ロシアにおける刑事人類学派の軌跡　　

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はじめに

ロシアにおける犯罪学研究の成立

ネクリュードフとドリーリ，そしてタルノフスカヤ

ロシア刑事人類学派の運命

はじめに

1897年の夏，かのチェザレ・ロンブローゾ（Lombroso, C. 1836-1909）はモスクワで開催された第12回世界医師大会への招待を受けてロシアを訪れた。ボリショイ劇場での大会の席上において報告に立った彼は，その作品の中で「初めて美学を科学的な知識と固く結びつけた」作家の一人としてレフ・トルストイの名を挙げて賞賛した上で，その後直接にトルストイの在所であるヤースナヤ・ポリャーナへと向かった。当時の新聞記事が伝えるように，この訪問においてトルストイはロンブローゾに，打ち解けることの難しい態度を崩さず，多くの点について議論することができないままに，ただ「著名な作家の農村生活を見て，芸術と生活のいくつかの事項について少し話ができた」ことに満足して，ロンブローゾはヤースナヤ・ポリャーナを立ち去った[1]) 。

このエピソードは，トルストイとロンブローゾとの対座という意表をつく情景をわれわれに提供し，当時既に人類学的な犯罪学説によって世界的に注目を集めていたロンブローゾが，何を目的としてモスクワから南に200キロも離れた文豪トルストイの領地を訪問したのか，そこで何が話し合われたのかという疑問がわくばかりでなく，むしろそれ以前に，帝政末期のロシアにおいてロンブローゾの犯罪学理論がどのように紹介され，影響力を持っていたのか，また犯罪学全般の状況はどのようなものであったかという興味関心を刺激せずにはおかない。筆者自身，以前モスクワ滞在中に目にしたタブロイド紙の記事の記憶をたよりとして，このテーマに直接関わった『トルストイとロンブローゾ』と題した短い文章を公表したことがある[2]) が，その様な事実の詳細も背景事情も明らかにすることができないまま，今日までこの問題にこだわりを覚え続けてきた。だが，比較的近年に至って，新たに参照することを得たいくつかの資料，とりわけロシアの大学図書館やgoogle，amazonなどの企業が無料で，あるいはきわめて廉価でインターネット上に提供してくれている多数の文献を参照することができ，やっと，この長年抱えてきたテーマに向き合えることとなった[3])。

率直に言って，ロシアにおける犯罪学研究の歴史にわが国の研究者が目を留めることなど，むしろ例外的であろう。しかし，1917年のロシア革命後に西ヨーロッパの注目を集めたソビエト犯罪学の展開にしたところで，突如としてかの地に出現したものでなく，それに先行するいくつかの基盤の形成があったことは当然とされなくてはならない。そして，一度そこに足を踏み入れると同時に，そこには既に犯罪学の基本問題についての理論対抗が見られ，今日につながる多くの示唆が得られることに気づくのである。筆者はこれまで，主要には1920年代以降のソビエト犯罪学の基本問題を対象としてきたが，ここに遅ればせながらも帝政末期のロシアにおける犯罪学研究の一端に取りつくことによって，「犯罪学はどのような科学であり，どこに向かうのか」という筆者の基本テーマに関する研究の一環としたい。

想えば浅田和茂さんとは， 1968年の秋，当時筆者の所属した京都大学法学部の中山研一先生のゼミに，既に大学院進学が決まっておられた浅田さんが顔を出された時から，すでに47年の歳月を経て今日なお先輩・同僚として厚誼をいただき，多くの局面において学問的な刺激をいただき続けている。そのことに感謝しつつ，このたびの古稀を祝賀する論文集に本稿を寄せることとしたい。

ロシアにおける犯罪学研究の成立

帝政ロシアにおける犯罪学的な研究は，多くの社会科学分野がそうであったように，19世紀の前半を通じたナポレオンのロシア侵攻，ロシア・トルコ戦争，クリミア戦争などでその後進性を露呈したロシア国家の改革をめざす全社会的な動き，農奴制の廃止，科学技術の導入による工業化，政治諸制度の近代化，司法制度改革などの施策の推進といった状況を背景に，開始され，活発化した。その中で，経験的な犯罪学研究の最初の試みとしては，1823年のアカデミー会員ゲルマン（Герман, К.Ф. 1767-1838) の犯罪統計についての研究[4]) が挙げられることが普通である。ゲルマンは統計学者であったが，犯罪学研究はその後むしろ刑法学の枠を広げる試みとして，19世紀後半，主としてドゥホフスコイ（Духовской, М.В. 1849-1903）やフォイニツキー（Фойницкий, И.Я. 1847-1913）といった刑法学者によってその展開が担われることとなった[5])。

当時西ヨーロッパでは，統計に表れた犯罪現象の変動と社会経済的諸要素との相関に注目するゲリー（Guerri，A.M. 1804-1866）やケトレ（Quetelet, L.A.J. 1796-1874）の流れを受けて，社会的な環境要因を重視しようとする犯罪学者達と，ロンブローゾを起点として急激に流行を見た，犯罪者個人の生物学的あるいは人類学な特徴に注目する犯罪学派との対立構造が形成され，とりわけ19世紀末に近づくと，前者に属するタルド（Tarde, J.G. 1843-1904）やラカッサーニュ （Lacassagne, A. 1843-1924)とロンブローゾ派との華々しい論争が繰り広げられ，大きな社会的関心を呼んでいた。それに並行してロシアでも，同様の対立構造が形作られることとなるのであるが，そこにおいて特徴的なのは，ロシアではとくに，犯罪学派の間での対立が往々にして政治的なそれと直結することが珍しくなかった点である。

