アメリカン大学およびニューヨーク

                                   1997.07.08 - 16.

7月8日
 正確にはもう9日になる。しかし、8日の夕方に関西空港を飛び立ち、20時間近くを要してここ、ワシントンD.C.のHoliday Innにたどり着いて、なおかつこの時刻ということの、奇妙な感じ。予定よりかなり遅くなったのは、サンフランシスコ空港での乗り継ぎ便が、テキサスからの接続便が遅れたとかで、2時間近くも遅発したため。サンフランシスコで一足だけ空港建物から出て、昼食を摂った以外は、この長い時間をほとんど座って過ごし、本を読もうにも目が痛く、結局は無駄話とうつらうつらの中に過ごした。
 空港でも、ホテルでも、手順の悪さと非能率にいらいらするばかりで、結局、モスクワとさして変わらない。
 明日は草*先生が付き合ってくれるとのこと。それにしても、割り当てられた312号室はどう見てもツインの部屋で、ただっ広いばかりだ。確実に起きるために、何をするか。

7月9日
 何かの夢を見ていて、目が覚めると既に約束の8時に15分前で、慌てて起きだし、階下へ。今日もよく晴れた夏の陽射しで、暑くなりそう。
 ビュッフェに久*先生が一人で座り、新聞を読みながら食事をとっていた。迷った挙げ句に注文したスクランブルドエッグはこれまた凄まじい分量で、柔らかいハンバーグ状の小山の上に卵を散らし、さらに大量のフライドポテトがあえられていた。ドーナツ状のパンをトーストしたものとバター、コーヒーで6.9ドル。
 9時過ぎにやって来た草*先生は軽快な半ズボンスタイルで、揃って上着を持ったわれわれと好対照。広々とした道路をさらにセンターとは逆方向に走り、Rockville の Whiteflint shopping mall に連れて行かれ、そこで大**・草*氏と別れ(彼らは陸運局へ)、昼までを本や何くれを見て過ごした。広いスペースをとった豪勢な商店街で、客は目立って少ない──これでやっていけるのかと心配するほどに。テクノロジーの店なるものを覗いたが、大した物はなし。大きなラジコンカーが目立ったぐらいのもの。
 やがてブレナー先生(先年、国際関係研究科に交換で来日した)が現われ、大**・草*両氏が合流して、近くのインド料理店で昼食。インドビール込みで一人12ドル。
 9月からのアパートを捜しに行く市*、大**、ブレナーと別れて、草*さんに伴われてWashington National Cathedoralを見学し、アメリカン大学のロースクール(Washington School of Law, WCL)へ。ここで大**氏と合流し、秘書課長といったところの Izzo氏から明日の訪問についての準備状況を聞き、懇談。ますます大掛かりな話になってきたようで、多少心配になる。図書館を見せてもらったが、ゆったりとしたフロアに感心したが、情報検索システムなどは今一つの感がした。Compacの端末の能力も低い。立命館のHomePageはかろうじて表示できたが、お世辞にもきれいでなかった。
 大**氏の知り合いの日本人家庭を訪問し、夕食をごちそうになる。クゥエート人とお互いに連れ子で結婚した日本人女性とその母親、娘。当の夫婦は不在で、簡単に食事をご馳走になりながら、主要には18歳になるというその娘の話を聞く。豪華なアパート、クゥエート人の息子2人、さまざまな人生。
ホテルに引き上げてから、明日のAUでの打ち合わせに備えた打ち合わせ。しかし、「ボーダレス社会における犯罪現象と刑事司法」などというテーマを本当にAUの教授達に理解させることができるのだろうか──われわれの中でさえ、さまざまな理解が錯綜して、何が本当は問題なのか、解らなくなってしまうというのに。

