『犯罪と刑罰』中山先生追悼特集号

 中山研一 先生 追想

                                                   上田      

 

中山研一先生は昨2011731日逝去された。刑事法の研究と教育,著述に,そしてまた学界と社会の多分野において,長年にわたり光彩を放たれ続けた中山先生は,その営みを通じて多くのものをわれわれに残しつつ,この日その84年の生涯を閉じられたのである。

その日からすでに6カ月が過ぎた。われわれ,先生に教えを受け,またさまざまに関わりをもった多くの者も,先生の急なご逝去による衝撃をいまだに整理しきれず,事あるごとに先生の不在を惜しまざるをえない日々が続いている。

 

このたび,その発足以来中山先生が精力的に指導に当たられた刑法読書会が機関誌『犯罪と刑罰』において先生の追悼特集号を発行するにあたって,私には先生への追悼文を取りまとめるよう依頼があった。私はすでに先生のご葬儀の際に弔辞を述べ,求められて京都大学有信会誌に鈴木茂嗣教授とともに追悼文を寄せ,また25日に開催された「中山研一先生を偲ぶ会」にあわせて刊行された追悼文集『定刻主義者逝く 中山研一先生を偲ぶ ─』にも追想の一文を掲載している。すでに多くの読者の耳目に触れたであろうそれらの文章と一部に重複があるかも知れぬことを予めお断りしつつ,また,先生のさまざまなご業績については本特集の他の執筆者の紹介にお任せして,以下では公式的な追悼文というよりは私的な,在りし日の先生のお姿を偲ぶ追想を記すこととしたい。

I

 中山先生は滋賀県伊香郡余呉村(現・長浜市)において192719日出生された。お父上の仕事との関係で幼少時を過ごされた大阪市北区の上福島尋常高等小学校に入学されたが,間もなく余呉村に帰られて余呉尋常高等小学校に転校,その後は県立虎姫中学校,清水高等商船学校および旧制静岡高等学校を経て,1949年,京都大学法学部(旧制)に入学,病気による休学期間があったため1953年の卒業となられたが,卒業後に大学院研究奨学生を経て558月に法学部助手となられ,それ以来27年間,京都大学法学部において研究と教育に多大の貢献を重ねられた。1982年,大阪市立大学法学部教授に転じられ,同大学を定年退官された後,北陸大学法学部の創設にあたり1990年から98年まで,同学部教授として教育に情熱を傾注された。

学生時代の先生は,当初には弁護士になるなどの志望もあったが,結核のため1年間休学したことや学生運動への関与,そして何よりも解釈論を中心とする法律学科目になじめなかったことから,これを放棄して,むしろ基礎法や政治学関連の科目を中心に受講したとうかがったことがある。しかし,瀧川先生の刑法の講義には強く惹かれ,また宮内先生の「刑事学」は興味を持って講義を聴いたとのことで,ゼミも瀧川先生の最後のゼミに所属することになった── このあたりの経過については,先生ご自身が『定刻主義者の歩み』の中で述べておられる。

先生が大学教員を目指されることとなったきっかけは,大学卒業に際して就職しようとした企業から結核の病歴を理由に採用を断られ進路に窮したため,意を決してゼミの指導教授である瀧川幸辰先生に相談に行ったところ,その場で事務室に連絡して取り寄せた成績を見た滝川先生が,機嫌よく,研究奨学生として大学院に残るよう勧めてくれたことだったと話されていた。後の中山先生の教育と研究の両面でのご活躍を思うとき,このときの瀧川先生のご判断には先見の明があったと言わなくてはならない。

19558月に研究助手に,翌195611月には助教授となられたが,当時瀧川先生は総長職にあり,法学部の刑事法関係教員は平場安治先生,宮内裕先生,木村静子先生の3名であったところへ,中山先生が加わられたわけである。

当時の京都大学法学部では助手にはもちろん授業負担はなく,助教授も当初は外国書購読などの小規模科目に限って担当していた。刑事法関係の講義としては,刑法総論・各論,刑事訴訟法,刑事学の各科目は前記の3先生がもっぱら担当されており,中山先生は数年後に講義を担当されるようになった後も,外国書購読および「ソビエト法」を担当されるのみで,刑法関係科目の講義については,立命館大学をはじめとする関西の各大学で非常勤講師として担当されるだけであった。