刑法学からの接近の典型例はモスクワ大学法学部教授であったドゥホフスコイの研究に見ることができる。彼の指摘するとおり，古典的な刑法理論によれば犯罪の唯一の原因は人間の自由な意思にある。しかし，そうであればなぜ，犯罪の各種の統計が示すように，毎年同じような数の犯罪が記録されることになるのか，と彼は問い，「犯罪は偶然の現象ではなく一つの自由な意思の結果なのだが，それ以外に明らかに不変の原因に依存」しており，そのような原因を明らかにできるのは，統計研究および「人間の身体，その生活している諸条件」の研究，そして社会体制の研究を通じてである，と書く。その上で，ロシアの各地方の犯罪数を比較し，犯罪率と死亡率の相関，犯罪と教育との相関などについての統計研究を自ら行い，すでに1872年（ドゥホフスコイは未だ23歳のはずである）の著作で，「劣悪な政治体制，社会倫理の劣悪な状態，社会経済の劣悪な状態および劣悪な教育」こそが犯罪の最も基本的な原因であるとの確信に至っている[6])。その公表後間もなく，当時既に著名であったペテルブルグ大学助教授フォイニツキーの論文「犯罪の分布に対する時候の影響」および「刑法，その対象，その課題」が登場した。その中でフォイニツキーは，「犯罪は，それが自然と社会の諸条件の産物だという限りで，特定の人格の産物である」，と述べ，刑罰は言われるような犯罪予防の手段という意味を持たないことが明らかだと結論する。犯罪との闘争を合理的に進めるためには，刑罰ではなく，人々の生活条件と福祉が発展するような施策こそが必要だ，としたのである[7])。

彼らの主張が，これら論文の公表に前後しての彼らの西ヨーロッパ留学（ドゥホフスコイはハイデルベルグ大学およびハレ大学で学び，フォイニツキーはベルリン大学，ライプチヒ大学などに滞在している）の間に触れた西ヨーロッパの刑法学の動向に触発されてのものであることは確実であるように思われるが，<1> 犯罪統計は，犯罪の原因が犯罪者の人格にだけでなく，社会に根ざしていることを示している，<2> 刑法の古典学派のように，犯罪原因は個人の自由意思だというような立場にとどまることはできない，<3> 刑罰は犯罪との闘争における唯一の手段ではない，<4> そのような闘争の別の手段を探すべきであり，そのためにも真の犯罪原因を解明せねばならない，<5> 刑法学の枠を広げ，それが真の科学としての生きいきとした存在の基礎を獲得するようにせねばならない，といった内容は，ここにロシアにおける刑法の社会学派の成立したことを示すものである[8])。

このような新たな潮流の登場は，農奴制の桎梏から抜け出し近代化を進めようとする社会的雰囲気に適合するものであり，権威的で恣意的な刑事法制と司法の領域に社会問題を直視する風穴を開けるものとして，一般的には，広範な知識人や進歩的な思想家，政治家から歓迎されたと言えよう。しかし，もちろんここには，刑事責任の問題に収斂する周知の矛盾が内包されてもいることを見落としてはならない。当時このことを正面から指摘したのは，著名な刑法学者セルギエフスキー（Сергеевский, Н.Д. 1849-1908 ）である。彼の指摘するとおり，研究によって犯罪現象の背後に貧困や失業，浮浪などの社会矛盾が存することはおそらく明らかとなろうが，そのとき，具体的な犯罪者はむしろそのような社会矛盾の犠牲者として扱い，処罰などの対象ではないとすべきなのか，つまり，「刑法学の枠を広げ」ることは同時に刑法学の基礎を侵蝕することに他ならないのではないか。刑法学の課題は刑事裁判において指針を与え，個別的な犯罪者の行為を法律に一般化された類型へと当てはめ，適用される的確な制裁量を判定することにあるのに対して，社会学的な研究の目的は犯罪をその他多くの社会現象の中に位置づけ，その意義を明らかにすることにあるにすぎない。両者を安易に統合することはできないのだ，というのである[9])。刑法学の立場からは当然の，この鋭い問題提起に対して，しかし，ドゥホフスコイの側からの格別の反論はなく，公然の論争とはならなかった。

ロシアの近代化はアレクサンドル二世による農奴解放令（1861年）に始まるとされることが一般であるが，それ自体がクリミア戦争の敗北により広く自覚されるに至ったロシアの後進性からの脱却という至上命題からの帰結であったと同時に，改革の衝撃もまた逆に改革の内容の期待外れへの憤激も，国内の各層において大きかった。鉄道建設と軍需産業を中心とする国内での工業生産の拡大は，農奴制の解体による農村社会の構造変化にともなう農民層の都市への移動と労働者化をももたらし，フランスを中心とした西欧列強からの資金導入による工業化の強行はロシアにおける資本主義経済の発展と国民の激しい階層分化，都市問題の激化を，したがって左右の社会意識の対立の尖鋭化をも招来した。市民的な自由権の拡大の構想も，近代的な法典編纂や司法改革も，ときに国内の熱狂的な支持を集めつつ，帝室と大貴族の意を受けた勢力の妨害によって竜頭蛇尾に終わることが繰り返されて，ロシア社会は20世紀を迎えるのである。

そのような歴史的諸条件を背景に，この時期の犯罪学研究を概観する時，それが近代化という共通の課題意識の下に，全社会的に推進された近代化と合理主義に導かれた諸改革と社会政策の刑罰制度への波及に対応していたことに気付かされる。伝統的な刑法的諸制度，とりわけ劣悪な条件の下での拘禁刑や時に殉教者的な意識を伴う流刑といった旧来の刑罰の適用のみによっては，深刻化する都市問題と犯罪の増加に対応できず，ここには別途の対応が必要だとする認識が広がったことが知られるのである。政府機関も当初そのような動きに同調していたことは，犯罪学者のヨーロッパの新思潮の紹介や斬新な改革構想の提案が，当時の『司法省雑誌』などを主要な公表の場としていたことにうかがわれる。しかし，帝政末期に至って，犯罪闘争の課題の先鋭化とともに，その研究者の多くが急激な社会改革を主張し，反政府的な立場を明らかにすることによって，この分野における蜜月は終わりを見せることとなる。

だが，そのような結末へ一足飛びに移る前に，いま少し，上に述べたような犯罪学研究の端緒期に続く時期の，ロシアにおける犯罪学の実情をたどっておくこととしよう。

当時の刑法学者の多くがドイツやフランスなどの研究動向から強く影響されたのと同様に，犯罪学の場合も西ヨーロッパにおける犯罪学研究のロシアへの波及という側面が強いことは，上のドゥホフスコイやセルギエフスキーにおけるケトレやゲリーなどの影響からも読み取ることができるが，当時のヨーロッパにおいて一大勢力となっていたロンブローゾ以下のイタリア学派の研究も，多大の関心をもって紹介され，検討されたことは当然である。この，一定の理由のため従来ことさらに無視ないし軽視されることの多かった問題，ロアシアにおける人類学的な犯罪学研究の展開について，以下に検討してみたい。

