アメリカン大学およびニューヨーク訪問旅行記録

                                      1999.08.31 - 09.08.

8月31日
 日本を出たときのままの腕時計は9月1日午前8時近くを示しているが、こちらの時間ではまだ31日の午後4時頃ということになる。まだ飛行機の中で、Washington D.C. まではあと3時間ほどかかる予定。国内線の方が座席もゆったりとしており、すいている。
 San-Francisco のバーでマルガリータをすすりながら相談したのだが、それにしても今回の出張はゆったりしたものだ。大**、市*との3人組だが、当初の予定の Hofstra が Labour Day の休日に引っかかったために、結局はAUでの打合せだけになってしまった。個人的にはN.Y.での T******** との再会があるが。
 それでも3回目のアメリカ。この自信と矛盾にあふれた巨人の国。その地で、無力な私がかえってゆったりと、落ち着き払っていることの不思議。

9月1日
 何度か目が覚め、結局6時前に起き出してしまった──夜中に思い出したのは、三砂子[妻]に送ったメールの書き方の間違いで、あれでは届かない、と書き換え、T********のメールへの返信を含めて、送信。夏時間のためか、明るくなるのは6時半頃と遅い。
 7時過ぎに食堂へ。例によってBuffet($8.50の)だが、今回は果物のバリエーションが少ない。大**氏の読んでいたWashington Postに日本のどこかの商店街が日の丸を一斉に掲げている光景の写真が載っていた。今日から新学期という訳だ。
 9時半頃に下に集合して、White FlintのBordersの書店を目指して出発。気温は予想より低く上着なしでは肌寒いような具合だが、華氏68°が摂氏の何度に相当するのか、見当がつかない。地下鉄に乗り、White Flintの駅からはshopping mallが運営している巡回バスでMallへ。相変わらず、施設は立派で客は少なく、到底採算が合いそうにないと感じる。不思議なことだ。書店で、Vladimir Brovkinのネップ期のロシア社会を対象とした歴史研究の本を見つけた──彼とは、多分、明日AUで会うこととなろう。大**氏の財布探しに付き合って、いくつかのデパートを巡り、4時ごろ一旦ホテルに帰り休憩。疲れだろうが、目が痛い。空気の乾燥もあるのだろう。
 夕方、97年に来たときに夕食をご馳走になった大**氏の知り合いの娘──現在は親と離れてAUに在学中とのこと──がホテルに会いに来て、夕食をご馳走することになり、地下鉄で中心部のGallery Pl.-Chinatownまで乗り、チャイナタウンへ。手ごろそうな店に入り、それなりに堪能した。老酒の1本を加えて全部で$160を払って出た。しかし、この娘はなかなかしっかりしていると、あらためて感じさせられた。例えばわが家の娘と置き換えることなど及びもつかないだろう。自身の意見を持ち、将来の計画とそれに向けての現在の努力が備わっている。海外での生活、クゥエート人の義父等々といった条件が彼女のような日本人を作ったのだろう。
 Washington D.C. はこれで3回目の訪問になるが、そしてその都度、大した個所を見ているわけでもないのに、段々に無感動になるような気がする。勝手なものだ。街を見ても、地下鉄に乗っても、人々をながめても、さしたる気持ちの揺れを覚えない。今回初めて持って来たデジカメも取り出して構えることが少ないことだ。
 夜、部屋に帰ってメールを確認すると、三砂子からもT********からも返事が入っていた。この、つながっていることの、説明困難な安心感。

