにも真の犯罪原因を解明せねばならない,<5> 刑法学の枠を広げ,それが真の科学としての生きいきとした存在の基礎を獲得するようにせねばならない,といった内容は,ここにロシアにおける刑法の社会学派の成立したことを示すものである[9])

このような新たな潮流の登場は,農奴制の桎梏から抜け出し近代化を進めようとする社会的雰囲気に適合するものであり,権威的で恣意的な刑事法制と司法の領域に社会問題を直視する風穴を開けるものとして,一般的には,広範な知識人や進歩的な思想家,政治家から歓迎されたと言えよう[10])。しかし,経済分野の近代化に向けてはまず鉄道建設と軍需産業を中心とする国内での工業生産の拡大に重点が置かれ,農奴制の解体による農村社会の構造変化にともなう農民層の都市への移動と労働者化をももたらし,フランスを中心とした西欧列強からの資金導入による工業化の強行はロシアにおける資本主義経済の発展と国民の激しい階層分化,都市問題の激化を,したがって左右の社会意識の対立の尖鋭化をも招来した。市民的な自由権の拡大の構想も,近代的な法典編纂や司法改革も,ときに国内の熱狂的な支持を集めつつ,帝室と大貴族の意を受けた勢力の妨害によって竜頭蛇尾に終わることが繰り返されて,ロシア社会は19世紀末にさしかかったのである。

そのような歴史的諸条件を背景に,この時期の刑法・犯罪学研究を概観する時,それが近代化という共通の課題意識の下に,全社会的に推進された科学主義,合理主義に導かれた諸改革と社会政策の刑罰制度への波及に対応していたことに気付かされる。伝統的な刑法的諸制度,とりわけ劣悪な条件の下での拘禁刑や時に殉教者的な意識を伴う流刑といった旧来の刑罰の適用のみによっては,深刻化する都市問題と犯罪の増加に対応できず,ここには別途の対応が必要だとする認識が広がったことが知られるのである。政府中枢の人士や政府機関も当初そのような動きに同調していたことは,刑法学者・犯罪学者のヨーロッパの新思潮の紹介や斬新な改革構想の提案が,当時の『司法省雑誌』などを主要な公表の場としていたこと,また以下に紹介する国際刑事学協会の活動に司法大臣はじめ要職にある多くの人々が参加していたことからもうかがわれる。しかし,帝政末期に至って,犯罪闘争の課題の先鋭化とともに,その研究者の多くが急激な社会改革を主張し,反政府的な立場を明らかにすることによって,この分野における蜜月は終わりを見せることとなる。

 

 

国際刑事学協会ロシア・グループの成立と活動

 

ドイツのリスト(Franz v. Liszt),ベルギーのプリンス(A. Prins)およびオランダのハメル(G. A. v. Hamel)によって1889年に国際刑事学協会(独 Internationale Kriminalistische Vereinigung, 略称I.K.V.)が設立された[11])。これにともない,ロシアの刑法学者の間でもそのような動きに同調し,とりわけ隆盛にある人類学派への対抗としても,社会学派の結集が必要だとする声が高まった。

フォイニツキーらの準備により作成され,189765日に教育大臣デリャノフ伯爵の承認を得た「ペテルブルグ帝国大学付設法律協会付属国際刑法協会ロシア・グループ」の規約では,グループの活動目的として「協会の検討する諸問題についての資料を収取し,学術的に検討された刑法規定を出版,公開講義,懇談会などにより普及させ,国際協会の大会に向けロシアからの報告を準備し,協会からグループの検討にゆだねられた問題およびグループ自身が提起する問題を解決すること」を挙げていた。また規約には,国際協会のロシア人メンバーとして刑法学者であるタガンツェフ,フォイニツキー,ピオントコフスキーらをはじめ,司法大臣ムラヴィエフ,刑事破棄院主任検察官スルチェフスキー,そしてドリーリなど21名を記載したリストが添えられていた[12])

18971123日に帝国司法省の建物の一室で開催された国際刑事学協会ロシア・グループ(「ロシア支部」を名乗る場合もある)の結成会議では,冒頭に,発起人であり国際刑事学協会の中央委員会の代表であるフォイニツキーが演説し,この会議の目的を次のように説明した。「ロシアのクリミナリストは本日,法律的および社会学的な現象である犯罪の研究をその課題とする国際協会と組織的に一体となる。この協会は1888年に,諸国のクリミナリストに相互の意見交換と研究活動上の助力を提供する目的で結成されたものであるが,この一般的な目的とは別に,協会の結成には特別の目的もあった――つまり,ロンブローゾの学派によって作り出され,全刑法制度を根底から否定する学説に反撃を加えることである。協会は人類学的な視点を認めた上で,その極端な主張に反対し,社会学的な視点と法律的な視点をそれに付け加えることを要求したのである。」 そして「協会は完全に自由な,一切の形式主義を排した,法学的・社会学的な現象であると理解された犯罪およびそれとの闘争手段,とりわけ刑罰に関する諸問題の,科学的な研究に関心を持つ人々の集まりであり」,それによってこれまでに推進されてきた研究活動に,ロシアの研究者はその研究範囲を広げることで貢献可能であるが,他方,ロシアは広範な研究成果と経験をそこから得ることができる。「国際協会ロシア・グループはあくまでもロシアの法律学ならびにロシアの生活の利益と必要を踏まえて創設されるのである[13])。」

フォイニツキーのこのような開会演説に続いて,会議はタガンツェフを議長として議事に入り,グループのメンバーとして新たに29名の参加を国際協会の委員会に提案することを決め,また議長にフォイニツキー,副議長ムロムツェフを選んだほか,ドリーリを含む委員3人とその補佐3人を選出して,グループの組織体制を確認した[14])

最後に,グループが近い将来に取り組むべき研究課題を提示した方がよいのではないかとの意見に対して,フォイニツキーは以下について早急に研究されるべきであるとして列挙した。1) 執行猶予の問題,2) 刑期満了前の条件付き釈放,3) 初犯者のための教育施設(Elmira system),4) 受刑後も矯正されない者に対する保安処分,5) 刑余者のための保証人制度,6) 犯罪実行のおそれがある者に対する農民その他の社会組織の援助と監督の方法,の6点である。これを受けて,会議は格別の議論をすることなくフォイニツキーの提案を了承し,その具体的な取り扱いについては委員会にゆだねて,終了した。

