ある刑法学者の肖像

              ―― ミロリューボフ教授とハルビン法学部――

 

                           

はじめに

                                                         カザン大学法学部

                                                         白いシベリア エカテリンブルグからウラジオストクまで

                                                         ハルビン法学部

                                                         最後の輝きと異郷での死

                                                     刑法学者の生と死 あとがき )

 

 

はじめに

 

日清戦争における敗北によって日本に対し遼東半島の割譲と莫大な賠償金支払いの義務を負った清国政府を,「三国干渉」を主導することによって救援したロシアは,清国との間に秘密条約(1896年)を結び,清国北東部,満州地域での鉄道敷設権を得ることに成功した。これによって,シベリア鉄道のイルクーツク,チタ以東の路線を,建設困難なアムール川沿いではなく,短絡線として満洲北部をほぼ一直線に横断してウラジオストクに至るルートで敷設することを可能としたのである。「中東鉄道」(あるいは「東清鉄道」,ロシア語略称КВЖД)と呼ばれたこの鉄道敷設の事業の拠点がおかれたのがハルビンである。

アムール川の支流である松花江(スンガリ川)南岸の小集落にすぎなかったハルビンは,1898年に中東鉄道の建設が始まると急激に人口が増加し,商工業の発展を見るに至った。とりわけ鉄道建設に携わる技師,労働者などとその家族をはじめとするロシア人の流入が目立ち,第一次世界大戦開戦時までにロシア人人口は43,500人に達し,ハルビンの全人口の60%以上を占めていた。その後も,ロシア革命と内戦の混乱を避けてハルビンに流入するロシア人は増加を続け,1918年にはハルビンの人口157,379人の内6200人がロシア人,国内戦における白軍派の敗北が決定的となった1920年にはロシア人人口は131,073人(全人口の46%)に達していた。人口における比重だけでなく,経済的にも文化的にもその影響力は圧倒的であり,中国の地にありながらハルビンはあたかもロシアの都市そのものであった[1])

そしてここに,様々な歴史的条件の交錯の結果として,1920年代初頭に独立の高等教育機関である「ハルビン法学部」が誕生し,当時の極東地域における有力な教育・研究機関として活動していた。本稿はそのハルビン法学部において刑法・刑事訴訟法を担当する教員であったミロリューボフ教授の足跡を追い,彼の刑法思想だけでなく,歴史の転換点に行き合わせてその激動に巻き込まれた刑法学者の生そのものを考察の対象とするものである。

歴史的な記述に時折その名前が出るだけで,現在ではわが国でもロシア本国でも殆ど知られていないミロリューボフであるが,彼はカザン大学法学部出身の刑法学者で,同大学の助教授になった段階でロシア革命に遭遇,退却する白衛軍とともにシベリアを移動し,イルクーツク大学,ウラジオストクの極東大学などで短期間教鞭をとりながらも,結局は国境を越えハルビンへ脱出,ハルビン法学部の開設に働き,その学部長を1920年から4年間勤め,その辞任後に病に倒れ19271月に死亡している。肺結核であった。

当初に目を引かれたのは,もちろん,ロシア国外に成立した単独の法学部とそこでの刑法教育,刑法学者という特異な現象そのものであったが,さらにはミロリューボフがカザン大学法学出身であり,その在籍した時期から推測して彼はピオントコフスキー教授の系譜に属す学者なのではないかということが筆者(上田)の関心を呼んだのである。ドイツにおいてフランツ・フォン・リストの指導を受けたことのあるピオントコフスキーは,当時のロシア刑法学において代表的な実証主義学派の論者であり,国際刑事学協会(IKV)ロシア・グループの活動において活発な論議を主導し光彩を放つ存在であったが,彼の革新的な刑法理論の流れを汲むはずのミロリューボフが,ロシア革命において帝政を擁護する反革命派・白衛軍と行動を共にしていることにいささかのこだわりを覚えたことが発端となった。さらに,資料をたどるにしたがって,ミロリューボフ教授の肖像には別の側面が浮かび上がってくる。カザン高等法院付き検察官,エカテリンブルグでの皇帝一家殺害事件にかかわる調査委員会への参加,コルチャーク提督との関係,最後のゼムスキー・サボールの議長,正教ハルビン主教座の参事会員など。これらを一身に体現した刑法学者・ミロリューボフとは一体何者なのか,という問題である。このミロリューボフ教授の実像を可能な限り明らかにしたいというのが,本稿のさしあたっての意図である。

 

カザン大学法学部

 

ニカンドル・イヴァノヴィッチ・ミロリューボフ(Никандр Иванович Миролюбов)は18701017日,カザン県テチューシスキー(Тетюшский)郡バイテリャコヴォ(Байтеряково)村の聖職者の家庭に生まれた。11人兄弟の一人として最初はカザンの教会学校で学び,ついで神学校,さらに神学アカデミーへと進み,1895年,神学博士候補の称号を授与された。だが,神学アカデミーを修了した後に方向転換を図り,教育大臣の許可を得てミロリューボフは25歳でザン大学歴史学部へ入学したが,その直後に法学部へと転学部した。偶然のことながら,ロシア革命の指導者であるレーニンも同じ1870年に生まれ,1887年にカザン大学法学部へ入学しているが,その8年後のことである[2])

カザン大学は帝政ロシアにおいてモスクワ大学(1775年創立)に次いで古く,アレクサンドル1世により1804年に創設された大学であり,ボルガ川中流域やウラル地方における研究・教育の中心となっており,帝政時代には歴史・言語学,物理学,医学,法学4学部を備えていた。

このカザン大学法学部においてミロリューボフがどのような刑法学の教育を受けたのかを示す資料は参照しえないが,彼の在学時にカザン大学法学部で刑法関連科目の講義を行っていたのはヴィノグラヅキー(Виноградский, Н.Н. 1841-1899)およびグレゴロヴィッチ(Грегорович, Ф.В. 1848-?)であり,ミロリューボフもまた両教授の講義を聴いたものと推測される[3])

ミロリューボフは1899年にカザン大学法学部を首席の成績で卒業した後,当初司法省に勤務する進路を選んだが,引き止められて190011日から2年間,教授資格を目指して刑法・刑事訴訟法講座に残ることとなり,この期間をさらに1年延長して,1903年末に彼は刑法学の博士(マギストルмагистр)の学位を取得し,試験講義(「監獄における保護人制度について」および「不定期刑判決について」)を経て,19041月,刑法・刑事訴訟法講座の講師(приват-доцент)に選任された。この,刑事法分野の研究者・教育者を目指しての修業時代のミロリューボフに対しては,彼が学部を卒業したその年にカザン大学法学部に着任したピオントコフスキー教授[4])の直接の指導があったことが推測される。刑法制度としての執行猶予・仮釈放のロシア刑法への導入を象徴的なテーマとする実証主義学派の刑法理論の展開に邁進するピオントコフスキーの旺盛な研究活動を間近にして,ミロリューボフもそれに沿って研究者・教育者としての道を歩み始めたものと考えられる。そのことをよく示すのは,上記の試験講義のテーマ設定である。

この時期に彼が公表した研究業績として記録されているのは,以下のものである。

 

1.「1899年の法律に従って郷裁判所により宣告された刑罰について」の報告,カザン法律家協会報告集1899年編

2.「特別の法的制度としての復権」,司法省雑誌1902年,個別の出版編もあり

3.「監獄における保護人制度」,司法省雑誌1904年,個別の出版編もあり

4.「不定期刑」,司法省雑誌1904年,個別の出版編もあり

5.ネミロフスキー氏の博士論文「論告に対する判決の関係」(1906年)についての批評,カザン大学学術紀要,1907-08年度

6.「ピオントコフスキー教授追想」,個別の出版,1915

 

以上は彼が後に,在職中であったハルビン法学部の紀要(1925年第1号)における教員紹介に自ら挙げたものであるが,率直に言って,学術的な業績としては量的に少ない。あるいは,彼の主たる関心と活動領域は検事としての実務などにあった,ということであろうか[5])

ここに挙げられている業績のうち,1904年に『司法省雑誌』に公表とされている2つの論文がそれぞれ上記の試験講義の内容に対応するものと考えられるが,いずれも当時のロシアにおいて広く関心の対象であった刑罰制度の改革問題を取り扱い,それを西ヨーロッパで隆盛となっていた実証主義学派の立場から論じたものである。

 

それらのうち論文「監獄における保護人制度」(実際には『司法省雑誌』1905年第2号に掲載)が注目される。ここで「保護人制度(патронат)」とは,刑の執行を終えて監獄から釈放された者を一時的に保護し,居住場所の提供や就業の援助をする人あるいは団体を指し,今日の用語では更生保護に相当する。この論文においてミロリューボフは,当時の実証主義学派の代表的な論者であるプリンスの, 「もし犯罪というものが,夜の泥沼の鬼火のように,偶然に出現したものであるなら,司法はやみくもな対応しかできないだろう。だが,幸いなことにそうではない。我われは暗闇の中に追いやられているわけではなく,犯罪現象に対策を講じてそれに成功する大きなチャンスを持っているのだ。」[6]) との言葉を引きつつ,犯罪現象が犯罪者の生物学的あるいは社会的な諸要因の総体によって引き起こされる複雑な社会現象である以上,刑罰制度もそれに対応しなくてはならないとする。刑罰を執行して,それですべてが終わったとするのではなく,犯罪の根となっている諸要因に作用するような諸施策を行うことで,社会は犯罪から守られるのである。現行の刑罰システムは根底から変革されなくてはならない。とくに,いったん罪を犯した者を永遠に正常な社会生活から追放してしまう,厳重な拘禁と社会からの隔離という実務をやめることが必要なのである。そこにおいて重要な意義を持つのが更生保護の制度だ,というのがミロリューボフの認識である。

