犯罪学の課題と方法をめぐって 犯罪学と私

 

上田 ェ(立命館大学大学院法務研究科教授)

 

本日,「最終講義」と銘打っていくつかの事をお話しいたしますが,先ほどの紹介にもありました通り,私は来年度もこの科目を担当しろと言われておりますので,最終講義という意味に迷います。が,一つの区切りとして,今年度の授業の全体を振り返るとともに,犯罪学をとりまく現在の問題状況をまとめてみたいと思います。その後で,せっかくの機会ですので,付け加えて私のこれまでの犯罪学を中心にした研究の経過について,ご説明したいと思います。

 

問題の出発点を明らかにするために,日本の犯罪現象の現状をどうとらえるかということについて,いくつかの統計データなどを用いてお話をするつもりでしたが,時間の関係でこれについては省略をしたいと思います。それを簡単に要約いたしますと,近年,日本の犯罪は非常に速いスピードで減少に向かっています。メディアの伝える情報から受ける一般的な印象とはかなり違うと思います。戦後の日本で最も犯罪が少なかったのは197374年の頃ですが,それに近づきつつあるのです。このままでいくと来年くらいには戦後最低を記録することになるだろうと思います。ところが問題は,なぜ犯罪が減ったのかがわからないということです。犯罪白書とか法務省の説明では,官民の力をあげた一体となっての犯罪防止の取り組みが実って,といわれますが,具体的に何をしたのかわからない。端的にいえば警察官を増やしたということはあります。しかしそれ以上に大きな影響を与えているのはおそらく少年人口の減少でしょう。少子化です。日本の犯罪では少年非行が大きな部分を占めていますから,少年の数が減って犯罪を行わなくなって,それを中心に窃盗が減っていくということが実体ではないか,と思われます。その結果として,統計上,犯罪が減少した。しかし,そこには,犯罪統計とは何かということが前提問題としてあります。警察が精力的に活動すれば犯罪の数は統計上は増えます。犯罪について手を抜いて,住民の訴えについて真摯に向かい合わないと犯罪の数は減る,統計上は。そのことを抜きにして,犯罪が増えたとか減ったとかという議論がどこまで意味があるかについては大きな疑問があるわけです。しかし,同じような方法をとって統計を作って来て,この間,わが国で犯罪が大きく減少してきていることだけは大事な出発点だと思っているわけです。

犯罪学という科学の意義,あるいは課題というものを考えてみると,たとえ現在わが国で犯罪は減りつつあるとしても,これを一層減少させる,犯罪についてのさまざまな対策を考えるところに使命があるわけでありまして,その前提はもちろん犯罪に関してその原因,増減にかかわるその要因を明らかにすることでなければいけないことは当然の前提です。その上で,まず「犯罪の概念」についてですが,法学部・法科大学院で刑法ないし刑事法に関連する諸科目を教育している立場からしますと,それは第一義的には刑法上の概念と思われるはずです。が,実は犯罪は刑法と刑事司法に止まらない広がりをもった概念です。たとえば,今日少年非行の問題が重大であることは広く共有されている認識ですが,刑法上の犯罪は14歳以上の者によるものしかないので,それ以下の少年たちの犯罪は刑法上の犯罪ではありません。精神障害を抱える人々の「犯罪」的な行為をどうするか,被害者をどうとらえるか,市民の犯罪不安をどう考慮するか,などに関して刑法学は対応しません。刑法および刑事司法の課題ではないわけで,そういうものを直接に対象とする科学として犯罪学が,固有の科学としては19世紀のヨーロッパで成立したものである,といっていいと思います。

日本語で犯罪学という言葉自体がさまざまな意味合いがあるわけですが,ドイツ語のKriminologie,英語のCriminologyを翻訳して「犯罪学」という言葉を使っていますが,ドイツのフランツ・フォン・リストの分類からすると,彼の「全刑法学」の一分野とされており,そのKriminorogieは犯罪の原因論,刑事政策論,そして犯罪捜査に関係する科学の3分野からなると説明しています。これは実在科学,つまり実際に存在している事実を対象として研究するものであり,それは刑法学,刑事訴訟学のような規範科学とは方法を異にするものというのが,彼の所説です。しかし英米でCriminologyという語が用いられる場合には,そこには原因論とか対策論という区別は存在せず,全体としての犯罪学は社会学の一領域としてとらえられ,そこには原因論も対策論も含まれるという対応になっているかと思います。