9月2日
 疲れた──おそらく、今回の出張中で最もハードな日だったということだろう。
 朝方、大**氏の部屋で出版計画を急ぎ英訳して文書を作成し、FAXで送信。多少の不安はあったのだが、これはうまくいった。FAXソフトさえ内蔵していればプリンターはなくとも大丈夫だということを再確認した格好だ。11時過ぎにホテルを出発。今日は全員がスーツ姿で。
 タクシーをWashington School of Lawまで乗り付けたが、多少時間があるので、例のStarback Coffeeに入り、テラスでコーヒー。Law School の外壁がきれいになっている、それにしてもChevy Chaseとは不思議な地名だ、など。
 12時にDean's Officeへ。FAXはきれいに届いてcopyされていた。
 最初にDean との間で事務的な話。途中で簡単な食事のもてなし──このときにはLaw Schoolの学生で日本人2人と日本語がわかるというアメリカ人1人が同席──があり、D********、B*******も参加。Dean の話はDual degreeと教員派遣のあたりをぐるぐる回るばかりで、例によってわかりにくい英語と併せて、疲れることおびただしい。結局のところは、どの問題も今後メール等の文書で詰めていくことにしかなりようのない展開だった。
 論文集の出版計画については、A. D.女史とW******氏が加わり、かなり実質的な議論。これはうまく行きそうだ。
 4時近くになり、AU本部キャンパスへ歩き、SISのOpening Seremonyに参加。ミサに使われているようなホールの入り口でDean Goodmanに会い挨拶。式典は1時間ほど続き、その最後で立命館大学のLaw Schoolから見えているとしてわれわれ3人がそれぞれ紹介された。その後、SISの建物の前でガーデンパーティー:甘ったるいレモネードとアイスティー、アイスコーヒーが自由に飲めるように設定され、後はケーキ類だけ。芝生のあちらこちらで談笑する男女がいて、フリスビー投げに興じるグループや騒ぎに目もくれずベンチで本を読む学生もいる。立命からの留学生を含め、若く、はつらつとした彼らはまぶしいほどだ。会えると思った加*先生は今日は講義とかで、現れず。
 バスでFriendship Heightsに帰り、夕食は大**氏の勧めでステーキ・レストランへ。典型的なAmerican Restaurantだというが、日本のFamily Restaurantをちょっと大きくして落ち着いた感じにしただけのようにも。自家製のビールとワイン、デザートをつけて、ステーキ(周りの炭とミディアムにもかかわらぬこの硬さ!)で、1人$30を払った。
 帰途、まだ開いていたBordersの支店に入り本を見ようとして、研究支援センターの女性たちへのお土産としてカレンダーを10組買い、一人あたり$45。

9月3日
 約束どおりに10時過ぎにTiffanyの店へ。予想以上に高い値札がついているが、銀を中心にした装身具のそれぞれは驚くほどの品とも思われない。変哲もない銀のしおりで$30位もする。いろいろと迷った末に、娘にボールペン──細身の銀製で途中にTiffanyの水色のあるもの:$96.00──を購入。Tiffanyの名前と念の入った包装に値段の半分以上がかかっているのだろう。さて、三砂子が何と言うだろうか。
 議会図書館に行く予定を変更してArlington墓地へ地下鉄を乗り継いで。ポトマック川の西側の丘陵に広がる大きな墓地だが、もらったパンフレットや市*君の説明では、本来は南軍のリー将軍の屋敷だったものを、彼が南軍の指揮をとるために捨てた屋敷に入り込んだ北軍の司令部周辺に戦死者を埋葬したことが始まりだという。丘の頂上にはかつてのリー将軍の屋敷が残り、観光客に公開されている。
 Holmes判事をはじめとする最高裁判事たちの墓の横に立ち、観光客の多く群がるJ.F.ケネディの墓、簡素なR.ケネディの墓を過ぎて、無名兵士の墓へ。市*君の読んだ新聞記事ではDNA鑑定のおかげでベトナム戦争の戦死者は最後の1人まで特定され、今後は「無名兵士」は出ないそうだが、現在の衛兵の儀礼的な歩哨もなくなるのだろうか。墓地の丘の上から眺めると手前にペンタゴン、ポトマック川の向うには緑のおおい街路とリンカーン記念館、修理中の巨大なオベリスク、Capitol Hillと、Washington D.C.が一望の下だった。
 昼食はPentagon CityのMallで。得体の知れないどんぶり(Mandarin−という名前から察するに、チキンのオレンジソース仕立てを野菜と一緒にご飯にかけたもの:アイスティーと一緒で$5.60))を頼んだが、結局半分も食べられず。こんな風なShopping mallがあちらこちらにあり、そこが人々で賑わっているのを見る時には、あらためて、アメリカの豊かさを感じることだ。
 夕方、昨年度半年間国際関係学部に交換教授として来ていたSISのK******教授夫妻がホテルに訪ねてきて、カニをご馳走してくれることになった。少し北西に走って、中華料理店が勝手に設営したのではないかと思うようなテントがレストランになっており、スパイスを効かせて茹で上げたカニを山盛りにして出し、客は小さな木製のハンマーを使って殻を割り、小型のナイフで肉を穿り出し、溶かしたバターにつけて食べるのだ。堪能した。
 10時近くになってホテルに帰り、明日の出発準備。7時半にシャトルタクシーが来るそうだ。