論文では,フランス,ドイツ,ベルギーなどヨーロッパ諸国におけるこの制度の成立と現状が述べられ,イギリスやアメリカでの具体的な成果の紹介などがなされた上で,ロシアの状況が未だ初歩的な段階にあるとされている。それによると,19世紀前半にペテルブルグやモスクワで監獄後援協会が作られ,それが設けた監獄からの出所者に対する一時的な保護施設が先鞭をつけ,1866年に「若年犯罪者のための矯正保護院に関する」法律が制定されたことや1872年のペテルブルグ監獄から出所した女子のための更生保護施設の開設によって,この種施設の整備が進んだが,その運営を支える団体である更生保護協会の設立状況で見ると,現時点(1905年)で7つしかない。(ペテルブルグ,モスクワ,オデッサ,プスコフ,キシニョフ,ペルミおよびヤロスラブリであるが,そのうちモスクワ,オデッサおよびプスコフのそれは特に未成年の出所者の保護のためのものである。 ミロリューボフは,ロシアの現状を改善し,更生保護を充実させる必要があるとして,それをいかに組織すべきかについて一連の原則を説明している。その基本は,就労の支援を中心に被釈放者を正常な社会生活へ復帰させるという更生保護の課題を首尾よく果たすために,更生保護協会は民間の,あるいは半官半民の組織であるべきで,そこには社会の各層の代表が加わるべきだ,と主張している。そして,その更生保護協会の活動としての援助は,未成年出所者に対しては必ず,成人に対しては求めに応じて,提供されるべきだ,などの点である。

彼が繰り返し指摘しているのは,この制度が未発達であるのはロシアの文化的な立ち遅れ,犯罪に対しては刑罰しかなく,それで十分だという伝統的な考えへの固執によるものだということである。だが,事実が教えているように,犯罪現象と闘う上で刑罰はその手段の一つにすぎない。より良い方法,犯罪者を処罰するよりも,犯罪を予防する方法を見つける努力がなされるべきなのであり,それらの基礎には人間の誠実さと尊厳に対する正面からの信頼が置かれなくてはならない,というのである。[7])

 

この論文に先立って, 1902年に発表されていた論文「特別の法制度としての復権」も,学術的な観点から注目される業績である。ここで「復権」とは,有罪判決に伴って被告人に生じた権利の停止や自由の制限といった効果を将来に向けて解除し,名誉の回復を図る措置を意味し,たとえば恩赦の決定により行われる。ミロリューボフの論文は『司法省雑誌』の19023号と4号に連載され[8]),その後に単行書としても公刊されているが,その本格的な検討はこの問題に関してロシア刑事法学上初めて公表された研究成果であり,近年の研究者の論文にも引用される水準にある。[9])

論文では,まず刑罰は犯罪との闘争の手段の一つにすぎず,また最良の手段でもない,とすることから書き起こされている。犯罪の予防のためには,教育と経済状態の改善,政治的な平等などが必要であり,再犯の予防のためには執行猶予や仮釈放,あるいは更生保護といった制度が重要な役割を果たすが,ここで取り上げる「復権」もそのような制度の一つである,として,以下では,まず1)この問題にかかわるロシアの権利剥奪制度について概観し,次いで2)復権制度の歴史と3)今日の西欧諸国における問題状況を検討した上で,最後に4)ロシアの刑法典および刑事手続き法典の草案におけるこの制度の位置付けについて述べられている。

法的な意味での「復権(Реабилитация」の概念は,ミロリューボフの述べる通り,中世フランスの法学者 Fabricius-Bleynianus が,受刑者に対してその以前の全ての権利を回復することで赦免する古くからの制度の意義を説明するために用いたものであるが,ミロリューボフが参照している文献が指し示す通り,主要にはフランスにおいて3 共和政(1870年−1940年)下の19世紀末につくられたRéhabilitation制度が念頭に置かれている。フランス刑法におけるこの制度は,確定した有罪判決の効力を将来的に消滅させるもので,前科簿からの抹消や,確定した有罪判決に伴う権利制限の消滅などを内容とするものである[10]) 彼によれば,復権制度を君主や最高権力機関による恩赦的なものとして持つイギリス,オランダ,ドイツ,オーストリア,ハンガリー,スペイン,ルーマニアなどと異なり,特別の法的な制度として持つのは,フランス以外に,デンマーク,ノルウエイ,イタリア,ベルギーおよびスイスのいくつかの州である。彼は多くの文献資料を基に,各国の制度の特徴について詳細な検討を行っているが,刑事施設からの出所者の安定した社会生活への回帰,したがって再犯の防止のためには,復権制度が法的な制度として存在することが重要であるとしている。

当然ながらロシアも,恩恵的な恩赦の一形態としてではなく,特別の法的制度としての復権をこそ目指すべきなのである。ミロリューボフはロシアでも,すでに189762日の少年および未成年者の犯罪に関する法律によって,刑罰法典に,14歳から17歳の未成年者が有罪判決により剥奪された諸権利は,刑事施設から釈放後5年間経過することにより回復が措置される旨の規定が置かれている(1393)ことを指摘し,この,未だ例外的な優遇措置とされている制度を,一般的な犯罪者へ広げていくべきだと論じている。そのために必要な,刑法典および刑事手続き法典の改正についても具体的な提案をも行ない,最後に,「かくして,この制度をわが国の将来の刑法典に導入することこそは,疑いもなく,わが国の刑事立法の発展の道へと一歩を進めることになるであろう」,と論文は結ばれている。

 

以上のような,その当時のミロリューボフの論文にうかがわれるのは,西ヨーロッパ諸国とアメリカで進んでいる行刑改革とその推進を支えている実証主義学派へのあからさまな共感である。高名なピオントコフスキーと並んでカザン大学法学部の教員に加えられたミロリューボフの昂揚した気分が伝わってくる。彼は最初の1904-05学年度には,選択履修科目として「監獄学」および「刑法各論」,実務科目として「新刑法典各則」を担当している。[11]) 

その後彼は1917年まで講師の地位にあり1918年に同じ学科の助教授доцентに選任された。おそらくはこの期間にドイツあるいはフランスなどに留学したはずであるが,それについては資料によって確認することができない[12]

 

この時期の業績リストの最後に挙げられているのは,191512月に死去したピオントコフスキー教授に捧げられた追悼の書である。本書でミロリューボフは,ピオントコフスキーの来歴を簡単に記述した後で,彼の実証主義学派刑法学の内容を丹念に紹介し,その普及のために彼がいかに精力的に活動したかを詳細に記述している。自身との関わりについてはきわめて簡単に,「亡き教授の指導の下で刑法の諸問題を研究した者として私は,感謝の念と共に,研究において彼の指摘した諸点の適切さと正しさを確認するものである」,と述べるに過ぎない。そして最後に,「私は,彼の名がロシアの刑法学の歴史と高等教育の歴史において,この科学の領域における新しい積極的な潮流の先駆的な代表者として,この理論の抜きんでた教育者として,そしてまた人間味あふれた働き手として,それにふさわしい地位を占めるものと確信する」,と結んでいる。[13])

 

白いシベリア──エカテリンブルグからウラジオストクまで──

 

本人の提出したところに従って記述されたハルビン法学部紀要に示される年譜でも,また各種の人名辞典などの記述でも,カザン大学助教授であったミロリューボフは1918年にイルクーツク大学の特別教授(экстраординарный профессор[14])に招聘され,赴任したと記録されているだけである。しかし,事柄はさほど簡単ではなく,以下に見る通り,相当に込み入った経過のうちに生じた「移籍」であったことが窺われる。

ミロリューボフは19172月の第一次ロシア革命(「二月革命」)の後に臨時政府によって,大学の教員のままで,改めてカザン高等法院の検事に任ぜられた。だが,その8か月後に十月革命が勃発し,急進的なボリシュヴィキ派が国家権力を掌握したことによって,世界史上初めての社会主義政権が登場したこと,そして首都とヨーロッパ・ロシアの都市を中心とするボリシェヴィキ政権に対立する政治勢力の武装と欧米および日本の軍事干渉とが引き起こした2年半に及ぶ国内戦というロシアの混乱を背景として,彼の運命も大きな坩堝に投じられることとなる。

モスクワの東800kmのボルガ河畔に位置するカザンは,歴史的に帝政ロシアの重要な政治=文化的中心の一つであり,豊かな商工業都市でありつつ,地理的には西シベリアへの入り口であり,住民の民族構成から見てもタタール人の街であるなど,きわめて複雑な性格を内包する都市であるが,当時のカザンの社会状況,目まぐるしく変転した政治勢力の交代について,その全てをここで十分に説明することはできない。ここで扱うのはただ,ミロリューボフの周辺についてのみである。