間もなく開催された委員会では,会議において確認された6課題のうち,喫緊のものを1) 執行猶予と2) 仮釈放の二つに絞り,それぞれ4名のメンバーに報告の準備を依頼することとした。このうち執行猶予の問題についてはジジレンコ,ピオントコフスキー,ゴーゲリの3報告が委員会に提出され,委員会の手で印刷配布された[15])。それに対して,仮釈放制度についてはドゥホフスコイの報告だけが,予定よりかなり遅れて提出されたために,委員会はその配布を決めつつも[16]),グループの第1回大会では執行猶予の問題だけを中心的な論議対象とすることを決断して,その準備に入った。

ロシア・グループに結集する刑法・犯罪学研究者には,その当初からきわめて多様な研究者や実務家が含まれており,その主張するところも必ずしも一致していなかった。にもかかわらず,会議においてフォイニツキーが提示した研究課題がさしたる異論もなく了承されていることは興味深い。そのことが示しているのは,犯罪の抑止と犯罪者の改善を目的とした司法制度・刑罰制度の合理化という,一般的に言って新派刑法学的な問題関心の,ロシア刑法学界全体へ広がりであろう。事実,それら諸点はこの後のロシア・グループの研究活動の主要な対象課題となっていく。

 

国際刑事学協会ロシア・グループの第1回大会は189914日および5日にペテルブルグで開催された[17])。そこでの中心的な議題として設定されたのは,司法制度としての執行猶予の妥当性とロシアへの導入の可能性という問題であった。この,当時ヨーロッパの刑法学界において最大の関心を集めていたテーマに関わって,ロシアの研究者と実務家がどのような対応を見せたか,この大会における論議の内容はきわめて重要であり,当時の刑事社会学派の内実をうかがい知る上でも格好の素材であることから,以下に多少詳しく,基調報告とそれをめぐる討議の内容をフォローしておくこととしたい[18])

大会において執行猶予についての報告を最初に行なったのはピオントコフスキーであった。

ピオントコフスキーはこの制度が,1887年に国際刑事学協会がその採用を呼びかける以前には,北アメリカおよびオーストラリアにおいてのみ実施されていたものであるが,それが近年,イギリス,ベルギー,フランス,ノルウエイ,ポルトガルなどで相次いで立法化され,オーストリアとドイツでもその採用へと進みつあることを紹介し,それにもかかわらずロシアの刑事立法はこの制度に否定的であるとして,それは正しいか,と問いかける。この制度は,知られているように,いわゆる「機会犯人」に対する刑罰制度であり,刑事責任に符合する刑期ということから生じる短期自由刑の多用を抑制するための手段であるが,すでにこの制度を導入している国々の報告では,再犯率の抑制において明確に示されるとおり,きわめて有効であることが実証されている。ロシアでの具体的なあり方としては,以前に故意犯罪を犯したことのない者を対象として,1年以下の拘禁刑の場合その執行を猶予し,保証人の監督の下に置くことを可能とする制度の構想を紹介した上で,結論的に彼は言う: 執行猶予の適用にはいかなる阻害要因もなく,またその適用によっていかなる有害結果も生じない。むしろ逆に,わが国の生活の現状はこの制度の適用にとって好ましい条件をそなえている──執行猶予制度は我われにとって他人事ではない。その人道的な性格において平和愛好的なわが国民性に合致するものである,と。

次いでチュトリューモフ[19])が演壇に立ち,ロシアにとって望ましい,そして実現可能な執行猶予制度について長大な報告を行なった。彼の指摘するところでは,この執行猶予制度は今や世界中を駆け巡り,年を追うごとに西ヨーロッパの国々に新たな発展をもたらしつつあるのに,ただロシアだけがこのような立法の動きの外に置かれているのである。彼は,諸外国において施行されている執行猶予制度のいくつかの型を紹介し,またロシアの刑事司法の状況を検討した上で,ロシア刑法においてはこれを,刑罰の執行を延期しうる裁判所の権限として構成し,訴訟法的な制度として取り入れることが望ましく,またそれは可能である,と結論付ける。その際,法律で厳格に規定すべきは,刑の執行を猶予する「試験期間」は一律に3年,裁判所は,前科のないことを条件として,監獄拘禁1年以下の短期自由刑の判決を下す場合に,ただし教育・矯正施設に収容される未成年者については除外して,また人身犯罪については被害者の了承することを条件として,また職業犯罪者や退廃して自由な状態では矯正の見込めない者を除外して,これを適用できるとすることである。試験期間中に犯罪を実行したときは刑罰の全部が執行に移されること,逆に問題なく試験期間を終えた者は予定された刑罰の執行を終えた者と見なされることが提唱されていた。

この2報告に対する質疑と討論に,大会の第2日があてられた。討議に参加した者のうち11名が意見表明に立った[20])が,目立ったのは執行猶予制度のロシアへの導入に対する消極的な意見である。

最初に発言したプルジェヴァリスキー(Пржевальский В. В. )に続いて,ボロヴィチノフ(Боровитинов, М.М., エヴァングロフ(Евангулов, Г.Г.)が,またペトラジツキーやシチェグロヴィトフ(Щегловитов, И.Г.)も,さまざまな理由を上げつつ口をそろえて執行猶予制度の導入自体に疑問を表明した。たとえばペトラジツキーは執行猶予制度を「不処罰猶予制度」だと揶揄し,それが影響しうるのはごく一部の犯罪者だけであって,多くの犯罪者にメリットがあるというのは単なる推論に過ぎないと批判した。既に報告書によって意見表明をしていたゴーゲリは,討議において,ロシアに刑罰の執行を延期する法律を導入することが必要だとしても,それが適用されえない犯罪について明確に列挙しなければ,制度に対する社会的な信頼を得られないと述べ,さらに,裁判記録が整備されていないロシアの現状で,過去の犯罪歴を踏まえなくてはならない(さもなくば再犯者にもこの制度が適用されてしまう)この制度の実施には無理がある,とも指摘したし,さらにシチェグロヴィトフはより率直に,執行猶予制度の導入は刑事抑圧の軟弱化につながるために好ましくないとし,そもそもロシアのように検挙率が低いところではその効用を論じても非現実的だ,と指摘した。これらに対して,執行猶予制度の導入を求めるジジレンコやドリーリ,あるいはフォイニツキーたちの意見は,明らかに受け身的であった。

大会は,それでも結局は,多数をもって執行猶予制度の早期の導入が必要であるとの決議を採択したのであるが,上のような多くの慎重論を抱えたグループの決議であり,その影響力も最初から限られていたと言わなくてはならない[21])。第2日の討議には参加していなかったが,かのセルギエフスキーでさえ,「執行猶予は事実上,一定の期間,処罰されることなくある犯罪を行う可能性を与えることに帰する」[22])として反対していたことが,事態の困難さを示している[23])

