春風秋雨巡り来て
上田
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立命館大学法学部・法科大学院で,日々の課題に追われながら教員生活を送るうちに,気がつけば既に35年余が過ぎ去り,このたび定年退職のはこびとなった。立命館出身の先生方には及ばないが,それなりに長いこの期間中にあったさまざまのことが思い出されることである。
1977年の10月,立命館大学法学部に助教授として採用され,着任後初めて出席した教授会は広小路学舎の旧中川会館の「公室」で開かれた。大きな楕円のテーブルの周囲に座られた岡崎長一郎学部長以下の先生方を前にして,新参者として挨拶をしながら私は,「これから35年間これらの方々と一緒に働くのだ」と思ったことを覚えている。であれば,私はこの大学で何を為さなくてはならないか,と。
立命館大学は,いくつかの事情から京都大学法学部の助手を辞さなくてはならなくなっていた私を,井戸田先生らのご配慮もあって,年度途中から法学部に迎えてくれた。この大学,この法学部のために,私に何ができるか──
もちろん自身の能力や資質にさほどの自信があったわけではないが,持てるそれらを挙げて教育と研究とに打ち込むこと,そして学内行政その他の役務についても求められる限りは拒まない,ということをこのとき自身に課した。
この年度の後期は久岡先生が担当しておられた法学部の「刑法各論」を途中から引き継ぎ,まさに綱渡り状態で毎回の授業をこなし,すぐさま翌週の講義のためのノートを作る作業に追われた。難題は法職課程での指導で,当時の法職課程には歴戦の猛者学生も多く,毎回,まさに「真剣勝負」のような思いで教壇に立った。これに,翌年春からは基礎演習と昼夜2つのゼミが加わり,やがて「刑事学」(後に「犯罪学」に科目名変更),年度によっては「ソビエト法」講義を分担し,その必要を訴えて新規に設けられた科目「法政情報処理の基礎」を(無謀にも)担当したこともあるし,理工学部で「法学入門」の1000人授業と格闘したこともあった。2004年に法科大学院に移籍してからは,刑事法関係のいくつかの科目を,新しい法曹養成制度に相応しい新しい教育方法を手探りしながら,緊張しつつ担当した。
これらを通じて思うことは,大学教員は授業の中で成長するしかない,ということだ。
教員になったばかりの若手教員の多くは,たしかに若々しい情熱を持って教壇に立つ。しかし彼らの多くは,それまで刑法であれ何であれ狭い特定の分野あるいは問題に集中して研究してきたのであり,科目の全体など気にとめることもなく,まして教科教育法など勉強したこともないままに,教員として採用されたのであり,そのような教員に,最初から十分な授業が出来るはずはない。毎回の授業を終えて,教材の良し悪し,うまく説明でき受講生を引きつけた箇所とそうでない部分,私語を含め受講生の反応など,さまざまに噛み締めながら講義ノートに手を入れ,次回授業に備えることを繰り返して,段々と授業が苦にならず,学生の反応を見ながら説明を変えるなど,それなりに納得のいく水準に近づいていくのだろう。私自身の授業も,初めの頃はとくに,つかえたり飛躍したりしながら,自分勝手な口舌を演じているだけのことも多かったに違いない。当時の学生諸君には申し訳ないことをした,とつくづく思うことである。近年は多少ましになったのではないかと思うが,気がつくと教員生活も終わりに近付いているというのが現実である。
それらの経験を通じて強く感じてきたことの一つは,自分自身も含めてのことだが,大学教員というものの身勝手さ,自身の立場についての誤解である。大学教員の社会的な地位は,実際には大きく低下しているとはいえ,小都市並みの規模に膨れ上がった学園の中にいる限りは,彼の地位と権威は不可侵であり,4万人近くの学園の構成員の中で厚く護られている。時に,それにあぐらをかいて,自分たちが至高の存在であるかに錯覚している教員に出会うことがあり,複雑な気持ちにさせられた。そして同時に,自分にそのような振る舞いが無いかと省みる機会ともなった。大切なことは,正規と非正規とを問わす多くの職員および学生・大学院生のそれぞれが置かれた立場に思いを致すこと,とりわけ学生・大学院生については,充実した教育と快適な学園生活を享受するために彼らは本学を選び,高額の学費を払ってここに居るのだということを考えることだ,とその都度に自分に確認してきたことである。
(“立命館大学法学部ニューズレター” No.
72〔2013年3月〕
所収)