ネクリュードフとドリーリ，そしてタルノフスカヤ

ロシアにおける犯罪人類学的な潮流に属する研究者としては，法律家としてはネクリュードフ（Н. А. Неклюдов）, ドリーリ（Д. А. Дриль），リハチョーフ（А. П. Лихачев）, そして医師としてはチシ（В. Ф. Чиж）およびタルノフスカヤ（П. Н. Тарновская）などが数え上げられることが普通である。

時間的な順序から言えば，ネクリュードフはむしろロンブローゾの先駆者である。ネクリュードフが犯罪性に対する「個人的要因」の決定的な影響を全面的に強調したのは1865年の著書においてであり，ロンブローゾの『犯罪人』の刊行された1876年に先行すること11年であった。しかし，彼にあっては犯罪者をその精神的・身体的特質において普通の人々と区別するわけでなく，世界共通に基本的な犯罪原因は年齢という要因にある，と主張する点において，一般に理解されている犯罪人類学派とは相当に異なっているといわなくてはならない[10])。

著書『刑事統計試論』の基本的な論点はその副題「さまざまな年齢の人の身体の犯罪との関係での生理学的な意義の統計的研究の試み」によく示されている。この研究でネクリュードフはフランス，イギリス，ベルギーなど多くの外国国家の，犯罪全体ならびに個別的な種類の犯罪と年齢との関係についての統計資料を利用して，ほとんど全ての国において年齢ごとの犯罪分布は同じであり，それはつまりは「年齢があれこれの犯罪者の数が直接に依存している恒常条件だから」である，と主張した。社会的・経済的な条件の意義を一切否定し，唯一意味があるのは年齢であり，それこそが，「肉体的な能力の発達や衰え，知的な能力の発達もしくは衰え，そして社会の成員としての特別の状態」の基礎である，と言うのである[11])。

だが，年齢それ自体が人を，彼が地主であるとか，貧農であるとかあるいは商人とか職人であるとかの社会的な状態と無関係に，犯罪者に変えるなどということはありえない。ネクリュードフ自身もケトレの平均人概念を批判し，社会階層の存在を強調してもいた。19世紀の60年代のロシアには既にマルクス主義的な社会思想が相当に有力化しており，資本の集中肥大と勤労階級の窮乏化を論じ，その立場から犯罪原因についても説明する研究も公表され始めていたのである。著名なナロードニキのトカチョーフ[12])や法学者・作家であるフィリッポフ[13])などの，社会矛盾と貧困に最大の犯罪原因があると説く著作はロシア社会に広く普及していた。ブルジョア自由主義者であったネクリュードフが自分の論敵である彼らの主張を知らなかったはずはない。ここから出てくる結論としては，その頑なな自由主義的信条，後には明確な反動派としての政治的な立場が，ネクリュードフの思考を制約し，犯罪者の財産状況や社会的無権利状態にこだわることの危険性を感じ取り，それらに向き合うことを押しとどめた，と言えるかもしれない[14])。彼はあくまでも，「年齢が一般的で恒常的な，諸国に共通の，犯罪の原因ないしは条件なのであって，それぞれの国の犯罪の数はその法則に従うのである」，と言い切る。したがって，その限りでは，具体的な社会的諸条件は無視され，犯罪者の個人的な特質，とりわけその年齢に犯罪の根源があるということになり，犯罪は人間存在に必然の随伴者として，社会体制には関係なく，つきまとうのである。

しかし実際には，彼の著述は必ずしも一貫しておらず，随所に矛盾が見受けられる。たとえば，フランスの19世紀中葉の犯罪統計をもとに，財産犯，人身犯，政治犯といった種類ごとに犯罪者の年齢別の推移を見る中で，民衆の経済状況もナポレオン三世の一貫しない政策も無視しつつも，ただ「犯罪の外的な条件に作用する，国の刑事政策」が犯罪現象に影響を与えうることは認める。つまり，刑罰による威嚇の効果は認めるのである。また，フランスの犯罪現象とその要因についての分析においてではあるが，貧困や労働不能，浮浪児の救護の貧弱さなどについて述べ，19世紀の50年代の統計では，少年犯罪者の7/10が私生児であり，2/10は乞食か売春婦の子であったとまで書いている。「住むところも親の監督もなく，子供は浮浪児となる。暮らしていく手段が無ければ，彼は乞食か泥棒になる。つまりは，浮浪と極貧こそがフランス帝国の二大厄災なのである」[15])。ここではネクリュードフはまるで社会学派であるかのような顔を見せている。

この研究以降，ネクリュードフは犯罪原因に関する問題に携わることを止めたようであり，その後に刊行した刑法教科書などでは刑罰に関して，とくに政治犯罪者に対する刑罰の強化，「街かどの裁判所」（陪審裁判所への皮肉）の権限の大幅縮小などを主張していた[16])。

だが，当時のロシアにおけるロンブローゾの信奉者として最も著名なのはドリーリ[17])である。その最初の著作の名称自体が，ロンブローゾの代表的著作と同じ「犯罪人」と銘打たれていたことが，ドリーリ自身の当時の志向をよく示していたが，彼を人類学派の主張へと近づけたのは，何よりも刑法における古典学派の教義学的な性格であり，法律学的な図式を組み立てる一方で，犯罪へと追い詰められた生きた人間を忘れている，ということへの不満であったといわれる。ドリーリは，それら不幸な人間に関心を向け，彼らが犯罪を犯した個人的な原因を探ろうとしたが，その際に重要なことは彼が，そのような個人的特質は常に社会的な要因によって規定されると考えていたことである。犯罪の基本的な要因には常に二つのものがある──個人的なものと社会的なものであり，その後者が前者を決定づけるのである，と。生前のみならずその死後も，ソビエト時代になっても，ドリーリをロンブローゾの同調者とする評価は続いてきたが，彼の著作を正確に読めば，またその活動をたどり同時代人の証言などを読むならば，そのような評価は早計ではないかとの疑問も生じる。当時の犯罪学者中の自覚的な社会主義者の潮流に比べれば，ドリーリはたしかに“ブルジョア自由主義者”ではあったが，しかし彼の主張と活動は，帝政末期の激動の時代にあって高い理想と深い人間性をそなえた犯罪学者がいかに生きたかという一つの典型を示すものでもある[18])。

