犯罪学の課題について
上田 寬
（立命館大学）
目次
はじめに──問われているものは何か──
１ 犯罪学の意味と科学におけるその位置
２ 犯罪学の課題と対象
３ 課題としての安全
４ 犯罪学におけるパラダイムの転換
はじめに──問われているものは何か──
1990年代まで，経済的に発展した西側諸国の中で日本だけが，犯罪現象のコントロールに成功したといわれてきたのであるが，近年，その日本で犯罪現象に目立った変化が進行しており，また多くの市民が犯罪に関して不安を訴える状況があらわれている。
手荒な金融機関強盗の多発，少年によるセンセーショナルな犯罪の続発，一連の外国人グループによる強窃盗事件，そして未だ抽象的ではあってもテロ犯罪への恐れといった事態が，長期的な経済の停滞とあいまっての閉塞的な社会状況の中で，強力な犯罪対策と犯罪者・非行少年への厳罰化を求める方向へと世論を押しやっている。犯罪は今や深刻な社会的関心事となり，先の総選挙に際しての各党の政策・公約にも明らかなように，政治的な争点として浮上しつつある。「盗聴法」を含む99年の組織犯罪対策法の成立や2000年の少年法改正， 04年の刑法一部改正など，多数の全般的な重罰化に向けた刑事立法の登場から，都市部の街頭や交通機関での監視カメラの増設の動きに至るまでの，直接的な犯罪対策が講じられると同時に，刑事裁判における実刑の選択率は確実に上がり，その結果として矯正施設の過剰収容状況が出現するといった，より複雑な反応もここには生じている。
わが国の犯罪現象については，海外からも厳しい視線が向けられている。日本の犯罪認知件数がなお相対的に少ないことは事実であるが，そのこと自体，家族･地域の人間関係や閉鎖的な警察機構の中に隠蔽されているものが多いのではないかと疑われている。Transparency Internationalの報告書に端的に示されたわが国の政治経済における透明性の低さ，暴力団およびそれと結びついた国外の犯罪集団の国外での活動，あるいは中国や韓国，ベトナムなどだけでなく，中南米からまで犯罪者を呼び寄せている日本の犯罪状況が，国際的にも懸念の対象となっていることを知らねばならない。日本のODA 資金の管理が甘いことは国際的な犯罪組織の間でよく知られており，それらの餌食となっている，と指摘する海外の研究者も多い。
このような経過は，当然に，犯罪学の関心の対象となるはずであり，また同時にその領域における研究への社会的な期待をももたらす（はずである）。犯罪学は今日，何を求められ，どう展開しようとしているのであろうか。筆者は昨年春に犯罪学に関する教科書をまとめる機会があったが，その際にあらためて自らに問いかけたこのテーマであるが，本稿では，先に考えたことを基礎として，そこから多少なりとも前に進むべく，考察を試みたいと考える。
尊敬する小田中聡樹先生の古稀をお祝いして編まれる論文集に，本稿のごとき，未だまとまらぬ考察を内容とする小論をもって加わることをお許し願いたい。
１ 犯罪学の意味と科学におけるその位置
すべての検討に先立って，まず，ここでその課題を論じる「犯罪学」そのものについていくつかのことを確認しておくこととしたい。その比較的短い歴史の当初から，そして今日もなお，その意味するところについての統一した理解は存在せず，論議の対象とその範囲を予め限定しておくことが必要と考えられるためである。
人の生命，身体，自由，名誉，財産を奪い，傷つけ，あるいは社会と国家の利益と秩序を侵害する行為である犯罪に対しては，直接それを阻止することはもちろん重要であるが，それだけでなく，その原因を考え，その対策を検討する必要があることは自明である。この，犯罪現象の全体と個々の特徴を正確に認識し，その原因と対策を考察する科学が，さしあたって「犯罪学」と呼ばれるものである。他方，ここにおいてまた明らかなことは，犯罪が人間の実行する個々の市民あるいは社会全体に損失をもたらす行為であることから，人間と社会に関係するすべての科学が犯罪には関心を持っているということである。医学や経済学，教育学など。なかでも，心理学や社会学において犯罪の占める位置は大きく，「犯罪心理学」あるいは「犯罪社会学」といった名称の科学の独立性が主張されることもある。
しかしそれら科学諸部門に解消されることなく，独立した科学として「犯罪学」が主張されるときには，暗黙のうちに，関係し隣接しあう諸科学の交錯領域（あたかも多数の楕円の重なり合いとして図示される部分）に犯罪学は位置付けられることが多い。そして，その方法としては，社会学的方法や心理学的方法など，関連諸科学の方法がそのままに混在的に用いられることとなる。
このような犯罪学について，わが国では永らく「刑事学」という呼び方が用いられてきた。これは，牧野英一がフランス語のsciences pénalèsに対する訳語として作り出した（1909）ものであるが，やがて東京と京都の帝国大学法学部の講座名称として採用され，逐次他の大学に広がり，また教科書の名称などにも広がったのである。
大学における講座ないし講義科目の名称としては，また，「刑事政策」も用いられているが，これはかつての高等文官試験，戦後の司法試験の試験科目として「刑事政策」が存在したことによるものである。
それらの経過を踏まえつつ，今日の段階では明確に，「犯罪学」という呼称が採用されるべきであると考えられる。これまで用いられてきた他の用語にはそれぞれの限界があり，犯罪にかかわる広義の実証科学としてのこの科学の全体を示すためには適当でない。犯罪学は，犯罪現象の把握，その原因と対策，予防，そしてそれらに関連する諸問題を対象とする総合的な科学である。
犯罪学の独立性が主張されるときも，先述のとおり，それが心理学，社会学，医学，生物学，精神医学，教育学，統計学，経済学，都市工学など，多くの科学分野と関係を持ち，いわば，それらとの隣接領域に位置しているという事情が変わるわけではない。そこから，ある場合には犯罪学は「巨大な雑居ビル」にたとえられ，「さまざまの科学の分野（精神医学，心理学，社会学，教育学等々）の専門の素養を身に付けた人の共同の成果の蓄積である」とされる[1]。