ミロリューボフは,その出自と経歴から,当然に帝政とロシア正教に対する尊重の心情を抱いていたものと想定されるが,そのために,19185月に起きたチェコ軍団[15])の反乱を契機としてロシアに内戦が勃発した時も,そして同年8にチェコ軍団と白衛軍部隊がボリシェヴィキの部隊を駆逐してカザンを占領した際にも,むしろ共感をもって事態を迎えたのではないかと推測されるのである。この時期も彼は大学の教職と共に検事の地位にとどまり活動を続けた。だが,事態は急変する。圧倒的な赤軍部隊の反撃により,早く910日にはチェコ軍団と白衛軍は東方に向け退却を始めるが,ミロリューボフもそれに従ってカザンを去り,これ以降再び帰ることはなかった。彼はシベリアの反ボリシェヴィキ政権の,とりわけコルチャーク提督[16])の軍事独裁政権であるオムスク政府(「全ロシア臨時政府」)の下で検察官としての活動を続け,とくに知られているところでは,19187月の皇帝ニコライ2世一家の殺害について調査を行い,同年1212日付で司法大臣スタルィンケヴィッチ( Старынкевич, С.С. 1874-1933 )に対し報告書[17])を提出しているが,この報告書を基に捜査検事ソコロフを責任者とする調査委員会が翌19192月に設けられることとなったのである[18])。ミロリューボフはこの委員会を監督する検事であった。

だが,カザンを去ったのはミロリューボフだけではなかった。

191899日から10日にかけて,市の北方から迫る赤衛軍の圧迫をうけたコムーチ政府[19])の崩壊に伴って,退却するチェコ軍団と白衛軍に随行してカザン市の人口の半数におよぶ市民が,大混乱のうちに南方のボルガ河港ライシェヴォへ,さらに東方のウファを目指して,避難した。街道に延々と連なる馬車や荷車,徒歩の市民の列の中には,カザン大学の教職員,学生のかなりとその家族が含まれていた。大学関係者の脱出は,直後の11日に,進駐してきた赤衛軍司令部によってカザン大学の学長事務取扱ゴリトガンメル教授(Д. А. Гольдгаммер 1860-1922著名な物理学者)が逮捕され,大学の評議会メンバーや学生同盟の幹部が取り調べを受けたことによって,加速された。資料によれば,この時期にカザン大学の教100名,法学部では10名が大学を去ったとされ,その名前が記録されているが,そこにミロリューボフも含まれている。

この1918年のカザン大学教員のシベリアへの落下傘降下によって,その副次効果として,ウファ,トムスク,オムスクなどをはじめとする各地の高等教育の組織化がこれ以降急激に進んだ。とりわけイルクーツクでは,地元の期待を担って1918年初めにイルクーツク大学が歴史=言語学部と法学部の2学部で開学した際には,カザン大学法学部の助教授であったイヴァノフБ. П. Ивановが学長となり,教員の多くが元カザン大学教員であった[20])(イルクーツク大学はその後,シベリア臨時政府によって同年10月に東シベリア大学 (Восточно-Сибирский университет)に改組された)。まさにそのイルクーツク大学に,ミロリューボフは特別教授として着任したのである。

なお,この間もミロリューボフは検事の仕事を継続しており,たとえばコルチャーク提督の命令により拘束された憲法制定会議派の訴追に加わり,自身のカザン大学での教え子であった議員ニコラエフС. Н. Николаев 1880-1976を含む彼らの釈放に成功した[21])ことなどが知られている。

だがそのイルクーツクもミロリューボフにとっては安住できる場所ではなかった。コルチャーク提督の下のオムスク政権(「全ロシア臨時政府」)は東進する赤衛軍の圧迫を受けて徐々に弱体化し,191911月にオムスクを脱出,イルクーツクへと移ったが,既に12月には,社会革命党(エスエル)やメンシェヴィキ,ゼムストヴォ(地方自治組織),市議会など数十の政党団体代表者によって結成された「政治センター(Политический центр)」が反コルチャークの方針を掲げて蜂起し,コルチャーク政府は崩壊した。コルチャーク自身も逮捕され,その後身柄をボリシェヴィキ側に引き渡され,軍事革命委員会による裁判を経1920年初めに処刑された。そのような経過を背景に,コルチャークと様々な関係のあったミロリューボフにとって,イルクーツク大学に居場所を見出すことは困難であったし,さりと19204月に出たボリシェヴィキ政府教育人民委員部のカザン帰還への青信号を安易に信頼することもできなかった[22]。多くのオムスク政府関係者ならびに白衛軍残党と共に,ウラジオストク[23])へ,さらにはハルビンへと向かう他に選択肢はなかったであろう。

 

ハルビン法学部

 

ハルビンにおけるロシア人人口の増大は,ロシア人子弟の教育の需要を生み,すでに1898年には最初のロシア人学校が作られたが,年を追ってその規模は拡大し,1917年のロシア革命の時期には中東鉄道附属地に3,036名の生徒と75名の教員を擁する22の初等学校を数えるまでになっていた[24])。それに引き続いて初等教育課程の卒業生を受け入れる中等教育機関の整備も徐々に進むとなると,当然にこの地での高等教育をどうするかということがハルビン社会の重要な問題として浮上する。この問題は,1917年のロシア革命とその後の国内戦によってハルビンがロシア本国から切り離された孤島状態となり,この地で中等教育を終えた若者がロシア本国で高等教育を受ける機会が失われた以上,ハルビンが独自に高等教育機関を設置する他はない,という形で社会問題化された。

高等教育機関設置に向けて19186月に結成された「高等教育機関設立委員会」の活動は,中東鉄道株式会社(その管理局)をはじめとするハルビンの経済界の支援とシベリアの白軍政権の崩壊に伴う多数の反ボリシェヴィキ知識人のハルビン流入とによって,19202月末,私立の高等教育機関である「高等経済法科学校」の開設へと結実した。そしてさらに,それが19227月に「ハルビン法学部」へと改組されるのであるが,このプロセスについては,すでに中嶋毅教授による詳細な紹介が行われている[25])。そこでも指摘されている通り,「高等経済法科学校」はその卒業生が大学卒業資格を得るために必要とされた,帝政ロシアでは国家試験とされていた大学卒業試験を実施する試験委員会を独自には組織できず,結局は当時極東共和国の国立大学であったウラジオストクの極東大学での受験を請願せねばならなかったこと,この請願を審議した極東大学当局がハルビンの高等経済法科学校における教育がロシア帝国大学令(1884年)の条件を満たすと認めたことが重要である。この,極東大学による認証をよりどころとして,高等経済法科学校は192274日ハルビン法学部(Юридический факультет в г. Харбине)へと名称を変更した[26])

ミロリューボフらは1920年にハルビンにたどり着き,上のような動きに積極的に参加することとなる。当初高等教育機関設立を働きかけていたウストリャーロフ(Николай Васильевич Устрялов, 1890-1937)やギンス(Георгий Константинович Гинс, 1887-1971)など,未だ若く大学での教育経験の乏しい教員たちに比べて,専門学位と大学での教育資格・経験を持っていた彼らは,ハルビンで始まっていた高等教育機関の開設に欠かせない人材として,歓迎された。ミロリューボフは到着早々,1920年の末に高等経済法科学校の長となり,そしてそれが改組された法学部でも引き続き学部長であり続けた。

1918年秋にカザンを離れてから2年間,白衛軍部隊と共にシベリアの日々を過ごし,たどり着いた反ボリシェヴィキの最後の牙城ウラジオストクでもかなえることのできなかった,落ち着いた刑法・刑事訴訟法の教育と研究の場を,ミロリューボフは最終的にハルビン法学部において見つけたかに思われた。たしかに,この法学部の土台は脆弱であり,その学部長としての苦闘は想像するに余りあるが,それでもハルビンには平穏なロシア人社会があり,高等教育機関として法学部は日を追って充実を見せていた。とくに,ウラジオストクが完全にボリシェヴィキの政権の支配するところとなり,そこを舞台としての帝政復活に向けた政治活動も終結した1922年以降は,研究と教育に専念する生活が待っていたはずであった。だが,彼に残されていた時間は少なかった。

ハルビン時代のミロリューボフの研究論文などについては,先に触れたハルビン法学部紀要の記事によれば,次のような公表業績があるとされている[27])

 

7.「革命と犯罪」,新聞『光明[Свет]』1920年に連載

8.「法治国家における個人と自由」,新聞『我らが日[Наш день]』,1921

9.「裁判所の正しい制度の問題に寄せて」,新聞『大学記念日[Татьянин День]』,1923

10.「裁判所の独立の問題に寄せて」,新聞『法律家の日』第1号,1923

11.「目撃証言の信憑性の問題に寄せて」,新聞『法律家の日』第1号,1924

12.「国家の内政に対する他国の不干渉のフィクション」,新聞『大学記念日[Татьянин День]』,1924

13.「政治的な結社と政党」,新聞『法律家の日』第1号,1924

14.「死刑の問題について」,新聞『ロシアの声』,1923

15.「中華民国の新しい刑法典」,ハルビン法学部紀要,1925

16.いくつかの教育的な論文

また,この記事には含まれていないが,翌1926年に論文,

17.「中国の違警罪法典(全体的な特色)」,ハルビン法学部紀要

が公表されている。

 

この時期に彼が果たしていた様々な役割──その政治的・財政的な基盤の脆弱な私立学校であるハルビン法学部の学部長として,その維持発展に力を尽くす一方で,ハルビン在留の「ロシア人避難民協会」の議長として,日常的に相当の労力を割かざるを得なかったであろうこと,また,後述するような,ウラジオストクを舞台としての帝政ロシア復活に向けた最後のあがきとでも言うような,ゼムスキー・サボールに関わる活動や,ロシア正教会のハルビン主教座の組織問題にかかわっての活動など,ミロリューボフの周辺の慌ただしさは,研究と執筆の作業にはおよそふさわしくないものだったと想像される。