犯罪学は刑法規範を離れて,事実としての犯罪に向きあう,と言われます。ところが,事実としての犯罪の概念,その範囲をどこに設定するか,それは犯罪学自体ではできないのです。その意味で,犯罪学は特殊な社会科学だといえます。犯罪学の対象としての犯罪は,まずは刑法規範にしたがって犯罪として定義されているものであり,次いでそれの周辺の,刑法上は犯罪ではないがなお違法な,法益を侵害する一連の行為であります。ともかく,犯罪学の対象とする中心は刑法上の犯罪ということになっています。その他方で,刑法だけが犯罪に関係しているかというと,そうではありません。心理学,社会学などの学問は犯罪を一つの主要な領域と考えていまして,犯罪社会学,犯罪生物学,犯罪心理学などという学問があることはご承知の通りです。教育学,統計学,経済学,多くの科学分野が犯罪を扱っており,その意味では,犯罪に何らかの関係をもつ諸科学の交錯した部分に犯罪学の研究領域があって,そのいわば「交差点」が犯罪学であると定義をすればいいのかも知れません。

では,犯罪学者とは誰か。私自身,最近は外国に出る時などは犯罪学者だと自称しますけども,しかし実際のところ私は刑法研究者として出発したわけです。心理学とか生物学とか統計学とかの学問に十分な素養があるわけではない。そのような人間に犯罪現象の全体を,どうとらえることができるのかということは,かなり大きな問題です。しかし一応の妥協点として,犯罪に関係する何らかの科学分野から犯罪の問題を研究し,他の分野の研究に関しても一応の理解をしている──妥当である,妥当でない,行き過ぎである,行き過ぎでないということに関して一応の判断ができる──ことは必要だということではないでしょうか。そういう点では,個々の犯罪学者に関しては多くの側面と性格をもった多様なあり方を承認せざるをえないのではないか思います。

犯罪学が19世紀のヨーロッパに登場して以来,さまざまな形で犯罪の研究が展開され,その時々において犯罪学の本流であると自称してきた学派が,いくつか存在しています。犯罪現象に注目して統計学という方法でその法則性を明らかにしようとした研究は,フランスでケトレなどを中心にして最初に登場したのでしたが,しかし最も印象的に犯罪学の登場を印象づけたのは,ロンブローゾなどのイタリア学者です。犯罪生物学と呼ばれていますが,犯罪者に注目して,犯罪者は普通の人は違う人間であって,それは遺伝だったり病気だったりで本人の人格が変わってしまった存在なのだとして,個々の犯罪者の特徴に集中して研究を行う潮流が,一時期を画したこともあります。しかし他方で社会学的なさまざまな要因,経済的な問題,貧困,教育の不備,家族制度とかが犯罪現象には大きく影響しているという理解も,当然,登場します。これはフランスのラカッサーニュとかデュルケムなどが代表する学派の研究方向です。しかし,生物学的な研究は結局すべての犯罪を説明することはできそうにありません。生物学的に問題がないように思われる健康な人,真面目そうな人も時には犯罪を犯すことは,我われの経験するところでありますが,それを説明できません。また社会学的な研究も,その指摘する通り貧困とか,家庭内の不和とか教育の不備が問題であることははっきりしています。しかしそれは犯罪学の課題というまでもなく,まさに社会政策上の課題としてさまざまな改良を要求するものであり,これにことさらに犯罪学が研究の対象を向けることに関してはためらいが残るということになります。つまり,帰結点として,犯罪の原因に関する議論はほぼ意味がなかった,さしたる成果をもたらさなかった,という結論が出てくるわけです。