犯罪学が日本では大学法学部において，大学法学部に所属する教員研究者によって，刑法学との密接な関係の下に研究・教育されることが多いという，わが国における犯罪学のあり方は，明らかにドイツ的伝統によるものであるが，そのことを疑問とする声は聞かれない[2]。ここには，それぞれの社会における諸科学の編制，内容，社会的な位置づけなどについての歴史的な存在性格を見るべきなのであろう。
だが，ここにはそれ以上の，犯罪学の教育・研究が法学部でなされることの重要な意味があると思われる。つまり，犯罪学が犯罪者と被害者という生きた人間にかかわる事柄を扱い，時として個人の自由と名誉，経済的利害や人間的な感情に踏み込んでの原因追求と対策の検討とが要請されるところから，場合によっては深刻な合法性の危機あるいは人権侵害へと至りかねない危うさをともなっているという事情が重要である。それらに留意されるときには，たとえ実証的な科学という点において精彩を欠くことがあったとしても，むしろ法的保障の要請こそが前面に出るべきであり，刑法的な保障原理への顧慮が優先して求められるといわなくてはならない。
刑法学者が犯罪学研究に実質的な関わりを持ち，そこにおいて重要な役割を果たそうとしていることには意義がある，と考えるのである[3]。
なお，ここで生じる一つの問題は，それでは犯罪学者とは誰かということである。
上記のとおり，犯罪学が法律学，心理学，社会学，医学，生物学，精神医学，教育学，統計学，経済学，都市工学など，自然科学と社会科学の両分野に属する多くの科学の方法による犯罪現象の研究の総体として成立しているのであれば，その研究を個人のレヴェルで実現することは不可能であり，逆にある個人研究者が直接に扱いうる分野はそれらのうち特定の一部に限定されざるをえない。それは，たとえば医学者一般は存在せず，小児科学研究者や血液学者として存在するとか，法学者は実際には債権法や刑事手続法などの専門家であるということとは質的に異なるであろう。心理学や精神医学の最新の知識と技法を用いて行われる犯罪行動の分析に，たとえば刑法学者が直接参加することはできない。多少程度は異なるにせよ，これは犯罪行為の刑法的解釈と量刑手続きなどに都市工学研究者が関与しうるかと問うときにも類似であろう。その意味で，多くの場合にそうであるように，刑法学を基本的な素養とする者が直接に犯罪学の全領域にわたる研究に従事することは非現実的な要求である。
この隘路をかわすことは，したがって，個人にではなく，多数の科学領域に属する研究者の共同作業に期待するほかない。それに参加する個々の犯罪学者は，実際には犯罪現象にかかわる科学領域のいずれかに専門的な素養を有する者であるが，それに加えて彼には，犯罪学の意義と性格，犯罪学研究の広がりと体系を理解し，その個別分野それぞれの研究成果を的確に評価する能力を，それが困難な場合には必要な専門領域の研究者と共同する姿勢を，有することが求められるのである。
２ 犯罪学の課題と対象
犯罪学には格別の課題などはない，という立場もありうる。犯罪を社会現象として観察し，その動態を正確に捉え，そこに潜む法則性を発見することが（それのみが）犯罪学の仕事であり，一定の「目的」を設定することはそのような科学的検討を阻害する，と。しかし一般的には，犯罪学は犯罪現象の防遏に向けられた科学であり，そのためにこそ存在するとの理解がなされており，承認されているといってよいであろう。
すなわち，犯罪学は犯罪現象の動態を正確に捉える「犯罪現象論」，犯罪現象とかかわりのある因子を解明しそれらの犯罪現象への作用メカニズムと因子自体の運動法則とを明らかにする「犯罪原因論」，そして犯罪現象の予防と犯罪被害の回復ならびに犯罪者の改善更生・社会復帰の方途を探る「犯罪対策論」とが，犯罪学を構成する主要な分野となる。だが，ここには近年新たに多くの問題が持ち込まれ，上記のような古典的な三分野構成は大きく混乱させられている。
まず，犯罪の概念自体についての混乱がある。ラベリング論の影響の拡大とともに顕在化したこの問題は，ラジカル・クリミノロジーへと至るアメリカ犯罪学の有力な潮流の先鋭化の過程で，試金石的な論点とされた「犯罪の定義」問題に見るように，きわめて原理的なものである。アプリオーリな概念として犯罪（者）を措定し，そこから研究を出発させることができるのか，それとも，「犯罪」は価値中立的な現象に付与されたラベルに過ぎず，むしろそのようなラベルの付与された理由，付与する者と付与される者との階級的・権力的関係を解明することこそが真の課題だとされるべきなのか。
そのような基本問題を超えて，さらに，近年のアボリショニズムの展開において主張されるごとく，犯罪は刑法制度の結果として現出したものであり，犯罪者と一般人を区別するメルクマールは刑法=刑罰でしかないとされるときには，犯罪概念そのものが空中に消失することとなろう。
犯罪学の対象としての被害者の再発見もまた，犯罪学の性格を複雑化させた。いまや被害者は個々の犯罪と犯罪現象の形成の要因として，社会と国家による犯罪対策の重要な対象として，何よりも保護の対象かつ対犯罪政策の編成における決定的な発言者として，不可欠の存在となっている。被害者の研究を抜きにしての犯罪学はもはやありえないし，被害者概念なしの犯罪（者）概念もその意義を認められないのである。
犯罪概念自体の拡散と変化が激しいということが，犯罪学の重要な構成分野である犯罪原因論の混迷へと繋がることは当然である。
犯罪対策論における近年の一つの特徴的な動きは，長い伝統を持つ犯罪者・非行少年の矯正と再社会化に向けた研究志向よりは，厳正な司法的判断と拘禁刑とを特色とする志向，仮に「ジャスティス・モデル」とでも呼ぶべき研究枠組みがわが国でも有力化しつつあるかに見えることである。「保護処分優先主義」と「全件送致主義」とを基本原理としてきたわが国の少年法の大改正が行われ，「家庭内暴力」，ストーカー行為，危険運転行為といった行為に矢継ぎ早の刑事立法的対応がなされ，全般的な重罰化に向けた刑法一部改正がなされるという，かつては考えられなかったほどのスピードでの積極的な刑罰法規の整備があり，犯罪にあたる行為を行った精神障害者を確実に拘禁するための「心神喪失者医療観察法」はその施行を間近に控えている。裁判所の科刑状況は確実に重罰化・拘禁化の傾向を見せ，結果として刑務所の収容状況は危機的なまでの満杯となっている。