7月10日
 相変わらず目覚ましは働かないが、6時半に起床。窓の外を見ると、夜半に雨があったらしく、道路が濡れている。が、空の雲は切れつつあり、絶好のsituationというわけだ。
階下のビュッフェでは、煙草を吸わないのであればこちらへ、と奥の席に案内され、今日はバイキングで、6ドル50といったところ。
 少し早目にということで、9時前にはホテルを出発、タクシーでWCLへ。WCLの前で記念写真に及んでいるところへ、昨日のIzzo氏が出勤してきて、3階のDeanのオフイスへ。途中から次々とMilstein, Binny Miller, Chavkin, Forstといった面々が現われ、挨拶と歓談。Dean Grossman は、挨拶をしてしばらく経つと消えてしまい、あとはプロジェクトの意図、その背景、具体的計画などなど。それぞれに自由な意見交換がなされた、との感想を持つうちに昼となり、6階の一室で昼食会──さらに数人が加わり、全体では20人近くに。
 元の部屋に戻って DeanとVaughn, Bradlow, Izzoを相手にしての交渉の開始。今回のプロジェクトの今後の展開とWCLと法学部との交流関係の展開の可能性、など。なかなかに厳しい交渉で、Deanはしきりに「当方にはあまりメリットはない」のであり、「100%の学費を払う外国人学生の数は増えている」以上、彼らと異なった好条件でのDDシステムは困難だということを強調する。いずれにせよ、手紙での交渉を続けることとし、秋に再度代表団が来訪する際に一定の決着をつけることに。
 しきりに時間を気にしていたIzzo氏の予約したタクシーは既に姿を消しており、たまたま来合わせた車をつかまえて中心部のPublic Defender's Officeへ。地区の裁判所と同じ建物に入っており、入り口の黒人の守衛の指示に従い、金属探知器のゲートをくぐって中へ。目ざとくカメラを見つけられ、帰るときまで預かっておく、と取り上げられた。クレームは受け付けず、預かり証の書式がなかったらしくノートの1ページを示してここに「カメラを預けた」と書け、と。PDOの受付に現れたジミーと自己紹介する男性(後で、目的のPBだと判明)に事情を話して「写真を撮りたいので取り返してくれ」と言ったのだが、どうともならないらしく、結局、彼と一緒に玄関から出て、建物横の通用口から中へ。
 彼の執務室は何ともみすぼらしい西日のあたる一室で、そこに居たもう一人の女性PDと交代で部屋を利用し、仕事にあたっている様子。彼は高校時代の67年に鳥取の高校に交換プログラムで短期間行ったことがあるとか。
PBの役割などは別ノートに。
 帰りは、議事堂の建物を遠方に見ながら地下鉄Judiciary SquareからFrendship Hightsまで。通常の1ドル20セントで出口を通ろうとすると止められ、あと60セント不足と──ラッシュアワーは料金が1.5倍になるのだそうだ。
 ホテルの受付係、ビュッフェ、レストラン、タクシー運転手── ほとんど全てのサービスが非アングロサクソンによって、つまりは黒人、アラブ系・アジア系の男女によって占められているということに、いやでも気づかされるが、ここでは当たり前のことなのだろう。誰も、気にもとめないように見えるが、「この地で黒人に生まれたことの不幸」のようなことを思ってしまう。

 不思議な電話メッセージ──水*さんという女性からクラスの連絡網で電話した、と。気になって、9時過ぎに三砂子に電話。当たり前のことだが、全然心当たりは無いと。普段と同じで、「何も変わりはない」と。元気そう。
 あと、ニューヨークのS.T.に電話。日曜日の朝10時半にホテルへ、と。