 

ロシア・グループはこれ以降も,司法省の発行する雑誌あるいは単独の冊子などを通じて,条件的な刑期満了前釈放の制度の導入,機会犯人の概念とそれの処遇,保護引受人制度の具体化,年少者の貧困,孤児,浮浪児などの収容と保護の問題,さらには,犯罪行為に関与した精神障害者の収容条件などといった問題について,問題点を整理し,ロシアの立法と司法制度がいかなる対応を取るべきかについてのメンバーの報告書を継続して公表している。それらの多くは,問題の所在についてロシア・グループの委員会において議論となり,その意義が認められたものについて,委員会がメンバーのうちの適当な者に依頼して執筆されたものであったり,大会での討論のために報告の準備を依頼された者が執筆したものであったりした。

 

グループの第2回大会は,1900217-19日,1) 特別の犯罪現象としての機会犯人およびそれとの闘争方法について,2) 条件的な刑期満了前釈放の制度をロシアに導入することの望ましさと可能性について,3) 子供の権利をより完全に守るために必要な現行のロシアの法律の改正について,を議題として,同じくサンクト・ペテルブルグにおいて開催された[24])。会場は今回も司法省の建物であった。各テーマについて報告を行ったのは,機会犯人についてブリッフェルト[25]),条件的な刑期満了前釈放についてドゥホフスコイ,そして立法による子供の保護についてはチュトリューモフであり,それぞれ報告をめぐって活発な論議が交わされた。

3回大会は190144-7日にモスクワで開催された。モスクワ大学のホールで開催された大会初日には,司法大臣ムラヴィヨフ,モスクワ大学長チホミーロフ,モスクワ市長ゴーリツイン公爵などの列席の下,グループのメンバー89名が出席し,傍聴者は300名を超えた[26])。冒頭,挨拶に立ったフォイニツキーは多数の聴衆に向かって,多くの国々で犯罪問題の深刻化が見られ,それに対する単純に法律的な対応だけでは限界があることが認識されるに伴い,犯罪と犯罪者をとりまく多くの条件についての具体的な研究が求められるようになっていることを述べ,これに取り組む研究者の国際的な共同体として国際刑事学協会が組織され,ロシアでは1897年にそのロシア・グループが結成されたという経過を説明した。また,彼は現在の国際刑事学協会のメンバー822名中,ロシアはドイツの203名に次ぐ規模の組織に拡大していることも紹介し,翌年にサンクト・ペテルブルグで協会の国際大会が開催される予定であることを公表した。

この大会において行われた研究報告等は,1) 社会活動家ルカヴィシニコフの生涯と活動(ナボコフ)および監獄医ガースの思い出(タラーソフ)についての2つの講演[27])2) 成人受刑者に対する強制教育の理念の適用について(ドリーリ),3) ロシアにおける保護引受人制度の発展の促進方法について(ゴーゲリ),4) 刑事裁判についての心理学的研究(ウラジーミロフ[28])),5) 条件的な刑期満了前釈放制度について(ピオントコフスキー),の4報告,そして6) 当座の用に供するために少額の物品を公然と窃取する行為について(アストロフ[29]))および7) 被拘禁者に対する道徳的な作用の条件について(フージェリ[30]))の講演,という内容であった。この大会の開催の形態を考慮しての構成であることがうかがわれるが,報告をめぐってメンバー間で激しく意見が交わされたのは3) 5) であり,それらこそがこの時期のロシア・グループの中心的な関心課題であったことが示されている。なお,大会の閉会に際して議長フォイニツキーが,委員会の判断である,以降の大会で取り上げられるべきテーマとして,1) 執行猶予制度の詳細,2) 被害者への補償,3) 監獄職員の水準向上の方策,4) 流刑の廃止により必要となる累犯者に対する方策,5) 成人犯罪者に対するエルミラ制(Elmira system)の適用,を列挙していることも興味深い。

1902年には,9月に国際大会がサンクト・ペテルブルグで開催されたこととの関係で開催されなかったが,ロシア・グループの大会はその後も19031月の第4回以降,継続して開催され,それぞれその時々の重要テーマに関する講演と研究報告が行われ,参加メンバー間で論議がなされた。その平穏な開会の継続が破綻するのは1905年のことである。

 

内部分裂,政治抑圧,終焉

 

先に触れたいくつかのエピソードが伝えるとおり,この国際刑事学協会ロシア・グループの内実はきわめて多様な研究者・実務家の集合体であり,メンバーに政治家や高級官僚も含まれていたことからも判断される通り,何らかの組織的統制機構などを持つものではなかった。内部での刑法学・犯罪学理論に関する論争はありふれたものであったが,帝政末期に至り,社会情勢の緊迫とともに,グループの中にも政治的,イデオロギー的な対立が目立つようになった。

そしてついに19051月にキエフで開催されたグループの集会が大きな転換点となった。この集会では,参加者の多数派が法律的な扶助に関する特別決議において,ツアール政府に対して言論・出版の自由を求め,死刑の廃止,社会の全階層から選出された立法議会の召集などを要求するという事件が発生した。「今日のロシアの体制の基本的な構造である圧政と恣意という条件の下では,いかなる法律的扶助も存在しえず,それについて語ることもできない。」と決議は述べ,人身の自由と言論の自由の必要性をアピールしたのである。だがこの局面で,フォイニツキーがその保守主義者・帝政擁護者の本性を露わにし,議長として先の決議を採択することに反対し,大会が合法性の限度を超えたとしてその閉会を宣言し,少数派グループを引き連れて会場をあとにし,さらに,警察当局に要請して会場を閉鎖させた。当然のこと,大会参加者の間にフォイニツキーへの不信と怒りが広がり,キエフ集会に参加していたロシア・グループのメンバー115名中の74人が大手の法律雑誌にあてた公開状に名を連ねてフォイニツキーを非難した。「フォイニツキーの行動に強く憤慨する,我われ下記署名者は,以後彼が議長であると称することはできないと考えるだけでなく,自己の道徳的な尊厳と社会的な義務にかけて今後彼とは交際せず,またフォイニツキーが地方行政当局と一緒になって国際刑事学協会ロシア・グループのキエフ大会に加えた野蛮な暴力に対し抗議するものである」,と。彼が自分の信念に従って行動することは勝手だが,今後は国際刑事学協会ロシア・グループの議長であるとは認めない旨を宣言したのである[31])