そこで結局は,さまざまに犯罪に関係する因子,要素,ファクターを一つひとつほぐしていく多元因子論の議論になっていきます。そこでは,犯罪に関して一元的な原因を想定しないで,多様な関係要因があるから多様な対応をしていく,犯罪を一掃するなんてことは端から目的にされないのです。こういう方法は一種の不可知論です。犯罪の原因はわからない。犯罪は人間社会の宿命だというところに到達してしまうような,情けない状況であります。犯罪の原因はどうであれ,何らかの形で犯罪に関係する要素に手を加える,例えば警察官の数が少ないと犯罪が多くなるのはどうも本当らしいから,警察官を増員する,パトロールの頻度を上げる,街灯を多く設置する等々のことを行うと,犯罪の数が減っていくことは法則的に明らかなようです。であれば犯罪に関係した環境に重点をおいた研究に重点をおこうということになります。「環境犯罪学」を掲げる多くの人たちが,ここに登場してきます。ここでは原因論は放棄される。また,刑罰についても冷めた見方がされます。刑務所でさまざまな工夫をして処遇を改善し,再犯の防止を働きかけてみたところで実社会に出て貧困が続き,就職できないとなると,結局,また犯罪に陥ってしまう。刑務所でさまざまな処遇の改善をするとにはあまり意味がない。ともかく,犯罪の機会となる局面を減らし,犯罪に対する備えを固める,といった方向に議論が向いてしまっている。そういう点では犯罪学は一つの転機に差しかかっていると思う次第です。

そういうところで,いくつかの動きがあるわけで,それは大きくいえば新しい犯罪学の潮流の出現と捉えることができるだろうと思います。

犯罪学が行き詰まっているという認識は1950年代,西側諸国で犯罪が激増する中で,これに対する有効な手だてがない,国家は犯罪者に対して正面から向き合うことができるのかということが問題になるのです。当時最大の問題はアメリカのベトナム戦争です。世界最大の国家がアジアの小国に対して大軍を派遣してさまざまな理不尽なことをやっている。不正義の戦争を国家が行っているこの時に,ベトナム戦争で精神的に病んで帰ってきた若い人たちが麻薬に溺れたり,さまざまなトラブルを繰り返したり,社会から脱落していくことを非難できるのかという認識が大きな背景にあって,社会科学全体とともに犯罪学についても,それまでのあり方に対する反省が迫られました。当時,世界的なレベルで進行しつつあった文化革命,「大学革命」をも背景として,「カントやヘーゲルとの訣別」という標語に集約されるような,刑事責任を抽象的に考える刑法学ではなく,具体的に犯罪を解決するための,もっとダイナミックな動的な対応が必要だという認識が広まっていったこともあったと思います。

そういう動きを代表するものとして1960年代,ラベリング理論が犯罪学の世界に登場し,70年代にはNew criminology新しい犯罪学の主張が出てきて,80年代以降,再び混乱が起こってきている── Abolitionismという犯罪学が提唱されたりして,さまざまな模索が行われているのが現状だと思います。

ラベリング論の何が問題なのか。結局,それは犯罪について,従来の犯罪学が事実としての犯罪を自らの対象として,それを刑法上の定義として,個人に対して,社会に対して,あるいは国家に対して害悪をもたらすものであると捉えて,それを行ったものを犯罪者と定義してきたことに対して,しかしそうではなく,犯罪とか犯罪者というのは実は社会が彼の行為に対して,その人格に対して投げつけたレッテルにすぎないのではないかと考えるところにあります。世間ないし統制機関(中心は警察と裁判所ですが),こういうものから逸脱者である,犯罪者であるとラベルを貼られるようなプロセスがあって,本来はその行為自体は悪いことでも善いことでもないのに,その後に社会がレッテルを貼ることによって,それが善いことになる,悪いことになる。悪いことの究極が犯罪だと評価されることに変わっていく。つまり,犯罪が今や空中分解して,事実としての犯罪ではなく単なる評価になってしまうのです。犯罪は事実ではなく,評価なのだと。そして,評価であれば,評価する側と評価される側の間の関係の問題が大きくなってきます。評価プロセスを実態的にみていくと,評価する側は一定のものであり,評価される側も一定のものである。入れ代わることがない。評価する側は権力の側であり,社会の支配している人たち,それを支持する中間層の人たちであって,評価される者は,貧しく,社会的に弱者といわれる人たちであり,彼らがレッテルを貼られて犯罪者になるのだという分析が行われるようになってくる。そのことを通じて,犯罪というものを社会的な弱者と,権力をもつ,社会を支配する人たちの間の対抗関係としてとらえる立場が,だんだんに強くなってきまして,有名なテイラー,ウォールトン,ヤングという3人のイギリスの若い犯罪学者たちが共同して書いた『The New criminology』という73年の本が衝撃的に宣言した,新しい犯罪学の登場を見ることになるわけです。

