インターネットは何をもたらしたか


  わが国で「インターネット」が話題になり始めてまだ5年ほどしか経っていないが、その中心が電子メールやFTPからWWWへと移るに伴い、インターネット人口は爆発的に拡大し、今やわが国でもこの言葉が新聞、雑誌、テレビその他に登場しない日はない。まだまだ物珍しげな対応や、「これで全てがよくなる」式の手放しのパラダイス到来論が目立つ中で、他方ではインターネットが社会にもたらしたものの巨大さに困惑する姿、過剰な警戒感の煽り立ても随所に見られるといってよいであろう。たしかに、インターネットの出現は、単に情報伝達の新たな手段が登場したというだけでなく、政治的な意味合いにおいても各個人のライフスタイルの変化という点においても、現代社会に決定的に重要な変化をもたらした。その内容と意味を多様な側面から見きわめ、今後の展望を明らかにしていく作業がわれわれ全てに求められている。
  ある時期コンピュータは「人間」に対立する「機械」の象徴としての役割を与えられ、
市民的自由や職場の確保のためにコンピュータを破壊する動き(「ロビンフッド症候群」)さえ見られたのであったが、パソコンの普及とインターネットの登場によって、そのような警戒論は薄れたように思われる。しかし実際には、事態は何程も変わっていない。むしろ、政府・国家機関の多数のコンピュータが連結されることによって、個々の市民、企業、社会団体などの情報の集中と管理・操作・支配の可能性は格段に大きくなった。そして、その他方で、主権者たる国民への情報の出し渋りが顕著である(情報公開を定める法律すらない下で、省庁間の連絡会議申合せにもとづき、この間20省庁、個別の国家機関318でHomePageを開設、地方自治体も含めると、相当量の電子情報の提供が行われてはいるが、その内容は「広報」的なものにとどまるものが多い)。
  また他方では、インターネットの登場と生活の各領域へのその浸透によって、従来にはなかった多くの問題状況が生まれることとなった。国家機関や企業のコンピュータがインターネットに接続されることによって、時に国境を越えてさえ、コンピュータ上の情報の盗取が行われ、またその破壊がもくろまれ、ウイルスがしかけられる。インターネットを通じての取り引きは企業に桁外れの市場の拡大をもたらしたが、その決済方法にはまだまだ多くの危険がつきまとっている。あるいは、インターネットを通じてわいせつな画像や音声を送る行為が、わが国でも諸外国でも、広い範囲で行われており、これら「サイバーポルノ」の規制の可否、その方法などを巡って活発な論議が交わされている。さらには、インターネットを通じての禁制品の取り引き、民族差別や戦争の煽動、名誉毀損、著作権侵害などなど、はたしてわれわれの前に開かれたのは新しい情報化社会への扉だったのか、もう一つのパンドラの箱の蓋だったのかと、考え込まされるような事例にこと欠かないのである(それらとは多少異なり、所詮インターネットは「空っぽの洞窟」であり、知りたいこと、必要なものはそこでは何も得られない、という突き放した論調も存在するが)。
  しかし可能性こそ最高の価値である。たしかに問題は山積しており、それらに対処しうるとの確実な見通しもないままにこのような制御不能の「モンスター」を連れ込んでもよいのかといった警戒論には根拠がある。しかし、それにもかかわらず、インターネットのこの無政府状態こそが、新たな可能性を秘めていると言えるのではないか。
  現状のインターネットの利用には一定の制約がある(ネットワークに接続された端末の利用可能性、コンピュータについての最低限の知識の必要、etc.)ことも事実であるが、その制約さえクリアーできれば、地域や国家の枠を超えて直接に情報を共有し、各個人が情報の発信者になれるということの持つ意味はこの上なく大きい。政府機関も巨大なマスメディアも、ここでは何らの優先権を持ち得ない。それらと同じ影響力をもってボランティア団体も各個人も、直接に政府を批判し、情報を提供し、その主張を掲げることができるのである。──もちろん、過渡期である現在、それが直面している諸問題については具体的で妥当な解決が図られなくてはならない。だがその先には、たとえ遠い将来においてであれ、民族と国籍の枠を超えて、それぞれの人間的な能力と相互信頼だけを基礎とした、真の意味での人々の連帯に立脚する民主主義、「インターネット民主主義」の可能性こそを、われわれは展望し、その理想に接近するための模索を続けるべきと思われるのである。

【ほうゆう No 61 企画  ──インターネットが社会にもたらす諸問題── <総論>】



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