アカデミー・ホテルのレストランにて


 家族の到着までの一ケ月余り、オクチャーブリスカヤ広場のアカデミー・ホテル八〇七号室に居た。ライラックの花からトーポリの綿毛に移る頃で、東南に向かった窓からは、朝三時過ぎから陽が対し、暑さに窓を開け放つと向い側の市電車庫の騒音がとび込み、睡眠不足になりそうなこともあった。部屋の調度は、ベッドと勉強机を除けば、長椅子と小卓ぐらいのもので、あまり落着かなかった。ロシア語に慣れるためにも、一目中ラジオをつけっぱなしにしていた。
 この時期、私は、研究所での作業を開始するための諸準備手続や、私自身の滞在期間の延長手続(理由不明のままに、当初、私へのVISAは四ヶ月しか発行されていなかった)および家族を呼びよせるための諸手続などのために、研究所およびアカデミー対外部のペチェネフ氏その他との交渉に多くの時間をとられ、落着かない日々を過した。

 ある夕方、食事をとるためにホテル一階の悪名の高いレストランに入った。最初の晩の経験──頭がわれるようなバンドの騒音──に懲りて、できるだけ早い時間に夕食をとることにしたのだが、例によって客は二、三名しか居らず、他方、ウェイトレス達も見当らない。所在なく入口付近で五分間ほど立って、現われた責任者の女性に指示され、六〇年配の男性との相席になる席にむかった。彼に向いあった椅子には上衣が掛けられていたが、ここに座ってもよいか、と尋ねると、それを黙って目分の側に引寄せ、三、四個ならんだ勲章がちゃんと上になるように整えて、掛けなおした。座って、あらためて見てみると、これは一風変わった人物である。陽焼けした顔で、かなりくたびれたワイシャツ、ノーネクタイ。テーブルの上に新聞紙で包んできたらしいパンとトマト、ハムをひろげ、これは注文したらしいサリャンカ(塩味スープ)を一口ひとくち、ゆっくりとすすっている。アカデミー・ホテルは、本来、研究者を中心とした客が滞在することになっているようなのだが、彼はどうもそれらしく見えない。スプーンを口に運びながら、時々、私の方をうさん臭さそうに見ている。
 先日と同じウェイトレスのマリーナが現われて挨拶し、私の注文を聞いて去っていくと、彼は紙包みから青いトマトを出して私の方に差し出し、食えと言った。これを丁寧に断わると、「どこから来たのか」との質問。
 「日本から」と答えると、
 「東京にも大きなレストランはあるか。たとえば、ここみたいな?」
 「勿論、たくさんある」
 「そこでも、ウェイトレス達はこんな風に無愛想で不親切か」と、マリーナが去った方を眼くばせする。何か、おもしろくないことがあったのかも知れない。
 尋ねてみると、彼はウラルから来たという。モスクワヘはオペラーツィヤのために来た、とのことだが、軍人であるようにも、病人であるようにも見えないので、暖昧な返事しかできない。
 「ウラル地方には行ったことがないが、どんな所か」と聞いてみる。
 「広いぱかりで何もないよ。モスクワとは違う。ま、金さえあればどうでもなるがね」と、紙幣を数える手つきをして、片目をつぶって見せた・
 私が京都に住んでいると言うと、東京と京都はどれ位離れているのか、広島に行ったことはあるか、今も広島には草一本生えていないのか、などと尋ねてくる。暇をもて余ましていたらしい。だが、
 「東京と広島はどのくらい離れているのか」
 「一〇〇〇キロくらいのものだと思う」
 「そんなに遠いのか。でも広島とアメリカとはもっと近いんだろう?」と不思議なことを言う。
 「間には太平洋があるから、ずい分離れている」と答えると、彼は驚いたようで、
 「そんなに離れていて、アメリカの飛行機はどうやって爆撃できたんだ?!」と言うのには唖然とした。彼の頭の中にある東洋の地図は、おそろしく歪んだものであるらしい。ウラルと日本との距離はとてつもなく大きいということだろう。