こういう潮流は,ベトナム戦争を背景に進行したアメリカ社会の頽廃,価値基準の混乱が,ヨーロッパの多くの国々にも影響を与えたこと,また犯罪の横行,麻薬などはまさに国家の政策によるものであって,従来の犯罪学は,これを説明しえないということ,などがもたらしたものです。また大きな状況としては,第二次世界大戦後もなお残っていた硬直した学問研究と大学制度が最終的に揺らぎ,「大学革命」の中で実証科学的な諸領域,社会学,心理学などの方法が隆盛を見せることがあり,さらには刑法,少年法,行刑法などの改正問題がこの時期一斉に登場することなども関係しています。このような構造的な価値基準の転換を背景として,New criminologyは登場したと言わなくてはなりません。その典型的な主張を挙げてみると,従来の犯罪学は国家と法律によって規定され,執行機関によって犯罪とされてきたもののみを自身の研究対象としてきたが,これはおかしい。むしろ巨大な社会悪は,帝国主義や人種差別である。一国の犯罪は,そのすべてを集めたところで,年間の人的・財産的な被害はさほどのものではないのに比べて,植民地に対して,低開発諸国に対して,その何倍もの被害を与え収奪を,国家自身が行っている。人種差別や女性差別の政策によって劣悪な労働条件や低賃金に陥れることで,彼らからどれだけのものをふんだくっているのか,その方が余程大きな犯罪ではないのか,ということを言うのであります。価格協定を結んで高いものを買わせている,これが詐欺罪として刑法の対象になっていないような状況を是認する犯罪学などはまやかしのものだ,と非難するのです。また研究方法としても,個々の犯罪要因や防犯の実証にこだわる,とくに多元因子論のような方法を非難し,もっと巨視的な,マクロな視点に立った理論,歴史認識に基づいた理論構成,体系的な思考こそが重要なんだと,新しい犯罪学は主張するわけです。さらに,従来の理論は改良主義を信仰してきたが,現行の体制の枠内で犯罪の解決とその原因を除去することが安易にできると主張することは,現在の政治体制を支持・固定するものでしかない。ラディカルな変革の理論ではなく,安易な改良主義に依拠しており,行刑上の工夫も中途半端である。結局,従来の犯罪学は犯罪処罰の効果的な方法の考案とか,犯罪の真の原因の隠蔽という,まさに体制擁護のための理論に終わってしまっているのではないか,と断罪するわけです。

こういう新しい犯罪学の主張に対しては,当初から多くの批判がありました。犯罪学に対して過大な役割を背負わせている,犯罪に関する問題の解決ではなく社会革命をやると主張しているに等しい理論だ,と。しかし犯罪学が積極的な革命理論となるためには,経済分析であったり,政治批判,権力論をちゃんとやらないといけない。それが犯罪学理論にできないのは当然である。具体的にも,犯罪が階級間の闘争であるという彼らの主張に反して,実際には豊かな階級より貧困な階級に犯罪被害も集中しており,むしろ犯罪は地域的な性格を持つ,あるいは同じ階級の間での対立,奪い合い,傷つけあいということが犯罪の多くの性格だということを,彼らはきちんと説明するべきだ,と。

新しい犯罪学の主張はマルキストの主張を彷彿させるのですが,しかしマルクス主義の立場からも,この点に関しては批判がありました。たとえば,新しい犯罪学が新規にもたらしたものは何もない,すべてはかつてのマルクス主義犯罪学,ボンガーやラファルグたちが言っていたことを,粗雑に繰り返しているにすぎない,とされます。誤った解釈を不正確に主張することによって,犯罪学の発達にとって有害な影響を与えた,と批判されました。しかしそのようなマルクス主義からの批判によってではなく,むしろレーガン,サッチャーという保守的な政権の圧力によって,結局,カリフォルニア大学バークレー校の犯罪学の部門が閉鎖されたことに象徴される乱暴な方法で,犯罪学者たちが追放されて新しい犯罪学は潰されてしまいます。学問は,それを潰すなんてことは本来できないはずのものです。ところが,その後,当時の犯罪学者たち,ポール・タカギ,アンソニー・プラットとかシュヴェンディンガー夫妻など,いろんな人たちの犯罪学の主張が,その後ぱったりと見られなくなってしまう。それは出版物が出ないだけでなく,主張自体が,彼らの存在自体が,どこかへ消えてしまったかのようだということです。こういう状況は,皮肉なことですが,彼らに権力と犯罪学の関係に関する問題の突き詰めた検討がなかったことから起こってきたのではないか,と私は思うのですが,いずれにしても新しい犯罪学の主張は破綻したといわざるをえません。