この経過が示すのは,刑法学および犯罪学の領域でも,帝政の社会的な施策との関わりでの政治化が進み,左右の対立が尖鋭化していたことである。首都サンクト・ペテルブルクで行われた労働者・市民による平和的な皇帝への請願行進に対し,政府当局に動員された軍隊が発砲し,多数の死傷者が出た「血の日曜日」事件が起きたのは,大会が16日に終わった直後,19日のことである[32])

「血の日曜日」事件に続くロシア第一革命(「1905年革命」)のプロセスと並行して,社会意識の昂揚と政治対立の表面化は否応なく進行することとなり,社会学的な犯罪学研究に関わる研究者・実務家の間でも,左右の対立は尖鋭となり,勢いを増す左翼的・急進的なグループに対して,明確に帝政を支持する反動的メンバーだけでなく,ナボコフやチュビンスキーなど旧来の自由主義者たちもまた保守化し,反動的なブロックを形成することとなっていく[33])

19091月に開催された国際刑事学協会ロシア・グループの総会では,モスクワ大学助教授ポリャンスキーの「国家犯罪について」の報告が行われたが,その中ではロシアではこの種類の犯罪がイギリス,フランス,ドイツなどに比べ10倍も多いことが指摘され,それが民衆の政治的諸権利の制限から生じていることから,それら権利の拡大と刑罰の緩和,また死刑制度の廃止などが求められていた。また同じ総会ではゲルネットも「犯罪社会学の領域での新しい研究について」の研究報告に立ち,「犯罪現象は現在の政治体制の自然な産物」であると断定した。これに対してチュビンスキーやナボコフらの発言には,とめどもなく増大する犯罪現象(とりわけ「政治犯罪」の)への不安が示されており,「社会を守るために」取締りと刑罰を強化することの必要性を強調するものであった[34])。全般的な政治状況の緊迫はこの種の集会すら公開では開催を禁じられるまでになっていたが,それとともに,グループ内での左右の対立も徐々に緊迫の度を強めていることがうかがわれるのである。

そして,19104月にモスクワで開催されたロシア・グループの第8回総会については,事前にモスクワ市行政長官から,これを公開で開催することは許さず,新聞等への公表も公開とみなすと通告されていた。議長ナボコフらは総会組織委員会において対応を協議した結果,総会そのものを閉会とすることはせず,問題があるとされたもの以外の報告を聞き討論を行うこととした。行政長官から現下の「非常警戒状態」を理由に「公共の平穏と安全を脅かす可能性がある」として報告を禁じられたのは,とくにオルドゥインスキーの「軍事法廷における手続きについて」の報告であったが,これについては閉鎖的な会員のみの会で報告を聴くことで対応を図ろうとしたのである。しかし,結局は,総会の会場に警察官が現れ,モスクワ市行政長官の命令により閉会とされるに至った。総会の報告書には以上の経過を示す委員会の報告書とともに,このオルドゥインスキーの報告だけでなく,予定されていたジジレンコやポリャンスキーなどの報告もその原稿が掲載されている[35])

 

この会員総会以降,ロシア・グループの年次総会などが開かれた記録としては,1912年の3月に第9回総会が開催されたことが知られるが,その報告書[36])を現時点では入手しえず,またそれに触れた研究も参照できないため,その詳細を確認することができない。その後の歴史的経過としては,第一次世界大戦の開戦に伴って,西ヨーロッパにおける国際刑事学協会の分裂・解消と軌を一にして,ロシアにおいてもそのロシア・グループは1914年をもって存在を止める。ロシア・グループは,西ヨーロッパの新しい刑法思潮を紹介し,ロシアの刑法学に社会的な現実への接近を促すという,その役割を終えたのである。それ以降,刑法・犯罪学研究の政治的志向性はより明確になり,この時期に登場するチャルィホフ[37])やイサーエフ[38])をも含めて,若い世代の研究者の旺盛な活動とともに,ロシアにおける社会学的な刑法・犯罪学研究は全体として反政府的な性格を強めて行く。

だが,その詳細な紹介と検討は本稿の枠を超えるものである

 

ソビエト時代へと残したもの──むすびにかえて

 

国際刑事学協会の活動全体を評価するだけの準備はないが,既に見たロシア・グループに関する限り,そこに結集した研究者・実務家の実体からも,その研究活動の方向性からみても,彼らの研究方法は厳密に社会学的なものに限定されてはいなかった。もちろん,当時のロシアには犯罪生物学的な方法を掲げる活発な動きがあったことから,それへの方法的な対抗はロシア・グループ結成の重要な目的であり,実際に結集したメンバーの傾向も明らかに社会学的な方法を志向していたことは明らかである。だが,グループの研究活動において実際に優位を占めたのはいわゆる「多元因子論」であった[39]。たとえばフォイニツキーは,身体的,社会的および人格的という,3つの犯罪要因を区分していたし,ピオントコフスキーは犯罪を,生理学的,社会的および個人的な多様な作用要因の複雑な結果であるとし,ジジレンコは犯罪要因を1) 自然環境,2) 個人的な人格特性,および3) 社会環境的条件に区分していた。さらに,そもそもロシア・グループの指導的なメンバーであり,当初から委員会を構成していたドリーリ自身,ロシアにおけるロンブローゾ主義者の代表的存在と目されることが多いのである[40]。そのような多様な研究者・実務家を抱えた組織が,16年余の期間にわたって存続し,活動を続けたことに,まずは注目したい。この時期,ロシア社会の急激な近代化に伴う変化への期待の昂まりと帝政の存続への危機感の増大とが交錯し,当初は多様な研究方法の展開を促進したのである。それが,やがては厳しい政治的な対抗の表出を覆いきれなくなって行く過程を,本稿はたどったことになる。

これ以降,第一次世界大戦最中の1917年,二段階の革命を経て成立したソビエト権力の下で,刑法・犯罪学研究は再出発することとなる。社会的な激動・混乱,さらには国内戦の継続という条件に伴う犯罪現象の爆発に,未経験な革命政府の諸機関がいかに対処するか,一般的な社会理論を携えたのみで困難な具体的課題に直面させられた革命の担い手たちが,犯罪と犯罪者をどう取り扱うかについての示唆を求める先は,結局,革命の側に残った刑法・犯罪学研究者でしかありえない。犯罪に対するソビエト権力の施策として最も早くに表れるのは19182月「分類委員会の組織に関する」訓令であるが,この訓令では自由剥奪諸施設(革命時の混乱にもかかわらず帝政時代の刑事施設は存続していた)に対して同委員会の設置を指示し,正しい受刑者の分類のために受刑者を研究することをこの委員会の任務に数え上げていたし,その後の一連の法令によっても,正しい個別化のためには受刑者の人格を研究する必要がある,とされていた。ゲルネット,タルノフスキーなどをはじめとするクリミナリスト達の新たな活動領域が開かれたのである。

