法律相談部新入部員だった頃


  二回生になるのを待ちかねて、法律相談部に入った。なぜそれほど「待ちかねて」だったのかはどうもはっきりしないのだが、やはり、法律学を勉強するからには生きた現実の中で勉強すべきだという思い込みと、何かで読んだ東京大学セツルメント法律相談部の歴史に強く触発されてのことだったように思う。名簿を見ると同期には二五人の名前が並んでいるが、それら友人たちの多くの当時の姿が思い出されて懐かしいことである。
  すぐさま私たちに対する借地借家法の速成教育が始まった。自由国民社の解説書をテキストに、先輩たちの真剣な講義と私たちのグループ学習が夏の合宿まで続き、その一方で毎土曜日の法律相談の会場で先輩たちの横に座って相談内容を何とか理解しようと頭を絞ることが続いた。相談日には於保先生と奥田先生が必ず出てこられて、部員たちの相談活動を指導・統括されており、時に、その日の相談事項に関連しての解説を拝聴することもできたが、当時の私たちは民法総則の講義を聴き始めたばかりで、その多くを理解できず、後で教科書をひっくり返し、二回生同士で議論し、先輩に尋ねて、あれはこういうことだったのかと確かめるようなことの連続だった。
  当時のことで記憶に残っているのは、二回生部員一〇人ほどで下鴨の於保先生のお宅に押しかけてご馳走になったこと、三鈷寺での合宿の夜の「肝試し」での先輩たちの張り切りよう、立命館大学で開かれた末川杯争奪法律討論会に──どのような経過であったか、私が──論者として出場することとなり、未成年者の信書の秘密と親権との関係、青少年保護育成条例などについてにわか勉強はしたものの、招待校中最下位という不名誉な結果に終わったことなど、脈絡もないが、私にとってはまさに充実した学生生活の断片である。
  それらが明るい色彩を伴って思い出されるのは、あるいは、やがて私たちすべてを巻き込み、否応なく引きずりまわすことになる学園紛争の時期が間近に迫っていたことを知っているからかもしれない。
  一九六七年度の東大法相との交歓会は東大に出かけ、借地借家法についての討論を柱とすることとなり、京大側では『日本近代法発達史』講座一一巻などを資料に、斎藤、小早川、錦織といった三回生の先輩を中心に周到な準備の上で臨んだ。結果は、当然ながら、当方の圧倒的な優勢で、ほとんど一方的に講義をしているような状態に終始した。その夕方の歓迎会では、当時東大法相の顧問をしておられた三ヶ月章先生が歓迎の挨拶をされた。──帰洛した私たちを一つのニュースが待っていた。東大で交歓会が開かれていた一〇月八日、羽田空港では、佐藤首相の訪米阻止を叫んで空港入口で警官隊と衝突した学生集団二千人の中にいた京大の一回生山崎博昭君が、混乱の中で、仲間の運転する警備車に轢かれて死亡していたのだった(第一次羽田空港デモ事件)。
  その時に私を捉えた何とも説明の仕様のない気持ちを、今あらためて思い出す。

                                      [京都大学法律相談部同窓会誌『法苑』(1998)


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