だが,それで終わったわけではない。新しい動きとしてAbolitionismの登場に注目しておくべきだと思います。これはabolish,廃止することを主張する立場,現在の刑事政策のシステムを全部廃止してしまえ,刑事裁判,刑務所等を廃止してすべてを民事的な制度に変えていくという立場です。これが近年,かなり注目されています。ヨーロッパ諸国では今や,あなどれない勢力になっているといわれていますが,ノルウエーのニルス・クリスティ,オランダのルーク・フルスマンなどが有名です。去年,クリスティ先生が日本にやってきて講演を行われました。彼らの主張するところでは,刑法はその起源は結局,宗教裁判と同じであり,本質的には抑圧的な要素を目的としていて,問題を解決するのではなく,問題をつくりだしている。刑法は犯罪を予防するより,むしろ犯罪者とレッテルを貼って社会から排除する,脱社会化する方向に機能している。それゆえ,刑法を廃止して損害賠償的な制度に置き換えていくことが望ましいといいまして,そのための具体的なプログラムを提唱しているという状況にあるわけです。こういう主張はさまざまにヒントを与えてくれることは大きいわけですが,しかし,私などのような保守的な人間には,簡単にその主張に与することをためらわせるものがあります。

いずれにしましても,現在の犯罪学の状況というのは,さまざまな形で新しい主張が登場し,拠るべきディシプリンが明確な姿を見せていない,まさに混迷状態にある,と強く感じます。

犯罪原因論に関して多くの議論が放棄されるということは,原因を明らかにしないで犯罪に関する対策を立てろ,ということに等しいわけです。そういうことは可能なのかということが問われるべきです。すべての問題が未解決のままに放置されている状況だということを強く感じざるをえない。その一方で,なし崩しのプラグマティブスムが蔓延している。原因を放置したままで環境犯罪学が提唱され,それでさまざまな形の都市工学的な方法であったり,環境改善方法が提唱される。警察力を強化して,些細な犯罪でも重大に真剣に反応することによって,処罰することによって,より重大な犯罪を抑えることができるという主張が出てきたり,3回目に軽微な犯罪をやった場合には全員終身刑だとか,乱暴な刑罰方法が主張される。性犯罪者の防止策として,メーガン法のように犯罪者をさらし者にしたり,GPSを組み込んだ装置を取り付けて彼らを隔離することに躍起になっている。安易で非科学的な方法といわざるをえない。そういうことの背景には,また,刑務所改良運動はじめ犯罪者の改善のための処遇を中心にしてきた長年の犯罪学の試みを全部否定して,ジャスティス,正義をかざして公正な裁判によって厳罰を課すべきであるという方法に世論を煽り,それを追認するという「犯罪学」が主張されることになります。スライドにも挙げましたが,なし崩しのプラグマティズムの蔓延の下で,原因論を放棄しての「環境犯罪学」,「割れ窓」理論,コミュニティ・ポーリシング,「三振法」,メーガン法,GPS足輪,改善・処遇モデルから公正・厳罰モデルへ,少年法における「全件送致主義・保護処分優先主義」の後退,といったこの憂鬱な長い リストを前にして,我われは何をすればよいのでしょうか。

改めて日本の犯罪学が日本の犯罪現象に関してこれまで何を言い,どのように対応してきかたを考えると,かなり悲観的な総括になっていくかもしれない。悲観的な総括といいながら,しかし犯罪は減っているのです。これは一体何なのか。これまでの説明では,我が国における文化的伝統,つまり対立・相剋を強調しない,協調の精神など,さまざまな日本固有の文化が背景になっているのではないかと言われます。暗黙の前提として,このような我が国における伝統的なモメントが長らく変わることなく,犯罪の増大を抑えてきている,したがって他の国に比べて我が国の犯罪率が非常に低いのは,ある意味で当然だという認識を前提にして,それに安住してきたと言ってよいのではないか。しかしそれでも,犯罪に関して我々に課題がないかというと,そうではありません。薬物犯罪,サイバー犯罪,テロ犯罪とかいった,新しい犯罪現象に関してはその実体を明らかにし,対処していくことが求められています。それはしぶしぶであれ,喜んでであれ,犯罪学がやらなければいけない研究の対象,課題だと思います。少年非行,来日外国人の犯罪という問題も,近年それらは減少傾向にあるとはいえ,解決しなければならない重大な課題としてなお残っています。これら目前の犯罪現象に対して,可能な手段を尽くしてアプローチすることが求められている。それに取り組み,問題を理論化し,解決していくことが,我われの課題になっていくだろうと思います。