II

1990年代の世界情勢の変動を背景として,今日では姿を消してしまったが,それ以前のわが国では,国公私立を問わず多くの大学法学部でソビエト法あるいは社会主義法の科目が開設されていた。それなりに学生の関心も高かったが,講義を担当できる教員は必ずしも多くなく,中山先生は京都大学で教壇に立たれる以外にも,関西大学はじめ多くの大学で非常勤講師を勤められた。講義の内容は,もちろんソビエト法一般の歴史と現状に関する問題をカバーするものであったが,やはり,刑法関係に重点がおかれたようである。(私は1968年度に先生の「ソビエト法」の講義を受講したが,パシュカーニスの「法の一般理論とマルクス主義」の話しか覚えていない。もちろん,受講する側の能力と態度とに問題があったのであろうが,先生の講義も,いささか平板な印象のものだったと記憶する。) 

それに引き比べ,宮内裕先生の留学先での急死(19682月)という事態をうけて,中山先生が1969年度から担当された「刑法各論」の講義は,圧倒的な評判を獲得し,当時の法経7番教室は座席が足りず,通路に座り込んで授業を聴く学生もいたほどであった。

まだ刑法関係の講義を担当される前から,その旺盛な研究活動や著作・発言を通じて,先生が気鋭の刑法学者であることは学生の間でもよく知られており,たとえば予備ゼミ(学生の自主的な企画に応じて3回生前期に開設された非正規の演習)の担当を先生にお願いしたいという学生はかなり存在した。(私自身,法学部自治会の呼びかけで68年度の予備ゼミの準備委員であったので,この点はよく記憶している。ついでに書きとめておくと,この準備委員会ではドイツ留学中の宮内先生にも予備ゼミの担当をお願いする手紙を送り,ご快諾を得ていたのだが,先生はお帰りになることなくケルンに客死されたのだった)。

III

研究者・教員となられて以来の先生の公表された研究業績は、ほとんど信じられぬ程多数であり、かつ多岐にわたっている。それら研究業績については,別の論者によって本誌においても詳しく述べられるであろうから,ここではその内容に立ち入らないが,大学院から助手の時期にかけての中心的な研究テーマであった「刑事責任と意思自由論」,博士論文となった「因果関係論」など,歴史的な理論分析を踏まえての重厚な研究は,学界において注目され,広い範囲に多大の影響を与えたことは指摘できよう。それ以降,固有の刑法理論に関わる諸問題だけでなく,「治安と刑法」,「刑法改正問題」,「医事刑法」,「性と刑法」,「脳死・臓器移植問題」,「わが国の刑法学説史」など,広い範囲で論文,評釈,翻訳・紹介などを発表され,それらは年によると合わせて30数本にも上った。

先生は生前,牧野英一先生の著述が極めて多数に上ることを話題にされ,それらが牧野先生の身の丈に達したことに比べ,ご自分の場合にはそれに及ばないだろうと謙遜しておいでだったが,当時との学術書の体裁などの違いもあり,文字数などを比べればむしろ中山先生の方が多作だったのではないだろうか。1982年・84年の『刑法総論』・『刑法各論』をはじめとして,先生の残された著述は学界の貴重な財産として今後に伝えられていくであろう。

先生の研究の大きな特色は,とくにその前半期において,刑法の基本問題を考える際にソビエト刑法との比較という視座を提示されたことである── もちろんその一つの背景としては,法学部学生時代に宮内裕先生と一緒に読み始めたソビエトの刑法教科書を,病気で休学された1年間に自力で翻訳されたというような経緯もあり,また当時の京都大学法学部の刑法講座の構成や学部がめざす講座増設の一つとして予定された「ソビエト法」講座の担当者として中山先生を措いて他になかった(事実,68年に法学部教授となった中山先生は,正式に「ソビエト法講座担当」を命じられている)こと,などの事情があったのではあるが。先生は「ソビエト法」科目の講義のために,かの国の裁判制度や家族法理論を含め,相当の資料を集め,研究されたが,刊行された『ソビエト法概説』は刑法部分だけにとどまった。(今思い出したが,いつだったか,大学院生の私に先生は,「ソビエト刑法は自分がある程度のことをやったから,君はソビエト民法の研究に転換しないか」と,真顔でおっしゃったことがある。全く意外なお話に私は,その分野に関心はなく,到底ものになるような研究はできないと思う旨,私も真顔で,お答えしたことであった。どういうおつもりなのか,私には刑法を学ぶ資質がないということなのか,それとも,とその後しばらく思い悩んだものだった。) もちろん,単に講座を担当する者として関係科目の講義に備えなくてはならないからではなく,より大きな基本的な動機は,やはり,ソビエト刑法が携えている刑法理論上の可能性に注目されたことにあった。啓蒙期に登場した近代的刑法原則が市民革命と資本主義経済の発展を背景に自由主義的な刑法理論へと収斂すると同時に,徐々に保守化しはじめ,やがては国家独占資本主義下での主観化と規範主義化の過程をたどっていると捉え,そのような「ブルジョア刑法」に対する対抗原理としての可能性を,ソビエト刑法の中に求められたのである。詳しくは上野教授の論述を参照されたいが,中山先生が『法学論叢』に12回にわたって連載された文献紹介「ブルジョア刑法および刑法学批判」は,そこに紹介されている資料の多様な内容においてのみならず,先生の研究の経過をたどる上でも貴重である。