 話は日本の機械製品、物価、教育水準といったことへと続いていった。モスクワに比べると物価は高いということから、彼が「お前の賃金はどれ位か」と聞くので、多少考えたのだが、六〇〇ルーブリ位いだと答えておいた。彼はさも感心した風で、「いい賃金だ」と何度も言う。そこへ、料理を運んできたマリーナも加わって、「奥さんは働いているのか」、「どんな家に住んでいるのか」、などと質問する。彼女は最近離婚したとかで、「男は働いて家庭を支えるべきだ。何といっても稼ぎが大きいことが大切で、妻子に経済的な苦労をかけるようなら、それは男じゃない。そうだろう?」などとまくしたてる。
 話の途中で、私の職業のことが出て、専門を聞かれたので、法律家だと答えた時は面白かった。二人共、愕然とした風で黙ってしまい、前の男性が「それじやあなたは検察官か」と尋ねてきたので、かえって私の方があわててしまい、「いや、学者だ。大学で教えている」と答えたのだが、ソビエト市民一般の法律家という言葉に対する感覚のようなものが窺われて、興味深かかった。
 問題はそのあとになる。マリーナが去ったと見ると、前の老人がやおら、「一〇〇ルーブリ、自分に呉れ」と言い出したのだ。
 「お前は金持ちで、自分は金がない。昨日、持金の一四〇ルーブリを落としてしまったので、帰りの列車の切符を買うこともできない。用立ててくれないか」、とのこと。私の方は驚いてしまい、「何を言っているのか理解できない」と言うと、
 「金だよ、金。解らないかなあ」と、例の母指と人指し指をこすり合わせる仕ぐさをする。だが一〇〇ルーブリというと、こちらの人々の平均賃金の三分の二に近い額だ。それを初対面の、しかも外国人に、あっさりと要求してみせる、その感覚が解らない。「一〇〇ルーブリぐらい、何でもないだろう? お前は金持ちだ。だが、自分は哀れな老人だ」と、彼は繰り返している。
 「奇妙な話だ。大体、自分は金持ちでも何でもない。先程話したように、日本の物価や生活費用のきわめて高いことを考慮すれば、私の賃金など、平均的なものだ」、と私。だが彼は動じる風でない。「それでもお前は金を持っており、自分は金をなくして困っている。解るだろう?」と、こちらの顔をのぞきこむようにする。
 「いや、解らない。大体、私には、あなたに金を払う理由が理解できない」
 「自分は金をなくし、帰省するための費用に困っている。このような悲惨な状態が充分な理由にならないかね?」 彼はさも驚いたかのように、真面目に私に尋ね返してくる。
 その時、私は気がついた──これはトルストイやドストエフスキーの世界だ。私の目前に座っているこの老人は、たしかに背広を着て、その胸には何個かの勲章がぶら下がってはいるが、ロシアの偉大な作家たちがみごとに描いてみせた典型そのものではないか。彼は頼りなげである一方、自信に満ちた風でもあり、善良そうであると同時に狡猾で、何よりもしたたかな骨太さを備えている。もしかしたら、正論を口にしているのは彼で、私は不人情な若造なのだろうか。思わず私は周囲を見まわした。── 一九八一年六月のモスクワ。窓の外のドンスカヤ通りを走る乗用車の車体に、まだ高い西陽が照り返している。まぎれもなく生きた、現実のモスクワなのだが、私にはその現実感が急に頼りないものに感じられはじめた。
 時おり、マリーナが料理を運んできたり、他の客が横を通ったりする時には彼は黙り、人が居なくなると続けるといった、こんな話が一時間近く続いた。だが、最終的には私が拒否すると、何事もなかったかのように、モスクワの印象や、私の専門の話に戻ってしまい、その問も彼はゆっくりとサリャンカをすすり、トマトをかじり続けた。食事を終って、私が立去る時も、彼はそのまま、私の「さようなら」に口の中でつぶやき返しただけだった。彼の印象はその後も、長く私の中に残りつづけた。