そのような基調にあって，ある意味においては異質な存在であるにもかかわらず，「修復的司法論」のみはわが国において大きな関心を集めている。犯罪･非行を国家ではなくコミュニティの問題と捉え，犯罪者・非行少年の謝罪と損害賠償をも一要素とする社会的和解の実現によって「犯罪問題」を解決しようという，この理論の意図が，社会構造においても文化構造においても，オーストラリアあるいはアメリカなどとかなり違うと思われるわが国において，どの限度まで実現可能か，まさに注視に値するというべきであろう[4]。
以上に見たとおり，犯罪学の対象が激しく拡大し変動している状況の下で，その課題をどのように捉えるかについても，安定した単一の理解はない。しかし，事柄は市民の権利と尊厳，社会的な安全という深刻な利害に関わるものである以上，それに直接に奉仕すべき科学として，犯罪学には明確な課題があると言わねばならない。先に述べたような，犯罪概念の拡大と拡散，対策論における混乱といった事態に分け入り，問題を解決するための基本的な視座と評価の基準は，まさにこの点に置かれるべきである。すなわち，今日の世界における人間の安全と尊厳をいかに擁護し，確保するか，に。人間の安全と尊厳を侵害するものが実質的な犯罪であり，その浸害を阻止し，侵害した者に対してはその責任を追求し，原状の回復と損害賠償とが命じられなくてはならない。そのかぎりにおいて，犯罪は明確に悪であり，その実行者は非難されるべきだ，ということを論議の基礎として確認すべきであろう。
いま一つの前提的な問題として，先に述べた原理的諸論点は措くとして，犯罪学の対象とする「犯罪」は刑法学の対象とするそれと同じか，ということがある。
これまたかなり困難な問題であり，簡単に解答を導くことは慎まなくてはならないが，さしあたっては，両者は異なるという認識から出発すべきであろう。刑法学が個別の犯罪行為の構成要件該当性とその評価，その行為者の責任といった問題に自らの関心を限定するのに対して，犯罪学の対象は個別的な犯罪行為ではなく，社会的な平面で現象として捉えられた犯罪である。個々人が実行した犯罪という事実は，その陥った問題状況を徴表し，その解決に向けての治療ないし教育その他の援助の必要性を示すとともに，その刑事責任との関わりで，あるいはその被害の回復との関わりで，法律的な検討を要請するにすぎない。大量現象としての犯罪の原因を究明し，それを防遏することを目的とする犯罪学における対象の捉え方は，それとは異なって来ざるをえないのである。
この点は，犯罪学のあり方にも関係する。たとえば，従来多くの犯罪学教科書において論じられてきたような，個人の遺伝的負因や精神的疾病などと彼の犯罪行動との関連づけは，はたして意義のある検討課題だったであろうか。それは，ある個人の犯罪行動を説明することに役立つかも知れないが，それ以上の意義は持たないのではないか。他の非犯罪者には存在せず，犯罪者にのみ存在するような個体的資質が特定されることは，今後もありそうにないが，もしある疾病等が「原因」と確認されたとしても，そこに必要なのは治療その他の援助措置だけである。あるいは，限られた場合に，刑事裁判において行為者の責任の軽重との関係で問題となるにすぎない。何らかの生物学的負因が一定数の「犯罪」に共通に関連して見られたとしても，それを「原因」と捉えた途端に，それは犯罪あるいは刑罰の領域から滑り落ちて行き，一般市民の病気の治療と同一のレヴェルで，本来そうあるべき，社会（福祉）政策の領域における課題として位置づけ直されるのである。生物学的，精神医学的などの方法による犯罪研究が，人間理解一般にかかわる資料を提供することを超えて，特殊に犯罪現象の克服に向けられた積極的な（そして市民の自由と基本権に抵触しない）結論をもたらすことは，これからもないであろう。
それにもかかわらず，今日なお多くの犯罪学者が犯罪者の個体的要因に拘泥する理由の一つは，おそらく，個別的な犯罪行為なしに全体的な犯罪現象はなく，この個別的で具体的な犯罪行為は特定の人格の，特定の環境の下での行為であるという，素朴な理解ではないかと思われる。だが，個々の具体的犯罪行為の算術的な総和が犯罪現象というわけではなく，犯罪現象の克服のために採られる方法は個別犯罪の予防に尽きるわけでもない。
なお，多くの場面において一般に（本稿においても）「犯罪現象」という語で示される概念は，本来は「犯罪性」と表記されるべきものである。
多くの言語において，個別的な行為あるいは事実である犯罪とは区別された，同種または異種の犯罪群を内容とする社会的現象としての犯罪という概念に対応する語が存在している。それは，ドイツ語のKriminalität，英語のCriminality，そしてロシア語のprestupnost'，といった語であるが，わが国においては，おそらく，これらには「犯罪性」との訳語を用いるべきであろう。ただし，すぐに気づかれるように，いずれの場合もこれらの語は必ずしも一義的には用いられていない。たとえば，犯罪たることの特徴づけという意義で，また個々の犯罪群を示すためにも用いられ（累犯犯罪性とか女性犯罪性といった風に），そしてとくに，この語は個人の犯罪的性格，人格傾向を示すものとしても用いられている。これらの事情に留意しつつも，たとえば「犯罪現象」という語によって「犯罪性」の本質的内容を表現することは困難である[5]。
犯罪を単独の，個別的行為とし，犯罪性をそれら行為の集まり，つまりは統計的総体とみる立場は，それと意識されることなく多くの犯罪学者の問に広がっているが，これは犯罪学研究とりわけ有効な対策の研究にとっては不正確な捉え方と言わねばならない。そもそも，実行された犯罪の総和が犯罪性だというのであれば，その抑制手段としては刑罰の総和以外の何がありうるであろうか。静的な個別的犯罪の総和を超えて，各カテゴリーごとの差異とそのダイナミズム，発展予測といったものをも含めた，「空間と時間とにおいて発展しつつあるプロセス」（クドリャフツェフ, V.N.）として，犯罪性は捉えられねばならず，そのとき初めて，社会的なレヴェルでのその防止手段の構造が浮かび上がって来るのである。犯罪学が対象とするのは，このような意味での「犯罪性」であるとされなくてはならない。諭理的なレヴェルでこれを見れば，おそらくは，実行された犯罪の総体と個々の犯罪は全体とその部分として相関し，犯罪性と個々の犯罪は一般的なものと個別的なものとの相互関係として弁証法的に理解されるべきであろう。一般的なものは個別的なものの中に，個別的なものを通してのみ，存在するのである。