とくに初期の著作においてドリーリは，犯罪の形成について個人的な要因の大きな役割を強調している。「犯罪は個人の病的な不品行を土台に普通に生じ，あるいは医学的な処置によってか，あるいは生活状態の好適な変化によってか，除去される。この病的に不品行な素質はさまざまな欠陥の相続によって伝えられるのである」[19])。このように書いたドリーリは，その2年後にモスクワ大学に提出した学位論文でも，生物学的な犯罪原因を研究したドイツのガル( Franz Josef Gall 1758 –1828)やフランスのブローカ( Pierre Paul Broca　1824–1880 )の系譜を丁寧に検証した上で，その集約点としてのロンブローゾの生来犯罪人論について，「疑いもなく科学の名誉ある地位に属するもの」である，というのは「犯罪の問題を研究室の領分からから引き出し，観察と経験の領域へ移し，犯罪者を現代の自然科学の方法によって研究することを教えた」からであると称えていた。「そのおかげで，犯罪研究は強固な基盤の上に据えられ，心理学，精神医学さらに人類学に基づくことによってこの問題は，恣意的な理論研究の領域から抜け出し，正確な科学的方法を使用して解決可能な問題へと転化した」，と[20])。

ところが，その後ドリーリはその人類学派的な主張を弱め，社会経済的な要因を重視する立場へと転換する。その背景となったのは，おそらくは次のような事情である。

在学中に西欧の実証主義や社会学に惹かれ，大学卒業後に提出した学位論文「少年犯罪者」がその政治的内容に難色を示すモスクワ大学法学部に受理されなかったことが転機となる。この学位論文自体は後にハリコフ大学において受理され，高い評価を得て学位は授与されたが，しかし有力な大学での教員ポストは得られず，大学を離れることを余儀なくされたドリーリは税務監督官や司法省の法律顧問，教育・矯正施設庁の指導者などを歴任しつつ，ペテルブルグの貧困者の住居要求運動などさまざまな社会活動と執筆に携わることとなった。直接に親交のあったリュブリンスキーの回想でも，「ここで彼は，貧困な階級の生活条件，経済状態を間近で知ることとなり，自身の学説において社会的な犯罪要因の役割を格段に拡大することへと導かれた」[21])と的確に指摘されている。

ドリーリは1897年以来の国際刑事学協会ロシア・グループの活動には創設者の一人として積極的に参加し，1900年代初めにはペテルブルグ法律家協会刑事法部会の副議長を勤めながら，さまざまな機会を捉えて「病気，障害と犯罪」，「殺人と殺人者」，「フランスにおけるニューカレドニア流刑」などのテーマで報告に立ち，執行猶予制度の導入を訴え，刑余者に対する労働の機会の提供を求め，また犯罪要因としてのアルコール中毒や住居問題の重要性を指摘した。とりわけ住居問題こそが根底に関わる問題だと指摘し，彼は貧困者とくに少年に対する住居問題での援助を広く世論に訴えた。のみならず，彼は私財をなげうって市の郊外に「港湾労働村」を開設し，いくつかの建物を建設して低廉な家賃での快適な生活の場を提供する試みまで行った。そこには図書館，医療サービス，利用しやすい飲食店も設けられており，問題解決の方向を実地に示唆するものとなっていたとされる[22])。そのような実務活動と並行して，ドリーリは浮浪児や非行少年の救済を目指して，1897年から99年にかけて，14歳までの少年には一切の刑罰を適用せず，教育的な矯正処分に替えること，そのために少年のための特別裁判所を設置することを求め，法律草案を公表している。また売春問題やアルコール中毒の問題にも取り組み，政府に対してさまざまな措置を要求したが，そのようなドリーリの活発な活動は，政府と公式の学会組織からの警戒感と反発を強め，彼は安心のならない「好ましからざる人物」の烙印を押されるにいたった。が，彼は自身のイニシアティヴにより1906年に組織された全ロシア人民大学協会の議長に選出され，その翌年からさまざまな教育施設で刑法の講義を行った。

ドリーリの初期の研究は1881年から2年間の国外研究に基礎を置いており，フランスの精神医学者や人類学者，とりわけグラーツ大学のクラフト＝エビング教授[23])の下での研究が当時の彼を犯罪人類学派に属する研究者として世に知らしめたのであるが，その後も彼は頻繁に外国へと出かけ，当時西欧で盛んであった犯罪者の精神的・肉体的な特徴の研究に触れ，また国際的な学会その他に積極的に参加した。イタリア学派の主催する国際的な大会でも再々にわたり発言し，ガロファロらとの面識もあったことから，彼をロシアにおける代表的な犯罪人類学者であるとする評価が，国際的に，また革命後のソビエト・ロシアでも広がったが，それはこれまでに説明してきたとおり皮相な理解である。実際にも，犯罪人類学国際大会の第1回パリ大会(1889年)では，ドリーリはロンブローゾの犯罪類型論や峻厳な刑罰の要求に対して，仮釈放制度の意義を対置しつつ，反対論を述べたし，1892年のブリュッセル大会では，犯罪人類学派の主流に逆らって，矯正不能な犯罪者が存在するという思考を鋭く批判した。彼はあらゆる過酷な刑罰，死刑および身体刑には反対であり，フランスやロシアの流刑についても，その残酷な実態を描いて，批判的であった。彼の考えでは，監獄こそは「堕落の最高学府」であり，それは強制的な教育と治療の施設へと替えられるべきなのであった[24])。