 こんなこともあった。例によって早目の夕食をとっていると、私の前の席に中年の外国人が座って、ウェイトレスを呼ぶのだが、誰も近づいてこない。彼は私にむかって、英語で、「いったいどうなっているんだ? この国では水一杯飲むことも不自由だ」と、猛烈にまくしたてる。その問に、ウェイターのサーシャが現われて、注文を聞こうと構えるのに気づいて、彼は水とコーヒーを要求した。それ以上には何も注文しないので、首をかしげながらサーシャが去ると、彼は私に話しかけてきたが、早口の英語で、よく聞きとれない。ニューヨークから来た技術者で、地方の研究所をまわってきたらしく、二、三日後には帰国するとのこと。不気嫌な顔で、「ロシアには何もない」、と彼は言う。「部屋には冷房がなく、街に出てもタクシーはつかまらず、商店はいつも休みだ....」 だが唯一、「モスクワの治安はいい。ここでは夜の一〇時を過ぎて街を歩いていても安全だ。ニューヨークでそんなことをすれば、これは自殺みたいなものだ」と首をかき切る仕草をしてみせた。サーシャが例の、カスが浮いたようなコーヒーを持ってくると、彼は持参したビニール袋を開いて、粉末クリームを取り出し、コーヒーに加えた。手早くコーヒーを飲んで、彼は立ち上がり、「いくら払えばよいか」とサーシャに聞いている。サーシャの方は、テーブルを片付けながら、めんどう臭さそうに「金はいらない」と言っているのだが、アメリカ人には解らない。私の方を向いて、
 「何と言っているんだ?」と聞くので、「金を払う必要はない、と言っているんだ」と言うと、彼の表情は一変した。
 「それはすばらしい。モスクワのレストランには水はないが、コーヒーは無料。これで、モスクワの良い点は二つになった。安全とコーヒー、モスクワ・ハラショーだ!」と、手を広げて、大げさに感謝のポーズをして、足どりも軽く彼は出ていった。それを見送りながら「たった一五カペークだし....」と、サーシャが首をかしげながらつぶやいていた。

 七月の初め、思いがけず結婚披露宴にぶつかった。八〇七号室に居た時から、階下が騒がしく、裏庭の駐車場で車から色とりどりのテープを取りはずしているのが見えたりしていたが、レストランに入っていくと、その三分の一ほどの一角が披露宴にあてられていた。うす水色のドレスを着て帽子からも同色のテープを長く垂らした花嫁の隣に、ダークスーツを着用した年若い新郎が座わり、三〇人ほどの出席者とともにかしこまって、幅広のタスキをかけた恰幅のよい婦人が立っての演説を聞いている。席が離れているので、内容は聞きとれないが、おそらくは地区ソビエトの代表者か何かだろう。そのあとも、次々に何人かが立って祝辞を述べ、乾盃の音頭をとる。時おり全員が「ゴーリカ、ゴーリカ(苦いぞ苦いぞ)」とはやしたて、若い二人が立上って接吻するのだが、花嫁よりも花婿の方がはずかしそうで、見ていてほほえましかった。柱にもたれたりして、マリーナをはじめ、二、三人のウェイトレスが遠くからながめている。花嫁の品定めでもやっているのかも知れない。何となく冷ややかな感じだ。
 若い男女がステージの端でごそごそしていると思ったら、やがて、いかにも古ぼけたレコードプレーヤーからけたたましい音楽が聞こえはじめた。音がわれていて、何を歌っているのかまったくわからない。
 だが、席についていた一団はその周囲に集まってきて、思いおもいに踊り始めた。例によって、まったく統制なしの、ただ体をゆすっているだけのようなダンスだが、どの顔も楽しそうで、花嫁も花婿も、さも熱中したかに踊っている。彼らはアパートを手に入れることに成功したのだろうか、一緒に休暇がとれるような労働条件なのだろうか、家事や育児を手伝ってくれるバーブシカ[おばあさん]があるのだろうか、などと思ってみたりする。「君たちの未来に幸多からんことを!」と眩きながら、私はレストランを出た。

   * 『それぞれのモスクワ ─ アカデミー村の十カ月 ─ 』(自費出版・1983)所収

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