上掲の諸論文の内,新聞各紙に公表されたものについては,おそらくは比較的に短い論評風のものであったと推測されるが,さしあたってその原典を参照しえないため,その内容などにつき評価することはできない。それに引き換え,ハルビン法学部紀要に公表された2編の論文(15および17)については,ロシアの≪“法学電子図書館の提供する資料のカタログに含まれており,これを参照することが可能である。この,ミロリューボフの最後の2編の論文が共に中国法に関するものであったという事実は,彼がハルビンのロシア人社会にあって刑事法を含む法学研究の将来的な課題をどこに見ていたかを示唆する点で,意義深いものがある。

 

1925年の論文「中華民国の新しい刑法典」[28])は,『法学部紀要』第1巻に掲載されたものであるが,ここでは中華民国元年(1912年)310日の袁世凱大統領の布告により施行された「中華民国暫行新刑法典」[29])を検討の対象として,中国刑法の特色を明らかにする試みが行われている。

冒頭ミロリューボフは,「中国刑法典を知り,その研究を行うことは,今日われわれロシア人にとって理論の観点からだけでなく,実務的にも,必要で重要な事柄である。なぜなら,われわれ中国に住むロシア人は治外法権の廃止によって中国の法律,とりわけても刑罰法規の効力下に置かれているからである。だが,理論的な視点からはこの法典を,つい最近まで古めかしい,純粋に民族的な法律に従って生きていた,最も古い国家の一つの法典として,研究することが重要なのである。つい最近までの全時代を他の国々から隔離されていて,最近にそれらの国々の影響を受けるに至った国家の法典として。そして最後に,それを,あらゆる国民の刑事立法はその切実な利益,その政治的・倫理的および経済的な理念を反映するものであり,何よりもまず,また主要には,当該国家の政治体制こそがその刑事立法に反映される,という命題を証明するものとして,研究することが重要である。」とその基本的な問題意識を説明している。

その上で,新刑法典の内容の検討に入っているが,まず総則においては,他の国々の現代的な刑法典が必ずそなえている,重要ないくつかの規定が欠けていることを指摘している。たとえば,そこには罪刑法定原則についての第10条はあるものの,責任能力と有責性に関する原則的な規定が存在せず,個別に「12歳未満の者」および「知的に正常でない者」の行為は処罰しないとする条項がおかれているだけである。そのため,たとえば肉体的精神的に発達不良の者の犯罪行為,産褥など病気の状態で犯罪を実行した者,ヒステリーなど神経病状態,高齢,酩酊,一時的な錯乱状態,催眠状態などで犯罪を行った者についての不処罰に困難を生じる。知的に正常でない者の不処罰を規定する新刑法典第12条はその後段で,「泥酔状態で実行された行為およびその知的な不正常性が一時的にのみ生じた者の行為」を除外してはいるが,明らかに,それでは十分ではなく,理論的な検討に耐えない,と批判するのである。さらに,ここでは「処罰しない」との用語が用いられているが,それが犯罪であるのか否かを明らかにしていない,とも。

正当防衛と緊急避難についての規定は,ほぼ西ヨーロッパおよびロシアの刑法典と同一の内容であるが,とくに,故意と過失の規定については不備が目立つ,とされる。故意,過失に関する定義規定が置かれず,錯誤についても,過失行為と偶然的な事故との限界も,刑法理論と実務とに委ねられているのであろうが,中国の立法者のそのような判断は理にかなったものとは思われない,と。

犯罪の予備,未遂および既遂の区別については,法典は未遂について規定しているだけで,それら各段階の限界を明確にしていない。そのために,この刑法の適用に際しては恣意的な運用が懸念される。他方,共犯についてはほぼ他国の刑法典と同じように規定されており,正犯,教唆犯および幇助犯が区別されている他に,首謀者および共犯の共犯についても規定が存在する。しかし,不可解なのは「過失による共犯」について規定することである,というのは,ミロリューボフの考えでは,共犯は故意行為によってのみ可能なはずであるから。続けてさらに,再犯,犯罪の競合,刑罰の種類,情状酌量,刑の加重減軽,刑の執行猶予,仮釈放,恩赦,時効など,刑法総論の各論点にわたって詳細な検討が加えられている。

一方,新刑法典の各則については,そこに最近のヨーロッパ諸国の刑法典と同じように,国家法益に対する犯罪,社会的法益に対する犯罪,そして個人の人身と財産に対する侵害を内容とする市民の個人的法益に対する犯罪が配されていることを指摘した上で,ミロリューボフはその特徴的な規定として,「国家の国際的地位に損害をもたらす罪」(各則第4章),「職務犯罪」(同第6章),「選挙の妨害」(同第8章),「良心の自由の侵害および故人への冒涜的な態度」(同20章),「アヘンの吸飲に関連する犯罪」(同第21章),「賭博罪」(同第22章)「姦通および重婚」(同第23章),「生命に対する罪」(同第26章),「無援の者の遺棄」(同第28章),「社会的平穏,人の信用,名声および個人的な秘密に対する犯罪」(同第31章)などについて,それぞれの特徴的な規定を取り上げ,中国の歴史的・文化的な伝統と現在の社会状況とに関わらせて,その内容を検討している。また,中国での商工業の発展にもかかわらず,法典が詐欺破産や高利貸しについて規定せず,個人に雇われている労働者の利益を守る規定がないことなどにつては,とくに指摘している。

新刑法典の検討を踏まえて,ミロリューボフはそれが,西ヨーロッパの諸法典の影響下に編纂されながらも,なおそれらと同じ水準には達していないと評価し,その背景に,中国の刑法学が伝統と現状の圧力──とくにそれは,刑罰の峻厳さに示されている──を受けて,諸外国では妥当している基本原則の受け入れに成功していないことがある,と述べている。それでも,過去に比べると刑罰は緩和され,刑事実証学派の教義にしたがって新しい刑法制度である執行猶予と仮釈放も採用されはしているのであるが。そして何よりも,中国の立法者自身がその不十分さを自覚しており,そのためにそれを「暫行新刑法典」と呼んでいることを指摘しなくてはならない。中国の刑法学が今後さらに発展して,今次の法典が含んでいる欠陥が将来において是正されることを期待したいし,そのために高等教育機関であるハルビン法学部も寄与したい,として検討を結ぶのである。

論文の興味深い内容についてここで詳細に紹介できないのは極めて残念であるが,以上の断片からだけでも,ミロリューボフが刑法学者として,内外の立法事情にも通じた優れた理論家であったことをうかがい知ることができよう。

 

翌年のハルビン法学部紀要第3巻に発表されたミロリューボフの論文「中国の違警罪法典(全体的な特色)」[30])は,先の新刑法典とともに施行されている,中華民国の新しい,独特の内容を持つ違警罪法典について詳細に検討したものである。

簡単にその内容を見ておくと,最初に彼が指摘するのは,この法典が僅かに53か条という短さのために,他国の法典,例えばロシアの法典(1864年の「治安判事により科せられる刑罰に関する法典」)に存在する一連の違警罪規定を欠いており,またその技術的な観点からも,いくつかの総括的な概念なしにカズイスティックに解決されている点が目立つことである。

具体的には,まず第1章に収められた31か条の総則規定を概観すると,12歳以下の年少者の不処罰,正当防衛および緊急避難として行われた違警罪行為の不処罰(なお,過剰防衛の場合は処罰が減軽される),未遂行為の不処罰,違警罪行為により処罰された後6か月以内に繰り返された行為は1段階,2回目は2段階,加重して処罰されること,主犯と教唆犯は同一処罰,従犯ならびに従犯の教唆犯の減軽処罰などが規定されている。違警罪行為に対する刑罰は,人に対して科せられる15日までの拘留,罰金,警告と,企業などに対して科せられる没収,事業活動の一時停止,事業活動の禁止,に区分され,このうち罰金と拘留は相互に代替しうる。また公訴時効と刑罰の時効(共に6か月)についての規定も存在する。これら総則規定を検討して,ミロリューボフはそこに責任形式について触れた規定がなく,したがって,過失による違警罪行為が処罰されるのかどうかも明確でない,と批判している。

各則としては,第2章が社会的平穏の侵害を規定し,以下,第3章:社会秩序違反,第4章:官庁または公共の業務への加害,第5章:誣告,偽証もしくは証言回避,第6章:地域の社会関係への加害,第7章:国の風習や慣行を制限する警察の決定の侵犯,第8章:民衆の健康の保護に向けた警察の決定の侵犯,第9章:人身もしくは物品に関わる警察の決定の侵犯,という構成になっている。

検討の最後にミロリューボフは,「将来の刑事立法の改正に際して,中国刑法典と共に,中国の警察法違反法典もまた改正され,西欧の諸法典に沿って是正されるであろうことを期待したい」,と結んでいる。

 

ミロリューボフの最後の2本の論文が中国刑法に関するものであったことは,暗示的である。しかし,それが刑事法研究者としての以後の活動を中国刑法の研究に収斂させていく決意を示すものであったかどうか。今となってはそれを確認する術はなさそうである。

 

最後の輝きと異郷での死

 

ミロリューボフの帝政支持者としての最後の公的な活動として知られるのは,1922723日にウラジオストクで開催されたゼムスキー・サボールにおいて,彼がその議長を務めたことである。