9月4日
 夜中に激しいくしゃみの発作と口腔の痛みで目が覚めた──時計は2時55分。くしゃみと涙、水洟.... 典型的なアレルギー反応だが、思い当たるのは先ほどのカニしかない。どうしようもなく、水をできるだけ飲んで無理やりに眠ろうとした。その次には6時30分に、アラームで起こされたのだが、鏡を見ると右の目が腫れ上がっているし、うがいをすると口の中で多少出血している様子。頭が痛いし、くしゃみと水洟はとまらないが、ともかく出発の用意をして、7時10分に部屋を出て、チェックアウト。4泊したのだから当然だが、相当の請求になっている──$583.92。市内通話の一回につき¢75などというのは以前にはなかったような気がするのだが。
 New Yorkまでは順調に移動したが、やはり体調がおもわしくなく、途中で市*君から薬をもらい服用(Tylenolの抗アレルギー剤)、これはかなり聞いた様子。
 Holiday Inn Midtown - 57th Streetは、WashingtonD.C.のそれよりは立派そうなHotelだが、部屋は半分ぐらい──ガーデンパレスのそれ程度か。もちろん、一人なのだからこれで十分。
 市*君と外出し、近くのMacdonaldで簡単に昼食の後、街を歩く。アメリカ最大の販売店というCompUSAに入り、Microsoftのパソコン携帯用ケースを$39.00で購入。コロンブス像の横の入り口からCentral Parkへ。いたるところで人々がくつろいでいるが、そこはかなく馬糞のにおいが。観光客を乗せて走る馬車のせいだ。
 T********から電話があり、やがてI****さんと一緒にホテルに現れた。今回は2年ぶりということになる。
 日本料理店でご馳走になった後、 Studio 54 にミュージカル『キャバレー』を観に行った。映画とは物語が多少変わっているようだが、劇場のスタイルも含めなかなかのものだった。
 だが、恐れていたとおり、こんな風に過剰にもてなされると、彼らに過大な出費を強いているのではないかと心配になる──そんなことを考える方がおかしいのだろうか。
 CompuServeは混んでいる様子で、うまく繋がらない。明朝に再度試みることにしよう。

9月5日
 いろいろ試しても繋がらないために、Washington D.C.のアクセスポイントに繋いで、とろとろとした受信ぶりにあきれながら、三砂子のメールだけを確認。香水の注文。
 市*君と朝食を外でとろうと57番街をBroadwayまで歩き、角のSaladBarに入り、ツナサンドと果物、カフェオレで$9.50。場所柄の相場だろうか。昨夜の Studio 54 を横に見ながらの帰途、今朝のNew york Timesを買った──日曜版で、3cmはありそうな厚さ。昨日の予報にもかかわらず、今のところは雨は降っていない。
 新聞の広告欄を見て気が付いた、ここManhattanの局番は212で、CompuServeのアクセスポイントの718と違うということは、市外通話のための1を足さなくてはならないのだ。問題解決。ほっとした。
 11時に少し遅れてT********が現れ、一緒に出発。残念ながら雨になり、強くなったり弱くなったりしながら夕方まで降り続いた。
 Frick Collectionを見ようとしたのだが、日曜日は午後1時からとのことで、それまで時間つぶしに車で市内のあちこちを見て回った。彼の理解は以前と同じでN.-Y.の市民はそれぞれの居住区域ごとに大きく違い、豊かな地域、貧困な地域、安全な地域、犯罪の多い地域、アジア人の多い地域、等々の特徴が一旦固定されるとそれを変えるのは困難で、しかも住民はその地域から移動しないままに生涯暮らすことが多い、と。ここがどういう地域かという説明を聞きながら見ると、たしかにそういう風に感じる。時々英語になったり、ロシア語になったりしながら、市*君にも説明しながらのSight-Seeing-Tour。時間になり入ったFrick Collectionは圧巻だった。Henry C. Frick(「鉄鋼王」だっただろうか?)の個人的な蒐集品をその邸宅ごと美術館にして展示しているのだというが、われわれの想像を絶する豊かさだ。レンブラント、ヴァンダイク、フラゴナール、ゴヤ、ルノワールと、次々に大作が出てくる。それぞれの絵が、保存の良さを示すのだろう、みずみずしいような状態にあることも驚きだ──ここにあるのはレプリカではないのかと思ったほどに。まだ物足りなさそうな市*君を促して、2時半頃に出て、Greenwich Villageの小さなコーヒーショップで軽食をとり、Brooklynを経て彼の家に向け出発。
 Blooklynのロシア人地域にはロシア語の看板があふれ、ウクライナ正教会があり、もちろんロシア人がかたまって住んでいる── あれもロシア人、これもロシア人とT********、なぜ判るのかと尋ねると、表情が硬いから、とのこと。パンを買うためにT********が車をとめ、降りて待っているわれわれの横をロシア語を話しながら親子や老人などが通っていく。不思議な光景。
 5時近くになってT********宅に到着。すでに着いていたKassinov教授と2年ぶりの再会の挨拶。持参の浮世絵が入った団扇に奥さんが喜んでくれた。
 Irinaさん。
 Sonia──Law Schoolに入るために勉強中と。
 Sergei──東海銀行に勤め始めたとのこと
 驚いたことに、T********の祖父は日本軍に殺された──極東共和国に関わり、ボリシェヴィキとしてのパルチザン活動によって日本軍に捉えられ、逃走の途中で拳銃が暴発して死んだというのだ。全く思いがけなかった。その息子はソビエト陸軍の将官となり、そしてその息子は日本に行ったり、日本人と好んで付き合い、アメリカに安住の地を見出したのだ── 激しい歴史のうねりの中で、一族のたどった道の激しさよ。しばらく言葉もなかったが、クラスノシチョコフのことやマヤコフスキーとリーリャのことなどを私の方からも話した。
 Kassinov教授は、心理学、犯罪心理学、犯罪学のシンポジウムを計画したいので、協力してほしいとのこと。今後連絡をとり合って相談することに。
 9時過ぎになり、Kassinov教授夫妻の退去に続いてT********に送ってもらいホテルまで。車の中で、昨日お土産に渡した香呂のことなどの質問があり、説明。