ここに見られるように,革命による権力の掌握の直後から,市民の安全と自由,財産を侵害する行為とどう闘い,その責任者をどう処分するかは,ソビエト政権の喫緊の課題であり,この領域における科学的な解明を期待して,関係する研究者・実務家を動員する決断はかなり早期に行われた。そして,1923年の春,モスクワ管理部(内務省のモスクワ総局)によって刑法学者,犯罪学者,心理学,人類学,統計学などの研究者を招集しての会議が開かれ,モスクワの刑事施設に収容されている犯罪者の総合調査が提案された。この調査活動の直接の成果としては,翌年にゲルネットの編集の下で論文集『モスクワの犯罪世界』[41])が刊行されているが,それ以上に重要なのは,この総合研究を契機としてモスクワに開設された国立犯罪学研究所以降,20年代前半期に系統的な犯罪学研究の体制が形作られたことである[42])

それに対して,刑法の領域では,かなり慎重な対応が見られた。その背景としては,ソビエト政権の担い手の多くにとって忌まわしい抑圧の記憶を伴う刑事立法と刑事裁判,監獄システムといったものの再登場へは意欲が向かわなかったばかりか,マルクスの著名な「法と国家の死滅」論との結節点をどう見出すかに苦しんだことがここには影響している。それでも,実務的な要請から1919年に司法人民委員部(司法省に当たる)によって,いわば刑法典総則にあたる「刑法の指導原理」が発表されているが,本格的な刑法典の編纂が始まったのは,1920年の秋に至って国内戦の終結が成り,ソビエト経済の立て直しのため政策的に選択された,社会主義的諸原則からの一歩後退,個人所有と市場経済の許容──1921年春に開始された新経済政策(「ネップ」)の条件下においてである。ロシア共和国1922年刑法典の編纂が画期となって,それまでほとんど無視されていた伝統的な刑法学との関連が再開され,刑法学の教育と研究も再出発することとなる。大学における法学部の廃止と社会科学部への改組,また法学部の復活など,さまざまな混乱を経ながら細々と続けられていた,タガンツェフ,ジジレンコ,ポリャンスキー,イサーエフらによる刑法学の教育と研究も再び活発化した。

知られるように,ソビエト時代には社会学派を含む新派刑法学との影響・継受関係は真っ向から否定され,その具体的な関係のありようについて辿るすべもなかった。1922年刑法典から1926年刑法典へと,わずか4年間での性急な刑法改正作業には,その内容において,どうしても新派刑法学の色濃い影響を想定せざるをえず,したがって当時のソビエト政権と刑法学界とにおける社会学派を含む新派刑法学との親近性を肯定せねばならないにもかかわらず,である[43])。ここには,おそらくは社会学派の研究方法が表面的・形式的な社会関係の理解に寄りかかっており,権力の問題を抜きにした機械的唯物論に基づくものだという方法論上の批判があり,またその果たした役割においても結局は真の犯罪原因である資本主義的経済体制を捉えきれず,支配階級を免罪しているとの,根源的な批判があるのであろう。正統派としての権威に基づくコム・アカデミーからの批判がそれを決定づけたのである[44]

 

全体として,結局は未完に終わったソビエト刑法であるが,その生成と終焉との間に残された問題点はなお多く,ソビエト刑法とは何か,何であったのか,という問いかけに答えようとする検討作業は今しばらく続けざるをえないようである[45])



[1]) ロシア国内においても,わが国を含め外国からも,帝政時代以降のロシア法に関する研究条件は,近年大きく変化した。何よりも,ロシアの国立図書館や大学図書館がその所蔵する文献資料のかなりをデジタル情報化してインターネット上に公開し,またgoogleamazonなどの企業が無料で,あるいはきわめて廉価で提供してくれている多数の文献を参照することができるようになっている。かつては必要な文献資料の無いことに嘆いたものであるが,現在は逆に,個人では処理しきれないほどのデジタル資料に呆然としている観さえある。なお,インターネット・ウエブ上の文献資料を引用する場合には,当該のサイトを参照した日時を個々に示すことが広く認められたde facto standardであるが,本稿においては,とくに断らない限り,引用のサイトには全て201510月以降に直接に確認していることから,個別の表示を省略した。

[2]) 「国際刑事学協会」という訳語はわが国において定着したものと言えようが,その一方で,ここに含まれている「刑事学」という語がわが国においてかなり広い範囲で犯罪学(独 Kriminologie,英 Criminology)を意味する術語として使用されていることから,一定の混乱を生じうる。だが,以下の説明にも明らかなとおり,リストやプリンスらもフォイニツキーらロシアの研究者も実務家も,協会が法律的および社会的現象である犯罪を研究する刑法学者および社会学者,関係する各領域の実務家らの総体を糾合する団体となることを必要と考えていた。したがって,この協会は単に刑法学者の団体ではなく,また狭義の犯罪学者(当時はまだその分化も進んでいない)を集めるものでもない。本稿では,とりあえず,必要な場合には「刑事法学者」あるいは「クリミナリスト」という語を用いることとしたい。

[3] 上田「ロシアにおける刑事人類学派の軌跡」(浅田和茂博士古稀祝賀論文集所収)

[4]) このような記述が独りよがりの思い込みでないことは,近年になって復刊されているタガンツェフの浩瀚な刑法教科書などを参照することで明らかとなろう。См. напр. Таганцев Н.С., Русское уголовное право. Лекции. Часть общая, том 1-2, СПб., 1902 (М.,1994).

[5])  統計学から歴史学,経済学に至る広範囲の学識で知られたアカデミー会員ゲルマンは182312月のアカデミーの会議において,「ロシアにおける1819年と1820年の自殺と殺人の数についての研究」という報告を行った。そこでは,各地域ごとの自殺と殺人の数が比較され,それらとその地域の社会的な諸条件(飲酒,経済状態,戦争など)との相関が検討されていた。 Иванов Л.О. и Ильина Л.В., Пути и судьбы отечественной криминологии, М., 1991, стр. 5. ゲルマンのこの論文は政治的に危険と見なされて公表を禁止され,9年後にフランス語で発表されている。

[6]) Гилинский Я.И., Криминология, С.-Петербург, 2002, стр. 144.