IV

 ところで中山先生は,佐伯先生の発案になり,平場先生,宮内先生をはじめ関西一円の大学教員と大学院生が参加する研究組織「刑法読書会」の発足時からのメンバーであり,毎月の例会に欠かさず参加され,ここを舞台に多数の大学院生と若手の教員を指導し援助された。この点についても井戸田先生の文章に詳細を譲るが,ここでとくに指摘しておきたいのは,刑法読書会,刑事判例研究会など多数の研究組織の活動を通じて,中山先生が関西の刑法学の発展に大きく寄与された事実である。

関西の刑事法研究者・教員の多くが,刑法読書会における外国文献の紹介という形で最初の研究報告を経験し,その後の研究会や刑法学会関西部会での報告の機会を得るたびに,その場で中山先生からの質疑・コメントと励ましを受けたという経験を共有している。そして一定の研究成果がまとまったとにはその公表について援助し,ご自身の出版社・成文堂との太いパイプを生かして,モノグラフィーの出版についても仲介の労をとられた。

また,その性格は少し異なるけれども,大学と出版社の東京集中のあおりで,ややもすればその重要さが忘れられかねない,関西在住研究者の研究業績の出版にも多大の努力をなされた。たとえば佐伯千仭先生の『共犯理論の源流』(成文堂・1987年)*[1]や竹田直平先生の『刑法と近代法秩序』(成文堂・1988年)の刊行によってわが国の刑法学全体に大きなインパクトを与え,また関西刑法学の豊かさを学界に知らしめたことを指摘できよう。

中山先生はその時々の課題に対応して,大学内外の研究会などに積極的に参加され,その事務局を引き受けられることも多かった。60年安保の頃の京都大学教官研究集会への積極的な参加については『定刻主義者の歩み』でも触れておられるが,それ以外にも民科法律部会関西支部,青年法律家協会京都支部などで着実な仕事をなされた。

V

私は1967年,法学部2回生の頃,偶然の機会に高等学校の先輩である真鍋俊二さん(関西大学教授・国際政治学)に誘われて法経館北側の赤レンガ棟にあった先生の研究室を訪問して以来,そして先生が担当されたゼミの第一期生となって以来,お近くでご指導いただく幸運を得た。そのおかげで,大学以外での先生のお姿にも触れる機会が多くあった。

当時すでに先生は,熊野神社近くの京大職員宿舎を出て,長岡京市梅ヶ丘にお住まいだったが,お宅にお邪魔すると,美しく淑やかな直子奥様が迎えてくださり,活発な小学生だった一郎君と葉子さんを加えて,田舎から出てきたばかりの私などには,眩しいようなご家庭だった。庭に建てたプレハブを書庫代わりにしておられ,そこから古い抜き刷り類を探し出して下さったことを思い出す。書斎の机の上はいつも開いた書物とノート,原稿用紙が置かれていた。先生はクラシック音楽を聴きながら仕事をするのだとおっしゃり,ご自宅には特別に契約されて有線放送を引き込んでおられた。

先に述べたように,1968年教授に昇任された中山先生は,この年の後期に初めて刑事法の演習を担当されたのだが,先生のゼミを選択したのは4名,その年の前半に「予備ゼミ」でお世話になっていた上田以外では,関口君だけが3回生で,喜多島・中川両君は留年のため1年遅れて演習を履修する学生で,ほとんどなじみがなく,またゼミへの出席もいま一つだった。当時既に大学院に合格していた浅田さんと内田さんがオブザーバーとして参加していた。このなんともぜいたくな環境で,刑法学会編の『刑法演習』を教材に,毎回のゼミはまさに充実した勉強の場だった(はずである── 少し難しい議論になると応答は浅田さんと内田さんに任せて,われわれはそれを拝聴することが多かったし,そもそも,段々に騒然としてくる学内の情勢の下で,私も関口君も自治会活動その他に忙しかった。この年度の終わりに近い691月には京大本部キャンパスの「バリケード封鎖」と学生部封鎖の解除があり,いわゆる「京大紛争」の一つのヤマ場を迎える)。40年余を隔てた今日,切に思うことは,許されることなら今からでもあの場に取って返し,もう一度,刑法の基本問題について先生のお教えを受けたいということである。