と同時に，予め断わっておかなくてはならないが，そのように捉える場合にも個々の犯罪および犯罪者の犯罪学的研究の重要性を否定しているわけではない，ということである。犯罪現象の実体の把握は，当然に，犯罪行為，犯罪者人格と社会的諸条件との相互作用の具体的な検討を通じてしか為しえない。だが，それはあくまでも，対象に到達するための手段あるいは経路として，である。
対象としての犯罪現象を個々の犯罪の総和に還元することはできず，それは独自の内容と法則性をそなえた存在として検討されねばならない。そしてこのことが，とりわけ刑法学から，独立した科学としての犯罪学の成立可能性を支えるのである。
３ 課題としての安全
3-1 日本における安全と犯罪
最初にも述べたとおり，わが国における犯罪情勢は，犯罪の発生件数，とりわけ重大犯罪についての状況を見るかぎりは，社会=経済的状況において近似している欧米諸国に比べなお相対的に安定しているとすることができる。しかし，ここ数年の状況にかぎっては，そのような楽観的気分を払拭するような，惨憺たる悪化と形容される局面を見せているのである。その指標には事欠かない。1974年以降じりじりと増加し続けた刑法犯は，2000年には犯罪率で1,925に達し，そして2001年にはついに2,149と，戦後の最高記録を更新するに至った。2003年の数字では，交通関係業過を除いた一般刑法犯で279万件，犯罪率は2,187となっている。より深刻な印象を与えるのはこの間の検挙率の急激な低下である。それまで交通関係業過を除外しても60%台半ばを維持していたわが国の検挙率が，89年以降劇的に低下し，2001年には19.8%というわが国始まって以来の最低を記録するに至ったのである（その後わずかに改善され，2003年には23.2%となっている）。治安の悪化，犯罪不安の増大がマスメディアによって書き立てられ，国内政治の大きな論点となり，広範な市民の関心を集めている[6]。
長期的に見たとき最大の問題は少年非行の爆発的拡大であろうが，短期的にも，近年の日本社会は，金融機関強盗の多発，覚醒剤を中心とする薬物犯罪の流行，猟奇的な殺人や性犯罪の続発，小学生児や幼児を狙っての誘拐や性犯罪，外国人による手荒な犯罪，企業テロ，そしてオウム真理教サリン事件と，かつては見られなかった種類の犯罪現象に翻弄され続けている。検挙率の止めどのない低下と著名未解決事件の続発，そして「裏金」問題に見られる組織の腐敗と規律の乱れの露呈によって，警察システムへの信頼が揺らぎ，市民の間に犯罪への不安が高まっている。
この事態そのものについては，しかし，より厳密に，客観的に見ることが必要であろう。何よりも，犯罪情勢の悪化というときのその深刻さのレヴェルが諸外国とは違うということである。わが国の犯罪率はなお欧米諸国の数分の１であり，近年の犯罪増加も主要には軽微な窃盗や横領事犯の増加を内容とするものであることが指摘されるべきであろう。さらに，「近年の犯罪増加」という認識自体がどれほどの根拠を持つか疑わしく，検挙率の暴落にいたっては，犯罪の認知にかかわる警察内部の組織的な変化がその重要な「原因」であることが明らかである[7]。
事実として犯罪が増加しているのかいないのかということはもちろん重要であるが，しかし，それ以上に重要なのは，「安全神話の崩壊」といわれるものの諸側面，そしてそのような事態への対応である。
具体的な事実としての犯罪の量および質と市民の不安との間には多数の可変的な媒介項が存在することが，当然確認される。犯罪に対する警察活動の水準，犯罪と被害（者）に関する情報の多寡と伝播のされ方，司法機関と行政当局の活動状況，そして市民の反応──その中には，市民相互間の結びつきのあり方から犯罪についての文化的なイメージに至るまでの多様なものが含まれ，また地域ごと階層ごとの格差があるであろう──といった要素によって，犯罪に関係する不安のありようは異なってくる。当然，犯罪以外の現象への不安の大小によっても，それは変化するであろう。事故や災害，戦争などへの不安が大きければ，犯罪への不安は相対的に低下するかもしれない。それらのうち今日のわが国において重要なのは，おそらく，メディアによる過剰なまでの，そして必ずしも客観的でない情報の提供であろうが，それを受け入れ，強くそれに影響される素地が市民の側に存在すること，それは長期に及ぶ日本経済の低迷とリストラ・就職難，年金制度改革などによりもたらされた全般的な社会不安と呼応するものであることを見ておかなくてはならない。
単に犯罪情勢の悪化に対する不安だけでなく，何か異質な，理解困難な事態が進行しているのではないかという懸念が多くの人々を捉えはじめている。つまり，近年の日本社会をおおう閉塞感・将来不安とあいまって，これまで犯罪現象を低いレヴェルに押しとどめてきた諸特質（社会的な豊かさ，落ち着き，地域住民の均一性，細やかな人間関係などにより表象される）がなくなってきたことの，これは結果であり，したがって，迫り来る破滅を予兆するものではないのかという懸念である。この事態を前にして犯罪学は，「犯罪は増えていないし，検挙率の低下も見かけ上のものだ」，したがって「パニックに陥って浮き足立ってはならない」というだけでよいのであろうか[8]。