このゼムスキー・サボールとは,本来,16世紀半ばから17世紀にかけてロシアで開かれていた封建的身分制議会の名称であるが,イワン雷帝により召集されたロシア全国の有力者の会議(1559年)を起源とし,国政の大問題や法制度の基本などを論議した。ロシアの帝政を確立・強化する上で重要な役割を果たしたこともあるが,貴族および有産市民層の要求によりツアーリの権力を制約する基本法典(会議法典1649年)の制定を決めたこともある。が,ロマノフ朝の権力の確立に伴いその権威は減殺され,ツアーリの諮問機関化し,結局はピョートル大帝による絶対的帝政の確立により,1684年の会議を最後に消滅していたものである。

1922年のロシア極東部でこの古めかしい会議体の招集が試みられたのは,かつてロシア全土が混乱の状況にあった時代に,このゼムスキー・サボールにおいて新たな皇帝(ツアーリ)を選出した歴史の記憶によって,ロシアの帝政の復活を実現させようとの意図によるものである。この会議は,極東に追い詰められた白衛軍の最後の企図として記録されることとなった。

ロシアの内戦の終わりに近い極東地域の情勢は,日本とアメリカの干渉軍の動向もあって,極めて不安定な状態であったが,ゼムスキー・サボール開催の背景となったのは,一旦はウラジオストクを含む東シベリア全域に及んだ極東共和国[31])の支配を覆すクーデターによって,19215月末に樹立された沿アムール臨時政府(Приамурское Временное правительство)の存在である。コルチャーク軍の残党を主体とするこの政府の部隊は翌1922年初めにかけて赤軍部隊に攻勢をかけ,一時はハバロフスクを占領したこともあったが,極東共和国の軍により反撃され撤退,徐々にその勢力を弱めていた。だが,ゼムスキー・サボールの開催された1922年夏の時点では,ウラジオストクはなお反ボリシェヴィキの牙城として持ちこたえるかの幻影の中にあったのである。

ゼムスキー・サボールは,帝政の復活と新しい権力機関の樹立を目的として,沿アムール臨時政府および陸軍中将ディーチェリフス(Дитерихс, Михаил Константинович 1874-1937の呼びかけにより1922723日に開催された。会議は冒頭,ロシア正教会のモスクワ総主教ティーホンを名誉議長として選出し,執行議長としてはハルビン法学部教授ミロリューボフが指名された。

810日まで続いたこの会議では,帝政復活を実現すべく,ロマノフ家の皇族で第一次世界大戦中ロシア軍総司令官だったニコライ・ニコラエヴィチ大公(Николай Николаевич, 1856-1929)を新ツアーリとして擁立することが決められ,新しい政府の樹立までの臨時の首班にはディーチェリフス将軍を選出する決議がなされた。閉会に際してのミロリューボフの挨拶は,この会議の選択したものは神の意思に沿ったものだと述べ,「あなた方の政府の前途は困難な,しかし栄誉あるものとなる。困難なのはロシアが,ロシアの民衆の敵によって投げ込まれたどん底の日々にあるからだが,だが私は,ゼムスキー・サボール全体と共に,われわれ自身の活動によって,ロシアのよき人々の助けを得て,ロシアの民衆をこのどん底から引き上げることが出来ると,確信している。すでに5年にわたってわが祖国は,ロシアの理想を塵芥にまみれさせた残忍な狂信者の圧制に苦しめられている。世界大戦に疲弊したロシアの民衆は,虚言の影響下に,自身の指導者たちを理解することができず,指導者であるかに装う人々の側についてしまった。これこそ羊の皮を被った狼であり,そして5年が過ぎて,ロシアの民衆は地上の楽園と呼ばれるものの結果を身に味わうことによって,どのような真実の道が彼らを導き,そこを支配している無政府状態を我われから遠ざけ,根底から一掃するべきなのかを知った。粗野な革命的"良心"ではなく,法と秩序こそが最も重視されなくてはならない。あなた方が,すなわちロシアの人々を導く領袖たる方がたが,ロシアの民衆に正しい道を指し示し,かれらがロシアの大地の真の強固な主人となり,ロシアをその強国として蘇らせることを願う。あなた方の道は困難で苦しみに満ちたものとなるだろうが,しかし最後には栄光が待っている。あなた方に神の祝福があらんことを。勇敢な領袖ミハイル・コンスタンティノヴィッチ[ディーチェリフス],万歳! 偉大なロシアの民衆,万歳! あなた方に神のご加護のあらんことを!」 と結んだ[32])。出席した代議員達は興奮して立ちあがり,会場は歓声にどよめいた。代議員達はイコンを掲げた聖職者を先頭に,ディーテリフスおよびミロリューボフを含め,市の中心部を行進し,街路の両側に群がる市民の静かな声援を受けた[33])

しかしこの昂揚した状態は2ヵ月しか続かなかった。会議が決定したミロリューボフら3名を西ヨーロッパへ,ウスリー・コサック部隊の頭目サヴィツキー(Савицкий, Юрий Александрович)らを日本へ,それぞれ外交代表として派遣する案件も実現されないまま,同年1025日の最後の日本軍部隊の撤収に引き続いた極東共和国軍のウラジオストク進駐,極東全域の制圧によって,一切の目論見は潰えた。

 

この時期ミロリューボフが関わったもう一つの事件は,ロシア正教会ハルビン主教座の位置づけを巡る紛争であった。

まず背景事情として確認しておかなくてはならないのは,極東地域にける正教会の位置である。19世紀末から20世紀初頭にかけては,ロシアの正教会にとっても激動の時代であった。かつて,ピヨートル大帝の正教会に対する国家的統制をめざす政策の下で,全ロシアの正教会の頂点に立つモスクワ総主教座が1721年に廃止され,全正教会は国家組織である聖務会院の下に置かれていた。全ロシアの聖職者たちの2世紀にわたる努力が実りモスクワ総主教庁の復活によって教会の独立性が復活されたのは,まさに1917年の2月革命の直後であったが,しかしそれに安堵する暇もなく,正教会は反宗教政策を掲げるボリシェヴィキ政権の成立とそれに続く国内戦の継続という動乱に巻き込まれていく。その中で,ハルビンの中東鉄道管理局の申請により,19226月の総主教庁の在外教会管理局の布告に従って臨時の独立教区としてハルビンが認められ,その長としてハルビンおよび満州大主教メフォディー(Архиепископ Мефодий 1856-1931)が着任した。教区には30万人の正教徒が居住している,とされていた。

しかしこの独立教区の設置については,当初から,教区民の一部を奪われることをおそれるウラジオストクの主教ミハイル(Владивостокский епископ Михаил)および満州地域の正教徒は本来的に中国の正教組織である北京教区に属すべきだとする北京大主教インノケンティー(Архиепископ Пекинский Иннокентийからの抵抗を受け,また教区設立の手続きやメフォディー大主教の適任性に対する信徒からの批判などが表明され,容易には決着がつかなかった[34])。ミロリューボフは教区の信徒を代表する参事会メンバーとして,教区の安定に腐心したことが窺われるが,それは容易なことではなかった。さらに,参事会が大主教メフォディーによる教区財政の乱脈や権限乱用を批判すると,192310月,メフォディーは突然に参事会を解散させてしまうという挙に出た。この時以来,ミロリューボフは在外宗務会議(Заграничный Архиерейский Синод)やモスクワの総主教チーホン(Патриарх Тихон)にメフォディーの振る舞いが正教会の諸規範に反し不当であると訴える電報を送り,一旦はそれが功を奏して参事会をもとのままのメンバーで復活させることにも成功したのであったが,結局は他の教区の主教たちをも巻き込んだ老獪なメフォディー大主教の運動によってミロリューボフは192410巧妙に参事会から締め出されてしまった[35])。ミロリューボフは後に,この時の紛糾が「協会の規律を低下させ,分離派(アドヴェンティストやバプティストその他の)の動きを助長する」結果をもたらしてしまったと書いているが,やはり大きな背景としては,極東に強まるソビエト政権の影響力の下で,不安定な亡命状態にあったハルビンの宗教世界の孤立と動揺とを想定すべきであろう。そのような特異な状況の下では,カザン神学アカデミーを修了した神学博士候補であるミロリューボフであっても,できることは限られていた。

 

ソビエト政府の圧力は中東鉄道との関係でも強まった。ソビエト政府は1921年からの「新経済政策」の推進により政治的な安定を確保し,徐々にシベリア各地方でも施策を充実させていたが,その一環として中東鉄道の経営にも本格的に乗り出し,北京政府や奉天軍閥に経営への参入を粘り強く求め,19245月に締結された中ソ両国の国交回復協定の中で東清鉄道の利権を確保した(北京協定)。また同協定とは別に,東三省の軍閥・張作霖政権とも奉ソ協定を結んだ。これらによって,中東鉄道の管理権がソビエト政府に移ったことに伴い,ハルビン法学部の事実上の設置者である中東鉄道管理局からの,学部長はソビエト国籍を持つ者でなければならないという要求に従って,ミロリューボフは後任をリャザノフスキー教授(Валентин Александрович Рязановский, 1884-1968 )に託して退任した[36])

学部長辞任後も,ミロリューボフは法学部において積極的な教育を継続し,たとえば1924/25学年度には刑法,刑事手続法,中国刑法および刑事手続法,カノン法の講義を行っている。また,先に見たとおり,一連の研究をも行っている。この時期のミロリューボフについて,曽孫にあたるエレーナ・ニキーチンスカヤの記事では次のように語られている。

