「未完の刑法」をめぐって

                       上田   ェ(立命館大学教授)

 

学園紛争の時期に学生生活の後半を送ったために,何とも居心地の悪い未達成感にとらわれて,大学院へ進むことを決め,法学部のゼミ指導教授である中山研一先生の下で刑法の勉強をすることとなった。1970年のことである。佐伯千仭先生の『刑法における期待可能性の思想』に収められた諸論文と格闘しながら,それと並行して平場安治先生の授業でR. Langeのドイツ語テクストを読み,また「刑法読書会」で関西の各大学の刑法の先生方,大学院生達と一緒に勉強した──外国の刑法文献の紹介を中心に,多くの報告を聴き,議論した。

その中で私の関心は,刑法理論の背後に見え隠れする国家論や犯罪と刑罰の本質の問題に自ずと向かった。それは,佐伯先生の「期待可能性論における国家標準説」とか中山先生の「実質的責任関係」とかの主張が,権力あるいは国家が犯罪者に対して何を期待し,何を求め,何を処罰するのかを,突き詰めて解明しようとするところに出た議論であると理解し,私もまた自分なりに,それらを研究したいと考えたためである。この問題を考える中で,関心は刑法の階級性の問題へと進み,その具体的な研究対象として社会主義体制下にあるソビエト刑法の実体をどう捉えるかという点に,関心は収斂していった。

ソビエト・ロシアの刑法に関しては,当時すでに宮内裕先生,井上祐司先生,そして中山先生などの研究が公表されてはいたが,それらはすべて第二次世界大戦後のソビエトの刑法文献に依拠する研究であった。しかしその他方で,1920年代の彼の地の刑法理論の一端は著名なパシュカーニスの『法の一般理論とマルクス主義』やピオントコフスキーの『マルクス主義と刑法』といった著作を通じてわが国でも知られており,そこに紛れもなく示されていた新派的な刑法思想への傾斜からの断絶は,一種不可解な変身として放置されていたのである。一体何が起きたのか。

事実を確定してその評価を,という手順をとろうにも,20年代のソビエト・ロシアの刑法に関係する文献資料を入手すること自体が,難問であった。京都大学の法経館から赤煉瓦の研究棟にまたがる地下の書庫に籠り,少しでも関係のありそうな資料を漁り,またよく知られたソビエト法研究者である東京大学の藤田勇先生や名古屋大学の稲子恒夫先生にお願いして,両大学の所蔵する雑誌などを見せていただくこともした。が,主要な文献資料は,当時オランダやアメリカの研究機関が整理して販売し始めていたマイクロフィルムとマイクロフィッシュであった。大学の図書室の薄暗い片隅で,マイクロフィルム・リーダーの画面に見入ってノートをとり,不鮮明なプリントを読み解こうとした頃の苦労を,実感として知っている研究者はもう少ないだろう。

この時期,その理由の分析はここでは措くが,刑法分野だけでなくソビエト・ロシアの法理論に関心を持つ研究者・大学院生は全国に相当数おり,それら研究者・大学院生の共同研究の場として,もっぱら科研費による大学の枠を超えた研究会が機能していた。私も,指導教授である中山先生の示唆もあって,東京大学および名古屋大学の関係教員・大学院生を中心とする研究会に参加させていただくことが多かった。そこで得られた研究上の便宜も,関心の一端を共有する同世代の研究者との交誼も,その後長きにわたって私の大きな財産となった。

ソビエト・ロシアにおける刑法理論は,結局,革命当初の素朴な,唯物論哲学を基礎とする新派刑法学的な思考から,30年代に大きく転換して客観主義的な犯罪論と責任主義的な刑罰論へと変質したのであるが,その間にあってこの転換を先取りしまた条件づけたのは,犯罪学研究の状況であった。20年代に堰を切ったように開始されたソビエト・ロシアの犯罪学研究について,一連の資料でたどり,またドイツの犯罪学関係の雑誌に掲載された多くの紹介や研究を読むことで,私は先のような認識を段々と固めていったのであるが,そこにLouise ShelleyPeter H. Solomon Jr.の初期ソビエト犯罪学に関する研究が発表され始め,俄然,意を強くした。私と同じような関心でこのテーマに取り組んでいる研究者がいる,鉱脈はここにある,と確信したのである。

立命館大学法学部に勤務するようになってからも,ソビエト・ロシアの刑事法と犯罪学は私の大きな関心対象であり続けたが,1981年と91年の2回にわたって,学術振興会派遣研究員としてモスクワに赴き研究生活を送った中で,テーマに関する社会実態と国家の施策の具体的な状況とを散見し,また科学アカデミーの国家と法研究所に所属する研究者の何人かと意見交換することはできたが,しかし,30年代の転換期のことについてはむしろ私の方が詳しいような有様であった。さらに,研究所にも大学にも学問的な精気がうかがわれず,社会全体に沈滞した空気を感じさせられたことであった。

91年の夏にモスクワで発生したクーデターの際には,私はたまたまその現場に居合わせることとなったが,この事件を一つの契機としてソビエト体制は崩壊に至り,私の研究対象とした犯罪現象を統制していたソビエト国家,その土壌であった社会制度そのものが,雲散霧消の経過を辿った。まさに歴史という怪物の荒業を見た思いがしたことである。だが,犯罪という現象も刑罰という制度も,また刑法理論も,それら自体が消滅したわけではない。であれば,何が変わったのか。古着のように放擲された「ソビエト刑法」なるものが,歴史的に見てどのような存在性格を持った刑法であったのかを見極めることこそ,刑法学・犯罪学の研究者としてなおざりにできない作業である。広く捉えれば,刑法学が20世紀の歴史過程にどのように対応し,変動していったか。また,どのように未来を展望したか── それは,ある意味において,かつての佐伯先生の問題意識とも重なるものがあるようにさえ思われた。

この課題についてはその後作業を続け,すでに,わが国でソビエト・ロシアの刑法を研究してきた最後の二人となった私と畏友・上野達彦三重大学名誉教授の研究活動を振り返る形で,モノグラフィー『未完の刑法 ─ソビエト刑法とは何であったのか─ 』(成文堂・2008年)に一応のまとめを示した。これを単なる「墓碑銘」とするのではなく,今後に向けての課題の洗い直しの試みと