北京・人民大学
                                 2001.12.15-18.

12月15日
 結局、これほど早く着く必要はなかったのだ。京都駅地下のJALカウンターで手続しながら、H先生に謝っては見たものの、自分自身、後一時間は寝ていられたのに、との気持ちも強い。──深夜2時まで、討論会の「講評」を書いて、送ってきたのだ。
 関空では、しかし、時間を潰すのに苦労するというほどでもなく、30分遅れで離陸した日航機に乗り込み、うつらうつらするうちに、眼下にちらちらと、整然と区画された農地が見えてくるようになった。中国大陸だ。
 北京空港は新しく作られたひたすらにただっ広い近代的な建物だ。至るところに簡体漢字で書かれた注意書きが目立つが、何一つ理解できなかったソウルでの経験を思えば、この方が格段に好都合だ。だが、それにしても、入国事務手続の手順の悪さはどうにかならないものか。審査の列は遅々として進まず、かなりに疲れた。
 人民大学法学院からの迎えの学生らしい男性が待っており、彼の案内で空港の外の駐車場に向かい、運転手とともに待機していた乗用車──中国仕様のフォルクスワーゲン──に乗り込み、市中へ。遅れている(もちろん今朝から始まったはずの会議には遅れているが)とでもいうのか、かなり荒っぽい運転で疾走、こちらとしては気をもんだが、どうということもなく、約30分で到着。
 車窓から見た街の印象は、建設途中の大きな建物が多いこと、車の数が多く、それらのかなりが外国車であること、今の季節ではもちろん緑がなく、どことなく埃っぽい、という程度。道路は広く、よく整備されている。市中に入ると途端に自転車が増えた。
 人民大学もまた茫漠とした大規模な施設群で、東門から構内に入る。所々にある赤い横断幕「アジアの法学教育の改革と発展に関する21世紀フォーラム」をたどりながら法学院へ。しかし、これは不思議な建物で、ホテルが半分、ロースクールが半分といった構成、玄関には制服を着たドアボーイがいて、われわれの荷物を運んでくれる。とりあえずはフロントで手続の後、部屋に荷物を置き、階下の会議室へ。
 会議は100人ぐらいの規模だろうか、各机に同時通訳施設(Sonyの)があり、イヤホンを耳に多くの人が中国語の演説に聞き入っている。
 日本から東大のNさんと早稲田のKさんが参加していることをここに至って初めて知った。しかも、報告要旨集を見ると、彼らの報告で主要な論点は尽くされているではないか。日本から誰と誰が出席するのか、予め連絡しなかった人民大学のことを呪いながら、報告内容を手直しすることを決意、その旨Tさんと相談(Nさん・Kさんも予め誰を呼んだのか連絡しなかった人民大学を批判していたが、彼らは1日目、われわれは2日目の報告だ)。
 夕食は大学の食堂と思しき建物の2階で宴会。曽憲義院長の席に外国人一行が座らされ、さまざまな話。刑法の大家との老先生が向かい側のモンゴルの教授とロシア語のいくつかの単語を交わしているのに気づき、割り込もうとしたのだが、どうも当方のきちんとしたロシア語は不評のようで、乗ってこない。ともあれ、そこそこに談笑するうちに曽憲義院長の挨拶で幕に。
 宿舎に帰り、電話の説明を探したのだが、中国文のものしかなく、仕方なくTさんに確認してもらい、デポジットとして200元をフロントに預けることで国際電話も可能ということが判明、H先生手持ちの200元を3000円で買い、フロントに持参、妻への電話に成功した。
 H先生の部屋で、来年6月のシンポジウム企画をめぐる(らしい)曽院長とのいささか危なっかしい協議を聞きながら、なぜこれまで私はここに来ることに抵抗してきたのだろうか、と考えていた。H先生は明日帰る、とのこと。