 

曽祖父はハルビンでよく知られ,尊敬されていた。大学で働きつつ,彼はロシア人避難民協会の議長であり,ロシア学生同盟の名誉会員でもあった。ここで彼は,中国法についてのいくつかの論文を公表し,その方面での研究をさらに続けるつもりであった。1921年に家族――クラウディア・ミハイロヴナと娘たち,エヴゲニヤ,ニーナ(私の祖母),そしてエレーナがハルビンにやって来た。娘たちは14歳から17歳であったが,長男のアナトリーはその頃パリに居た。家族が再び揃い,生活は続き,目の前には多くの仕事が待っていると思われた,まさにその時に不幸が襲いかかった。ミロリューボフが結核に罹ったのである。当時はこの病気に対する治療法はなく,暖かい気候と良い食事,そして日光とで治そうと努めることが普通だったが,厳しい冬の寒さの満州ではクリミアのようなわけにはいかない。二年間の闘病の後に,曽祖父は1927127日にハルビンで,まだ57歳の若さで死去した。彼を葬送するために,学生,教師,知人あるいはあまり親しくない人まで,膨大な数の人々が参集した。何人かの手で彼の棺はモジャゴウ地区の教会へと運ばれて行った―― [37])

 

ミロリューボフの死から1か月余りたった192731日,法学部では彼を偲ぶ集いが開催され,カムコフ助教授[38]が追悼の言葉を述べた。「刑法の教授として,亡きニカンドル・イヴァノヴィッチは,法学部の発足この方ただ一人の,法律家にとって極めて重要なこの科目の指導者でありました。本質において信仰に厚く,生きいきとした社会活動に関わり,ハルビン市の精神的な,社会的・政治的な生活に積極的に参加しました。」 ミロリューボフ教授は,同僚たちの言葉によれば,心の底から善良な,この上なく愛情と尊敬に満ちた人間であった[39])

ミロリューボフの死後,妻と4人の子供がハルビンでどのように暮らしていたのかを知る手立てはない。彼らは1935年,中東鉄道の満州国への売却によるハルビン在住ロシア人のソ連邦への引揚げにともない,その最後の引揚者の一員としてロシアへと帰る。だが,息子アナトリーは内務人民委員部により逮捕され,その後消息不明と伝えられる[40]

ただし,アナトリーについては,1932年にハルビン法学部を卒業し,「最も優秀な,大いに期待できる」卒業生として,教員となるべく学部に残されたとの証言もある[41])。詳しい経過を明らかにする資料に接することができないが,いずれにせよ後に述べる中東鉄道の満州国への売却とそれに引き続いたハルビン法学部の閉校といった経過を見ると,アナトリーもまた家族と共に1935年にソビエト・ロシアへ帰還したと考えるべきであろう。

 

ハルビン法学部のその後について簡単に見ておくと,1924年の北京協定により中東鉄道の権益を引き継いだソビエト政府の支援によって,財政的な充実は進んだものの,教員および学生の中でソビエト国籍を取得した人々と無国籍のままの人々との間に軋轢が生じ,さらに中国側の要請により受け入れた中国人学生への教育の拡大により,法学部は徐々に収拾のつかない混乱の中に迷い込んで行った。そして,法学部は1929年に中国東北部の実質的な権力者である奉天軍閥の管理下に置かれることとなり,中東鉄道からの財政支援を失うに至ったことから,極めてきびしい条件の下に細々と活動を続けたものの,結局は満州国の成立(1932年)後に行われたソビエト政府による中東鉄道の満州国への売却により決定的なダメージを受けた。19353月に売却に関する文書に調印がなされ,これを機に鉄道関係者をはじめ大量のロシア人のソビエトへの帰国が始まり,ハルビンのロシア人人口は急激に減少していったが,その中でもかろうじて継続されていた法学部の教育内容について満州国文教部は否定的な評価を加え,最終的には19377月に閉校の措置をとった。ここにハルビン法学部は17年に及んだ存在の歴史を閉じたのである[42])

 

刑法学者の生と死 あとがき

 

本稿を含め,19世紀末から20世紀初めにかけてのロシア刑法学に関連する筆者の研究については,単に歴史研究ということ以上の切実な関心事項がかかわっている。

その刑法学徒としての研究活動の出発点において,佐伯千仭博士の「期待可能性論における国家標準説」や中山研一先生の「実質的責任関係論」に強く刺激され,筆者の関心は刑法理論の背後に控える国家論や犯罪と刑罰の本質の問題へと向かったが,それは尊敬する先生方の研究が,権力あるいは国家が犯罪者に対して何を期待し,何を求め,何を処罰するのかを,突き詰めて解明しようとするところに出たものと理解し,自分なりにそれらを研究したいと考えたためである。この問題に取り組む中で,関心は自ずと刑法の階級性の問題へと進み,その具体的な研究対象として社会主義体制下にあるソビエト刑法の実体をどう捉えるかという点へと,関心は収斂していった。最初に取り組んだのはロシア共和国1922年刑法典の編纂過程の諸問題であったが,それはロシア革命の現実の経過の中で「法と国家の死滅」幻想により正当化されていた刑法典を含む刑罰法規の不存在という状況からの脱却を,ソビエト政権の生存のために採用された,妥協的な「新経済政策」の必要により正当化する論理を下敷きに検討したものであった。そのような前提条件からは当然であるが,その検討作業においては革命前の帝政ロシア時代の刑法理論についても,刑法学研究者についても,正面から取り上げることをしてこなかった。しかし,今日の時点から振り返って,そのような方法は明らかに一面的であり,とうてい正当化されぬものであろう。

たしかに,部分的には帝政期のロシア刑法学についても,個々の刑法学者のソビエト政権との対応という限りでは,筆者も当初から視野に置いてはいた。1918年から21にかけてアカデミックな刑法学は沈黙していた。一部の刑法学者は白衛軍に身を投じ(チュビンスキーはスコロパドスキーの,ナボコフはデニキンの閣僚となった),著名なゴーゲリ,クジミン=カラヴァエフ,チマーシェフ等は亡命した。他のロシア刑法学者達はロシアに残りはしたが,積極的にソビエト建設に参加したのはごく一部だけであった。さらに,これらの学者達にも旧来の諸観念の影響は強く,ソビエト刑法を理解するのに,伝統的旧派と結びつけようとする者(ジジレンコ,モクリンスキー,ネミロフスキー)と刑事社会学派に結びつけようと試みる者(リュブリンスキー,ポズヌイシェフ,ポリャンスキー,ゲルネット)の両者があったが,彼らの実際的活動は個々の刑事立法についての相談活動程度にとどまった。」[43]) など。しかし,筆者がロシア刑法学の豊饒さに気付き,そこに多少とも分け入って具体的に検討したいと考え,それに着手したのはよほど後になってからである。が,その一隅に分け入って改めて気付かされたのは,その検討範囲の広がりと深さであり,個人的な作業の到底及ぶところではないということである。しかも,わが国の刑法学研究は圧倒的にドイツおよびアメリカの刑法理論に向けられており,ロシア刑法学など全くの視野の外にしかなかったことから,研究のすべては手探りの個人作業によってしか着手しえなかった(より正確には,畏友・上野達彦三重大学名誉教授の作業と並行して,である)。かろうじてその一端にかじりついての検討の,乏しい成果として現在までに筆者が行いえたのは,19世紀後半以降のロシア刑法学の動向についての断片的な報告[44])のみである。

しかし,この端緒的な作業によっても,あらためて,ソビエト刑法学をロシア革命以前の刑法学との連続性においてか,あるいは一時的な断絶としてか,いずれにしても全体としてのロシア刑法学の一部分,未だその完成した形態を見せることなく終わった刑法と位置づけ,理解する可能性が見いだされてきたように思われる。その全体像を浮かび上がらせる作業の一部として,本稿では,ソビエト刑法(学)の出発時においてそれに対峙した──そして政治的には敗北した──ロシア人刑法学者の軌跡を追ったものである。

 

ミロリューボフの刑法学者としてたどった経路は,当時の法学者の一部にとって典型的な,歴史的に廃れ行くものへの執着を特徴とする,個人的には破滅への道であったかもしれない。歴史的な必然は,しかし,その過程でなされた人間の個々の営為のすべてを無視することを命じるわけではなく,諸個人の判断と行為を無意味だとして排除するものではない。激動する政治過程に巻き込まれた者は,所詮は限られた情報と自己の知見,良心に従って行動する以外にない。平時であれば,静かな研究活動と若い世代の教育とに精力を投じ,見るべき成果を挙げたであろう才能を,動乱の中に自身と家族の生活を維持することに追われ,また自身の政治的信念に忠実であろうとした行動に費やした刑法学者の足跡を見るとき,当時とは全く異なる環境の下に居る我々にしても,粛然たらざるをえない。