私は,学園紛争のあおりで法学部学生として学ぶべきことをほとんど学べなかったとの未達成感が強く,刑法を専攻として大学院に進むこととしたのだったが,1970年の4月早々,大学院入学を控えて研究室へご挨拶に伺うと,中山先生からは一般的な研究生活上の注意を受けるとともに,毎月の刑法読書会例会に出席するよう指示された。翌月から,市電農学部前の泉ハウスで開かれる刑法読書会の月例会に出席することとしたが,その席で私の自己紹介を聴いていた井戸田先生が隣の中山先生を「あんたにも子分が出来たな」とからかわれたことを覚えている。

大学院でのスクーリングは,もちろん平場先生の「刑法」を須之内,立石,山中といった同期の院生達と一緒に受講したが,中山先生の「ソビエト法」は,受講生が私だけだったことでもあり,一方的な授業よりもこれを読んで翻訳しようという先生の提案で,チヒクヴァーゼ編の『カール・マルクス 国家と法』をとりあげ,交互に1章ずつを翻訳して報告・議論した。これは結局翌1971年に成文堂から「翻訳叢書」の1冊として公刊された。この作業は,もちろん修士課程1回生の私には大変な力仕事だったのだろうが,今となっては楽しい思い出ばかりが残っている。翻訳についての打合せが終わると百万遍の喫茶店”ランブル”でお昼ごはんをおごっていただき,作業の遅れが目立つと,お互いに都合のよい休日などに先生の研究室で作業をした──奥さんが作ってくれたお弁当は私の分もあり,先生は鞄から小さなラジオを取り出してアンテナを伸ばしFM放送に周波数を合わされた。音楽を聴きながらだと仕事がはかどる,とおっしゃって。この翻訳書は,「やはり大学院修士課程学生を共訳者にすることは.... 」と,タイトルに私の名前は出なかったが,はしがきにはちゃんと書いていただいたし,翻訳料の半分をいただいてキャノンの一眼レフを買ったことで,私は十分に満足していた。

修士論文のテーマとしてロシア共和国22年刑法典を採り上げ,1917年の革命により誕生したソビエト・ロシアが急激な法の廃絶という幻想から覚めて新しい刑法典の制定に至る過程を「法典化」に視点をすえて検討することとしたのだが,先生はそのような課題設定にも重点の置き方にも,あまり賛成ではなかった。もっと新しい時期の,実証的なテーマを採り上げるべきだと考えておられたようだったが,私の熱中にあえて異を唱えることはされなかった。途中で何度か進捗状況を報告・説明し,最終的には修士課程二回生の終わりに近い冬休みに入る前に修士論文の草稿をお預けした。翌72年正月にお年始に伺った際に,細かく用語法に至るまで,随所に鉛筆で訂正とコメントが入った草稿を返していただいたが,重要な問題点の指摘は無く,ほっとしたことだった。

72 年の春,私は博士課程へと進んだのだが,その頃の一瞬の平穏さを懐かしく思い出す。修士論文をもとに法学論叢に公表するための論文の準備を進める一方で,成文堂から二冊目の翻訳書として出すべく『Ф・エンゲルス国家と法』の作業に取り掛かり,また中村浩爾さんの後を引き受けて法学研究科の院生協議会の議長になり,新しい助手制度の構想について検討を始めた。中山先生の刑法のスクーリングは泉ハウスで行なわれ,注目される国内の研究者の研究業績を批判的に検討する内容だったが,われわれの目的はむしろその後にあった──週のその日になると,10時過ぎからのスクーリングの後の昼食会が楽しみだったことだ。2百円ほどの会費で,「ハウスキーパー」などという時代錯誤的な呼び方をされたアルバイトの女子学生(浅田夫人はもう「卒業」されていたが,後の内田夫人,渡辺夫人なども居た)が作ってくれたカレーとかサラダなどが,泉ハウスではことさらに美味しかった。法経館4階の院生共同研究室では,常連の山岸さん,李さん,須之内君等と机を並べ,勉強に談笑に,毎日多くの時間をそこで過ごした。

VI

具体的に何時からだったのか,きちんとした記録が手許にないのだが,73年度が焦点であったことは間違いない──いわゆる「中山問題」が先生の京大法学部での教員生活に大きな障害物を持ちこみ,結果的にそれを中断するのやむなきに至らしめたのだ。もう多くの人々の記憶も薄れたかもしれないが,今から振り返ってみて,単に中山先生の進退にだけでなく,その後に起きた多くの変化の,これが起点だったということは明らかだろう。

