釜山大学出張

                                2001.06.22〜24.

6月22日
 例によって早朝に京都駅に集合、徐、大**、山*、徳*、岡*そして私の一行6名。今回は関空での手続の時間が短く、多少慌てたが、何とかJAL657便に乗り込み、1時間半で釜山へ。入国審査は簡単に通過したのだが、手荷物のX-rayで引っかかった──不思議なことにThinkPadの申告が必要だという。が、控えもくれず。
 空港を出ると、釜山民主公園の館長・KIM氏が待っており、簡単に挨拶の後、中型の乗用車に全員を詰め込んで市街に。空港とは比較的に近い。30分ぐらいのものか。坂道が多く、傾斜地にも建物がひしめいている。そこかしこに「現代」のマークがついた高層マンションが建ち、車と人々が激しく往来している。光復洞という通りのレストランに入って昼食。「争盤」というのだそうな料理:キムチ鍋の後に麺を入れたようなもの?「国際市場」(朝鮮戦争後の混乱期の北からきた人々の露店から始まったとのこと)を歩き、魚市場を見たりして「民主公園」へ。
 市街を見下ろす丘の上にステンレスの炎のオブジェを備えた白い博物館が建てられ、戦後の韓国の民主化運動に関係する諸資料が集められている。写真が中心だが。それにしても、この国の民衆は大変な試練を経てきたものだ、と改めて思う。激しい国民性、激しい闘争の歴史。高校生向けだというビデオもよくできていた。屋上の展望台から釜山市内を一望。たしかに大きい市街が日本海に向かって広がっている。
 ホテル:Sangnam会館。部屋につくなり、コンセントの形状が異なることに気づき、一騒動。結局はフロントで大きなトランスを貸してくれたことで解決。ツインの部屋を一人使用だが、この部屋、バスルームに浴槽がない。受け皿様のものもなく、ただシャワーヘッドがついているだけ。
 大学近くの料理屋に出かけ、夕食。金昌禄氏も合流。彼は7月からアメリカ留学の予定だとのこと。
 釜山大学正門前の商店街──夜も10時近いのに、商店街は活況を呈している。これもまた不思議な光景。喫茶店で相談。歩いて宿舎へ。


6月23日 
 温泉に出かけるという一向が居なくなった後でレストランで朝食。アメリカン・ブレックファーストw.7000。今日は雨。
 部屋の電話は何だかおかしい。9番で外線発信とならないようで、結局諦め、w.3000のテレフォンカードを買い、一階の公衆電話で自宅に電話。変わりはないとのこと。国際通話のはずだがw.300ということは30円程度しか引かれていないのに驚いた。
 研究会は9時半から会館内1階の会議室で。日本側以外は、金昌録、丁海亀、李根寛、金鐘書、鄭宗燮および釜山大学の教員2名。熱心な報告とコメント、討論が続いたが、時として奇妙な感覚に捉えられる──何か、禁制と監視をかいくぐって秘密の研究会をやっているような。私は国家保安法に関する金鐘書報告について簡単にコメント。そんな予定ではなかったために、予備的な何の知識もなしに来てしまったことが悔やまれる。
 釜山大学の女性教員の車で市内に。まず、いろいろと買い物があるということで「LGマーケット」という巨大なスーパーマーケットへ。何層もの駐車場を備えた6階建ての各階に商品と客とがあふれている。週末だということもあるのだろうが、大きなカートを押しながら、圧倒的な勢いで買い物をし、大声で言葉を交わしている光景は驚くばかりだった。商品の種類や配置方法などは日本と変わらず。全てが、経済的に豊かな状態を誇示している。以前のソウルの印象以上にそうなのは、釜山だからだろうか。ウリやズッキーニ、のり、煮干と、わが徐先生はカートに積み上げていく。岡*、大**先生は詰め物をしたニワトリを買って帰ると言い出し、徳*君は「のり、のり」と目の色を変えている。不思議なものを見る思いで、私は何も買わず、店内と人々を眺めていた。
 釜山大学の教員たちがよく行く店だという魚料理の店で夕食会。午後11時ごろに宿舎へたどり着き、金昌録氏たちと別れの挨拶。ひょっとしたら、われわれが訪ねていくかもしれないが。


6月23日
 昨日と同じく、大**、徐、岡*、徳川*温泉へ。
 結局10時近くになってタクシー2台で出発。凄まじい豪雨になったが、30分余りで空港に着いた。しかし、飛行機がない──飛ばないかもしれないとのこと。何とかなるだろう、と日航のVIPルームに座り込んでこれを書いている。しかし、なんでこんなに人が少ないのか。



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