播磨さんを偲ぶ
                           

 あれからもう2年近く経ったと計算してみても、未だに播磨さんが亡くなったとは信じることができない。いつも真っすぐで、颯爽と活力に満ちた播磨さん──
 それまで、学内の集会やデモの中でたびたびその雄姿を見かけていた播磨さんと、きちんと知り合ったのは1970年に私が京都大学大学院法学研究科に進学したときからだった。
 すでに69年春の段階で、法学研究科の院生協議会を中心とする運動によって、法学部の学部助手制度をめぐる批判の運動には決着がつき、70年度に向けての学部助手の採用はなく、制度の運用は停止された。「研究者養成制度の二元制には疑問がある」という当時の林法学部長の発言を引き出すにあたって、播磨さんの活躍は際立っていたと、われわれはよく聞かされたものだった。このことをとくに思い出すのは、私の中で当時の播磨さんが「院生規定」の問題と強く結びついているからだ。
 大学院生は、未だ教育の対象であることは事実であるが、しかし既に単なる学生ではなく、自立した研究主体であるという性格をもち、その性格に対応した処遇を求める権利を持つ、という大学院生の自己規定は、当時の全国的な院生運動の中で生み出されてきたものであり、当時の院生にとっては、自己への誇りを支え、自覚的な研究活動を進める上での最大の指針だった。新入りのわれわれに対して、播磨さんはことある毎に「院生規定」の意義を説いた── 法学研究科の院生協議会の活動から個々の院生の私生活に至るまで、あらゆる問題をそれにそって考え、判断するようにと言われたような気がする。法経館4階の院生共研で。それからの4年余りの院生時代を通じて、今考えてみても、私の精神面での機軸となった「院生規定」との出会いだった。
 近年は大学院生からも「院生規定」の語も、それに対応する理念も聞かれないのだが、どのような経過でこうなったのかを詳らかにしない。あるいは、誤りとして捨てられたのかもしれないが、そうであれば残念なことだと思う。それを捨てたことで、大学院生の運動からも個々の院生の姿勢からも、確実に生気が失われてしまったように思うのは錯覚だろうか。
 播磨さんと最後に会ったのは、2000年9月30日、立命館大学で開かれたロー・スクール問題のシンポジウムでだった。播磨さんは当時、神戸学院大学のこの問題での責任者のような立場についておられて、その関係で立命の動きにも関心をもっておいでだった。そのとき、播磨さんの口から語られたのは、わが国でのロー・スクール問題の経緯への原則的な疑問とともに、立命館の取り組みへの高い評価だった。その年4月に公表した立命館大学法科大学院構想の『二次案』を精読されており、そこに示したこの問題についての基本認識と掲げた理念を高く評価していただいた。私もその執筆メンバーの一人だったことを知っておられて、「感動したよ」とまで言ってくれたことを思い出す。播磨さんに褒めてもらったことが、素直にうれしかった。だが、誰もが知っているとおり、その後の事態の経過によりわが国のロー・スクール制度は当初の想定とはかなり違った形で、妥協的な決着をみている。先にわれわれが書いた理想主義的な構想の多くも、その中で後退を余儀なくされ、それでも多くのものを護ろうとしながら今日の法科大学院にたどり着いている。今となってみれば、すでに亡い播磨さんにいろいろと言い訳しなくて済むことが気持ちの救いであり、また、悲しい。



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