堀田君のこと


 別府市で執り行われた葬儀に出席したにもかかわらず、また棺の中に眠る彼の胸の上に香り高い花を添えたにもかかわらず、私は未だに堀田君の死んだという事実に慣れることができない。彼のことを思い出すとき目に浮かぶのは、いつも颯爽と、自信と生気に満ちた彼の姿だけだ。
 国際関係学部の開設の鍵を握る人事として立命館大学に赴任した堀田君は当初法学部に所属したが、彼のもともとの専門が刑事法であったことや、同い年で共通の友人もあり、また彼が私と同じ洛西ニュータウンの公団・竹の里団地に住むこととなったことから、すぐさま親しくなった。
 彼が国際関係学部に移籍してからは、学内の会議や行事で会うことが主要な機会となったが、いつも彼は論議の中心に居て、他人の意見を巧みに引き出し、明快な論理でわれわれを説得した。新しい問題と視座を提案し、旺盛な企画力で新しい展開軸をわれわれに示してくれた。何より圧巻だったのは、彼の完璧な英語で、大学の執行部はじめどれだけ多くの人が彼の外国語と交渉力、多彩な国際人脈に頼りきっていたことだろうか。外国からの代表団を迎え、通訳しながらワープロをたたき、会議が終わると議事要約が出来上がっているというような離れ業を、何の苦労もなく(もちろん人に数倍する努力の結果なのだろうとは想像するのだが)やってのけるのが彼だった。

 あるいは他にもご存知の方がいるのかもしれないが、私には彼のことを考えるときどうしても忘れられないエピソードがある。
 われわれが知り合ったころ、彼は住居については合理主義者で、公団住宅などの賃貸住宅に住むことを推奨していた。不便な郊外にさして広くもない戸建て住宅を構え、住宅ローンに縛られて汲々と暮らすよりは、年齢や家族構成、経済力の変化に応じて住居は借り替える方がよいのだ、と強調していた。当時、小畑川沿いの公団住宅10階の彼の居宅は快適で、洛西高島屋などにも近く、彼の言葉には説得力があった。
 ところが、その彼が数年後に亀岡市つつじヶ丘に戸建ての自宅を購入して、転居してしまったのだ。
 ある日、偶然に一緒の会議で遅くなり、彼が亀岡に帰る途中の洛西まで送ると言ってくれ、彼の車で帰ったときのことである。何の関連だったか、私はなにげなく彼に、住居についての考えが変わったのかと尋ねたのだが、彼の答えは意外なものだった。──彼は、あるとき、ふと考えたというのである。もし今、自分が死んだら家族はどうするだろうか。さしあたっての衣食に事欠くと言うことにはならないだろうが、おそらくそれまでの住居をそのままに維持することはできないだろう。となれば、夫であり父である自分が死んだことで悲嘆にくれている妻子は、自身の想い出も置き去りにそれまでの住居を立ち退かなくてはならないという、悲しさの追い討ちに会うことになる。惨めではないか。そう考えると、たまらない気持ちになったのだ、というのである。多少苦しくとも、戸建ての住居を構えていれば、もし自分が死んでもローンは保険でカバーされ、妻子はその場所に居続けることができる、と。
 堀田君の奥さんと三人の子供たちに対する深い思いに打たれて、私は運転する彼の横顔を黙って見つめるだけだった。もちろんその時には、思いがけず彼の口から出た「死」という言葉も、何か非現実的な例えとしてしか聞かなかったのではあるが。


戻る