かつて，1989（平成元）年版『犯罪白書』は「昭和の刑事政策」を振り返り，「現在，世界でも最も安全な国の一つであると言われるような治安状況の良好な社会を実現した」と誇ったのであるが，そのような認識はまた専門家を含めて一般的な認識であった。いわば，「安全」と空気はタダという感覚が底流となって広がり，そこから，犯罪からの安全の問題は重視されず，広義の刑事政策領域への社会的な資源の投入も──今にして思えば──少なかった。そのような状況は，しかし，90年代に入るとともに急速に変化し始める。落ち着いていた少年非行が再び増勢に転じ，92年の『警察白書』がとり上げた「犯罪のボーダレス化」が進行し，95年をピークとするオウム真理教事件が大きな衝撃を与えた。センセーショナルな凶悪事件から，サイバー犯罪，ストーカー行為や児童虐待，大規模な催しに際しての観衆の誘導と，警察に対応が求められる領域はむしろ拡大の一途にある。その一方で，不適切な公金処理・裏金作りの連鎖的な露呈が社会的な批判を浴び続けている。結局，90年代以降，例年の『警察白書』から見えてくるのは，増え続ける犯罪の重圧と自ら招いた数多くの「不祥事」とによって，徐々に機能不全に陥っていく警察の姿であり，それをも背景としたわが国の犯罪情勢の制御不能化の過程であったとさえ言えよう。
振り返って重要と思われることは，以前わが国の犯罪学理論の多くが暗黙の前提としていたのは，実際には，低い犯罪率，均質な市民，伝統的な諸モメントの有益な作用，そして警察を含む官僚組織の有効性と信頼性，つまりは国際的に見てきわめて特異な日本に固有の諸条件だったのではないか，ということである。そうであるならば，いまやそれらの多くが形骸化し，機能不全に陥りつつあるという事実は犯罪学に影響せずにはおかない。
その変化に向けての直接の圧力はまた，いわば外から，顕在化している。一つには「テロとの戦い」をスローガンとした国際協調の要求であり，いま一つには国連開発計画の提唱に発する「人間の安全保障」論の展開である。
3-2 テロと国際組織犯罪
犯罪はいまや個々の国家の枠に収まりきらない性格の問題へと広がりつつある。今日のグローバル化した世界では，「人，金，物，そして情報」の激しい移動とともに，犯罪現象もまた容易に国境を越えている。ここでは，犯罪者や犯罪資金ないし盗品の国際移動あるいは密輸といった古典的な問題から，重点は明らかに国際的規模を持った組織犯罪へと移りつつあり，その最も先鋭な問題が国際テロ犯罪である。
国際組織犯罪は，市民社会の安全，法の支配，市場経済を破壊するものであり，国際社会が一致して対処すべき問題であり，それに有効に対処するためには，各国の刑事司法，法執行制度を強化すると共に，国際的な司法・法執行機関の協力の促進によって法の抜け穴をなくし，またしばしば司法・法執行制度の弱体な国が国際的な犯罪組織の拠点として利用されるところから，途上国の弱体な刑事司法制度を強化するための支援が必要である，として1990年代半ば以降，西側先進諸国はこの面での共同態勢を発展させてきた。95年のハリファックス・サミットにおいて設けられた国際組織犯罪対策上級専門家グループ(「リヨン・グループ」)は毎年のサミットにおいて先進諸国首脳に対し国際組織犯罪に関する報告を行っており，98年のバーミンガム・サミットでは国際組織犯罪が首脳会合の主要議題の一つとなった。事態が一挙に緊迫するに至ったのは，アメリカにおけるイスラム原理主義者のテロ活動の拡大が注目され始めてからである。その詳細にここでは触れるゆとりがないが，93年2月の爆破テロを辛うじてしのいだ世界貿易センター・ビルが2001年9月11日，ハイジャックされた2機の旅客機の突入により破壊され，炎の中に崩落した事件がもたらした衝撃ははかりしれない。世界経済の中心と目されていたニューヨークでのテロ攻撃の詳細が圧倒的なテレビ映像を伴って世界的に伝えられ，それに引き続いたアフガニスタンへのアメリカの「報復」攻撃は当然視され，それに対する批判の動きは微々たるものとなった。その後も世界中でテロの連鎖は絶えず，とりわけ2002年10月にはイスラエルのバデラ，バリ島，カラチ，マニラで爆破テロが，モスクワでは多数の人質をとっての劇場占拠が起きた。「大量破壊兵器」の備蓄を理由として2003年3月に始まったアメリカのイラク侵攻は，すでに10万人のイラク人を殺したと言われながら，なお事態の平穏化に成功していない。2004年夏のロシア南部のベスランでの小学校占拠事件の凄惨な結末は記憶に新しい── いまや「テロとの戦い」はあたかも21世紀の十字軍であるかに，諸国にはアメリカの掲げる旗の下に競って参戦することが求められているのである。
このような経過に向き合い，それらを犯罪として犯罪学の対象とすることにかなりの違和感がともなうことは否定できない。薬物や武器の密輸出入ならびに人身売買といった古典的な国際組織犯罪と，宗教的民族的背景を持った原理主義者のテロ行為とはその性格の基本において異なり，それらを意識的に混同することこそが欧米の一部指導部による謀略なのだとの批判には，相当の説得力がある。しかし，ときに原理主義集団は資金源として薬物取引を組織し，また民族的，政治的その他の背景を持ったテロ集団が，一応は民主的原則に従って成立した政府の要人や警察官，一般市民に対する個人的な殺傷行為を企てることによって，これら両者の境界が曖昧なものとなっていることもまた事実である。ごく当たり前の市民の，生命と健康，安全，財産といったものが，侵害の対象となっている。したがって，この後者の諸犯罪──薬物・武器の密輸出入，人身売買，マネー・ロンダリング等──の解明とそれへの有効な対応手段の開発自体は，今日の犯罪学の重要な課題となりうるであろう。むしろ，そのような極めて現代的な課題に積極的に取り組まないでいては，犯罪学の存在意義が問われるとさえ言えるかもしれない。
わが国の犯罪学がそれに取り組む場合，留意されなくてはならないと思われるのは次の3点である。
まず，いくつかの類型の国際組織犯罪だけが問題なのではなく，国際化・ボーダレス化はわが国の犯罪現象全体にかかわる問題だということである。たとえばわが国における暴力団犯罪は，その主要な資金獲得手段としての覚せい剤・薬物取引を通じて，また風俗産業で働く多数の外国人女性の手配を通して，確実に海外の犯罪組織との連携を強めている。また，警戒感の希薄な日本社会を狙っての海外からの犯罪者の進出の例も珍しくなくなっている。もはや，これらを古典的な「外国人犯罪」といった枠組みで検討することで足れりとすることはできない。