犯罪人類学派に続いて社会学派の活動の実態を追い,今回はさらに反ボリシェヴィキ活動に身を投じた刑法学者の足跡をたどるといった,「ソビエト刑法」前史に分け入る作業を続ける中で,幾度となく手を止めて考え込まされたのは,そこで争われた立法や理論の交錯に関わってではなく,それらを担った人々の姿と想いが彷彿とし,世紀末から革命へと移るロシア社会の激動の中で彼らに襲った運命が,それへの共感と同情その他とともに押し寄せてきたからであろう。多くの刑法学者,犯罪学者,実務家について,それぞれの生涯の概略をインターネット情報を繋ぎ合わせて辿らずにはおられない。白黒の粒子の荒い写真。多くの学者が,地方のギムナジウムを卒業してペテルブルグ大学あるいはモスクワ大学などに入り,それを卒業すると学位を目指して大学に残るよう勧められ,西ヨーロッパへ留学し,多くは20代で教員あるいは実務家としての活躍が知られ,司法省あるいは臨時政府のさまざまな役職に就き,あるいは大学で教鞭をとり,目覚ましい活動を繰り広げつつ,やがて1917年以降の革命の激動に巻き込まれ,一部に例外はありつつも,その多くが内戦の国内を転々としたあげくに国外に亡命,異郷(ソビエト・ロシアもまた彼らにとっては異郷に他ならない)不本意な教職を続けるか,それもなくいずこかへ消えていくか── 没年不明の学者の年譜には,胸が詰まる。単なる歴史上の出来事として,刑法学史の片隅に書き留めるだけで,鎮魂の思いは彼らに届くのであろうか。

筆者自身の作業にも終着点はまだ見えず,こだわりはまだ終わりそうにない。



[1]) ハルビンについては,極東の中国領内に建設されたロシアの都市というその特殊な性格を,中東鉄道(東清鉄道)の建設を軸としながら,ロシアとその背後のフランス,中国,そして日本それぞれの政治的な思惑,世界経済の動向,民族問題等,大量の資料に基づき詳細に描き出したデイヴィッド・ウルフ著『ハルビン駅へ』(半谷史郎訳・講談社2014年刊)が参考になる。

[2]) レーニン(Влалимир Ильич Ульянов, 1870-1924はカザン大学入学直後から学生運動に参加し,早くも入学の年12月に暴動行為により警察に拘束され,大学から処分を受け退学したため,カザン大学法学部の講義をほとんど受講していない。一時期弁護士業に従事したこともある彼の法学的素養は,主要には独学で,あるいは後のサンクト・ペテルブルグ大学法学部の聴講生として,得られたものである。参照,ステールニク(稲子訳)・法律家としてのレーニン(日本評論社・1970年)。

[3]) 大学創立100周年を記念して1904年に刊行された『カザン帝国大学教員録』第2巻(Биографический словарь профессоров и преподавателей Императорского Казанского университета. Часть вторая.)の記載により確認。

[4]) ピオントコフスキー(Андрей Антонович Пионтковский 1862—1915 )はノヴォロシースキー大学法学部を卒業,ドイツのマールブルグ大学でリストの指導を受け,帰国後デミードフ法律学校の教授となっていたが,1899年にカザン大学法学部教授に任命された。1901年には刑事法講座の主任教授,19143月からは同法学部長を務めた。当時のロシア刑法学界における実証主義学派の代表的な存在であった。ソビエト時代の指導的な刑法学者であるピオントコフスキーの父にあたる。ミロリューボフとの密接な関係は,191512月に死去したピオントコフスキーへの追悼文を彼が書き,単行書として出版されていることからもうかがわれる(後述)。当時の実証主義学派の動向を含めロシア刑法学の状況全般につき,参照,前掲注2:「国際刑事学協会(IKV)ロシア・グループの実像」。

[5]) この時期にミロリューボフが関与した刑事事件として,1904年に起きたボゴロジツキー修道院から盗まれたカザンの聖母のイコン(Казанская икона Божией Матери)をめぐる裁判が挙げられている。ロシア正教史上著名な大事件であるが,ニキーチンスカヤによれば,国内外の世論の関心を集めたこの裁判での功績により,ミロリューボフはニコライ2世から勲章を授けられたとのことである。Указ. соч. Никитинской Е. в «Сибирский форум», сентябрь 2015 (http://sibforum.sfu-kras.ru/node/729) なお,インターネット・ウエブ上の文献資料を引用する場合には,当該のサイトを参照した日時を個々に示すことが広く認められたde facto standardあるが,本稿においては,とくに断らない限り,引用のサイトには全て20168以降に直接に確認していることから,個別の表示を省略した。

[6]) 『司法省雑誌』19052月号に翻訳掲載されたプリンスの論文「犯罪とその抑止」からの引用である。

[7]) Миролюбов Н.И. Тюремный патронат, «Журнал Министерства Юстиции», 1905, 2, стр. 81-106.

[8]) Миролюбов Н.И., Реабилитация как специальный правовой институт, «Журнал Министерства Юстиции», 1902, 3, стр. 68-92/ 4, стр. 101-141.

[9]) См. напр. Владимирова В. В., Компенсация морального вреда - мера реабилитации потерпевшего в российском уголовном процессе, М., 2007

[10]) フランスの刑法におけるRéhabilitation制度は現在も存続している。現行刑法であれば,133-13条,133-16条に定められており,10年未満の拘禁刑の場合,10年が経過すると自動的に,1年未満の拘禁刑の場合は5年が経過すると自動的に,復権が認められる。それぞれの場合,法定期間に達していなくとも裁判所に復権を申し立てることができる。10年以上の拘禁刑の場合は,裁判所に復権を申し立て,裁判所が認めると復権が実現する。これらは一般に刑務所出所者の社会復帰に必要な制度であると考えられ,積極的に評価されている。(本注は大阪市立大学・恒光徹教授の教示による。)

[11]) 上掲の『教員録』によるが,ミロリューボフらその刊行時に在職した教員は自身の経歴について自ら記載している旨注記されている。ついでながら,それによると彼は189910月以来法学部図書室の室長補佐を務めているとのこと。Указ. соч., стр. 51.

なお,当時のロシア刑法学界において有力な学術団体として華々しく活動していた国際刑事学協会IKVロシア・グループの活動に彼が関わらなかった理由も不明である。グループの1910年の総会の報告書Общее собрание Группы в Москве 21-23 апреля 1910 года - Рус. группа Междунар. союза криминалистов, С-Пб., 19011.)に掲載されている316名に及ぶメンバーの名簿に彼の名前はない。

[12] カザン県検察庁(現在はタタルスタン共和国検察庁)史に関するサイトの記事によれば,カザン高等法院検事たるミロリューボフは1903年に「教育上の目的で」外国に出かけたとのことであるが,期間や滞在先は示されていない。 ( http://prokrt.ru/main/istoriya/stanovlenie_organov_prokuratury_v_kazanskoj_gubernii/ )

[13]) Миролюбов, Н.И., Памяти Андрея Антоновича Пионтковского, профессора Казанского университета, Казань 1916, стр. 26. 彼の年譜ではこの書は1915年の刊としているが,1916年の誤りである。

[14]) この当時の学制では相対的に若く博士号取得から間のない教授で正教授ординарный профессорより俸給が少なく,通常は講座の主任とならない教授を指していた。

[15]) 第一次世界大戦中にロシア帝国がオーストリア・ハンガリー帝国軍のチェコ人およびスロバキア人捕虜から編成した軍団級部隊である。軍団は当初東部戦線に送られるはずであったが,ロシア革命後,ボリシェヴィキ政府がドイツおよびオーストリア・ハンガリー帝国との間で講和条約を結んだため,ウラジオストク経由で西ヨーロッパへ帰り,西部戦線に加わり,またチェコスロバキアの独立を実現しようとした。よく訓練され装備もよい35の部隊はきわめて強力な戦闘能力を持っていた。ロシア国内情勢の混乱により移動が遅滞し,各地の政権との関係も紛糾する中,これを保護し救出するとの口実の下に,フランス,アメリカ,日本などはシベリアを中心に軍部隊を派遣し,内戦に干渉した。

[16]) コルチャーク(Александр Васильевич Колчак, 1873- 19201917年二月革命当時のロシア帝国黒海艦隊司令長官,海軍中将。臨時政府に対しては恭順の意を表明していたが,十月革命直後反ボリシェヴィキの立場を鮮明にし,英国の援助で191811シベリアオムスクに反革命政権を樹立し,一時はボルガ川付近まで勢力を伸ばしたがイルクーツクで捕らえられ,19202月に銃殺された。

[17]) 報告書でミロリューボフは,一連の関係者の証言や物的証拠から,皇帝一家は1918717日の深夜に,彼らが拘禁されていたエカテリンブルグのイパチエフ館(дом Ипатьева)の地下室で,同館の警備隊長ユロフスキー(Я.М. Юровский)の率いる一隊により銃殺され,遺体は貨物自動車によって森に運ばれ,沼地に投棄されたものと確認している。 Из рапорта прокурора Казанской Судебной Палаты Миролюбова министру юстиции Старынкевичу о ходе предварительного следствия по делу об убийстве Николая II и его семьи, «Сборник документов, относящихся к убийству Императора Николая II и его семьи» ( http://rus-sky.com/history/library/docs.htm )

[18]) ソコロフСоколов Н. А. 1880 - 1924)はハリコフ大学法学部出身の法律家。ペンザ管区裁判所の捜査検事であったが1917年の十月革命の勃発に際して政権への協力を拒否し,辞職してシベリアの白衛軍政権に走り,1918年初めにオムスク管区裁判所の重大事件捜査検事となっていた。19192月,コルチャーク提督の命により皇帝一家殺害事件の全面的な調査を行う委員会の責任者となり,精力的な調査を続けたが,19197月には皇帝一家の終焉の地であるエカテリンブルグが赤衛軍により占領されるなど,情勢の変転により調査は難航した。最終的には1920年ハルビンで調査活動を終了し,資料は協力者を得てフランスに送られ,追いかけて亡命したソコロフ自身の編集により大部の報告書が1924年フランス語で公刊された。