さらに，「そうではありません，刑罰でも警察の強制手段でも法秩序を打ち立てることはできませんし，そうであってはならないのです．．．　その基礎にあるべきなのは連帯の感情です。大切なのは，今こそ，人々の心からの同意のもとに，“生きよ，そして他の者たちをして生かしめよ”という原則による活動のプログラムがうち立てられることです」，という没政治的な理想主義[25])。当時の帝政ロシアの政治的条件の下では到底受け入れられず，失敗することが予め確定している，彼の精力的な活動とその提案の人道主義的内容に，ドリーリの理想主義的な人格を読み取ることは困難ではない。だが，理解に苦しむのは，そのようなドリーリがなぜ，犯罪者を凶暴な野獣であるかに見なすロンブローゾとその学派に接近したのかということである。この点については，オストロウーモフの指摘するとおり，次の二つの理由が推測される。まず第1に，あまりにも思弁主義的な古典派刑法学の理論に反発して，ドリーリが犯罪についての新しいアプローチを希求していたことであり，そして第2に，彼が若い時期に熱心に学んだ自然科学と医学においてその当時影響力のあった俗流唯物論の思想に惹きつけられたこと，である。ここから，ドリーリは犯罪原因に生物学的な要素を設定せざるをえない。だが同時に，それだけで済ませてしまうこともできない。彼の学位論文の中でも，そのことは次のように述べられていた。

「経験は，もちろん，人は彼を犯罪へと向かわせる精神的・身体的な組織の特徴を祖先から受け継ぎ得たのだ，ということを疑うことを許さない。だが，彼らが罪を犯すとしても，それは周囲の環境，あらゆる生活条件全般に依存しているであろう」[26])。

また，興味深いのは，ドリーリ自身は自分を人類学派にも社会学派にも結びつけず，両派ともに結局は一面的だと批判的に見ていたことである。「統計学者としてケトレが犯罪の問題をとくに社会現象の数的なデータに基づいて研究し，それゆえに多少とも一面的であることは当然である。それに対してロンブローゾが自身の精神科医としての専門の結果として，その主たる関心を犯罪者の精神的・身体的な特徴の研究に振り向けていることも当然である。このきわめて自然な分業が，しかしながら，科学の生体解剖のようなことになってはならない。研究者は必要に応じて多少とも一面的だが，それとは反対に，科学は全面的でなければならない。」[27]) ドリーリの基本的な立場はここに集約的に示されている。

そしてロシアにおける刑事人類学派の代表的な理論家の中にあって，ひときわ異彩を放つのはタルノフスカヤ(Тарновская, Прасковья Николаевна 1848-1910) である。著名な医学者であるタルノフスキー(В. М. Тарновский 1837-1906) の妻である彼女自身も医学者であったが，長くロシア国民保健協会の役員を務め，ロシア民衆の健康を改善する方策についての多くの講演を行い，女性犯罪と売春問題に関する多くの著作を公表したことで知られる。

第4回刑事人類学世界大会（ジュネーヴ・1898年）でタルノフスカヤが行った「女性犯罪について」の報告は，ロンブローゾが「模範的だ」と称賛するほどのものであった。報告において実際のところ彼女が目指したのは，女性犯罪者や売春婦が一般の女性とは解剖学的に異なっていることを，師たるロンブローゾに倣って，統計的に証明することであった。彼女はその研究目的に沿って，140人以上の売春婦，220人以上の女性窃盗犯，そして160人以上の女性殺人犯の統計的・解剖学的調査を行い，多くの相対平均的なデータ（平均身長，体重，上下の顎，頭蓋骨，歯，頬，額の平均サイズなど）を明らかにし，それらを調査によって得られた普通の女性の同種の身体計測データと比較していた[28])。

彼女の研究方向をよく示しているのは，上記の大会よりかなり前，1891年12月に彼女がロシア保健協会の第1部会で行なった「刑事人類学派の新しい研究について」と題した講演である。翌年に公刊された彼女の論文[29])から知ることのできるその内容は，この時期にロンブローゾをはじめイタリアの人類学派の研究者が公表した多数の資料を情熱的に紹介し，両国の地理的な離隔，民族や気候などだけでなく様々な生活条件における差異にもかかわらず，それらが示す結論が彼女自身の研究データ類と合致することから，女性犯罪者ならびに売春婦に関する犯罪人類学的な研究の普遍的な正当性がここに裏付けられている，と主張するものであった。その合致点は具体的には次の通りである。

1）私（タルノフスカヤ）の調査と同様，ロンブローゾらの結論によれば，女性犯罪者の頭骨の大きさは普通の女性のそれに比べ小さい。とくに売春婦の場合に顕著である。女性犯罪者・泥棒の頭周の平均は53.2cmと報告されているが，これは売春婦についての私の調査結果53.16cmに近い。またロンブローゾらは，売春婦の身長・体重が普通の女性より少ないことを観察している。

2）彼らはまた，女性犯罪者ならびに売春婦の初潮年齢についても確認している（女性犯罪者は普通の女性より遅く，売春婦は反対に早い）。

3）女性犯罪者ならびに売春婦における生得の特質の数の調査について，ロンブローゾらと私との間に多くの一致点がある。例えば，女性犯罪者の35％における歯列の異常，異常な額の27％などである。

4）ロンブローゾらと同様に私も，時として同じような生得の特質が個別的には全く普通の人に見られることを認めるが，複数のそれら特質が一人の人に表れることは一時的にのみであり，道徳面での偏りと併せ判断することによって，彼を退化した類型に区分することは可能である。

5）女性犯罪者ならびに売春婦より得られた言語学的なデータから，ロンブローゾらと同様に私も，犯罪活動や売春の始まりにおける病理学的およびアルコールに関わる遺伝の影響が極めて大きいことを認める。そして最後に，

6）ロンブローゾらの，そして私の，成し遂げた最も大きな貢献は，退化した類型は，まだ普通の女性に近い女性犯罪者に比べると，習慣的な売春の方にはるかに強く表れているということを結論付けたことにある。

タルノフスカヤはこのようなロンブローゾらの研究結果との符合に，自身のそれまでの犯罪人類学的研究の正当であったことを再確認し，女性犯罪者と売春婦は「人の特別の種」であり，それは統計学によって証明される，と断言したのである。さらに多くの研究が蓄積されるにしたがって，犯罪人類学的な研究の正しさと必要性が証明され，この科学が自然科学の領域において市民権を得るのみならず，法律学の分野でも実際の適用を見るようになるであろうと述べる。「望むべくは，近い将来において，刑法学と刑罰法典の基礎に犯罪人類学が据えられるべきである。その暁には，威嚇と報復の意識を惹起せざるをえない≪刑罰法典≫という呼び方自体，より人道的で犯罪者にとって公正な≪矯正法典≫に替えられるべきなのである。悪しき意思を処罰するのではなく，弱く病んだ者を矯正すること，これこそが人類の目指すべきものである」，と[30])。