次に，国際的要請を盾とした安直性急な刑事立法作業は批判されなくてはならない。「テロとの戦い」における国際協調のために「共謀罪」の新設が必要だ[9]，といった最近の立論はその正当性の根拠が疑わしく，むしろ何らかの政治的意図をさえ推測させるものである。国際組織犯罪との闘争であれ，わが国の全体的な対犯罪政策の一部として，社会的合意の下で市民の共感を得て推進されなくてはならないのである。
そして第3に，重要なことは国際組織犯罪もテロ犯罪も特殊扱いをせず，一般刑法犯と同じ基準に従って対処するということである。すなわち，市民と社会に具体的な被害もしくはその危険をもたらす行為だけが問題なのであり，責任ある者に対しては刑事法の基本原則に従い裁判による処罰が差し向けられる，ということである。逆に言えば，そのような，通常の犯罪と同様に対処できるものだけがテロ犯罪とされるべきなのである。
3-3 「人間の安全保障」と犯罪
他方，国連開発計画（UNDP）の1994年の「人間開発報告書」が打ち出した「人間の安全保障（Human Security）」概念は，ポスト冷戦期の到来に対応した国際関係における安全保障概念の多元化を示すものであるが，その後経済領域から政治文化領域に至るまでの多様な問題領域において多用され，豊富化されている。そして，ここで重要なのは，上記の報告書が，「人間の安全保障」という包括的な概念を構成する重要な要素として，食糧や健康，環境などの安全保障とともに，犯罪や暴力からの個人の安全保障を挙げていた点である。
報告書は個人の安全に対する脅威として，「国家からの脅威」としての拷問，「外国からの脅威」としての戦争などとともに，「集団ないし個人から他のそれへの脅威」としての犯罪や街頭での暴力，「女性への脅威」としての性的暴力や家庭内暴力，「弱者への脅威」としての児童虐待，「自己への脅威」としての自殺や薬物施用を列挙し，これら脅威が先進国と開発途上国とを問わず地球的規模で拡大していると指摘する。しかも，経済的な格差がある現代世界では，何百万もの人々がよりよい生活を求めて母国を離れ，移住した先でのさまざまなコンフリクトを引き起こし，双方に鬱積したフラストレーションを募らせ，それが犯罪や反社会的な行動を助長したり，宗教的原理主義をあおったり，テロに走らせたりする。「そのため，どこかで人の安全が脅かされると，いろいろな所の人に影響が及ぶ。飢饉，民族紛争，社会の分裂，テロ，汚染，麻薬取引などは，もはや国内に閉じ込めておくことができない問題である」，と報告書は指摘したのである[10]。それ以降も，毎年の「人間開発報告書」は繰り返し，人間の安全保障の重要な要素としての犯罪への注目を訴え続けている。
問題をわが国の現状に据え直したとき，二つのことが指摘できるであろう。まず，わが国における近年の犯罪不安の高まりを単に一過的なモラル・パニック現象としてではなく，まさに世界的な広がりを持つ「人間の安全保障」問題の一環として捉えることの重要性である。そしてさらに，全世界とりわけアジア諸国の経済と文化に多大の影響を及ぼしうる立場にあるわが国にとって，犯罪という「人間の安全保障」への脅威への対処にかかわっては相応の貢献が可能だということである。
以上のようなコンテキストにおいて，犯罪は今日，世界的な根と広がりを持つ問題となっている。わが国における犯罪学研究に求められているのは，まずもってそのことの認識であり，問題の解決に向けた課題を自らに引き受ける姿勢である[11]。
それでは，そのような課題認識に立つとき，わが国の最近の犯罪現象をどのように評価し，犯罪学の課題をどう捉え，その展開方向をどう見通すべきなのであろうか。
４ 犯罪学におけるパラダイムの転換
振り返ればつい先ほどまで，日本の治安はよく，自身の生活は安全であると，多くの市民は信じきってきた。マスメディアを興奮させるような殺人事件や高級公務員の贈収賄事件は絶え間なく起こり，少年非行の増大が人々の懸念を呼びはしていたが，それでも犯罪率は総体に低く，しかも認知された犯罪の圧倒的大部分が軽微な財産犯罪であった。「日本人は水と安全はタダだと思っている」状態が続いたのである。
しかし，すでに述べたとおり，1990年代に入ってから犯罪現象にも不安な動向が観察されるようになり，犯罪不安が高まった。わが国において従来機能してきた犯罪防止のメカニズムが今や機能障害を起こし始めているのではないか，警察システムが機能不全に陥っているのではないか，といった懸念が市民の中に広がっている。特徴的なのは，このような不安あるいは危機感が，先にも見たとおり，わが国の実際の犯罪情勢の緊迫度は思いのほかに低い状態にあるにもかかわらず，市民の中に広く生じているという事実である。今や，それを単なる幻覚として無視することはできない段階にまで事態は進んでいると見るべきであり，むしろその根拠となっている諸点に十分な関心が振り向けられるべきであろう。
今日問題となっているのは，日本経済の現状に規定された自信喪失やとくに若年層に広く見られる既成の価値観の崩壊，外国人の大量の流入による日本社会の同質性の喪失，あるいは国際化の進展にともなう人々の交流の激化と各領域でのボーダレス化によって，犯罪現象に質的変化が生じ，また従来の犯罪予防手段が通用しなくなってきていることである。親や教師の権威を尊重する環境の下で少年期を過ごし，有力･名門の学校を目指す進学競争の青年期を経て，会社企業に就職した後は，企業内での昇進競争はあっても，終身雇用と定期昇給は保障されているというような，かつては多くの日本人男性にとってあたり前であったライフスタイルは徐々に昔物語となりつつある。彼らの隣人も，彼らを取り巻く環境も，もはやかつてのそれではない。わが国においてこれまで犯罪の防止に寄与してきた諸モメントが失われつつあるのである。