その際,一つの大きなテーマとして「安全」の問題があるのではないか,と私は思います。これは我が国では1990年代以降,現在に至るまで,大きなテーマとして認識されてきました。新聞やテレビが怒涛のような報道を繰り広げたことで,多くの市民に犯罪への不安が広がり,自分たちは安全ではないと感じる事態が拡大した。いわゆる「安全神話の崩壊」です。が,これに対しては河合幹雄さんの,犯罪が実際に増えたというよりも,犯罪の場所が住宅地に近づき,一般市民の周辺に迫ってきたことが不安の大きな要素になっているのではないか,という分析が重要だと思います。つまりはわが国の犯罪現象の内容が変化していることに,おそらくは多くの要因が関係している。であれば,その点を解決すること,治安ではなく,安全というキーワードをもとにして研究していくことが必要となると思うわけです。これが結局は民主的な方法にもつながっていく,国家の側から社会の安全レベルを定めるという形で統制を強化するのではなく,市民自体が自分たちの安全をどう確保するか,そのために何をするかということを一つの軸足において,市民の側からの刑事政策を追求する,そのために犯罪学的な研究を進めていくという方向に,今後,行くのではないかと思います。そういう方向での議論を今後,強調していきたいと思うのです。

では,私個人は具体的に何をするのか。そのことについてお話しする前に,私が犯罪学に関してこれまで何をやってきたかを,少し説明しておきたいと思います。

 

私は1966年に京都大学法学部に入学しました。法律学は国家権力の問題に関係している,なかでも刑法学が,権力と一般市民との間の緊張した関係を問題とする,最も興味ある分野だとの思いが,学生時代の当初からあり,それが日を追って募ってゆきました。とくに,ちょっとした偶然から1967年に中山研一先生にお会いしてから,刑法学への関心は決定的なものとなりました。

この間,当時の大学の状況を思い返してみますと,それはまさに激動の時代でありました。さまざまな要因を背景として全国に学園紛争が荒れ狂った,否応なしに私も巻き込まれてしまった時代でした。国際的にはベトナム戦争が深刻な様相を呈していた。別にアメリカの勝敗という意味で深刻なのではなく,世界的な正義の危機を感じざるをえない状況でした。日本国内では当時,3億円事件など著名な事件が起こったりして,世界も日本も,大学も,全てが動揺していた時代だったと思います。

そういう中で私は犯罪学に出会うわけですが,それは宮内裕先生との関係を抜きにしてはお話しできないことです。宮内先生は第二次世界大戦の終わり頃に旧制松本高校から立命館に入学されまして立命館大学で佐伯千仭先生のご指導を受けて刑法学者になられた先生です。1949年に京都大学に移ってこられた。宮内先生は私が66年に入学して,最初のガイダンスを受けている途中で外国語のガイダンスの時に登場されて,「これからの学生諸君はロシア語をぜひやりなさい。自分の学生時代にロシア語などを研究していると警察に捕まって大変だった。しかしそういうことは今はないのだから,これからの学生諸君にはぜひお願いしたい。」と話されたことが大きい。そんなこともあって宮内先生が刑法学者であるということで先生のゼミに入ろうと思っておりました。当時の京大法学部には「予備ゼミ」の制度がありまして,3回生の前期,学生たちが自主的にゼミを組織して,これはと思う先生に指導をお願いして勉強する。宮内先生にそれをぜひお願いしたいと決めまして,当時,予備ゼミを組織するための委員の一人でしたので,留学中の先生に手紙を書き,先生から「わかった,引き受ける」といっていただいたのですが,先生は68年春にドイツで亡くなられました。48歳でした。非常に残念でした。このようなことで先生から直接に教えを受けることはできなかのですが,先生の『刑事学』という1956年の本が日本の法学者が書いた犯罪学に関する最初の一冊です,この内容に大きな影響を受けました。