事の端緒は,その前年の総選挙に際して社会党京都府連から京大教職員組合に申し入れのあった「協力・共同のお願い」(推薦依頼状)にあった。当時の社会党京都府連委員長は坪野米男弁護士で,その坪野弁護士の事務所が69年の教養部封鎖の際に湯山助手などに対する監禁傷害を行なった全共闘学生の弁護を受任していたという背景事情があった。湯山助手は積極的な組合員であり,当然,組合は裁判において厳しく全共闘に属する学生達を批判していた。そこへ舞い込んだ「協力・共同のお願い」文書に坪野米男弁護士の名前を見つけた組合員たちが,「この際,大学の自治を破壊し,組合員に暴力をふるった学生達の弁護を止めるつもりはないか」との文書を坪野事務所に送りつけたのだ。文書は京大教職組委員長・中山研一の名義となっていた。

弁護団からこの話を聞きつけた(焚きつけられた?)京大全共闘──その力は一時期ほどではなかったが,決して侮れなかった──が,「刑法学者中山研一による弁護権否定」事件を騒ぎ立て,先生への個人攻撃のビラとアジテーション,そして講義妨害,ボール紙の三角帽をかぶせての引き回しにまで進んだ。もちろん,同学会(京大全学自治会)も法学部自治会も院生協議会も,私個人も,そのような策動を阻止しようと手をつくしたのだが,力が及ばなかった。大体,大学内でむき出しの暴力を前面に,わがもの顔に狼藉をつくす学生集団など,どうやって押し止めることができるだろうか。自治会名で非難声明を出し,自治委員会・学生大会で決議を上げることはできても。情けなかったのは法学部教授会の対応だった── あまり具体的に書くことはしたくないが。

法経4番教室で授業が始まり,しばらくすると調子を取ったピッピッという笛の音が聞こえ,ヘルメット・角材(ゲバ棒)の集団がなだれ込み,先生からマイクを奪い,アジ演説を始め,抗議する学生には殴りかかるということが繰り返され,結局,この年の刑法各論は途中閉講となってしまった。

このような経過を通じて私の知った中山先生の一面は,その柔らかな外貌とはおよそ違った芯の強さ,男らしさだ。

かなり後になって先生からうかがった事実で裏付けられたのだが,先生はそのような質問状の送付には反対で,必ず問題となるとして取りやめるよう主張された。だが,当時の多くの組合員にしてみれば仲間の湯山助手への蛮行に対する憤りが強く,被害者としての報復的な思いもあって,結果的にあのようなことになったのだ。

だが,先生はご自身への攻撃が続く中でも,そのような内部事情については一切口にされなかった。暴力学生に謝罪しろとマイクを突き付けられても,黙って相手を見つめ,毅然とした姿勢を崩されなかった。同様に,組合に対しても,教授会に対してさえも,批判的なことは何もおっしゃらなかった。ただ黙って耐えておいでだった。そんなことに惑わされるよりは,と旺盛な研究活動を続け──刑法改正問題がヤマ場に差しかかった時期だった──,院生の研究活動を指導し,後述するテープ授業のために工夫されたレジュメを作られていた。

こう書きながらも,私にはこみ上げてくるものがある。あの当時,教授会の席上で,通勤の阪急電車の中で,あるいは書斎の机に向かわれて,ひとり先生は何を想われていたのだろうか,と。

この,胸の詰まるようなエピソードにも,思わぬ副産物があった── 先に紹介したとおり,中山先生の刑法各論の講義は法学部の学生の間で伝説的な名講義となっており,妨害によって授業が正常に開かれないのなら録音テープによってでも中山先生の講義を聞きたいという要望が起こってきたのである。法学部自治会の仲介で数人の世話人が組織され,彼ら代表学生に学外で行なわれた講義のテープを毎回多数複製して,学生達があちらこちらでこれを聞くという自主的な取り組みが行なわれた。そのようなテープがあるということを知った出版社・成文堂が,これを活字に起こして『口述・刑法各論』として出版したのである。この企画は圧倒的な支持を得て,中山刑法学の真価を広く全国に知らしめた。その後,『口述』シリーズは他の先生方,他の法分野にも広がっていったことは多くの人の知るところである。