[7]) Духовской М. В., Задача науки уголовного права, Ярославль, 1872. ヤロスラブリのデミードフ法律学校の助教授としての開講講演である。

[8] Фойницкий И.Я. На досуге. Сборник юридических статей и исследований. Том 1, С.-Петербург, 1898, стр. 370, 371 // цыт. по: Иванов Л.О. и Ильина Л.В., Пути и судьбы отечествнной криминологии, М., 1991, стр. 15.

[9]) Указ. соч., стр. 15.

[10]) См. Иванов Л.О. и Ильина Л.В., Пути и судьбы отечественной криминологии, М., 1991, стр. 16.

しかし,もちろんここには,刑事責任の問題に収斂する周知の矛盾が内包されいるが,そのことについても当時すでに気付かれていた。ロシアにおいて当時このことを正面から指摘したのは,著名な刑法学者セルギエフスキーである。彼の指摘するとおり,研究によって犯罪現象の背後に貧困や失業,浮浪などの社会矛盾が存することはおそらく明らかとなろうが,そのとき,具体的な犯罪者はむしろそのような社会矛盾の犠牲者として扱い,処罰などの対象ではないとすべきなのか,つまり,「刑法学の枠を広げ」ることは同時に刑法学の基礎を侵蝕することに他ならないのではないか。刑法学の課題は刑事裁判において指針を与え,個別的な犯罪者の行為を法律に一般化された類型へと当てはめ,適用される的確な制裁量を判定することにあるのに対して,社会学的な研究の目的は犯罪をその他多くの社会現象の中に位置づけ,その意義を明らかにすることにあるにすぎない。両者を安易に統合することはできないのだ,というのである。См. Сергеевский, Н.Д., Преступление и наказание как предмет юридической науки, «Юридический Вестник» 1879, 11, стр. 886 и сл. なお,セルギエフスキーもまた,サンクト・ペテルブルグ大学法学部を卒業後デミードフ法律学校の助教授となり(この論文の執筆時は国外留学中のはずである),その後サンクト・ペテルブルグ大学教授となったが,後期には枢密院委員,国家評議会議員などの要職を務めたことで知られる。刑法学の立場からは当然の,この鋭い問題提起に対して,しかし,ドゥホフスコイらからの格別の反論はなく,公然の論争とはならなかったが,ここに示されているとおり,既にフェリーおよびリストによる新派刑法学の確立以前に,問題の基本的な枠組みは認識されていたのである。

[11]) 結成宣言によれば,この組織の運営方針は旧来の形而上学的な自由意思論にかわって,犯罪原因論に関する社会学的研究の必要性を強調し,また刑法のマグナカルタ的機能だけでなくその社会的機能も重視することであった。1889年にブリュッセルで第1回会議を開いた後,1913年の第12回会議まで続いた活動は第一次世界大戦により中断され,その後新派刑法学の色彩が強くなる中で旧派に属する研究者が脱退する動きもあり,実質的にはドイツ部会として活動していた協会は1937年にナチス政権により解散させられた。フランス・ベルギー系の研究者は1924年創設の国際刑法学会(仏Association Internationale de Droit Pénal)に吸収された。

[12]) Международный союз криминалистов. Русская группа, С-Пб. 1902, стр. 3-5. この第一次規約では自身の名称を「国際刑法協会ロシア・グループ」としており,また1123日の「結成会議」で冒頭に趣旨説明をしたフォイニツキーも,短い演説の中で数回,国際刑事学協会を「国際刑法協会」と呼び,明らかに両概念が区別することなく用いられている。あるいは意図的であったかもしれぬこのような混乱は,結成会議直後の委員会報告以降の文書には見られなくなるが,しかし明確に訂正ないし修正されたとの記録も見当たらない。

名簿を見るとメンバーには大学関係者が多いが,実務家もおり,ペテルブルグだけでなくモスクワやオデッサワルシャワなどからの参加者も,含まれている。なお,名前の出てくるピオントコフスキーПионтковский, Андрей Антонович 1862-1915)はソビエト時代の主導的な刑法学者ピオントコフスキーの父,当時はデミードフ貴族学校の教授,1899年にはカザン大学法学部教授となる。彼もまた,ドイツに留学中,マールブルグ大学においてリストの指導を受けたことがある。

[13]) グループの会議や集会については,その都度に議事録(протокол)が作成されているが,この議事録および各大会での講演の内容などは司法省の発行する«Журнал Министерства юстиции»に掲載されることが通例であった。後にまとめられて何度か刊行されている。См., напр., Международный союз криминалистов. Русская группа, С-Пб. 1902. これらによってグループの活動経過はかなり詳細にたどることが可能になる

[14]) この会議においてグループのメンバーに加えられた29名の中には,教育大臣であるデリャノフ,元老院議員コーニ,モスクワ大学教授ドゥホフスコイ,ペテルブルグ大学教授セルギエフスキー,同助教授ペトラジツキー(Петражицкий, Лев Иосифович 1867-1931,帝国法律学校教授ナボコフ(Набоков, Владимир Дмитриевич 1869-1922)らとともに,当時まだ博士候補生であったジジレンコの名前も見える。

ジジレンコ(Жижиленко, Александр Александрович 1873-1930以降はペテルブルグ大学法学部卒業に博士候補生となり,一時ドイツでフォン・リストに師事,帰国後にアレクサンドロフスク貴族学校,ペテルブルグ大学法学部等で刑法および犯罪学を教授,1917年の2月革命後に臨時政府の監獄総局長官を兼任したこともあったが,10月革命後もペテルブルグ(ペトログラード,レニングラード)大学で教鞭をとった。

副議長となったムロムツェフ(Муромцев, Сергей Андреевич 1850-1910)は元モスクワ大学法学部のローマ法担当教授,副学長も務めたが学生運動への手ぬるい対応をとがめられ解任された後,この当時はアレクサンドロフスク貴族学校の民法など担当の教授。立憲民主党の創立に参加し,1906年初めての国会議員選挙においてモスクワから選出され,短期間ではあるがその議長を務めた。

また,ドリーリ Дриль, Дмитрий Андреевич 1846-1910)はモスクワ大学出身。名簿に記載のところでは,当時は司法省法律顧問であった。彼の経歴や研究内容などについては,参照:上田「ロシアにおける刑事人類学派の軌跡」(浅田和茂博士古稀祝賀論文集所収)。

[15]) Международный союз криминалистов. Русская группа, С-Пб. 1902, стр. 27-54. なお,報告者の一人であるゴーゲリ(Гогель, Сергей Константинович 1860-1933)は,この当時は司法省に勤務していたが,1904-11年はペテルブルグ大学助教授,それ以降,精神神経研究所所長,臨時政府の下での元老院議員,キエフ大学,セバストーポリ大学などを経て,1920年亡命。プラハ大学教授などを勤め,ベルリンに没した

[16]) Там же, стр. 56-66.

