立命館法学 乾昭三教授追悼論文集』 はしがき

ここに 乾 昭三 先生を追悼して論文集を編むこととなった。

 

冷たい雨の降った2003123日、突然に先生のご逝去のお知らせを受け、がく然としたことを記憶している。ご病気のために入院中ではあっても、まだ74歳、われわれは健康を回復された先生にお会いできることを信じていたのであるが、その願いは叶わなかった。

 

記録をたどれば、先生は京都大学法学部を卒業され、2年間の大学院特別研究生を経験された後、19524月、立命館大学法学部専任講師として研究者・教育者の道に第一歩を踏み出された。爾来、19933月まで、41年の長きにわたってわが法学部と立命館学園の発展のために多大の貢献をされた。学園復興の難事業をやり遂げ、激動する社会の中で着実に立命館大学が発展していく過程にあって、先生は講義や演習を通じて学生・大学院生の教育に当たられるとともに、補導主事、学部主事、教学部長、法学部長、副学長、教学担当常務理事といった学内の役職をつとめられ、さらには、1975年から4年間は京都府教育委員・教育委員長をもつとめられたのであった。

また先生は、本学法学部を退職された後も、龍谷大学法学部において教鞭をとられ、民事法研究会の研究活動を指導されるなど、旺盛な活動を続けられた。

 

民法学者としての乾先生の名を広く世に知らしめた第一のものは、国家賠償法の研究である。今日であればむしろ行政法学の分野に属する国家賠償法であるが、我妻栄博士が起草したといわれ、1947年に施行されたこの法律を、その運用実態を分析することによって、国民の権利を伸長するという観点から理論的に再構成する、それはまさにパイオニア的な業績であった。そこでは、国家ないし行政機関と国民との関係を人と人との権利義務関係に還元し、なおかつこれに無過失責任論を加重するという二重の視点がうかがわれ、それはそれで先生が末川民法理論の正統な継承者であることを鮮やかに示すものであった。1965年に刊行された『注釈民法 19巻』(有斐閣)の国家賠償法の注釈は先生の手になるものである。

それ以降の、不法行為法を中心とする先生の民法理論の発展、学界での華々しいご活躍については、広く知られているところであり、あえてここで要約して述べる必要も無いことかと思われる。

むしろ、ここでとくに強調しておきたいのは、民法教育者としての先生のご功績についてである。

立命館大学法学部では、1970年代はじめから、民法科目の教育において、いわゆるパンデクテン・システムを崩し、いわば、生活領域ごとにこれを再編して教育する試みが行われてきた。総則、物権、債権、親族・相続という伝統的な科目構成から、契約法、不法行為法、不動産法、金融取引法、家族法といった講義体系に移行し、それに対応した教科書も『新民法講義』全5巻(有斐閣)として94年に完成した。法的な常識を備えた市民として多くの学生を教育する上で、民法学はどのような課題を担い、何をどの程度教育する必要があるのか、その方法はいかにあるべきなのか── 本来であればどの大学のどの民法科目教員でも直面するはずのこの課題に対して、正面から取り組んで一つの回答を示したのは立命館大学法学部の民法部門の教員集団であり、その指導に当たられたのが乾先生であった。この大胆な先駆的試みは、民法部門の教員各人の努力があったことは当然であるが、何よりも、乾先生の優れた構想力と教育経験、研究オーガナイザーとしての有能さがあって初めて可能となったものである。

 

 大学と法学部には、この間、まさに激動としか言いようのない荒波が押し寄せている。社会的にも注視される中、いよいよ本年4月には法科大学院制度が発足するはこびとなっている。日本社会の成熟と複雑化、急激な国際化やボーダレス化の中で、確実に増大するはずの「法的需要」に応えることを目的とする法曹養成制度の大改革であるが、そこでは同時に、わが国の法学部教育の存在意義と形態とを問い直すことをも要求されている。この歴史的な転換点に立ち会うこととなったわれわれは、この機会に十分な検討を重ね、必要な制度改革を実施し、今後において豊かな人間性、幅広い教養と多面的な専門知識をそなえた有為の人材を多数、立命館大学法学部と法科大学院から社会に送り出していくために、最大限の力を尽くしたい。この時期に、親しく乾先生のご意見を伺えないことは、まことに残念であり、さびしいかぎりである。

 

末尾となったが、この乾先生を追悼する論文集に多数の方々がご労作をお寄せいただいたことに、深甚なる感謝の意を表したい。

 

 2004113

        立命館大学法学会会長

上田   寬    

 


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