刑務作業賃金制の主張をめぐって



  わが国の矯正施設が直面しているさまざまな問題点を考える上で、刑務作業賃金制の主張とそれへの対応は多くの示唆を与えるものである。
  刑務所(法律上の呼称は「監獄」)には4万人弱の受刑者が収容されているが、彼らの日常を特色付けるのは、まず厳重な拘禁であり、号令による集団行動であり、米7・麦3の主食と一日407円の副食、そして一日8時間・週40時間の刑務作業という名の超低賃金労働である(数字はいずれも1996年)。
  懲役刑に処せられた者には「所定の作業」を行わせることとされている(刑法12条)が、このような拘禁と強制労働の組み合わせこそが近代的自由刑の基本的な特徴であるといってよい。この制度は、名高いアムステルダム懲治場を初めとするいくつかの施設での成功から出発したと言われ、労働を通じての教化・改善という旗印の下、ヨーロッパ各国に普及したのであるが、その背景としては中世末期の農村経済の構造変化、都市への人口流入、浮浪者・乞食の増大、犯罪の激増があり、そして他方では、マニファクチュア工業の発達により、これら施設の労働力の活用それ自体がビジネスたりえたということを忘れてはならない。皮肉なことであるが、状況が変化し、監獄での労働が受刑者の社会復帰に向けての教育・訓練手段とされ、いわば、"純化"されるのは、産業革命後の急激な技術変化に監獄が追いつけず、経済競争から脱落して後のことなのである。事態は今日も基本的に変わっていない。
  刑務作業に対し賃金を支払うべきだとの主張をどう考えるべきであろうか。
 現在わが国では、刑務作業には賃金でなく"作業賞与金"が与えられているが、これはきわめて低額なことに特徴がある。1996会計年度の平均は月額 3,773円――作業内容により異なり、見習い工の576円から一等工の 4,428円までの各ランクに分かれている――に過ぎない。またこれは、その性格において賃金ではなく、恩恵的なものと説明されているが、この程度の「賞与」では作業意欲の喚起にさして役立つとは思われない。かくして、自由刑たる懲役刑は同時に財産刑の様相を呈することとなる。
 19世紀後半から提唱されている賃金制の主張がその根拠とするのは、
  1)労働に対する正当な報酬こそが、受刑者の改善と社会復帰に向けての効果的な刺激となりうる、
 2)釈放後の更生資金をつくることができる、
 3)受刑者の家族の生活を扶助でき、受刑者と家族との結びつきを維持しうる、
 4)被害者に対する損害賠償の機会を与えうる、などの諸点であり、それらそれぞれは妥当な指摘といえるであろう。
  しかし他方では、社会に迷惑をかけた者を社会の費用で養い、なおかつ賃金を与えるのはおかしい、とか、囚人労働力は相対的に安価であり、一般社会の労働力市場の安定を崩すのではないか、といった疑問ないし反感が存在する。
 いずれにせよ、一般社会の経済活動とはまったく異なった条件にある刑務労働に、経済原理に従った賃金を保障することには多くの困難が伴う。勤労意欲の点はおくとしても、最低限の設備投資も怠られがちの老朽施設で未熟練労働者ばかり(最近の平均収容期間は2年程度)が生産する品物が一般企業のそれより商品として優れているとは期待しがたく、当然大きな利益は見込めない以上、就業者=受刑者の賃金に見合った採算性を確保することも困難である。それどころか、近年の経済不況のために、全国の刑務所の受注件数は減少の一途をたどり、中小企業の下請け仕事を確保することさえ難しくなっている。賃金制の主張を取りまく環境は厳しいと言わなくてはならない。
  現在の賞与金制度はそのあまりの低額さをはじめ、多くの点で改善の余地があることは明らかである。近年の多くの行刑立法では、基本的に賃金制の主張をとりいれた上で、「その職種に対する平均賃金の何割」と言った決め方がなされているが、わが国の監獄法改正問題をめぐる議論では、この点についての踏み込んだ提案はない。予想される多くの困難、とりわけ、収益をあげうる仕事が安定的に確保されうるかどうかについての不安が、関係者に重くのしかかっているのである。
  刑罰とは何か、受刑者の法的な地位はいかなるものか、そしてあるべき刑事政策の方向は──  刑務作業の問題が問いかけているものは多く、重い。

立命館大学法友会誌『ほうゆう』 No


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