稲子先生を偲ぶ 

京都で学生時代を過ごしましたので,先生のお名前はパシュカーニスの本の翻訳者として,存じ上げてはいましたが,残念ながら,直接にお会いする機会がありませんでした。それがかないましたのは1970年,東京で開催された「レーニン生誕100周年記念」に合わせた社会主義法研究会だったでしょうか。

その後,73年頃から,中山研一先生の外国留学という事情もあって,名古屋大学大学院法学研究科での先生のスクーリングに参加することをお許しいただき,ちょくちょくと法学部棟4階の談話室周辺や竹森君・新美さんらの共同研究室に出没するようになってから,先生の学問とお人柄に直接ふれることができるようになりました。

まず印象的だったのは,京都大学と比較してのその開放的で自由な雰囲気でした。これは稲子先生だけのことでなく,室井先生や松井先生なども含めて,名古屋大学公法部門では先生方と大学院生との“ざっくばらん”な物言いから付き合い方全体まで,驚くばかりに生き生きとしていました。稲子先生のおかげで,スクーリングばかりでなく,文部省科学研究費の研究グループにも加えていただき,同年代前後の大学院生との付き合いも広がりました。今も,深く感謝しております。

 

個人的な思い出として残っているのは,ある研究合宿の際,懇親会後にくつろいで話し込んでいた折に,何の脈絡であったか,宣子先生が,「私は本当はSmz先生が好きだったのよ」とおっしゃったことがあります。名古屋の人々は既に聞いたことがあったのか,平然としていましたが,私はあわててしまって,思わず同席していた稲子先生のお顔を見ました。先生は困ったような,心配そうな顔をして宣子先生の方をご覧になっていたが,しばらくたって,「でも,今は僕のほうがいいでしょう?」とおっしゃいました。宣子先生のお答えがなんと言うものであったか,思い出すことができないのが残念です。ただ,私にはその時の先生の生真面目な反応が印象的で,お互いを研究者として対等の人格と認めあった,宣子先生のお言葉にもかかわらず,和やかで仲の良いご夫婦の生活が想像されて,温かい気持ちになったことが思い出されるだけです。

もうひとつ。1991年の春から秋にかけて,私は二度目のモスクワ暮らしをしていましたが,そこへ稲子先生が何かの国際会議だか何かでお見えになりました。さっそく国家と法研究所でお目にかかると,「13回目です,13回目。飛行機を降りるときから13回目だぞ,ってモスクワに言いきかせました」,と上機嫌にはしゃいでおいででした。ところが翌日の昼,ул. Губкинаの我が家にお食事に来ていただいた先生は,前日と打って変わって,萎れておいででした―― 盗難に遭われたのだといいます。明け方,目を覚ましてみると何か雰囲気が違う,気のせいだと言い聞かせてひと眠りして,起きだしてみて気がついた:テーブルの上のカメラが無くなっていた。椅子の背にかけた上着の内ポケットからも財布が抜かれている── 大変だと騒いだのだが,たしかにかけたはずのドアの鍵が開いていたため,ホテルの警備員も「鍵をかけなかったからだ」と冷たい。やはり,少なくともインツーリスト程度から上のホテルに泊まらなければだめですね,とおっしゃる。そのうちに段々といつもの調子を取り戻されて,ゴルバチョフ,ハズブラートフ,サプチャクなどといった面々についての,最近に仕込まれたらしいネタを交えての評価が始まり... と先生らしくなられて,帰って行かれました──「何分にも気の毒な被災者ですから」,と当方が差し出したタクシー代を受け取られながら。パスポートや航空券に手を付けられなかったことが,せめてもの幸いでした。

 

このとおり,先生は常に楽天的で,まさにヘーゲルばりに「現実的なことは合理的なことである」と,生じた結果を受け容れ,その必然性を説明しようとされたように思われます。

たとえば,今,ロシアで生じているメドベージェフ大統領とプーチン首相との入れ替わり作戦の結果について,先生がどのように予測されるか,そしてそれをどう説明されるか── もうそれをお伺いすることが出来ないことが残念です。

 

先生,どうぞ安らかにお眠りください。

やがてわれわれがそこに参りましたら,お起こししますので,もう一度,昔のようにご議論いたしましょう。いろいろとお教えいただきたいことがあります。

それまで,さようなら。

稲子恒夫先生を偲ぶ会[2011年12月17日・名古屋市]


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