7月11日
 天気予報を見ると、少なくとも日曜日まではこの晴れた天候が続くとのことで、われわれにはありがたいことだ。ただ、この暑さ。
 昨夜は遅くまでこの312号室で集まってワインとビールを交えながら雑談から議論。その後、下着類を洗濯して、2時近くに寝たのだが、6時過ぎに目が覚めてしまい、そのまま起き出してしまった。表のboxに50セントを投入して買ったUSA Today紙によると、昨年のTWA 800機の爆破事件について、FBIは捜査を終結させることになり、犯罪的な原因については見込み薄になったとあり、気になって報告予定原稿の「テロ犯罪」の関係の箇所を見返したりした。あと、強引にN.Y. Yankeesに移籍した伊良部投手が9三振を奪う力投で初登板・初勝利を挙げたことが報じられている。
 草*さんの車でジョージタウンをドライブした後、SISへ。途中、UCD(コロンビア特別区立大学の横を通過しながらの草*情報では、財政難からUCDはその規模を削減することとなり、3分の1の学生は転学し、教職員300人が解雇されたとのこと。街のそこかしこで道路の補修が一斉に行なわれていることにしてから、連邦政府の補助金支出が決まり、DCの当局がやっと着工に踏み切ったから、ということらしい。しかし、それはそれで、失業者のかなりの人数を雇用することに役立ったということだろう。それでも、硫黄島占領記念碑の近くでは、うつろな目をしてボール紙の書き付けを手に道端に立つ黒人男性を見かけた。紙には「No job, little money, help」と。
 SISでは、建物の前の庭を工事中で、ごたごたした感じ。例によって大**氏が現れない、と思いながら玄関で待っている間に若い女性が現われ、Japan ProgramのManagerであると名のり(Christine S. Ekas)、次いでKim氏、そしてDean Goodman自身が現れて、彼の部屋へ。再会の挨拶をし、WCLとの共同研究プロジェクトおよび交流計画などを話してみても、肝心の大**氏が見えないので、結局そのままアジア研究センターへ。Kim氏から多少の研究計画などを聞き、彼のオフイスでtelnetを試みたがソケット・エラーとかで果たせず、DeanとMs.Ekasuに伴われて昼食のために地下のビュッフェへ。
 なかなか快適なビュッフェで、入り口でDeanが人数分の支払いをした後は、トレイを持ってバイキングスタイルの昼食。彼の話では、ここでは一日4回の食事を提供しているとのこと──最後の1回はMidnight Mealだと。市*君にとっては有益この上ない情報だろう。そこへ、大**氏が登場。ライセンスの切り替えに成功したとかで、機嫌が良い。
Deanと大**氏を残して、われわれは大学のstoreに。
 Washington最後の夕食は草*氏をまじえて、近くのメキシコ料理店で。変わった物を食べ、コロナビールとマルガリータ、最後にテキーラでお終い。