先生が亡くなられたので,その年の法学部の「刑事学」の講義は非常勤講師に平野龍一先生に来ていただき,したがって私の最初の犯罪学の勉強は平野先生の講義を受けることから始まりました。当時,京大では学園紛争がたけなわで,私がちゃんと授業に出たかどうか疑わしいのですが,印象に残っているのは,先生が「府中ブロジェクト」に関して話をしておられたことです。東京の府中市を舞台として,地域総ぐるみの犯罪予防のさまざまな取り組みに犯罪学者が入ってやっていたプロジェクトがあったのです。わが国初の大規模な実証研究プロジェクトで,この話をされて,犯罪学の可能性に関して熱をこめて講義しておられた姿をよく覚えております。

このような経過で,学生時代,あまり勉強しなかったもので,ちゃんと勉強したいと大学院に進むことにしまして,1970年に大学院法学研究科へ入りました。刑事法専攻。中山先生のご指導とともに,刑法の主任教授である平場安治先生の指導を受けることになったわけです。佐伯先生の刑法教科書や『刑法における期待可能性の思想』に熱中しながら,それと並行して平場先生の授業でR. Langeのドイツ語テクストを読むというような状況でした。同時に刑法読書会で,関西の各大学の刑法の先生,大学院生と一緒に勉強しました──色いろな研究報告を聞きながら,外国の刑法文献の紹介を受けながら,私も紹介しながら,勉強したということです。

その中で,私はとくに社会とか国家と刑法との関係に強く関心を向けて行きました。これはもちろん,佐伯先生の「期待可能性における国家標準説」とか中山先生の「実質的責任関係」とかの主張が,権力あるいは国家が犯罪者に対して何を期待し,何を求め,何を処罰するのかを,突き詰めて解明しようとするところに出た議論であって,それを私も自分なりに研究したい,国家はなぜ,ある行為を犯罪とし,処罰するのかを,考え抜きたいという思いがだんだんに募っていった。そういう中で,刑法の階級性の問題へと関心は進み,階級性の最たるものとして,無産階級が権力をとったと考えられていたソビエト刑法が一体どういう状況になっているか,ソビエト刑法に対する関心が肥大化していったのです。宮内先生のご指示もあってロシア語を履修していましたので,幸にしてソビエトの文献が読めるということから,その方向に集中していったというのが経過です。

ソビエト・ロシアの刑法を勉強していて気付きました,当初それは新派の刑法思想に親近感をもっていたのです。唯物論か観念論か,唯物論は新派刑法学だという素朴な認識が当時ソビエトにありまして,革命当初のソビエト刑法の主流は新派的な刑法だった。それがある日突然,第二次世界大戦を経てかの地の状況が明らかになってみると,それがあたかも旧派的な刑法に変わっている。何が変わってそうなったのかという関心が,欧米の研究者にもありましたが,私にも疑問がありまして,それを研究していきますと,実は刑法よりも犯罪学の方が面白いということに気がつくわけです。──1920年代,ソビエト・ロシアで犯罪学研究が堰を切ったように展開されているのです。当時のヨーロッパの,とくにドイツの犯罪学の雑誌にはロシアの学者がたくさん寄稿している。面白いと思ってこれを読み,さらにその後の展開をみようとすると,しかし30年代以降の研究についてはソビエトには何の資料もない。論文はおろか研究者の存在を示す何の資料もないのです。一体これは何なのだということで,マイクロフィルムとかをたぐりながら,昔のものをひっくり返して読みました。その結果,ここにはどうも大きな問題がありそうだと思うに至ったわけです。つまり,犯罪学と国家,あるいはソビエト権力との緊張関係という。そこにルイス・シェリーという,近年はアメリカの民主党のテロ対策などにアドバイスをしている研究者ですが当時はコロンビア大学の大学院生,彼女やピーター・ソロモン,彼はカナダのトロント大学の先生ですが,彼らの1920年代のソビエト犯罪学に関する研究が発表され始めまして,俄然,意を強くしました。私と同じような関心でこのテーマに取り組んでいる研究者がいるのだということで,鉱脈はここにあると確信したということです。いくつかの研究成果をこの時期に出して,その後,平場先生のもとで京大の助手に残ることができましたので,落ち着いた3年間,勉強さえしていればいいという幸せな時期に恵まれました。