基本的な変動要因はまた，今日わが国の経済と社会の諸領域で進行しつつあるグローバル化の動きである。人･金･物･情報のめまぐるしい国際間移動にともなって，人の生活様式も意識さえもボーダレス化を強めているときに，犯罪現象だけがその例外であるはずはない。事実，犯罪者の移動や盗品の流通を見ても，大規模なテロ犯罪から薬物犯罪，自動車窃盗，集団スリに至るまで，世界中の犯罪は相関を強めており，わが国もまたその網目の一部となりつつあるということが明らかである。であるならば，それらへの対策だけが旧来のままでよいはずはない。犯罪現象の現状に正面から向き合い，諸外国のこの分野での経験に学び，また国際的な協力関係を強めつつ，新たな規模と方法での犯罪対策を講じることによって，市民の生命･身体と財産をまもりその安全を保障すること，「人間の安全保障」こそがわれわれにとって最重要の課題とならなくてはならない。それに対応して犯罪学の課題もまた，犯罪被害の防止と犯罪不安の縮小へ，犯罪に対する安全の確保へと軸足を移すことが求められているのである。
指摘されるとおり，グローバル化した世界において，テロ犯罪や国際的組織犯罪への対処に共同の努力を進めることは必要であり，わが国が国際的な犯罪組織に都合のよい抜け道となるような事態を招いてはならない。しかし，それは当然にわが国の法制と法的文化に適合した方法によって実現されるべきであり，もし新規の手段が必要とされるのであれば，その必要性につき十分な説明と納得を求める手続きが尊重されるべきであろう。また，従来必ずしも重視されなかった，「ジャパ行きさん」や「不法就労」に隠された人身売買，チャイルド･ポルノの製作と流布，盗難車の「輸出」，海外進出企業による環境犯罪や贈賄行為・犯罪資金の垂れ流し，ヤクザ組織の海外での活動などであるが，これらはまさに国際的なレヴェルでの組織犯罪として，国際社会にあからさまな被害を与えている行為である。そのことを明確に認識した上で，わが国政府も市民も，国際的な責任を引き受けるべきであり，それらの克服に最大かつ効果的な努力をすべきである。さらに，わが国内において最大の問題となっている国際的組織犯罪は覚せい剤等の薬物犯罪であり，それとの闘争は抽象的なテロ犯罪対策よりはるかに緊急の課題である。
わが国における具体的な犯罪不安の対象としては，財産犯罪である「空き巣」が最も多く，次いで，「通り魔」や「引ったくり」といった街頭犯罪が挙げられる[12]。それら犯罪は，平穏な市民生活を送る上で最も重要な，住居と往来での安全を揺るがすものであり，損害が軽微だとして一律に軽視されるべきではない。ストーカー行為や家庭内での児童虐待などについても，その被害者の不安と苦痛を思いやっての，十分な対応がとられるべきである。
犯罪学はこれら具体的な犯罪現象とそれによる市民の安全への脅威とを自らの課題として，その実態を全側面において明らかにし，その原因あるいは助長促進要因を剔出し，予防のための効果的手段を開発することに全力を傾注すべきなのである。
そのとき，国内的なレヴェルにおいて重視されるべきは，いわば「市民の側からの刑事政策」とでも言うべき視座であると思われる。一方において，市民生活における不安を払拭できるだけの警察力の充実を要求し，他方で社会の保護機能の再編強化に向けた市民自身の行動と連帯の強化をめざすことがその基本的方向性となろう。交番に警察官が常駐せず，市民の不安の訴えに真剣に対応せず，軽微犯罪や少年の非行行動に手が回らない，といったような警察の現状は問題であり，活動方針の改善とともに必要な増員はなされなくてはならない。地域の犯罪情勢に関わる情報の公開と防犯協力の呼びかけは，市民の不安を軽減し，市民自らの防犯活動を発展させる上で不可欠である。そして同時に，各段階の教育と情報伝達の活動を通じて，「法と秩序」尊重の意識を社会の全平面に広げていく努力が重ねられなくてはならない。一言でいえば，「安全を軸とした市民の連帯の強化」に取り組まれなければならないのである。
[1] 前野育三 『刑事政策論』（法律文化社・1988年），10頁。
[2] しかし，刑法学と犯罪学との関係には，原理的に見てきわめて重要な問題が存在する。
両者の関係につき通常説明されるのは，刑法学・刑事訴訟法学が規範科学であるのに対して犯罪学・刑事政策学は実在科学であるという，科学としての性質の相違である。そして，犯罪学の対象とする犯罪の大部分は，刑法上の犯罪である――その意味で，犯罪学は特殊な実証科学であるとされる――が，犯罪現象の動態の把握，原因研究，予防法研究などは犯罪学に固有の対象であるという点，犯罪学よりすれば，刑法的諸制度（成文刑法典から刑罰・保安処分に至るまでの）も一つの犯罪予防・被害回復手段にすぎないという点が付け加えられる。これらの説明を通じて，刑法学と犯罪学とは姉妹科学であり，両者が並行して進められることによって，全体としての犯罪との闘争は前進すると結論付けられ，両者の相互依存，相互豊富化という性格が強調されるのが一般といってよいであろう。
しかし，問題の本質はむしろそれらとは別のところに，すなわち，刑法学と犯罪学とは二律背反の関係にあるのではないか，という点にこそ存在するといわねばならない。
つまり，こうである。刑事責任の概念抜きに刑法学は存在しえないが，その刑事責任の前提は「意思の自由」であるとされてきた。ところが，犯罪学の確信は犯罪行為の法則性，つまりは意思の非自由性にある。犯罪行為には原因ないし関係要因が存在し，この両者の法則的な相互関係を明らかにすることは可能（つまり，犯罪の原因を解明することは可能），と考えてきたのである。もし両者に法則的関係がなく，無規定な「意思の自由」により犯罪が行われ問題として登場してきたというのであれば，原因の解明も対策の検討も，一切は無駄ということになるであろう。かくして，犯罪学の発展は刑法学の根幹を揺るがすものであり，刑法学と犯罪学とは原理的な緊張関係にある――はずである。
だが実際にそうなってはいない。両者は並立状態にあり，わが国の場合にそうであるように，ときに犯罪学者は同時に刑法学者であり，むしろ刑法学を研究教育する「片手間に」犯罪学は論じられてきたのである。そのような事態を生んだ理由については，ここでは省略するが，おそらくは，1)刑事責任論における規範的責任論の優勢，そして2)犯罪学の未発達，の両方によってもたらされたものであろう。
[3] したがって，単に「犯罪学は諸科学の力のみで成り立つものでない。散在的な諸科学の成果を政策の中にとりいれ，効果的，現実的なものとし，実行してゆく力となるものは法律家に与えられた使命であり義務でさえある。」（菊田幸一『犯罪学』（成文堂・第6版2005年）12頁）というだけでなく，時として刑法学は犯罪学の検閲者という位置にも立つのである。