VII

この年の刑法各論の講義を閉講としただけで事態が沈静化するとは考えなかったらしく,法学部は翌1974年度からのポーランドにおける在外研究を中山先生に認め,先生は奥様とともにワルシャワに向かわれた。葉子さんはこの機会にスイスの寄宿学校に入学され,一郎君は奥様のお母様と共に長岡京市梅ヶ丘で留守を守られた。先生が折にふれてお話しされたように,この23ヶ月に及ぶワルシャワを拠点としての在外研究は充実した,豊かな内容のもので,そこで得られた研究上の成果も多方面に及んだ。また,ポーランドだけでなく,東欧諸国,ドイツなどに研究上の人脈を広げられたことも収穫であった,と述懐されていた。

この間のことについて,先生は雑誌『法学セミナー』に定期的に「ポーランド便り」を書いておられたが,これはその後に『ポーランドの法と社会 ─東ヨーロッパ法の実態研究─ 』(1978年・成文堂)にまとめられた。また当然のように,ポーランドからわが国の法律雑誌に継続的に論稿を寄せられ,『口述刑法各論』(1975年・成文堂)の刊行も,続いて『口述刑法総論』(1977年・成文堂)の刊行準備も,この時期のお仕事である。

私は,結婚したばかりの妻をともなって,1974年の秋にワルシャワの先生をお訪ねしたことがある。ホテルに迎えに来ていただいた中山先生の英語の見事さに驚いたこと,奥様に案内していただいたワジンキ公園の見事なマロニエの落葉,お二人のお住まいの優雅な落ち着きぶり,居間の壁に長くツタを這わされていたことなど,断片的に思い出す光景のどれもが懐かしいことだ。

VIII

40年余の期間を通じて,私が先生のご意思に敢えて異論を申し上げたのはただ一度,先生の京都大学退職についてだけである。

先生の55歳での京都大学退職については,多くの人が,暗黙に,いわゆる「中山問題」との関わりで京都大学法学部に居づらくなったからではないかと推測されているようだが,私は,少し違った印象を持っている。先生にとってやはり重要だったのは,刑法学領域での活躍の場──講義であれ,後継者養成であれ,あるいは学界その他での活躍であれ──であって,京都大学法学部の「ソビエト法」講座担当教授であるということから来る制約が煩わしかったのではないだろうか。だが現に刑法領域でご活躍だったではないか,と言われるかもしれない。確かに刑法学会その他の研究組織で先生はご活躍だったし,研究論文・著書を通じて刑法学者としての令名は高まるばかりであり,ゼミなどを通じて事実上は刑法学上の指導をなされていた。が,それでもやはり,「中山さんはソビエト法の教授なのに,必死に刑法学者に転換を図っているようだ」といった類の批判的・冷笑的な評論は絶えなかった(私自身,そのような言葉を何度も聞いた。)。宮内先生が亡くなられたため,佐伯先生の助言もあって,京大法学部での刑法各論の講義を初めてまかされたとき,授業準備を含めそれに先生は熱を込められたのであるが,受講する学生から期待通りの反響を得たその講義も,一部学生のつまらぬ言いがかりと妨害によって中断せざるをえなくなってしまった。

それ以前から先生は,何かのついでに,ご自身はもう学部長にも,評議員にもなれないだろうとおっしゃられ,京大法学部に居る意味がない,とまで言われることがあった。さほど深刻そうな様子でもなく,しかしそのような趣旨の発言は何度かあった。今から思えば失礼なことに,私にはそれがさほど重要なこととも思われず,聞き流してしまっていたのだが,ただ,行政的な手腕にも優れ,そのことをご自身でもご存じだった先生には,そんなことがこたえるのかと不思議に思ったことを記憶している。ポーランドから帰られてからも,小さな事件ではあるがソビエト法講座の後継人事に失敗されたこともあって,先生には不本意な状態が続いた。1979年頃だったか,立命館大学法学部に赴任していた私の狭い研究室をのぞかれた際にも,京大(法学部)内のあれこれの状況を話され,面白くないことばかり多くてとおっしゃられた。以前にはそんなことは私などに口にされなかったのに,と私は不安なものを予感したことだった。

私は19815月に,日本学術振興会の派遣研究員としてモスクワに赴くこととなったのだが,その出発前に中山先生から,近く京都大学を離れ大阪市立大学に移るかもしれないので,そのつもりで,とうかがった。これは驚くべき話で,到底そのまま聞き流すことはできない。それ自体が先生にとって失礼だからだけでなく,疑いもなく大きな事件として受け取られ,先生ご自身と京都大学法学部,京都大学全体にとって多大の影響が及ぶだろうと考えたからである。それは法学部と京都大学,そこに所属する多くの人々にとって損失であり,また客観的に見て先生ご自身の学問的・社会的な影響力を低減させかねない,と思った。だが,私の言葉を静かに聞いていただきはしたものの,先生のお気持ちはすでに固まっているようだった。当然のことだろう,私に話されるまでに,先生ご自身相当に悩み抜きお考えを決められたのであろうし,多くのしかるべき先生方とも相談された上でのご判断だったのだろうから。私としては,なお一度の慎重な判断をとお願いするばかりだった。