7月12日
 9時にロビーで草*氏を待ち、誰かに会うという大**氏を残して出発、途中で市*君を草*夫人と一緒に降ろし、中心部の観光に。
 ホワイトハウスの前は観光客で一杯で、今現在はルーマニアで不在のはずのクリントンの住居に歓声を上げながら記念写真に余念がない。われわれの位置から見ると、きれいに手入れのされた庭の向こうの建物は、屋根の上で警戒に当たっているらしい警察官の姿を含めても、しかし、周辺の政府関係のビルディングの谷間に落ち込んでいる。われわれの背後には広大な空間があり、そこに巨大なオベリスク──ワシントン記念塔。
 人気のない官庁街を抜けて最高裁の建物へ。今日は土曜日とあって巨大なドアは閉じていたが、20枚のレリーフが面白く、その前で記念写真。その後に訪ねた連邦議会(US Capitol)は、しかし、それ以上に迫力があった。観光コースの最初から独立戦争の各情景を描いた壁画に取り囲まれたホールであり、至る所にワシントン以来の名士の立像や胸像が置かれてわれわれを見つめている。旧議会や19世紀前半に実際に最高裁として使われた会議室の様子など、さまざまな意味で興味深かった──団体で見学に来ているらしい高校生ぐらいの男女のグループの様子なども含めて。たしかにここには生きた歴史があり、案内に当たる職員の熱気のようなものも感じられて、草*氏の言うように、若い親が子供を学校を休ませて連れてくるだけの価値はあるだろう。
 これで3権の最高機関(の建物)は見たので、後はリンカーン記念館だと、草*氏は飛ばすが、時間の制約があり、前で写真を撮っただけ。座ったリンカーンの見つめる先にはワシントン・モニュメントがあり、その先にはUS Capitolと、一線に並んだ設計には感心させられ、近くのベトナム戦争戦没者記念の壁に群がり、誰彼の名を探すらしい、夏姿の市民たちに胸を打たれた。
 双発のプロペラ機に乗り、バージニアの緑の森に囲まれたワシントンを後に、1時間でニューヨークに。広大な「帝国」の首都には、雑多な人々があふれている。しかも、われわれの宿舎となったQuality Hotelは、46番街の5番街と6番街の間という、まさに街の中心で、そこに降り立っただけで異様な熱気に包まれた感じがした。が、部屋は日本のホテル並みに狭く、隣の建物の裏が見える窓に取り付けられたクーラーが音を立てている。久*さんと相部屋というのも、ニューヨークのホテル代の高さを考慮すれば仕方のないことなのだそうだ。
 息子にあうという大**氏と別れて、3人で街に出て、ブロードウエイをタイムズ・スクウェアまで。歩き出したとたんに狭い道路を勢いをつけて走り抜ける車に道端の汚水を滝のようにはねかけられ、不愉快な洗礼を被った。途中、街角の喫茶店のようなところでビールを飲み、コンピュータの店というところで店員に騙されそうになり(CDロムを3枚50ドルにし、おまけにもう1枚つけると言われ、市*君と顔を見合わせながら買おうかとカードを渡すと、サインを求めてきた伝票には449ドルとあり、こんなはずはないというと1枚50ドルの計算ではどうかとキャッシャーが言う、小細工にあきれて、押し問答の末にカードを取り戻した)、久*さんの鞄を買い、ホテルまで。
 夜食は、待っていた大**氏が自分は済ませてきたというので、相談の結果、結局、先頃見かけた日本食の店でラーメン。店内には若い日本人の男女があふれており、壁の品書きや店員の応対がドアの向こうの世界との言いようのないコントラストのある別世界を。だが、たとえば息子や娘に、このような所で暮らして欲しいとは全く思わない。ワシントンとも、これは全く違う街だ。
 テレビで、最高裁の判例についての討論がなされているが、よく分らない(http://www.c-span.orgを見よとのテロップ)。
 しきりと喉が渇き、ミネラルウォーターをしょっちゅう飲んでいるのに驚く。やはり空気が乾燥しているのだろうか。

