は し が き

 

今日,わが国の刑事法学の領域において見られる顕著な特徴は,理論的な対向軸の消失という状況である。

そのような状況をもたらした諸事情の底流にある最も基本的な要因は,おそらく,前世紀の90年代以降の世界の一極化──つまりは対抗陣営としての社会主義諸国の自壊という事実であり,またわが国における奇妙な政治的無風化状態であろう。また特殊に刑事法領域に関わるもう一つの要因としては,この間の「司法改革」の与えたインパクトも忘れてはならない。間もなく開始される法律的素養のない素人による「裁判員」裁判は,極力平易な用語を用いた平明な手続きを要求するとともに,同時に,日本型法化社会を支えるべき大量の法曹を養成する法科大学院では「実務との架橋」こそが評価軸に置かれ,かくして法律学(ここでは刑法学)と実務との距離は一挙に消失することとなる。今や適否のみならず当否・正邪の判断基準は実務,判例と検察機関の実務であり,刑法「学」はかぎりなく軽薄化せざるをえない,のかも知れない。

   しかし,このような事態ないしその理解は正常なものであるとは考えられない。それは刑法学の本質に悖るものである。

   刑法学は,本来,国家による刑罰権の発動を抑制する原理を説き,刑事責任の限界を明らかにすることを課題とする科学である。である以上,実務との緊張関係はこの科学にとって必然であり,ときに暴走し,ときに政治権力の恣意に屈する実務を制御し,また支えるところに,その本質的な存在理由がある。権力・権威への迎合は刑法学の自殺行為である(象徴的なものとして,近時の法制審議会刑事法部会の作業には多くの懸念すべき点があるが,ここでは触れない)。

そのような刑事法の本質についての考察を進める上で,見落とされるべきでないのはソビエト刑法の存在である。それは,すでに消滅した一国の刑事法システムとそれに関わっての理論作業とからなる総体であるが,犯罪を何よりも社会的諸条件に規定された法則的な社会現象と捉え,それに対抗する刑事法システムの階級的性格を鋭く指摘する点において,従前の刑事法および刑事法学に対する根底からの批判者として登場したものである。事実として歴史上に存在したソビエト刑法は,しかし,多くの点において大陸法的な法システムと類似のものであり,その理論内容も,積極的な理論体系を提示するには至らない一つの「批判の体系」にとどまった側面が大きい。

今日の段階でこのソビエト刑法を「未完の刑法」として再検討する本書は,したがって,その理念像を復元するとともに,その内包した原則的な問題性を明らかにすることによって,現在のわが国の理論状況にも刺激的な一視座を提供しうるものと考える。

本署の課題は,歴史的な事実としてのソビエト刑法の全体像を明らかにするとともに,その今日的な意義を再検討することにある。そのような課題を設定するに至った問題意識はすでに述べたとおりであるが,そのような課題に接近する具体的な方法として,本書の「目次」に掲げたとおり,歴史的な跡づけとともに個別項目ごとの内容の検討をも行なうこととしている。

まず,ソビエト刑法の登場するに至った前提条件を,マルクス主義刑法思想と帝政ロシアの刑法学の双方向から明らかにした上で,それらが1917年のロシア革命を経て,特殊にロシア的な展開を見せていった過程を追い,30年代のソビエト国家において一つの原型に到達する経過を明らかにする。そして,それらが各領域における「西側」の制度ならびに理論に対抗して展開したところを確認しようとする努力が跡付けられている。ソビエト刑法は,僅かに60-70年ほどの期間のみ,ロシアおよび連邦を構成したソビエト諸国に存在したに過ぎない(一定の範囲で東欧諸国等にその亜種を生みはしたが)のであるが,その刑事法規範においてのみならず,刑法理論(犯罪論と刑罰論)においても,刑事訴訟法理論および犯罪学においても,西欧(およびわが国)の刑法とは異なった多くの特徴を備えていた。重要なことは,それらが,単にロシアという地域的な特質に規定されての偏倚ではなく,マルクス主義理論と社会主義的政治社会構造とに対応した必然的な展開(その試み)であったことである。本書ではその事実を具体的に示し,検討を加える。その論述を通じて,刑法と社会諸関係との交錯を確認し,刑法理論の基本的な性格と課題とを浮かび上がらせることを狙っている。

したがって,本書は『未完の刑法』としてのソビエト刑法の全体像を浮かび上がらせることを直接の目的とするものではあるが,それは同時に,今日の刑法全体の課題を歴史の視点から逆照射するものとなろう。

このような形で本書をまとめるにあたって,あらためて,私たちの恩師である中山研一先生への,そして今は亡き木田純一先生に対する,深い感謝の気持ちを新たにしている。また,出版に際して今回もさまざまなご支援をいただいた株式会社成文堂の阿部耕一社長ならびに土子三男編集部長には,心よりお礼申し上げたい。

そして,いささか異例のことではあるが,わたしたちそれぞれの妻,大学教員であり刑事法研究者であるわたしたちの日々の平板な執務を支え,また見果てぬ夢を追いかけるかのようなその研究活動を大らかに見守ってくれた上田三砂子と上野順子への,言葉に尽くせぬ感謝と連帯の想いをここに書きとめることを許していただきたい。

 

2007117

                                    上田 

                                上野 達彦

 

 

 

 

 

 

*本書は立命館大学学術図書出版推進プログラムに基づく助成を受けて刊行されたものである。