9月,モスクワの私のもとに先生からお手紙をいただいたが,そこには,大阪市立大学への移籍を決断した旨が記されていた。やはりそうか,と暗澹たる気持ちで,しかし私はあらためて再考をお願いする言葉を連ねた返信を送った。送らざるをえなかった。半月も経った頃か,先生からの再度のお手紙をいただいて,私が以後この問題について口をさしはさむのをやめたのは,もちろん,先生の生涯の重大事に私ごときがあれこれの意見を述べることの僭越であることにあらためて思い至ったこともあるが,もう一つ,あるいは私が自身の将来の人事への心配から中山先生の移籍に異議を申し立てているかに誤解されかねない気配を,先生の文面に感じたためだった。心外であり,悲しかったが,それだけ先生のご決意も大変なものだったのだろう,と今は思う。

1982年の3月末に私は在外研究期間を終えて帰国し,445日に中央大学で開催された刑法学会大会で,大阪市立大学法学部教授となられたばかりの中山先生にお会いし,帰国のご挨拶をした。

IX

生前の先生を形容するとき,何よりも印象的なのはその旺盛な執筆である。先生のお話では,当初は鉛筆で原稿を書かれたそうである。時々,芯先の丸くなった鉛筆を削る,そのときに今書き付けた文章を噛み締め,またそれにつながる文章を考える,その間合いが良いのだそうで,その後愛用するようになったボールペンでは,そのような間合いが取れない,とこぼしておられた。万年筆など論外。Bicの透明な軸のボールペンがお気に入りで(「いくらでも書ける,これはいいね」),数本をペン皿に用意して原稿用紙に向かわれていた。大学院生などによく言っておられたのは,外国文献を読んだら,読みっぱなしにするのでなく,その紹介原稿を書くこと,関連する3本以上の論文をきちんと読めば,それをもとに自分の考察を加えて研究論文1篇をまとめることができるはずだ,ということである。先生はそうされたということであろう。

80年代の前半に,関西の刑法学者の中では最も早く,ワープロ機(まだ図体もでかく驚くほど高価だったリコーの機械)を買われ,その後ラップトップ型のオアシス機,そしてパソコンのワープロ・ソフトへと移行されたが,執筆にはますます拍車がかかった。作家でありフランス文学者であった 邦生 を「絶えず書く人」と評した夫人の言葉が伝えられているが,「絶えず書く人」,これはまさに中山先生のことである。その亡くなられた7月にも,『佐伯・小野博士の「日本法理」の研究』(刑法研究 14巻)が刊行され,雑誌『判例時報』には「危険運転致死傷罪」についての研究論文が掲載されている。あらためて,研究者・教育者としての中山先生の最後まで弛まなかった精神が,ここに示されていると言うべきであろう。

先生がインターネット上に,『中山研一の刑法ブログ』というページを開設しておられたことは,かなり知られている。そもそも先生にブログというものについてお教えし,その開設の手筈をとったのは川口浩一君(関西大学教授)で,私はその前にパソコン生活へと先生をご案内し,ブログ開設後はますます活用されるようになったパソコンのメンテナンスについて,先生のお手伝いをした。

このブログを通じて,昔の受講生が連絡してきたり,突然に関東の法科大学院学生の質問が舞い込んだりもした。相当に高齢の刑法学者が開設したものとして記録に残るであろうこのブログに,先生は3日と空けず続けて書きこまれ,デジカメで撮った写真をご自分でアップロードされていた。ここに見られるように, 先生はワープロやコンピュータに何の抵抗もなく,さらりと受け入れ,活用された。このような,新しいものへの関心,知的な好奇心も,先生の若々しい研究活動を支えていた一つの条件だったのだろうと思う。

先生は生来の合理主義者で,戦時下に過ごされた清水高等商船から戦後の静岡高等学校を経て,京都大学に進まれて間もなく結核のために1年間を休学されるなど,かなり厳しい青年時代を経験されたこともあって,酒・煙草についてはもともと嗜まれなかった。当時は学生たちとのコンパの席でも,グラスに形ばかりのビールを注いでご自分の前に置き,あとは正座して学生たちの話を聞いて笑っておられた──そんな状況で先生を笑わせられる学生が居るときには,であるが──し,研究会の後で「懇親会」に行く先生方や大学院生を,「君たち,よく時間があるな」とからかわれたこともあった。