7月13日
 やはり朝は6時には目が覚めてしまうが、今日もよい天気で、暑くなりそう。7時ごろまで待って、久*さんと通りに出て、新聞と朝食を。しかし、日曜日とあって多くの自動販売ボックスは今日の新聞を入れておらず、結局、隣の48番街で見つけた煙草店で分厚い日曜日の版のNew York Timesを求め、ホテルの横の軽食堂で朝食──ベーコンエッグとジャガイモの付け合わせ、トーストで3ドル75。
 約束の10時30分よりは早くにS.T.が現われたが、6年ぶりの再会に抱き合う以外にどうすればよいだろうか。少し太ったというと、そのとおりで、もうわれわれは若くないということだ、とのこと。彼と手短かに打ち合わせて、今日もまた大**氏を抜きにエクスカーションに出発。国連からSouth St Seaport、ウオール・ストリート、メトロポリタン・ミュージアム、コロンビア大学と。
 国連では、日本語でのガイド・ツアーがあるまで待ち、地下のみやげ物売り場で時間を過ごした。久*さんは国連刊行の図書を集めた店に引き止められ、動こうとしないのを横目に、S.T.と雑談。彼の考えでは、国連など、結局は無用の長物だ、この機構は過大な行政機構と膨大な数の公務員(終身契約で、単なる通訳でさえ10万ドルももらっている)を持ち、いつでも会議と視察旅行と決議文書を垂れ流しにして、その結果はほとんどゼロに近いものだ、と。ツアーのガイドは制服姿の若い女性で、一行はわれわれ以外に2人の日本人。国連の歴史から現状を示すさまざまなものを見せるが、やはり、圧巻は安全保障理事会の会議室と総会場だった。ツアーの後、地下のビュッフェで昼食。安くて、味もそこそこと評価は一致した。
 ウオール街がマンハッタン島のこんな端に位置するとは予想しなかった──South St Seaportの隣で、塩と魚の臭いが漂うような場所だ。Portには観光・行楽客があふれ、展望デッキから巨大なブルックリン橋を眺め、遠くに見える自由の女神像に挨拶し、ウオール街を歩く。狭い通りの両側に壁を作るように銀行や証券会社がならび、至る所に星条旗が垂れ下げられている。おそらくは、利害によってしか動かない自分達の行動への後ろめたさの代償だろう。「アメリカ経済の心臓だ」、とS.T.。「いや、世界資本主義の心臓だろう」、と私。通りの真ん中で10台ほどのタクシーを止め、サンドウィッチ・マンのような姿をした黒人の老人を真ん中に多くの人が動いていた。何かの映画に使われるシーンの撮影らしい。彼の背中のボードには、KISS MY ASS! GOOD-BY! と。
 世界貿易センターのTwin-Towerに上ろうというS.T.にむしろメトロポリタン・ミュージアムへと要求して、島を北上。もうCentral Parkの中ほどになるミュージアムへ。建物前の階段には無数の人々が陣取り、思いおもいにくつろいでいる。S.T.が入場料を払い、金属製のタグをつけて中へ。これは巨大な美術館で、中世の銅版画、印象派の絵画、中国の仏像やエジプトの発掘物まで、コレクションは膨大なもののようだ。分厚いガイドブックが売られ、スーベニアの店はごった返していた。
 ハーレムを車で通り抜けてコロンビア大学へ──世界によく知られた裕福な大学が言いようのない緊張を強いてくるハーレムに隣接していることの不思議。S.T.によれば、十分なセキュリティ・システムをとっているだけのことだそうだが。門の鉄柵には犬を連れて入るなとあり、屈強な黒人の守衛が立っている。後ろを振り返ると、古ぼけて建物全体が赤錆た色になってしまったアパートの窓の半ばは板で釘付けされ、残りのかなりがガラスを割られ、壁には落書き、そして通りのあちこちに座り込んだり壁にもたれた若い黒人の姿が見られる。多くは失業者であり、公的な扶助にすがって暮らすことに慣れてしまったのだ、とS.T.。昼間はこのあたりはまだ安全だ──多くは夜に備えて寝ているから、とも。
 ブロードウエイを南へ向かい、ホテルへ。すでに帰っていた大**氏と相談して、国連職員某氏との懇談には出ないこととして、S.T.とAncle Vanya という名のレストランへ。経営者はもと女優とかで、最初に挨拶に来たのを見ると、まだ、おそらくは30台の小柄な女性だった。
 車の中での話の続き。なぜ、私がニューヨークを好きになれないと感じるのか。差別が目立つといっても、N.Y.はましな方だ、とS.T.。しかし、ここでは、黒人はきわめて積極的・攻撃的に見え、その抗議する姿勢が差別の事実を浮かびあがらせ、また白人やわれわれのような来訪者に緊張を強いるのだ、われわれは疲れる、と私。彼の息子は人見知りをする性格だが、それがコンピュータとの関係では良かったのかもしれない、今週末に情報処理関係の資格試験を受けることになっていると。娘(ソーニャ)も今は一緒に住んでいるとのこと。仕事のこと。現在の職場には満足しているが、今年にはテニュアの審査を受けねばならず、そのために学生や同僚の高い評価を獲得する必要があること、ひょっとしたら、日本から推薦状のようなものを送ってもらうことも可能だろうか、と。もちろん、喜んで推薦させてもらう、と私。本物のボルシチとブリンチキ、イクラ、魚を使ったシャシリク、ウオトカはアブソリュート。中年の男性がギターを弾きながら歌う。ここはニューヨークで、向かい合った席にはS.T.が座り、われわれはロシア語を話している──この、ファンタスティックな現実に、ウオトカのせいだけでなく、目も眩みそうだ。

