本書は私たちの著書『未完の刑法 ソビエト刑法とは何であったのか 』(成文堂2008年刊)の続編である。原理的な問題提起のみ先行し,結局は未完に終わった刑法としてのソビエト刑法をめぐる諸問題の検討は,今日なおその意義を失っていないばかりか,刑法を取り巻く近時の問題状況を逆に照射する可能性を持ちうるのではないか,との基本的な課題認識は,現時点でも私たちの共有するところである。

  前著のはしがきにおいて述べた,わが国の刑法学の現状と課題についての私たちの認識は,それから9年の歳月を経て,あらためてその正しさが確認されたように思われる。この間の事態の進行――議会での多数を背景に放漫とも思われる政権の独走,その立法意図に懸念を呼んだ「特定秘密保護法」の制定や根拠のない「国際テロ」の脅威を振りかざしての「共謀罪」規定導入の強行など,刑事法における各種の保障原則の投げ捨て――によって,刑事法の安定性と権威は大きく傷つけられ,またその他方で,一連の冤罪事件,法曹の一部さえ巻き込んだ裁判員裁判への批判や司法改革全体への懐疑の掻き立てなどによって,多くの市民における刑事司法制度への信頼自体も揺るがせられた。そして,事態のそのような進行を前に,刑法学は的確にそれらに対峙してこなかったばかりか,むしろ無原則的な妥協あるいは沈黙を続けてきたのではなかったか。

  もとより,本書は直接に現代日本の刑法理論の現状に分け入ることを目指すものではない。私たちはただ,ここにおける刑法ないし刑法学の本質に立ち戻っての原則的な論議の重要性を強調し,研究者であれ実務家であれ,刑法学の各領域において進められるべきその作業の一環を成すものとして,私たちに固有の課題であるソビエト刑法に関わる研究成果の一端を再度提示することとしたものである。その際,今回はとくに,ソビエト刑法それ自体の諸側面の検討に加えて,ソビエト刑法に先行した帝政ロシアの刑法思想に関わる検討ならびに1990年代に始まる刑法の非ソビエト化ないし「伝統」への回帰のプロセスを追う論考を加えることによって,本書は全体として社会体制の変動と刑法との交錯についての考察を大きなテーマとすることとなった。 

  本書では,「目次」に掲げたとおり,まず,帝政ロシアの時代において刑法が担った多くの課題と当時の刑法学者の苦闘を追い,やがて訪れたロシア革命の過程で刑法学がこうむった変動と何人かの刑法学者の軌跡を取り上げ,考察を加えた。次いで,体制転換の結果として誕生したソビエト刑法については,今回は,相対的に少ないページ数しかあてていないが,前著において触れることのできなかったいくつかの論点を付け加えることができた。そして,本書の後半部を構成するのは,現在も進行中の刑法各領域での非ソビエト化の試みを検証する諸論考である。言うまでもなく,ソビエト刑法は,僅かに60-70年ほどの期間のみ,ロシアおよび連邦を構成したソビエト諸国に存在したに過ぎないのであるが,その刑事法規範においてのみならず,刑法理論(犯罪論と刑罰論)においても,刑事訴訟法理論および犯罪学においても,西欧(およびわが国)の刑法とは異なった多くの特徴を備えていた。それらのどの部分が,権威主義的な社会主義体制に伴う逸脱として排除すべきとされ,あるいは単なるロシア的な伝統による偏倚として容認されようとしているのか。また忘れてならないのは,この再検討の作業が,具体的にはロシアの政治状況に対する西欧諸国の圧倒的な影響の下で,曲折をたどりつつ推進されるしかなく,その過程は,ときにロシアの刑法学者と実務家に屈辱を味わわせ,それに反発しての大ロシア主義的な感情の噴出や,伝統的なロシア正教の響力の強まりなどにも影響された,複雑な軌跡を描くこととなっていることである。本書ではその経過を事実にそくして追い,検討を加えている。全体として,本書の各章に通底するテーマは社会体制の変動と刑法である。

  前著の刊行を喜んでいただいた中山研一先生は20117月にご逝去され,木田純一先生とともに彼岸の住人となられた。本書を取りまとめる過程で,私たちはあらためて先生方の懇切なご指導を思い返すとともに,先生方が抱かれたであろう思いに多少は近づき得たかとも感じた。今は本書の刊行を先生方にご報告し,私たちの感謝の気持ちとともに不肖のお詫びをお伝えしたいと思う。また,本書の出版に当たっての株式会社成文堂の好意あふれる対応については,あらためて感謝したい。40年に及んだ 故 土子三男氏(元編集部長・取締役)と上田との交誼を介しての同社とのご縁であるが,今回もさまざまなご支援をいただいた。阿部成一社長ならびに篠ア雄彦編集部長に,心よりお礼を申し上げる。

  そして,この種の公刊物としては異例であるかも知れないが,今回も,私たちそれぞれの妻,大学教員であり刑事法研究者である私たちの日々の平板な執務を支え,また見果てぬ夢を追いかけるかのようなその研究活動を大らかに見守り,そしてこの数年は教職を辞めたにもかかわらずの各種用務での繁忙を気遣ってくれている,上田三砂子と上野順子への言葉に尽くせぬ感謝と連帯の想いをここに書きとめることを許していただきたい。

 

201781

                                                 上田 

                                                            上野 達彦