1977年に,いくつかの事情から助手を辞めないといけないことになり,どうしようかと思っておりましたところへ立命館大学の井戸田先生を中心に刑法の先生方からお誘いを受けまして,年度途中の10月に立命館大学法学部に着任いたしました。授業としては当初,刑法各論を担当し,ゼミ,基礎演習を担当しました。系統的な授業も初めての経験で苦労もしましたが,幸い,面白くできました。研究も授業をやるためには刑事実体法に力を入れないといけないということで,刑法理論研究会の共同作業として『現代刑法学原論』をグループでつくろうとなった時にその執筆グループに入って,責任論を担当して書いたというのが当時の研究成果です。犯罪学に関しては,それまで書いたものを集めて『ソビエト犯罪学史研究』の本を出しました。

これが一つの括りでしたが,その後,1981年,91年の2回にわたって,立命館大学に認めていただいて学術振興会派遣研究員としてモスクワにいきまして,研究生活を送ったことがあります。モスクワでは,81年と91年という10年の隔ての間に何も変わらないことに驚き,とくに91年には全般的な社会の沈滞した状況を感じたことです。これらの期間を通じて,モスクワ大学やキエフの内務省の高等学校で日本の犯罪学に関して紹介するいくつかの講義をして,それらをもとに『現代日本の犯罪と犯罪学』という本をロシア語で89年に出しています。これについては最近,といっても2004年ですが,ペテルブルグ大学を訪問しました際に,法学部で挨拶をしていると,向こうから「図書館にあった」とこの本を出してきてくれて,感激したというようなこともありました。

ソビエト社会の沈滞の印象から感じさせられた何かが起こりそうだとの予感が,91年の夏,モスクワで発生したクーデター事件へと結びつき,それを一つのきっかけにしてソビエト体制の崩壊に至るわけですが,私はたまたま現場でそれを目撃する,見せつけられるという経過になったわけです。直接の研究対象としての犯罪現象を統制していたソビエト国家,その土壌であった社会制度そのものが,無くなってしまったわけです。歴史と言う怪物の荒業を見た思いがしましたが,しかし,別段ソビエト国家と心中しようと思ったことはさらさらありません。そうではなくて,ソビエト刑法が歴史的にみてどのような存在性格をもった刑法であったのかを見極めることが,刑法学・犯罪学の研究者としてなおざりにできない作業である,と思うに至りました。刑法とか犯罪学とかが,20世紀の歴史過程にどのように対応し,変動していったか。また,どのように未来を展望したか。わが国でソビエト刑法を研究してきた最後の二人,私と畏友・上野達彦の二人で,刑法の問題と刑事訴訟法上の問題,それと犯罪学の問題のそれぞれに,全体を俯瞰する形で集約しよう,我われの作業を総括しようとしました。その過程で改めて考えてみると,ソビエト刑法は多くの試みに満ちており,一つの理想を展望したのですが,それらが実を結ぶことは結局なかったと概括できると思います。その意味で,未完の刑法に終わったと思う。そういうことから二人のこれまでの研究を編集して『未完の刑法 ─ソビエト刑法とは何であったのか─ 』と題したモノグラフィーを作り,これは立命館大学の出版助成を得て成文堂から刊行することができました。興味のある方はご覧いただければ,私どもがどのような思いで,どのように問題に迫ろうとしたかについて,その一端は分かっていただけるのではないかと思います。

 

科学としての犯罪学をどういうふうに今後,我々は研究し,私自身はそれに向き合っていくのか。残されている時間もあまり多くはないでしょうが,それに比べると残っている課題の方がはるかに多いということは明らかです。絶望的に。しかし何かからは始めなくてはなりません。

具体的な作業として手をつけたいと思っていますのは,法学部・法科大学院での科目としての「犯罪学」の体系と内容をもう一度つくり直すことです。『犯罪学講義』の教科書は間もなく第3版が出ますが,しかしまだ引っかかるものがあるのです。何かが足りない,何かが間違っている。これを完成させること,犯罪学の現段階での体系をはっきりさせることが,ここしばらくの課題になるだろうと思います。さらに個別的な問題に関してもこだわって,いくつかのものを考えていかなければならない。とくに,犯罪学方法論に取り組むこと,また責任ないし刑罰と社会意識に関する問題です。なかでも死刑に関する問題は,私は多くの研究者とかなり違った受け取り方をしていますので。国際組織犯罪と人間の安全保障の問題に関しても,これまでの経過もあって,検討を続けたい。

課題は残っている,ということです。そういう点では,特命教授としての仕事に併行して,研究と教育にもあと何年かの猶予を与えられましたので,その間にきちんと勉強して,皆さん方にその成果に関してお返しをしたいと思います。

本日はどうもご清聴ありがとうございました。