繁田先生を偲ぶ
                                  

 大学院生となり,刑法読書会に出席することを許されて初めて訪ねた「泉ハウス」で繁田先生にお目にかかったのは1970年のことだったから,もう30年余の昔になる。初見には取り付きにくい厳しいお顔を,しかし新参のわれわれには微笑まれて,ご挨拶をいただいた日のことを想い出す。
 先生は当時,中川祐夫先生ともご一緒に,開設されてまだ2年を経たばかりの龍谷大学法学部での専門科目講義に精力的に取り組んでおられ,読書会でお見えになった泉ハウスでの雑談の際にも折にふれて関連のあれこれを話題にされた。先生は刑法読書会の発足のときからのメンバーで,これまた雑談の際にうかがったことだが,「泉ハウス」の開設の時には大学院生で,泉先生のご指示の下,こまごまとした準備に奔走されたとのことだった。とくにあの,読書会の際にわれわれの使った勉強机は,先生ご自分が子供の頃に習字塾に通われた頃の教場の机を思い出しながら,特別に注文して作らせたのだとおっしゃっていた。──たしかに,よくできた机だった。二階の和室の壁際に積み重ねられたそれをロの字型に並べ,北の窓側に平場先生,中先生,中山先生,中川先生,時おりは佐伯先生,らが陣取られ,私は大体は西側の壁際の南寄りに座ることが多かった。繁田先生は,たいがいは北西の角辺りに座っておいでだったような気がする。遅れて来た誰彼が床の間に机なしで座るようなこともあったが,われわれの記憶に残る刑法読書会の風景に,あの机は欠かせない。「泉ハウス」の閉鎖後,あの机はどうなったのだろうか。
 その後も,繁田先生と私との接点はやはり刑法読書会だったが,先生の人となりを知れば知るほど,その飾り気のない,非常に誠実なお人柄に魅了されたことであった。当時の刑法読書会では,研究会の途中のお茶の時間には和菓子が配られ(泉先生のご配慮),4月の「歓送迎会」では寿司とビールで和やかに盛り上がった。いつの夏の合宿研究会の際であったか,懇親会では各会員の「特技」の披露となり,森井先生の風流な艶笑芸や前野先生のこれまた「艶笑」小話などの後で,うって変わって繁田先生が披露された尺八は見事で,その本当のよさを評価できぬわれわれにはもったいない程だった。
 繁田先生の誠実なお人柄と着実な研究態度がよく示されているのは,何よりも,先生のご著書『全国矯正施設参観記』(矯正保護研究会・1998年)であろう。これは1977年に龍谷大学に開設された「矯正課程(現矯正・保護課程)」の「共同研究」の一環として進められた全国の矯正施設参観に参加された先生が,同大学の矯正・保護研究会の機関誌『矯正講座』にそのつど執筆しておられたのを一冊にまとめられたものである。一読してまず驚くのは,先生が参観された施設の多さである。この本に収められているだけでも,1984年の大分刑務所,麓刑務所および沖縄刑務所を皮切りに,全国の80施設に及んでいる。非常にこまめに歩いておられることに,そしてその目配りの細やかさに,誰しも感じいるに相違ない。この連載を始められた契機として,麓刑務所の大変な過剰拘禁状態とその下での受刑者の状況ならびに職員の苦労に強い印象を受け,「外部からも何らかの手助けができないか,それは書くことであると思った」ことを挙げておられるが,いずれの施設でも,まずは目線を低くして,現状を率直に伝えるという立場をとっておられることが見て取られる。「専門家」然としたあら捜しや性急な批判はそこになく,あるのは矯正の現場の担い手の方々への共感と被収容者への暖かい眼差しであり,まさに先生の研究の姿勢がよく反映しているように思われる。
 昨年6月,日本初の刑事政策分野の専門研究所として矯正・保護研究センターが龍谷大学に開設されたが,その開設記念シンポジウムで繁田先生は「龍谷大学における矯正・保護研究の礎」と題して講演された。その中で先生は,ご自身の研究活動と龍谷大学の「矯正・保護課程」の歩みとを振り返り,新設のセンターを足場としての今後のいっそうの発展の展望を語られたのであった。その日から4ヶ月を数えることなく,先生が不帰の人となるとは予想だにしなかったことである。
                                                                                     

『矯正講座 25号』(2004)


戻る