さらにタルノフスカヤは，その3年後に発表した論文において，イタリア学派が指摘した犯罪者における感受性の減退という現象について，彼女が1892年に実施した，女性犯罪者および売春婦について感覚器官の機能を調査する試みについて報告している。彼女はロシアの平均的な地域から，女性殺人犯50人，女性窃盗犯50人，売春婦50人および比較群として普通の女性50人（彼女らは全て農民，平均年齢23歳〜34歳で，ごく少数の例外を除き文盲）を対象として，彼らの視覚，味覚，嗅覚，聴覚，痛覚，腱反射，そして身体的な退化徴候について，それぞれの測定方法を説明した上で，調査の結果得られた数値を一覧表で提示している[31])。そのような調査研究の結論として彼女が要約している諸点，1)視野は女性殺人犯において僅かに狭く，2)味覚は対象者4群とも一様に衰えており，ほとんど差がないが，3)嗅覚および聴覚は女性殺人犯と売春婦において低下しており，4)女性殺人犯は場所感覚も衰えている。意外なことに，5)痛覚は4群の女性に差はなく，6)早期からの飲酒によるアルコール濫用の影響か，売春婦の54％に腱反射の衰えが見られたが，7)女性犯罪者達における嗅覚や聴覚の，また一部は場所感覚の，鈍麻，そして味覚や痛覚の平常であることの原因は，我われにとってまったく不明のままである，には，医学者であるタルノフスカヤの自縄自縛状態での迷走が窺われる。このような方法で，生物学的な犯罪原因論の迷路から抜け出すことはおよそ困難であるということを，しかし彼女は見ようとしない。

だが，論文の最後に，彼女は書く。「かくして，犯罪人類学の課題はますます広がり，犯罪者の全面的で詳細な研究のために，次のようなことが必要となる。1)彼の外的な器官の綿密な研究，2）彼の幼少時，教育，家族，病気など過去の事実，現在の職業，習慣，社会的な生活状態などについての詳細の認識，3)彼を犯罪へと押しやった原因を理解するため，彼の道徳的な全体像を認識すること，そして最後に，4)今日まで重大な空白となっているが，死後の，より詳細かつ精緻な神経中枢の研究，である。」[32]) これはむしろ，犯罪人類学の科学としての断片性と限界性の自認であるようにさえ思われる文章である。

それも，しかしどうやら一時的な混乱でしかなかったようである。その後彼女は，とくに1902年の大著『女性殺人者』[33])において，典型的なロンブローゾ流の研究手法に立ち戻っている。そこでは，160人の女性殺人犯と非犯罪者である農婦158人および知的な女性50人の身体的な特徴，感覚器官の機能，精神面での正常性などが詳細に調査され，多数の犯罪女性に身体的・精神的な側面における正常な類型からの偏倚があると主張されている。たとえば，女性殺人者の66％に頭部の萎縮があり，これは非犯罪者である農婦では10％ほどに過ぎず，知的な女性では2％だけであるとか，とくに重視されている口蓋の萎縮については，女性殺人者の28％に観察されるのに対して，非犯罪者である農婦では11％，知的な女性では1％に見られるに過ぎない。ついでに売春婦216人についての後者の数字は38％にまで達する。それらの結果，刑務所や売春窟の住人達はその民族の違いにも関わらず誰でもよく似ている，などもっぱら統計的な手法による論証が試みられている[34])。

結局，タルノフスカヤは1910年のその死去の日まで，犯罪人類学の立場を崩さなかった。

もう一人の，ロンブローゾの影響を強く受けた精神医学者として，チシ(Чиж, Владимир Фёдорович 1855 -1922 (1924 ?)) の名があげられることが多いが，彼がとくに関心を持ち，研究の対象としたのは現実の犯罪者ではなく，著名な作家たちの生涯やその文学作品であった。チシは優れた心理学および精神医学の研究者であり，またペテルブルグ最大の聖パンテレイモン病院の主任医師として働く一方，ペテルブルグ大学法学部の専任講師として法精神病理学に関する講義を行なったことで知られるが，それと同時に，彼は19世紀の半ばに西ヨーロッパで成立した「病跡学」（英 pathography）[35]^）の立場からプーシキン，ゴーゴリ，ツルゲーネフ，そしてドストエフスキーといったロシアを代表する文学者の家系や日常生活に関する諸資料を分析し，彼らの精神医学的な特徴を明らかにするとともに，彼らの生み出した文学作品の登場人物達にその反映ないし痕跡を見ようとした。そのような方法は，明らかに，チシが1884年から翌年にかけて留学したライプツィヒやパリなどでその存在を知ったロンブローゾの『天才と狂気』（1863年）に倣ったものであり，そのことからも彼をロシアにおける犯罪人類学の系譜に結び付けることには相応の理由があると言えようが，本稿は彼の業績の詳細を論じるに適切な場所ではないと考えられるため，以上の事実の紹介にとどめたい[36]^）。

ロシア刑事人類学派の運命

現代ロシアの代表的な刑法学者であるナウーモフ教授は，「ロシアにおいてはロンブローゾの理論は実際のところ支持者を見出しえなかった」，と断定しつつ，しかし人類学派の研究はさまざまに今日の生物学的な犯罪学研究，とりわけ欧米の諸国での性染色体異常と犯罪との関連への注目などにつながっていると指摘している[37])。が，本稿において示したとおり，一時的な現象ではあれ，ロシアにおいても熱狂的なロンブローゾ崇拝の流行が見られたことは歴史的な事実である。前項においてその研究内容について検討したネクリュードフやドリーリ，タルノフスカヤなどだけでなく，著名な検察官であり，多数の刑法学および統計学関係の著作をもつリハチョーフ（Лихачев А.П.）や20世紀初めの司法大臣シェグロヴィトフ（Шегловитов И.Г.）はじめ，公的な場でロンブローゾの学説の断片を援用し，生来の犯罪者は矯正などできず，ただ重罰に処するのみだとする主張は随所に聞かれた。右派の新聞『ノーヴォエ・ヴレーミャ』紙上には彼らによる論文や記事がたびたび登場した[38])。