9月6日
 今朝は8th Ave.まで歩き、少し下がったサンドウィッチ・パーラーで朝食。帰りにNew York Timesを買い、ホテルに帰った。これだけで$4.50──安上がりなことだ。
 一休みして市*君と外出。BroadWayをTimes Squareあたりまで歩き、写真をとり、みやげ物(市*君が奥さんと子供にTシャツを買うのだということで)を探していくつかの店をのぞき、"Express"と銘打った店で早めに昼食をとってホテルへ。天候は回復したのか、日が差してきた。
 遅れて来たT********の車で5th Ave.を南へ。Rockefellerセンターの前の人ごみの中に立ち、磨きたてられた彫刻や手入れのよい椰子と花ばなを眺めた後、通りを隔てた向かいのSt. Patric's Cathedralに。アイルランドの教会を真似て作られたということだが、大きな教会で、ローマ法皇がアメリカを訪問したときにはここでミサが行われたとのこと。特有の蜜蝋のロウソクの香りとステンドグラスごしの光線の中を観光客がそこかしこにたむろし、長椅子では明らかにホームレスと思われる男が何人も居眠りをしている。
 あとはManhattanの各地域の説明をしながらのドライブ。
 World Trade Centerのツィンタワーに上がるための行列に(T********が各人$12.50を払って切符を買って)加わった。さまざまな言語の飛び交う観光客の列が徐々に進み、かばんの中身と金属探知のチェックを受けた上で、エレベータへ。多少ゆれるものの、さしたる加速を感じないままに1分で107階の展望台へ。絶景、という言葉がぴったりだろう。さらに2階分ほどをエスカレータで上がり、屋外の展望台へ。時々雲がわれわれを包みながら通り過ぎていく。
 あと、一旦下に降りもう一方のタワーに上がり、同じく107階のレストランへ。アイリッシュ・ギネスを飲み、各種つまみの盛り合わせのようなものを食べながら、さまざまな話。来年にでも京都でシンポジウムをやろうというのは、しかし、可能だろうか──2000年は100周年もあり、いろいろと大変なのだとは言ったが、どこまでわかったのか疑わしい。APUの話も、法学部の微妙な立場についての苦しい説明をどう受け取ったかは、これまた疑問だ。
 ホテルの前で抱き合っての別れ。来年には日本で、と彼は言うが、それにはさまざまの困難がある。
 ともあれ、これで今回の予定はすべて終了。あとは明日朝5時のタクシーが正確にわれわれを運んでくれることを祈るだけだ。


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