[17]) この種の大会は1875年モスクワで開催されたロシア法律家大会以来のものであり一大事件であったことから司法省のホールで開かれた大会にはグループのメンバー以外にも,刑法学者検察官弁護士などが多く出席したと紹介されている。Тульская, С.А., Московское Юридическое Общество (1865–1899 гг.). Из истории развития права и правовой науки в России второй половины XIX века, М., 2011, стр. 81. が,大会冒頭でのフォイニツキーの報告では,この時点でのグループのメンバーは71名,第1日の報告を聞いたのはそのうち31名であった(大会の報告書に名簿が付されている)。

[18]) 前提的な状況として,18898月に開かれた国際刑事学協会の第1回大会がその決議において,「協会は諸国の立法者に対して執行猶予の原理を,各国の条件に応じてその限界を設定し,またその当人の性格および道徳的な状態に配慮しつつ,取り入れるよう提案する」,と述べていたことがあり,これがロシアの刑法学者・実務家に対し強い刺激となったことが指摘される。См. Тарасов А. Н.  Условное осуждение по законодательству России, С-Пб., 2004, стр. 20. さらに,ペテルブルグで1900年に開催された国際刑務会議(Le Congrès pénitentiaire internationalおよび1902年の国際法協会Association de droit international)のそれぞれ大会でもテーマとして取り上げられたことも,問題を強く印象付けた。См. Таганцев Н.С. Русское уголовное право. Лекции. Часть общая. т.2, С-Пб., 1902, стр. 1400. 

[19]) チュトリューモフ(Тютрюмов, Игорь Матвеевич 1855-1943)はペテルブルグ大学出身の法律家で,この当時はクルスク管区裁判所副所長であった。後にペテルブルグ大学法学部助教授(民法講座),控訴院検事長,元老院議員などを勤めた後,革命後はエストニアに亡命,政治活動の傍らタルト大学教授として民法を講義した。

なお,ロシア刑法における執行猶予制度についての基本的な研究書であるタラーソフの上掲書(Тарасов А. Н. Указ. соч.)が,大会におけるチュトリューモフの報告のみならず,彼の存在それ自体をも完全に無視していることには困惑させられる。

[20]) 総会第2日の出席者は23名と報告されており,発言者以外ではドゥホフスコイ,ムロムツェフ,チュトリューモフ,フークスФукс Э. Я. 1834-1909,裁判官,当時はペテルブルグ法律協会議長)などの名前が見える。

[21]) Указ. соч. : Международный союз криминалистов. Русская группа, стр. 136. 決議は執行猶予制度の導入に反対があることを踏まえて,その適用の条件をいっそう明確に法律で定めることおよびこの制度を適用する単独判事の判決に対する裁判所の監督を保障すること,を付け加えていた。それでも,賛成16に対して反対3,決議を行うこと自体に反対が2,棄権1というような票数であった。

[22]) Костина С.М., Роль Русской группы Международного союза криминалистов в истории становления института условного осуждения в дореволюционной Россииhttp://www.moluch.ru/conf/law/archive/39/903/

[23]) 同じ時期に政府が設置した特別委員会(新刑法典の施行に伴う諸措置の検討のための特別委員会)においても執行猶予制度の導入が検討されており,とくに190312月の委員会では,司法大臣ムラヴィヨフが議長となり委員としてフォイニツキーも加わる中,激しい討議を経て刑法典への執行猶予制度の導入を議決している。が,翌年に委員会の作成した法律案はその後各段階で修正を加えられたり再審議が要求されたりしている間に,政治情勢の緊迫,第一次世界大戦への参戦,172月と10月との革命を経て,消滅してしまったСм. Тарасов А. Н. Указ. соч., стр. 35.

[24]) 初日の会議は17日の夜820分開会,終了は夜中の午前010分,出席メンバー28名に加えて,救貧・養護施設関係者の代表4名,オブザーバー1名と記録されている。

[25]) ブリッフェルト(Вульферт, Антон Карлович 1843-1910?)は ,モスクワ大学出身,裁判実務に携わった後にモスクワ大学法学部助教授などを経て,この当時は軍事法律アカデミー教授であった。

[26]) 大会においてゴーゲリの行なった会務報告によると,190111日現在のロシア・グループのメンバー数は121名に達していた。190012月の委員会報告書に名簿が添えられている。

[27]) ルカヴィシニコフ(Рукавишников, Николай Васильевич 1845-1875)はモスクワ大学物理・数学学部を卒業,家業である鉱山業に従事する傍ら社会活動に取り組み,モスクワの矯正児童施設の所長を務めた。またガース(Гааз, Фёдор Петро́вич 1780-1853)はイエナおよびゲッティンゲンの大学で医学を学んだ後,ロシア政府の招請によりモスクワへ。モスクワ刑務所の医長を勤めた。ドイツ名Friedrich-Joseph Haass

[28]) ウラジーミロフ(Владимиров, Леонид Евстафьевич 1845-1917)はハリコフ大学法学部教授,刑事手続法が専門で著名事件において弁護士を務めたことで知られる。この大会での彼の報告は短いもので,一般的に心理学的な研究によって責任能力の存否や内容についてより多くのことを知りうる可能性がある,と述べたにとどまる。この報告に対しては,司法精神医学の専門家として知られるコヴァレフスキー(Ковалевский, Павел Иванович 1850-1931)などの補足的な発言があった。

[29]) アストロフ(Астров, Павел Иванович 1866-1919 ?)はモスクワ大学法学部出身,裁判官などを勤めた。

[30]) フージェリ(Фудель, Иосиф Иванович 1864-1918)は高名な聖職者で,モスクワのニコライ・チュドトボーレツ教会の長司祭である傍ら,ブトゥイルカ監獄において教戒師を務めていた。

[31]) Остроумов С.С., Левая группа русских криминалистов (из истории русского уголовного права), «Правоведение» 1962, 4, стр. 147 и сл. その後同年4月に開かれた定例総会もフォイニツキーを非難しロシア・グループからの脱退を求める決議を挙げたことからそれ以降フォイニツキーはグループの活動に参加しなかった1913年の逝去まで

[32]) 当時の社会状況などにつき,参照: 高田和夫「1905年革命」世界史体系・ロシア史2,山川出版社・1994年,345頁以下。

[33]) チュビンスキー(Чубинский М.П. 1871-1943)やナボコフ(Набоков В.Д. 1869-1922)の演説には,犯罪,とくに政治犯罪の一貫した増大に対する不安が示されており,「社会」防衛のための抑圧の強化が主張されていた。См. Остроумов С.С., Преступность и ее причины в дореволюционной России, М., 1980, стр. 197-198.