では，なぜ19世紀末から20世紀の初頭にかけてのこの時期，ロシアにおいてそのような現象が見られたのであろうか。

西ヨーロッパにおける犯罪学研究の始まりが，市民革命期の社会的な激動を経た19世紀前半において，資本主義経済の発達に伴う都市問題，構造的な失業と貧困の拡大などを背景とした犯罪の増大に対する古典学派刑法学の無力さの露呈の一方で，生理学や細菌学，生物学，遺伝学の発達，ダーウィンに代表される進化論の有力化，そして経済学の発達など，人間と社会の科学的な認識の可能性が与えられたことによるものであることはよく知られている。1830-40年代を中心としたケトレやゲリーの活躍に続いて，ロンブローゾらが登場するが，その先駆者であるガル(Gall, Franz-Joseph 1758-1828)の骨相学的犯罪学研究，あるいはダグデール(Dugdale, R. L. 1841–1883)による犯罪家系の研究，またラカッサーニュ (Lacassagne, A. 1848-1924)，タルド(Tarde,J.G. 1848-1904)，サレイユ(Salleiles, R. 1855-1912)など社会学派の活躍といった欧米の犯罪学研究の歴史を念頭に置けば，本稿に見たロシアの犯罪学のダイナミズムはほぼそれに重なり合うことが確認できるのである。農奴制の廃止過程に象徴されるロシアの国家と社会諸制度の後進性への自覚が，かえって西欧の政治思想や科学，社会学説への急速な接近をもたらしたと言うべきであろうか。ロシアの刑法思想と同様，犯罪学もまた西欧諸国のそれらとの連続性をもって展開していたのである。したがって，上の問いかけに対しては，犯罪学一般の歴史分析をもって答えなくてはならず，さしあって本稿の課題ではない。

むしろここで検討すべきは，ロシアの犯罪学研究が西ヨーロッパから切り離され，特異なものとなっていった1917年のロシア革命後に，犯罪学研究をみまった諸条件についてである。

革命の帰趨を争う国内戦の時期には，刑事立法自体が未定立の状況にあり，大学などにおける刑法・犯罪学に関連する研究も混乱状況にあったという他ないが，国内戦の終息と新経済政策（ネップ）の開始とともに，1920年代を待ってソビエト国家における犯罪学研究の本格的な展開が見られることとなる。それは，帝政時代すでにその萌芽以上のものが用意されていたとはいえ，やはり，ロシア革命がもたらした精神と言語の解放，そして科学と国家との幸運な協働関係の所産であったと言えよう。しかし，この蜜月はやがて終わりを告げ，30年代に入ると一転して犯罪学研究はその存在自体すら許されぬものとなる。転機となったのは国立犯罪学研究所の活動とそれに対するソビエト政権の評価である。

1923年の春，モスクワ管理部（内務省のモスクワ総局）によって刑法学者，犯罪学者，心理学，人類学，統計学などの研究者を招集しての会議が開かれ，そこに提案されたモスクワの刑事施設に収容されている犯罪者の総合調査，その成果として翌年にゲルネットの編集の下に公刊された論文集『モスクワの犯罪世界』[39])，そして何よりも，この総合研究を契機として開設された国立犯罪学研究所の活動など，20年代前半期の犯罪学研究の躍動については，既に紹介し，検討を加えたところである[40])。そこでも指摘したとおり，この段階での犯罪学研究においてはドリーリやタルノフスカヤの研究は直接に引用され，もちろん厳しく批判する者も多かったが，一方の積極的な遺産として継承されていた。上記の論文集には，殺人者，強盗犯人，詐欺犯人，酒精密造者といった個別の犯罪者類型に注目して，その成育歴など社会的諸条件の影響とともに，親子・兄弟など肉親の犯罪歴から遺伝的な負因を推測し，また犯罪者の体形，気質，知能など生物学的要素についても検討したものが含まれており，直接にタルノフスカヤの研究を援用するものもあった。研究報告として並んでいるクラスヌーシキンの「現代の犯罪性精神病質およびそれとの闘争」や心理学者であるペトロヴァ(А. Е. Петрова)の24歳の女性による夫の陰茎切除の事例の研究などは，30年代以降のソビエト犯罪学においては到底取り上げられそうにないテーマであり，またゲルネットの「モスクワ市の拘禁施設における入れ墨」では直接にロンブローゾによるこの問題の重視に言及されていた。そして，この総合研究を契機として開始された「ソビエト犯罪学の研究所化の時代」。内務省に付属してモスクワに設置されていた国立犯罪学研究所とサラトフ，レニングラード，ロストフに置かれたその支部を中心とする，各地の犯罪学研究機関では，犯罪の社会・経済的要因だけでなく，生物学的・心理学的な手法による犯罪者研究もまた行われていた。とりわけ，サラトフ支部が「刑事人類学研究室」と呼称された事実が象徴的であり，またロストフ支部でも，その研究活動は犯罪者の生物学的研究が中心であった（「それは，批判される如く，ロンブローゾ主義に近いものであった」，とゲルネットも述べている）。

しかし，1929-30年頃を転換点として，事態は一変する。パシュカーニスやエストリン，ブラートフら，著名な「正統派」マルクス主義理論家達による当時の犯罪学研究への激しい批判が，一斉に始まるのである。批判では，ソビエト国家における犯罪現象の研究が，その量的な膨大さにもかかわらず，「科学的なソビエト刑法理論」から遊離し，方法論において深刻な誤りを内包している，と難じられた。一部の研究機関では犯罪者人格への異常な熱中が見られ，他方ではブルジョア社会学派の諸概念の借用が見られる，といった各研究施設の勝手な研究活動の他方において，今日必要とされている現実的課題に役立つような作業は全く行なわれていない，というのである。生物学的偏向，国費の浪費，不必要な課題の設定，必要な研究の欠落，などなど。これらの批判の眼目は，しかし，1929年3月の討論において司会者であるパシュカーニスが露骨に述べているとおり，国内の犯罪学研究施設の頂にある国立研究所のイデオロギー的な指導はコム・アカデミー[41]^）に属するのであり，そのヘゲモニーを承認せねばならないという点にこそあったが，しかし打撃は決定的であった。後にゲルネットが述壊しているように，これら，当初は「犯罪および犯罪者の研究の誤った方法にむけられた批判は，全く誤った，犯罪研究の停止が必要だとの結論へと導いた」のである[42]^）。

