ロンブローゾとトルストイ


 一八九七年の八月、折からの炎暑の中をツーラの街にたどり着いた外国人を地元の警察が逮捕した。外国人の名はチェザレ・ロンブローゾ、彼の申し立てでは、ヤースナヤ・パリャーナのトルストイ伯爵邸を訪問してモスクワに帰る途中であった。疑いがはれるまで、短期間ではあったが、彼はロシアの留置場を体験する機会に恵まれた。

 イタリアの精神科医であるロンブローゾの名は、犯罪人類学の創始者としてよく知られている。彼の主張するところでは、犯罪者は生まれつき特殊な人間類型であって、野蛮な原始時代の人間形質を隔世遺伝により受け継いだ人々である。そのような類型に属するかどうかは、頭蓋骨の左右不均衡、削り取られたような前額、突き出した上顎下部、眉弓の顕著な発達などに示される身体的な特異性と、道徳感情の欠如や衝動性、残忍性、痛覚の鈍磨といった精神的な特徴によって、判定可能だとされた。一九世紀末のヨーロッパ諸国は激増する犯罪に悩んでおり、「科学的」な犯罪原因論としてロンブローゾの考えは期待をもって迎えられ、彼は一躍全ヨーロッパの有名人となっていた。
 モスクワで開かれた医師の国際会議に出席したロンブローゾがどのような理由で文豪トルストイに会おうと思い立ったのかは、わからない。あるいは、このキリスト教人道主義に凝り固まった老人を教化しようと考えたのであろうか。当時すでに『復活』を執筆中であったトルストイは彼を迎え、その滞在中の数日、彼と激しく論争した。
 ここでトルストイの刑法思想を詳しくたどる余裕はないが、彼が犯罪者を、絶えざる虐待と誘惑の下に放置され、愚鈍化された人たち、むしろ社会の犠牲者と見ていたことは明らかである。結局、我慢できなくなったトルストイはロンブローゾを屋敷から追い出した。

 犯罪は今日も重大な社会的関心の対象である。凶悪犯罪が起きる度に社会は衝撃を受け、異常な残忍さや理解できぬ動機に、多くの人が、なぜこんなことができるのか、犯人はいったいどのような人間なのかという思いにとらわれることは当然である。そのような中で、近年、犯罪者、とくに凶悪な犯罪を実行した少年の脳に対する関心が高まっている。その形状の異状や「攻撃関与物質」の分泌が犯罪の「原因」として指摘される。
 私はそのような研究をすべて否定するものではない。それによって、犯罪と犯罪者への正しい認識を助け、治療と教育、予防に役立つ何らかの発見があるかも知れない。しかし、わかりやすい原因論に飛びつき、すでに犯罪者と決まった人に普通とは違う身体と精神の異常を見つけて安心していることの危険も、同時に確認しておくべきだと思うのである。
 犯罪原因についての素朴な議論を聞くとき、決まって思い起こすのが冒頭のロンブローゾのエピソードである。彼が生まれつきの犯罪者に固有としてあげた骨格や容貌の特徴は、時に同時代の名士たちにそのまま当てはまった。不幸なことに、ツーラの警察が彼を逮捕したのも、当時ロシア南部の都市を荒らしていたイタリア人詐欺師の手配書に彼とそっくりな人相書きが付けられていたためであった。

[京都新聞 2001418日朝刊]


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