先生を知る多くの人が口を揃えて指摘する先生の「定刻」主義は,ご自身が『定刻主義者の歩み』でも述べておいでのように,清水高等商船時代に叩き込まれた海軍式の「5分前精神」に淵源をもつのであろう。たしかに,刑法読書会の運営などをテキパキと進められたことと併せて,古参メンバーから「甲板士官」とからかわれていた先生であれば,さもありなんと思わせるものがある。だが,それと同時に,私には先生の時間感覚(と管理)における几帳面さには,瀧川先生の影響もあったのではないかとの予想がある。残念ながら,瀧川先生がご自身の生活において「定刻主義者」であったのか否かは存じ上げない。私が知っているのは,中山先生が何度か話された,約束の時間に遅れた学生などに対する瀧川先生の言葉である。瀧川先生は,「人間の生命は限られたものであり,その本質は結局,時間だ,つまり,約束の時刻に30分遅れた君はその分だけ私の生命を奪ったのだ」,と叱責されたという。この,まがうことなき真実の言葉を,瀧川先生のような大学者が一学生を相手として口にされることの当否は別として,それを傍らで聞いた中山先生は強く記憶に刻んだに相違ない。私にも忘れられないエピソードである。

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2006年の4月,全く突然に直子奥様が亡くなった後,先生はお一人で,より正確には,近くの老人施設に入居された奥様のお母様のことを気遣いながら,梅ヶ丘のご自宅で暮らされた。その後,20086月に,大津市鏡浜の高齢者向けマンションに移られ,部屋から琵琶湖を見下ろしながら,変わらず多くのものを読まれ,旺盛に執筆する日々を過ごされた。

昨年5月の連休明けにお宅にお伺いした際,体調がいま一つで,左腰から背中にかけてかなり痛むので,近くの大津赤病院,以前からのかかりつけである京都西京区の桂病院と診察を受けていて,最終的には前立腺がんの再発のおそれがあり,骨アイソトープ検査を受けねばならないと話され,それらの結果は月末に出るとのことであった。だが,先生のブログに書かれていた通り,同月20日頃からは耐え難いほどの激痛となり,大津日赤病院に入院された。心配してお見舞いしたいという私どもの電話に対して,しかし先生は,一段落ついたら6月末には退院して通院に切り替えるのだから,見舞の必要はない,むしろ「来るな」と,強気なことおっしゃっていた。だが実際には,病状はもはや好転することなく,日ごとに進行の度を加えて,ついに731日,転院された大津市民病院の緩和病棟において永眠されたのである。最終的には肺がんによる死亡との診断であった。

 

法学部学生,大学院生,助手,そして立命館大学の教員,と様々に私の立場は変わったが,しかし中山先生は変わることなくわが師であり続けている──お亡くなりになった現在も。

2011年の5月に,最後に,お宅に伺った際に話題になったのは,一つには東日本大震災・津波被害からの復興と,原発・放射能汚染問題の深刻さ,そして琵琶湖を隔てた若狭湾の原発群を廃炉とすることの重要性であった。先生はかねがね,現代日本の生活が過度に便利さを追求しており,総じてエネルギーの無駄遣いがはびこっているとのご主張であったが,昨年3月以降の事態を目の当たりにされて,お言葉にはひときわ厳しさが増した。

もう一点,法科大学院問題については,私の立場を慮ってか,正面からの批判は無かったものの,やはり懐疑的なお立場を崩されなかった。もともと裁判員制度を柱とする「司法改革」そのものに疑いを表明されていたことからすれば,何のための法曹の濫造かというご意見は当然のことだ。法科大学院を持つ各大学が協調して,その入学定員を削減してはどうかともおっしゃったが,私は,わが国の司法の容量はなお拡大されるべきだとの原則論とともに,各大学での問題状況の違いから,一律の定員削減というようなことにはならないだろうとの判断を申し上げた。まあ,今後の成り行きを見よう,と話題を締めくくられたが,それも叶わぬこととなってしまった。

これらいずれの問題についても,その簡単な解決はなく,われわれが今後苦闘の道筋をたどらなくてはならないことは明らかだが,その時々に中山先生のご意見をうかがうことはもうできない。あらためて,残念である。

 



*[1] 中義勝教授および米田泰邦弁護士との共同の作業による。

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