だが，これらのことは既に筆者の指摘した経過であり，今さらに繰り返す必要はないであろう。ここで付け加えて述べておきたいことは，僅かなことである。つまり，帝政ロシアの諸条件下に開始されていた犯罪人類学的な諸研究は，ロシア革命による社会状況の激変にもかかわらず，ソビエト・ロシアにおいてむしろ多様に開花していたのであり，それを終息へと至らしめたものは社会的な現実でも科学的な批判でもなく，まさに政治主義的なイデオロギー攻撃であったという事実であり，そしてまた，人類学的な犯罪学研究がその政治的誤謬のために否定されたとき，やがて犯罪学研究の全体も解消されたという歴史的な事実である[43]^）。

たしかに，同様の運命は他の多くの科学領域をも見舞い，いわゆる「個人崇拝」の時代の病理として現象したのではあるが，犯罪学は犯罪学として，そのような抑圧を誘った固有の理由を探り，またそのような抑圧の及んだ範囲とその影響の深さとを解明しなくてはならない。当初，筆者は，帝政ロシアにおける研究の萌芽が，革命後に堰を切ったように開花し，多方面で多彩に展開されたロシアの犯罪学研究が，30年代に入るとともに，「理論」的にも物理的にも退けられ圧殺されていく，その過程を追うことで，犯罪学とソビエト権力，あるいは国家，党との緊張関係に迫れそうだとの見込みをつけて出発した。ところが，50年代半ばに一応の復活を見た「ソビエト犯罪学」において，そのような経過自体があたかも無かったことであるかに無視されていた（この点は，その後にソビエト体制の崩壊後も，その多くが引き継がれて今日に及んでいる）ことにも触発されて，この問題は当時考えていたような，一方的な批判と反論，圧力と抵抗といった，外的な諸要因の対抗作用を超え，ある場合にはそれぞれの内的な変容をも伴う，より内的・本質的なものであることに気付かされたのである。かの地における犯罪学研究の歴史体験の解明には，さらに深刻な論点が懸かっているのである，と[44]^）。

ロシアにおける刑事人類学派の軌跡をたどることを通じて，ここに問い返されているのは，結局，犯罪現象の研究という形をとった科学と社会との関係，それが常にはらまざるをえない国家および政治イデオロギーとの緊張関係，それらを通じての相互の変容といった，より一般的な問題であることに気付かされるのである。　

【参考】　　　　　　　　「トルストイとロンブローゾ」

　1897年の8月，折からの炎暑の中をツーラの街にたどり着いた外国人を地元の警察が逮捕した。外国人の名はチェザレ・ロンブローゾ，彼の申し立てでは，ヤースナヤ・パリャーナのトルストイ伯爵邸を訪問してモスクワに帰る途中であった。疑いがはれるまで，短期間ではあったが，彼はロシアの留置場を体験する機会に恵まれた。

　イタリアの精神科医であるロンブローゾの名は，犯罪人類学の創始者としてよく知られている。彼の主張するところでは，犯罪者は生まれつき特殊な人間類型であって，野蛮な原始時代の人間形質を隔世遺伝により受け継いだ人々である。そのような類型に属するかどうかは，頭蓋骨の左右不均衡，削り取られたような前額，突き出した上顎下部，眉弓の顕著な発達などに示される身体的な特異性と，道徳感情の欠如や衝動性，残忍性，痛覚の鈍磨といった精神的な特徴によって，判定可能だとされた。19世紀末のヨーロッパ諸国は激増する犯罪に悩んでおり，「科学的」な犯罪原因論としてロンブローゾの考えは期待をもって迎えられ，彼は一躍全ヨーロッパの有名人となっていた。

　モスクワで開かれた医師の国際会議に出席したロンブローゾがどのような理由で文豪トルストイに会おうと思い立ったのかは，わからない。あるいは，このキリスト教人道主義に凝り固まった老人を教化しようと考えたのであろうか。当時すでに『復活』を執筆中であったトルストイは彼を迎え，その滞在中の数日，彼と激しく論争した。

　ここでトルストイの刑法思想を詳しくたどる余裕はないが，彼が犯罪者を，絶えざる虐待と誘惑の下に放置され，愚鈍化された人たち，むしろ社会の犠牲者と見ていたことは明らかである。結局，我慢できなくなったトルストイはロンブローゾを屋敷から追い出した。

　犯罪は今日も重大な社会的関心の対象である。凶悪犯罪が起きる度に社会は衝撃を受け，異常な残忍さや理解できぬ動機に，多くの人が，なぜこんなことができるのか，犯人はいったいどのような人間なのかという思いにとらわれることは当然である。そのような中で，近年，犯罪者，とくに凶悪な犯罪を実行した少年の脳に対する関心が高まっている。その形状の異状や「攻撃関与物質」の分泌が犯罪の「原因」として指摘される。

　私はそのような研究をすべて否定するものではない。それによって，犯罪と犯罪者への正しい認識を助け，治療と教育，犯罪予防に役立つ何らかの発見があるかも知れない。しかし，わかりやすい原因論に飛びつき，すでに犯罪者と決まった人に普通とは違う身体と精神の異常を見つけて安心していることの危険も，同時に確認しておくべきだと思うのである。

　犯罪原因についての素朴な議論を聞くとき，決まって思い起こすのが冒頭のロンブローゾのエピソードである。彼が生まれつきの犯罪者に固有としてあげた骨格や容貌の特徴は，時に同時代の名士たちにそのまま当てはまった。不幸なことに，ツーラの警察が彼を逮捕したのも，当時ロシア南部の都市を荒らしていたイタリア人詐欺師の手配書に彼とそっくりな人相書きが付けられていたためであった。

（『京都新聞』 2001年4月17日朝刊）