12月16日
 急ぎ手を入れた報告原稿をTさんに送ろうと、彼の家のFAXを呼び出しても果たせず、そのまま寝た朝になって、やっとこのHotelのFAX番号を割り出し、送信。
 朝7時半、階下に降りてフロントで、私宛のFAXが届いているはずだと告げると、どうも費用を請求されているらしいと思っているところへTさんが到着、彼に立て替えて払ってもらった。たしかに、コピーサービスが有料であれば、FAXの受信も有料であって当然だ。教職員食堂らしい小さな建物での朝食は、まったくもってパッとしない。カステラ状のパン一切れ、ゆで卵、ミルクコーヒーといった程度のものにしか手が出ない。塩がないので要求。
 8時半から始まった会議の冒頭での報告はどうということもなし。N・K両報告との重複を避けるために、学部教育とロースクールの関係、ロースクールと司法研修所との関係などを中心に再構成したもの。それなりの拍手があり、ベトナムの先生からは司法試験予備校のことについて質問のペーパーが回ってきた。
 11時過ぎに約束どおりKm二世が現れ、父君から預かった荷物を渡し、多少の打ち合わせ。今夜と明日の空いた時間に北京を案内してもらうことに。アルバイト代10000円の約束。携帯:13001257541。
 12時50分に会議は終わり、市中の著名なレストランでの「フェアウエル・バンケット」に数台のバスで出発。北京ダックの店。ここは美味しかった。公式日程は終わっていることでもあり、N・Kといった先生方も和やかな雰囲気。3時ごろになり、宴が終わるとともにH先生は空港へ。大連経由で帰国されるとのこと。
 私はKm君に伴われて天安門広場へ。
 予想以上に広い。そして、まさに歴史の上に自分の足で立っているというような、不思議な感覚。
 土産を見繕うために、秀水市場へ。具体的にここがどこにあたるのか、位置関係がはっきりしないのだが、タクシーを降りたのは変哲もない住宅街の一角、Km君によれば、大使館が並ぶ地区だとのこと。通りの向こうから、両手に膨らんだビニール袋を下げて欧米人の何人かが歩いてくる。その先に、露店街のようなものが見えてきた。2メートル程度の「店」が多くの衣類やスカーフ、ネクタイ、帽子に埋もれるようになって、何百メートルも連なっている。人ごみの中を通り、Km君の勧めで時計(明らかに著名ブランドのコピー商品)のいくつかとネクタイを土産に買い、200元余りを払った。だが、やはり帽子はない。
 帽子を探して「当代商城」デパートへ。これまた雑踏の各階を急ぎ足に帽子売り場をさがし、形とサイズを選んでいると、結局は黒い山羊皮の帽子しか残らない。妻が何と言うか、と思いながら、これを購入(90元)。
 Km君とは、明日14時に再会を約束して一旦別れ、N・K両先生と共にタクシーで王利明先生の招宴に湖北飯店へ。
 チャイナドレスのウエイトレスをはじめて見た。