[4] 同じくコミュニティを基礎とした犯罪対応を志向するものであっても，1980年代以降アメリカやイギリスで広がっているとされる「コミュニティ司法」や「コミュニティ・ポリシング（Community Policing）」の考え方とは区別されるべきとの指摘（守山正「リストラティブ・ジャスティスとコミュニティ・ポリーシング」現代刑事法40号（2002年），宮崎英生「修復的司法の動向・15」法律時報2005年2月号）には，わが国におけるこの理論の受容のあり方について示唆するものがある。
[5] しかし，一定の集団の犯罪率やその傾向をもってその集団についての実体的意味を帯びた「犯罪性」として理解することを吉岡一男が批判するとき，その批判は「時間と空間などを適宜に設定して作り上げた枠の中で個別の行為を数えた結果に過ぎない」数値を「犯罪性」を表すものとして実体視することに向けられているに過ぎない。吉岡一男・刑事学[新版]（青林書院1996年）11-12頁。
[6] 政府は2003年12月，犯罪対策閣僚会議名で「犯罪に強い社会の実現のための行動計画──『世界一安全な国，日本』の復活を目指して──」を公表した。
[7] この点とのかかわりでは，2003年度の犯罪社会学会シンポジウム「犯罪は増えているのか」における諸報告，同シンポジウムのオーガナイザーであった浜井浩一の論文「日本の治安悪化神話はいかに作られたか──治安悪化の実態と背景要因（モラル・パニックを超えて）──」（『犯罪社会学研究』29号）が重要である。最近に公刊された河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』（岩波書店）で詳細に検討されている諸点は多くの示唆を与える。
それらにも明らかなとおり，この間の刑法犯認知件数の跳ね上がりについては，99年の桶川ストーカー事件および栃木リンチ事件における警察の処置への批判に応えて警察庁はその改善に向けた組織的対応をとったが、その「結果」として全国の交番・駐在所などの窓口での「警察安全相談」件数の激増（99年の34万4千件が00年には74万5千件、01年93万件、02年105万7千件へと、この3年間で3倍にまでなっている）が潜在していた事件の発掘につながり、認知件数を押し上げたことが大きい。他方，検挙件数の落ち込みについては，この間において検挙人員はむしろ増えている（93年から02年まで10年間に、29万8千人から34万8千人へ）ことの認識が重要である。つまり，検挙人員が増えている下で検挙件数は72万4千件から59万2千件へと急降下しているが、このことの意味するところは一つしかない──余罪調べが十分に行なわれていないのである（住居侵入盗などの一人当たり件数は8.3から6.1へと減少している）。
[8] たしかに，近年の刑法犯認知件数の増加は警察窓口での相談対応の改善と相談内容についての取り扱いの変化によるものが大きいと言えるであろう。だがそれを，従来表面化することのなかった多くの犯罪を顕在化させただけであるとするのであれば，従来すでに深刻であった事態に気づかなかったことこそが問題なのである。
[9] 2000年11月に国連総会で採択された国際的な組織犯罪の防止に関する国連条約が、共謀、資金洗浄（マネー・ロンダリング）、司法妨害などを犯罪とすることを締約国に義務づけたことから、同条約に加入するための条件整備の一環であるとして、政府は組織的な犯罪の共謀罪を創設することを提案した。しかし，単なる「共謀」だけで犯罪の成立を認める同法案はわが国の刑事司法の基本原則に反するものであり，弁護士会や学界から強い危惧と批判とが寄せられていることは当然である。同法案に関する国会審議はなお継続のまま2005年を迎えた。
[10] 国連開発計画『人間開発報告書1994』（国際協力出版会1995）、34頁。
[11] そのような試みはすでに開始されている。たとえば，立命館大学法学部を中心に現在進められている研究プロジェクト「グローバリゼーション時代における国際犯罪と人間の安全保障に関する総合研究」では，まず，欧米とアジアの諸国のテロ犯罪，薬物・銃器に関わる犯罪，難民・密入国問題，組織犯罪などの問題状況を正確に把握することがめざされ，それら犯罪現象の背後に存在するポスト冷戦世界の諸問題──旧社会主義諸国の経済崩壊と「南」の貧困からもたらされた豊かな「北」の国々への無秩序な人口移動，民族･宗教対立に根ざす地域紛争の続発，麻薬および銃器の流入，日米の経済的繁栄と「バブル」の崩壊，政治と経済の諸領域に明らかな腐敗現象，伝統的価値体系の動揺とカルト集団の流行・「原理主義」の活発化，など──を対象として検討し，それらが各国内外の犯罪現象に及ぼした影響を明らかにすることがめざされている。その上で，それによって得られた知見を基礎に，各国および国際機関の犯罪対策，刑事司法の抱える問題状況を検討し，伝統的な欧米型刑事司法（日本のそれも含めて）の有効性と限界，現行の国内法・国際法の限界を浮かび上がらせ，そしてさらに，国際人権保障の現状と進展を国際犯罪への対処との関係で，分析することが目的とされている。
実際の研究着手からまだ短いため，現段階で十分な成果が上がっているとは言えないが，問題の広がりと課題の重要性だけは明らかになってきつつある。そして，このような研究課題を政府機関に属さない研究者集団が扱うことの重要な意義も。すでに，研究の課題と対象の広がりに対応してアメリカ，カナダ，ドイツ，ロシア，中国，ベトナム等の研究機関や研究者個人を結ぶ研究ネットワークを構築しており，それぞれの間での研究活動の分担を協議している。
これらの研究成果と国際的なネットワークを基盤にして，国際犯罪に関する総合的かつ国際的な調査研究とそのためのネットワークの構築を拡充することを意図して，次の段階では，(1)国際刑事司法，(2)国際経済犯罪および(3)国際人権の分析と対応に焦点をあてて，グローバリゼーション下の犯罪と刑事司法に関する，より系統的，重点的な調査研究を試みることとしている。
[12] 「犯罪に対する不安感等に関する世論調査」社会安全研究財団（2002年）