[19]) 19181月にペトログラードで開会された憲法制定会議がボリシェヴィキ政府によって解散させられた後,社会革命党(エスエル)派議員の一部がサマラに参集し,その地域を占領したチェコ軍団の支援を受けて,ヴォリスキー(В. К. Вольский, 1877-1937 を委員長とした5人の議員による 「憲法制定会議議員委員会 (コムーチ)」の政府の樹立を宣言した。当初コムーチは憲法制定会議が召集されるまでの臨時政権と自称し,その支配もサマラ県の域内に限られていたが,後には全ロシアのソヴェト政権に反対する勢力の占領地域にその権勢を及ぼそうと努力した。

[20]) この間の変動の詳細については,См. Малышева С.  «Великий исход» казанских университариев в сентябре 1918г., «Эхо веков», Казань, 2003,  1/2. http://www.archive.gov.tatarstan.ru/magazine/

go/anonymous/main/?path=mg:/numbers/2003_1_2/02/02_5/ )。

[21]) Звягин С.П., Малышева С.Ю., Профессор Н. И. Миролюбов: Штрихи Биографии, «История белой сибири», Кемерово 2001, стр.226. 

[22] カザンを脱出した教員の全てが新しい教育・研究の場と生計の資を得ることに成功したわけでなく,困窮に耐えかねてカザンに帰ることを希望する者も多かったが,脱出者に対するボリシェヴィキ政権側の態度は厳しく,現地での帰還に向けた交渉は難航した。その経過などにつき,см. Хабибрахманова О.А., Побег в Сибирь: казанские университарии 1920-х годов. (реакция власти на попытки вернуться), ( http://www.rusnauka.com/16_ADEN_2011/Istoria/1_88787.doc.htm )

[23]) ウラジオストクには,1899年の創立になる東洋学院(Восточный институт)を基礎として一連の私的な高等教育組織が出来ており,その中に1年制の法学部も存在した。1919年の秋にウラジオストクに現れたミロリューボフも一時その法学部で教鞭をとったとされるが,詳細な情報はない。См. Малявина Л.С., Роль ученых Урала и «белой» сибири в развитии высшей школы и науки Дальнего востока России (1918–1922 гг.), «Вестник Томского государственного университета. История», 2010 3, стр. 66. それらは19204月に沿海州臨時政府Временное правительство Приморской областной земской управыの決定で創設された国立極東大学に統合された。

[24]) これらの数字については,内山ヴァルーエフ紀子「哈爾濱のロシア人学校──初等・中等教育編」,『セーヴェル』(ハルビン・ウラジオストクを語る会編)第9号(1999年)による。

[25]) 中嶋毅「ハルビン法科大学小史1920-1937 中国在住ロシア人の知的空間」上・下『思想』第952953200389月) 残念ながら,そこではミロリューボフに関しては極めて簡単にしか触れられていない。

[26]) この名称は極東大学がハルビンに設置した法学部とでもいうようなこの学部の性格を示すものであろうが,当時は白軍派政権あるいは緩衝国である極東共和国の支配下にあったウラジオストクが,その後ボリシェヴィキの支配するところとなり,極東大学もソビエト政権の統治下に入った(192211月)ことで,同大学との関係も遮断され,ハルビン法学部は孤立した学部として残された。

[27]) Список профессоров, преподавателей и лекторов Юридического Факультета в г. Харбине (1 марта 1920 – 1 марта 1925 г.), «Известия юридического факультета» 1, 1925, стр. 235-236.

[28]) Миролюбов Н.И. Новое уголовное уложение Китайской республики. Общая характеристика, «Известия Юридического факультета», Харбин, 1925. Том I.

[29]) 中華民国暫行新刑法典は,清朝末期に日本から招聘した岡田朝太郎博士の指導の下に編纂された「大清刑律草案」を原型として,それを革命により成立した共和制国家に適合させる部分修正を加えて,大統領令により施行させたものである。1928年の「中華民国刑法」の公布・施行まで16年間にわたり効力を有した。なお,ミロリューボフが利用したのは1915年にハルビンで発行されたボリシャコフによるこの法典のロシア語訳および1921年にその新版としてウスペンスキーとポリカルポフが訳出しハルビンで刊行した『中華民国新刑法典』(Новое уголовное уложение Китайской республики. Перевод с китайского / Успенский К.В., Поликарпов С.И., Харбин, 1921.)である。

[30]) Миролюбов Н.И. Китайский кодекс полицейских правонарушений (Общая характеристика), «Известия Юридического факультета», Харбин, 1926. Том III. ここでミロリューボフが紹介している法典は「中華民国違警罰法」(1915117日・法律第9号)である。1912年の中華民国成立以降しばらくは,日本の違警罪法制(旧刑法第4編)の影響が強いと言われていた大清違警律(1908年)が用いられていたが,この「違警罰法」はそれを基本的に踏襲したものとされている(坂口一成(大阪大学法学研究科・准教授)の教示による)。

[31]) ロシア革命後の国内戦争末期に,オムスクより敗走する反革命のコルチャーク軍を追撃してきた赤軍部隊と,日本のシベリア派遣軍との直接的な軍事衝突を避けるため,バイカル湖以東の地域につくられた緩衝国家。社会革命党などの協力も得たが,実質的にはボリシェヴィキの影響下にあった。192046日〜19221115日の間存在した。参照,堀江則雄・極東共和国の夢(未来社1999年)。

[32]) Цыт. по «Земская Рать - Приамурский Земский Край». ( http://zem-rat.narod.ru/gl8.html )

[33]) См. Сергей Фомин, Перед явлением и после. ( http://www.pravaya.ru/faith/12/11539 )

[34]) 以上については,см. Баконина С. Н., Церковная Жизнь Русской Эмиграции На Дальнем Востоке в 1920–1931 гг. На Материалах Харбинской Епархии. ( http://www.kniga.com/books/preview_txt.asp?sku=ebooks344261 )

[35]) См. Баконина С. Н., Харбинская Епархия в период распространения советского влияния в Китае (1923–1924 гг.), «Вестник православного Свято-Тихоновского гуманитарного университета. Серия 2: История. История Русской Православной Церкви», 29 / 2008, стр. 96-104; Её же, История Харбинской епархии в трудах современников (1920-1940-е гг.), «Наука и школа», вып. 4 / 2012, стр. 186. これらの文献でも指摘されているが,ハルビンの正教会のこの時期の悶着については,アメリカのスタンフォード大学に付置されたフーバー研究所に所蔵されているミロリューボフの手稿に詳しいとされているが,現時点では参照していない。

[36]) この時の中東鉄道管理局との妥協についてハルビン法学部のギンス教授は「学術的な観点からは十分に受け入れ可能な合意だった」としている。学部長の件以外に,合意では,亡命者である教授達はいかなる反ソビエト的な政治活動にも加わらぬこと,学部は経済学および東洋学部門を開設すること,そして中東鉄道職員の子弟に便益を供与することが求められていた。Г[инс] Г., Юридический факультет в г. Харбине 1920-1930, «Известия Юридического факультета», Харбин, 1931. Том IХ, стр. 310.

[37]) Указ. соч. Никитинской Е. в «Сибирский форум», сентябрь 2015 (http://sibforum.sfu-kras.ru/node/729)

[38] カムコフ(Александр Александрович Камков)は1868年生まれ,カザン大学法学部を1889年に卒業後,陸軍に入り,アレクサンドロフスク軍法アカデミーを1896年に卒業。法務将校,最終的には陸軍中将。カザン大学において博士(магистр)試験に合格した経歴を持ち,専門は刑法および刑事手続法。白衛軍を退役後1921-1923年国立極東大学助教授。1926年にハルビン法学部助教授となった。

[39]) «Известия Юридического факультета», Том IV, Харбин, 1927. стр. 348. ここでは,ミロリューボフの死去した日は1927225日だとされている。また,別途参照した白衛軍関係者の名簿(http://xn--90adhkb6ag0f.xn--p1ai/arhiv/uchastniki-grazhdanskoj-vojny/uchastniki-belogo-dvizheniya-v-rossii/uchastniki-belogo-dvizheniya-v-rossii-mi-mn.html )にあるМиролюбовの記事でも同様である。

[40] Указ. соч. Никитинской Е.

[41]) Звягин С.П., Малышева С.Ю., Указ. соч., стр.228. 

[42]) 中嶋毅,前掲注22),『思想』第953154頁以下参照。一部の教員は19374月に発足したロシア人難民ビューロー付置高等商業学院の教員となった。ハルビン法学部の最後の公開教授会は19371129日に開催され,1211日にはハルビンの“モデルン”ホテルで学部の閉鎖の式典とパーティーが催された。Стародубцев Г., Русское юридическое образование в Харбине, ( http://ricolor.org/rz/kitai/rossia/15/ )

[43]) 上田・ソビエト犯罪学史研究,25-26

[44]) 上田「ロシアにおける刑事人類学派の軌跡」,浅田和茂先生古稀祝賀論文集(成文堂2016年)所収,上田「国際刑事学協会(IKV)ロシア・グループの実像」,内田博文先生古稀祝賀論文集(法律文化社2016年)所収