12月17日
 朝食── 不思議だ誰もいない。相変わらず塩もない。それらしく中国語で「yen!」、ちゃんと通じた。
 8時半に階下に集合。長城に行くのはどうも6人、ベトナムからの3人とインドネシア人の教授、そしてNさんと私。案内は趙君(日本語を勉強中とのこと)ともう一人の女子院生。二人ともてきぱきと初々しく、好感が持てる。マイクロバスに乗り込み出発。
 後部座席にNさん、インドネシア人教授と座り、雑談しながら、よく整備された道路を疾走。Nさん。ほぼ同じ年齢、父上は国鉄労働者ということで、自然に親近感が湧く。
 1時間あまりで到着。簡略体で解りにくいが、八達嶺という地名らしい。凍てついた地面にわずかに凍った雪が残ってはいるが、よく晴れた観光日和。「長城を見ずして好漢なしと言いますから、皆さん今日から好漢です」と、精一杯に日本語を操って趙君が言う。駐車場の周囲には無数に土産物屋が並ぶ(昨夜あれほど探した毛皮帽が....)。ベトナムとインドネシアの先生方は帽子を買っているが、「僕は大丈夫です」と、Nさんは買わず。
 あとはひたすら歩く。
 北方の民に対する恐怖がこれほどの構築物を作らせ、それを維持するために多くの兵士と農民・労働者が駆り立てられ、しかも結局は数次の異民族の侵入とその王朝を許した事実が一方にあり、しかし他方では、この場所に忘れられたように半生以上を過ごした守備兵やその家族も居たのだろうと思うと、風景はかなりに残酷だ。それでも、今日の観光資源としての価値は絶大なのだろう。近年の整備はもちろんそのためのもの。
 いろいろなことを思いながら、急勾配を上り、荒涼とした風景に見とれ、また上ることを繰り返す。途中、随所で土産物を売る売店があり、ラクダや蒙古馬を使っての写真屋が客を呼んでいる。予定の三分の二ぐらいの所で「もういいよ」ということになり、引き返すことに。
 帰途についたのだが、どこかで昼食を取ることになっているらしく、普通の食堂らしいところへ。趙君と女子院生が長々と相談して、次々と注文する一方、長い注ぎ口のある薬缶のようなものを持った男性がわれわれの茶碗に湯を注いで回る。茶碗の中はさまざまな植物の乾燥した小片が入っており、暫くするとお茶らしいものになった。料理の方は過剰に豪勢な皿が次々に出てくる。量を間違ったのではないか、と思うほどに。インドネシア人はあらゆる物に猜疑の目を向け、豚を避けようとするのだが、そもそも餃子にしてからが豚を使っているし、だしや調味料まで行くとこれは難しい問題だ。「pao」のような発音の動物の肉だという一皿、しかし豚でもなく、狢、狸、みんな違うと趙君。その傍らでベトナム人の女性は香辛料が足りないと、唐辛子を持ってこさせて料理に振りかけようとする。要するに、料理一つをとっても、国際的な相互理解と相互受容とはいかに困難かということだ。
 いざ出発、となったが趙君と女子院生とが店主となにやらやりあっていて、なかなか終わらない。おそらく料理の代金を値切っているのだろうが、だいたい、多くの品を注文しすぎなのだ。
 定陵、明朝万暦帝の墓所だという。駐車場に着いたところで、ベトナムの教授たちがここで別れて先に帰りたいと言い出した。タクシーで帰る、というのだが、タクシーなどどこにも見当たらない。趙君たちは困ってしまってあれこれとやり取り、Nさんの仲裁で、ともかく駆け足で定陵を見学して帰ろう、10分で、ということになったのだが、ベトナムの先生2人は来ず、車に残って待っていると言う。われわれは慌しく見学に。しかし、これはどうということのない遺跡で、ただ地下の宮殿=墓所だけが珍しいもの。少々がっかりしてバスに戻り、心なし不機嫌なベトナムの2教授と合流して北京市内へ。
 予定よりさらに遅れて、16時20分にホテル=法学院に帰着。
 Km君と、どこに行くかと相談したが、18時30分にTさんとの夕食の約束があるので、あまり遠くには行けない。思いついて中関村のコンピュータ・デパートへ連れて行ってもらうことに。とりあえず目立つデパートに入ったのだが、驚いた。まず広さ──秋葉原のラオックスの数倍はあるだろう1フロア当たりの面積で8階建て。各売り場に商品と客とがぎっしり詰まっていた。「もの凄い」としか表現しようのない情景。時間がなくそれぞれの商品を見て回るわけにいかないが、IBM機などの値段を確認すると、日本での販売価格とさして変わらない。それでも売れるのだ。
 タクシーの都合で、やはり東門にしか着けられないそうなので、Km君と人民大学の東門から西門まで歩き、そこで彼とは再会を約束して別れ、今度はやってきたTさんと東門の方へ歩き始めた──ところで、都合よくタクシーが現われ、タクシーを駆って東門の向かい側にある中華料理店へ。
 Tさんと夕食。これはなかなかに興味深い人物だ。相当に若いのだが。かつて吉林省の大学生だった頃にM先生が講義に来たことがあるが、きちんと受講しなかったとか、天安門事件の頃には大学の学生代表として広場での行動に参加していたのだが、事件のときはたまたま一時帰郷していたこととか、現在の彼の立場からすると意外な話が出てくる。以前に早稲田大学に留学しており、その際に成文堂の紹介で中山先生に会い臓器移植法についてうかがう機会があり、それが『脳死と臓器移植』という新書になったのだそうで、彼はすでにその中国語訳を終えつつあるとのこと。
 再び人民大学の東門から西門まで歩き、ホテルの前でTさんと別れ、部屋へ。明日は朝早めにチェックアウトして、故宮へ行くことになった。

12月18日
 朝6時半に起床。ごそごそと荷物を整理しながら、Tさんを待ち、故宮へ。
 天安門のまさに毛沢東の肖像の下をくぐるような門を通り、故宮域に入ると、かなり広い空間があり、周囲にかつての愛妾や使用人たちが住んだといわれる建物群、その広場の一角では兵士たち──守備隊だろうか──が整列して点呼を受けている。その先がかつての紫禁城の門となっており、中へ。しかし、そこから先はむしろ映画のシーンを思い起こさせるものばかりという、パラドックスを経験しただけ。現実の方は汚れくすみ、冬の陽射しを受けて白々とそこにあっただけ。

 早めに空港へ。これは正解だった──出国管理の手続きを求めて長い列ができている。この中国人の大群は、一体どこへ行こうというのか。



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