[34]) См. Остроумов, указ. соч., там же. 先のチュビンスキーやナボコフの主張とポリャンスキー(Полянский Н.Н. 1878-1961)やゲルネット(Ге́рнет М.Н. 1874-1953)の主張の対極性は顕著である。後の歴史的な事実として,前2者とも1917年の革命後は国外に亡命することとなるのに対して,後2者が共にソビエト時代の代表的な刑事訴訟法学者,犯罪統計学者として活躍した点でも,この対立は象徴的である。なお,ロシア・グループの年次集会がこの時期以降,「大会」でなく「総会」と呼ばれていることの経過はさしあたって不明である。

[35]) オルドゥインスキー Ордынский С.П.)については,グループの名簿にモスクワ在住の弁護士と記されているのみで,生没年等も不明。彼の報告„Производство в военныхъ судах"など総会で実施予定であった報告についてはこの総会の報告書(Общее собрание Группы в Москве 21-23 апреля 1910 года - Рус. группа Междунар. союза криминалистовиналистов, С-Пб., 1911.)により参照可能である。なお,報告書に掲載されている名簿によると,総会の時点におけるロシア・グループの成員数は316名に達している。

[36]) Протоколы 9-го собрания группы, 28-31 марта 1912г., СПб., 1912. オストロウーモフによれば,この総会ではとくに「危険状態」論が議論となり,ロシアの刑事立法にこの観念を導入し,それを根拠として犯罪行為の予防のために「保安処分」を適用することを可能にしようとするナボコフ,チュビンスキー,ゴーゲリ,ゲッセン(Гессен, Иосиф Владимирович 1865-1943などに対して,グループ内の左派を代表するポリャンスキー,トライニン,ゲルネットの,それは「刑法の基礎を破壊し,刑罰適用の領域に恣意を持ち込むことになる」との論陣が張られた,としている。См. Остроумов С.С., Указ. Статья в «Правоведение» 1962, 4, стр. 147 и сл.

[37]) 「この時期のロシア犯罪社会学の左派グループの中にひときわ目立つ論者はチャルィホフである」(オストロウーモフ)。彼がモスクワ大学法学部の最終学年の学生でありながら公表した論文(Чарыхов X.М. Учение о факторах преступности. Социологическая школа в науке уголовного права. М.,1910 )は,その高い水準によって人々を驚愕させたといわれる。

[38]) イサーエフИсаев, М.М. 1880-1950)はペテルブルグ大学法学部卒業後,学位論文の準備過程でしばしばベルリンを訪れ,リストの研究室にも参加しており,1904年に «Die Neue Zeit»誌に公表した論文「支配階級の利益の擁護者としての刑事社会学派」(Sursky, M., Die kriminal-soziologische Schule als Kämpferin für die Interessen der herrschenden Klassen, «Die neue Zeit : Wochenschrift der deutschen Sozialdemokratie»,  22.1903-1904, 2. Bd. (1904), Nr. 47, S. 641-648)に対しては,それに反論するリストの手紙が残されている。このとき以降M. Surskyの筆名で多くの論説を公表し,西ヨーロッパにおいて著名であった。ソビエト時代には代表的な刑法学者・矯正労働法学者の一人であり,ソ連邦最高裁判所判事も歴任した。Рашковская Ш. С., Михаил Михайлович Исаев, 1880 – 1950, «Правоведение», 1981 1, стр. 80 – 85. 

[39] とくにその点を指摘するものとして,см. Гилинский Я. И., Криминология. Курс лекций, С.-Пб., 2002, стр. 146 и сл.

[40] 実際にドリーリの研究がどのようなものであったかについては,参照:上田「ロシアにおける刑事人類学派の軌跡」(浅田和茂博士古稀祝賀論文集所収)。

[41]) «Преступный мир Москвы». Сборник статей под ред. М. Н. Гернета, М. 1924. なお,本書は1991年にリプリント版が刊行されている。編集者ゲルネット(Гернет, М. Н. 1874-1953)はモスクワ大学出身の刑法学者・犯罪学者であり,1902年からモスクワ大学で教鞭をとったが,1911年に教育大臣カッソーの大学への介入に抗議して辞職,その後はペテルブルグ精神神経研究所に刑法の教授として迎えられ,革命後はモスクワ大学法学部教授となる。『犯罪の社会的要因』(1905年)や『死刑』(1913年)などの著作,また多方面の社会活動において知られた。

[42]) 上田 ・ソビエト犯罪学史研究(成文堂・1985年),とくに124頁以下を参照。

[43]) 参照,上田 ・ソビエト犯罪学史研究(成文堂・1985年)。

[44])  コム・アカデミーはマルクス主義理論の研究と宣伝のセンターとして1918年に全ロシア中央執行委員会により設置されたもので,当初正式には社会主義社会科学アカデミーと呼ばれ,総裁は歴史学者ポクロフスキーであったが,1924年以降は共産主義アカデミー(コム・アカデミーと略称される)と改称されていた。その著書『法の一般理論とマルクス主義』によって世界的な名声を有するパシュカーニスはその法部門の中心的なメンバーであった。

[45]) 興味深いエピソードがある。1927年,新生ソビエト・ロシアの刑法学者ピオントコフスキーがローマにフェリーを訪ねている。帰国後にピオントコフスキーは,新派刑法学はソビエト・ロシアの刑法学とはまったく異質であり,あたかも自身をソビエト刑法の父であるかに言うフェリーは妄言を吐いているに過ぎないと書いたのであるが,その論文の端々には,かつて帝政末期のロシアにおいて社会学派として名を馳せた刑法学者を父に持ち,まだ20だったはずのこのモスクワ大学教授の,フェリーに対する敬意が垣間見えるような気がするのである。参照: ピオントコフスキー(中山・上田訳)・マルクス主義と刑法(成文堂1979),185頁以下。筆者(上田)が長らく疑問に思って来たのは,この2人がローマで実際には何を,何語で,語り合ったのだろうかということである。すでに70歳を越えていたフェリーは,自らの生み出した刑法における新思考の未来をいずれに見ていたのか──ファッショ党政権下のイタリアにか,それとも社会主義ソビエト・ロシアにか,と。