7月14日
 朝方、三砂子に電話。変わりはないが、明日、地裁で調停委員の面接だとの連絡があったそうで、悲鳴を上げていた。こちらは予定通り、と。
 その直後、S.T.から電話が入り、渋滞に巻き込まれたので、15分ほど遅れると。
 10時50分近くになって現れたS.T.の車で、再び中華街やハーレムの間を抜けてコロンビア大学近くの本屋に赴き、結局大した収穫はなく、灼熱の街路へ。予報では、今日の気温は35度に達するだろうとのこと。
 早めに昼食を摂ることとして、コロンブス広場近くのピザショップに入り、各自で大きすぎるのではないかと思われるピザの一片を注文した。先ほど通りでもらった紙切れはストリップショーの宣伝で、S.T.によれば「良心的な、Nice Show だ」とのこと。「行ったことあるのか」と聞くと「一回だけ」と。
 車に戻ると、大**氏が「やられた」と言う──彼のウエスト・ポーチが切られていると言うのだ。見せてもらったが、革のポーチとベルトとの継ぎ目が、切られたのか自然にほどけたのか、ちぎれている。彼は先ほどの店で自分に付きまとった男性がやったのではないかと言うが、よく分らない。もしそうであったとしたら、大**氏を狙ったのが「人を見る目がない」こととなる。
 ロング・アイランドの緑に包まれた住宅地帯や海岸を見物しながらHofstra大学へ。 S.T.はしきりに「ここへ来ないか」と言うが、最大の問題の二つは言葉と車だろう。
 多くの学生寮─学生の6・7千人が寮生活をしていると言う─や体育館、図書館などの建物を見ながら、ライオンのつがいが横たわるHofstra に到着。心理学部でProf.Kassinoveに再会。91年にレニングラードで、どこかの劇場の前でお会いした、と。
 Law SchoolでWalker(軽装だが恰幅の良い、低い声で話す白髪の男性)とMovsesian(精悍な感じの助教授)。Law Schoolとしては規模も小さいが、なかなか旺盛な意気込みを感じた。
 建物は図書館を除き低層におさえられ、庭園の手入れも良く行き届き、裕福な大学という感じがますます強まる。法廷教室─251名定員の─を含めいくつかの教室、図書室、ついでに両先生の研究室の見学。Prof. Kassinove のそれを含め、個人研究室はそれほど広くないが。クリニックのために用意されている建物などを見学して、Deanが帰ったら改めて文書で挨拶する、との言葉をえて、退出。
 Kassinove 教授も一緒にS.T.宅へ──大学から車で10分ぐらいのものか、典型的な郊外型一戸建て。正面の入り口前に星条旗。かなり広い舗装道路を挟んで、同じような作りの家が並ぶ。
 イリーナさんの出迎えを受けて中へ。彼女は一別以来ますます太ったようで、大儀そうな体の運びを見るにつけても、これはストレスの表われではないかと思ってしまう。
 一行、勝手なことをさまざまに話しながら冷えたビールとワインで喉を潤し、S.T.の書斎などを見せてもらう。よく刈り込まれた芝生とアジサイ、石楠花、テーブルと椅子の置かれた庭では、われわれ一同は歎声を挙げてしまった。庭に面した壁に、ロシアの三色旗。
 食事のときにソーニャ──すらりとした19歳の美人で、物怖じせずに低い声でわれわれと話す。何がきっかけだったか、テーブルの話題がポルノグラフィーとか売春といった微妙なものになり、多少間の悪い思いをしたのだが、Prof. Kassinove もS.T.夫妻も、一向に気にする風でなかった。
 食後のコーヒーをいただいているところへ息子のセルゲイが帰宅。ジーンズの上下に野球帽、長髪を後ろで結んでいる。身長は1m80以上はあるだろう。PCでのロシア語処理のことを聞いてみたが、それは非常に難しい問題だ、と。
 S.T.に送られて、3・40分でホテルまで帰り着いた。玄関前で、抱き合って別れの挨拶。

 これで、今回の私のアメリカ旅行の予定は全て終わった。後は、明日の早朝4時に起き出し、空港に間違いなくたどり着くことだけ。
 
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