長い間気にかかっていること

                                    上田   ェ      

 

 技術であれファッションや思想といったものであれ,新しいもの,革新的なものが人目を引き,時代の寵児としてもてはやされることは,ある意味では当然のことだろう。それまで多くの人が悩まされてきた不便さや不合理,限界を突き抜けて,新しい可能性を広げて見せてくれたのだから。人々は新しいものを手に取り,撫で回し,さらに新しい何かに展開できないかと思いをめぐらせるのだが,時として,そこに隠された大きな,ことによっては致命的なものへと増殖しかねない危険が見逃されることも珍しくない。

 たとえば,刑法学における近代学派,いわゆる「新派」である。今日、わが国の大学で刑法学が講じられる際、その実際上の影響力がほとんど皆無であるところから、近代学派=新派の主張にはほとんど触れられない。しかし,刑法というものの本質を理解する上で,この問題を考えておくことはきわめて重要だと思う。

 一九世紀末における新派刑法学の登場の背景となったのが,一方では野蛮な資本主義の発達により生じた大量の都市貧民層を母体とする累犯および少年非行の激増であり,他方では科学技術,とりわけ生物学や医学の発達だったということは広く指摘されている。理性ある人間の自由な意思に基づく行為として犯罪を捉え,他行為可能性を根拠とした責任非難を基礎とした刑罰の適用によって,犯罪現象についての一般予防を説く伝統的な刑法理論は,激増する犯罪への対策として無力であると宣告された。そこでは,何よりも,犯罪の実態がおさえられておらず,その原因へと関心が向けられていないことが批判されたのだが,注目すべきは,犯罪原因に対する関心が当初は刑法学の外部において発展させられたという事実だろう。その際,地理的な条件に重点を置いたゲリーやケトレなどフランス学派が個々人の犯罪よりは大量現象としての犯罪に注目したのに対し,ロンブローゾ,フェリー,ガロファロなどのイタリア学派は個別の犯罪者に関心を集中させたのであるが,刑法学との接点を持ちうるのはもちろん後者である。──刑法は究極において裁判規範の定立を使命としている以上,そのことは当然だろう。

  とりわけ人間形質の生来的な偏倚によって犯罪行動を説明しようとする初期のロンブローゾのような素朴な生物学的理解は,一時の流行に終わったが,その後継者であるフェリーは刑事責任の観念を否定し,刑罰に代えて「社会防衛処分」を科すことを柱とする刑法草案(イタリア刑法典「フェリー草案」)の起草を主導したことで知られている。疑いもなく新派刑法学の創始者でありつつ,ローマ大学総長かつイタリア社会党に属する国会議員として,具体的な社会活動に力を注いだフェリーに対して,新派刑法学を理論として確立した功績はドイツのリストに帰せられることが一般である。リスト以降の多様な展開をも含めて,新派の刑法理論の特徴を要約すれば,@犯罪行為に徴表されたその人格の危険性を理由として,行為そのものではなく,行為者を処罰するべきであり,Aである以上,意思の自由や反対動機などは無用の概念であって,刑事責任もまた一の迷信にすぎず,B刑罰は危険な犯罪者から社会を防衛するための合目的的な処分であって,それは行為者の危険性に応じて教育・矯正であったり,社会からの排除・淘汰であったりを内容とする,ということになろう。 ここまで行けばその胚胎する本質的な危険は誰の目にも明らかとなる。それは,近代法が克服の対象としてきた封建的な恣意と専断への後戻りの危険を自ら手繰り寄せ,市民的自由の危険な障害物となりかねないことが明らかである。リストが罪刑法定主義を強調し,また行刑施設の改良運動に力を注いだのは,この危険に気づいていたからだろう。しかし,私には,より根底的な問題は新派刑法学が依拠する具体的な社会像の理解の平板さにあるように思われる──

  さほどに珍しくもない理論史の概略を上に述べたのは,これにかかわって私には気にかかっている一つの点があるためだ。

  よく知られているように,一九一七年の革命後にロシアの刑法がたどった歴史自体,振幅の大きい変動を経験しているのだが,少なくとも初期の刑法典には新派刑法学の影響が色濃いと評価されている。が,ソビエト時代には相互の影響・継受関係は真っ向から否定され,その具体的な関係のありようについて辿るすべもなかった。その間にあって明らかであったのは,一九二七年,新生ソビエト・ロシアの刑法学者ピオントコフスキーがローマにフェリーを訪ねている事実である。帰国後にピオントコフスキーは,新派刑法学が革命ロシアの刑法学とはまったく異質であり,あたかも自身をソビエト刑法の父であるかに言うフェリーは妄言を吐いているに過ぎないと書いたのだが,その論文の端々にはまだ二〇代だったはずのこのモスクワ大学教授のフェリーに対する敬意が垣間見えるような気がするのだ。

  長い間知りたいと思ってきたのは,この二人がローマで実際には何を,何語で,語り合ったのだろうかということ,そして,すでに七〇歳を越えていたフェリーは自らの生み出した刑法における新思考の未来をいずれに見ていたのか──ファッショ党政権下のイタリアにか,それとも社会主義ソビエト・ロシアにか,ということだ。



                               (京都大学 法律相談部 同窓会誌『法苑』2009年号)


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