初夏から冬まで
      ──ソビエト留学生活の断片──



 私は一九八一年五月末から本[一九八二]年三月末までの期問、日本学術振興会の長期派遣研究員として、モスクワを中心に留学生活を送った。これまでにも、短期問の旅行者として滞在したことはあったものの、これは私にとって初めてのソ連での生活体験である。留学に際しての直接的な研究課題は一九二〇年代および三〇年代を中心としたソビエト刑法学・犯罪学史の研究であったが、この課題との関連でも、それ以外の点でも、この間の印象は強烈なものだった。それが刑法あるいは犯罪学といった、きわめて狭い範囲の学問領域を対象とする研究者であっても、社会体制を異にする国のそれらに関心を抱く者は、その国の社会生活の諸領域あるいは体制それ自体をどう捉えるのかという問題を、避けて通ることはできない。この意味で、初めてのソビエト体験の機会を与えられたことは私にとって幸いであったと同時に、反面、ときどきの感動・精神の昂揚と失意との振幅のあまりの大きさは私の感情機能をこのうえなく疲労させるものであった。それがどのような性質のものであったかをここで説明することは難しく、また自分自身にも整理がついていないのだが、この疲労感は私の中に澱のように残っている。
 ともあれ、「疲労」の解明と回復にはまだかなりの時間を要すると思われるので、ここでは、いくつかの印象を述べて帰国報告にかえることとしよう。

 <第一日>
 モスクワに着いた翌日、早速研究所を訪間することにした。私が所属することにしていた「国家と法研究所」は、ソ連邦科学アカデミーに付属する研究所で、パシュカーニスやストウーチカ以来の伝統を持ち、国際的にも著名な研究施設である。現在の所長は、科学アカデミー準会員ヴェ・エヌ・クドリャフツェフ教授で、専門は刑事法。出発までに日本から送った受入れ要請に対して、きわめて簡単な返事をもらっただげで、格別の連絡はなかった。前日シュレメチェヴォ空港に夫君と共に迎えに来てくれたナターシャと待ち合わせて、トロリーバスで研究所へ。やがてさしかかった橋の上から一望した風景は、一生忘れられないだろうようなものだった──モスクワ河岸に緑の樹樹に包まれてクレムリの塔が立ち並び、背後には旧レーニン図書館の白亜の館、その隣に灰色のレーニン図書館書庫がそびえ、五月の朝の陽光をあびて輝いていた。トロリーバスをフルンゼ通りとマルクス・エンゲルス通りの角で降り、二、三分歩くと研究所。厚木の扉を全身の力をこめて押しあけて館内に入ると、うす暗いロビーに座っていたカッターシャツの男性が立ちあがってわれわれを迎えてくれた。ナターシャは私をこの男性に紹介して帰ってしまい、私は彼から研究所の概要の説明をうけることとなったが、あまりの速度のロシア語のために殆ど聞きとれない。たまりかねて「もう少しゆっくりと」と要求し、改めて彼の名を尋ねると、これがヤーコヴレフ教授で、かねてからその令名を知っていた私は驚きと恐縮とで絶句してしまい、しばらくたって、やっとのことで改めて自己紹介するありさまだった。やがて遅れてきたコーガン氏(博土侯補・上級研究員)を含めて三人で一時間ほど話しあい、さしあたっての私の研究計画が決められ、引続いて研究所内を案内してもらった。
 先にも書いたように、国家と法研究所はフルンゼ通り(クレムリからアルバート広場までの五〇〇メートル程の通りで、陸軍省がこの通りに面している)にあり、革命前はある商人の邸宅だったとかの白い四階建ての建物だが、三〇ほどのセクション、数百人の所員を収容し、充分な研究条件を保障するにはいかにも手狭まである。事実、刑法セクション(正しくは「刑法の理論と社会学セクション」、主任はヤーコヴレフ教授)は本館の裏手、かつては使用人部屋ででもあったのか、あまりきれいとは言えない一棟の建物の一階に小さな一室を確保しているだけだった。個人研究室などはおよそ考えられない状況で、多くの研究者は自宅で勉強しているとのことで、私も図書室(本館三階)の閲覧室に専用の机を貰っただけだった。
 研究所を辞して街に出ると、緑の木立が多い割にはホコリっぽいのに気づいた。空気の乾燥と雪どけ以来の小さな土粒など、さまざまの原因はあるのだろうが、モスクワ人達はさして気にする風でもなく、公園のベンチに座って話し込んだり、大きな買物袋を下げて商店めぐりに余念がない。路ばたのライラックの小枝を手折って手にしている人、炭酸水の自動販売機の前の行列に並ぶ人、巨大な温室のような「グム」百貨店の中でアイスクリームを食べながら歩く人.... さまざまな人種・民族の容貌が周囲にあふれて、自分がモスクワに来たのだ、ということを改めて思い知らされた。多少疲れて、地下鉄「オクチャプリスカヤ」の宿舎、アカデミー・ホテルヘ。二棟から成るこのホテルは、科学アカデミーの管轄するホテルで、学術振興会との協定によりモスクワを訪れる日本人はすべてここに収容されることになっている。私も家族が合流するまでの一ケ月余りをここで過ごした。
 夏至に近く、夜は一一時頃まで明るく、夜明けは三時頃だ。

 <刑法セクションの会議>
 五日目に刑法セクションの会議──ゼミナールと言った方が正確かも知れない──に出席した。先にも書いたように、刑法セクションの部屋は狭く、およそ研究室の体をなさないため、研究所本館の会議室を使っての開催だった。主任のヤーコヴレフ教授を中心に一七、八名が出席、うち女性は四、五名。コーガン氏の隣りに座らされたが、最初いきなり研究報告が始まったのには驚かされた。報告者はベトナムから来ているダオ・チー・ウク研究員で、テーマは「ベトナムにおける少年犯罪」。簡単な報告のあと、この論文を予め検討した二人の研究員から問題点の指摘があり、引続いてヤーコヴレフ教授の司会による討論となった。ダオ氏とは後に知り合いとなったが、もう通算七年ほどもソ連邦に滞在しているとかで、彼のロシア語を含め、すべての発言者の話があまりに早口で──まったくそう感じた──、ほとんどついていげず、ただ判明したのは、この報告は現在彼が提出準備中の博士候補論文の要約であり、その予備的な検討がこの場の目的らしい、ということだった。いかにも教授然としたヤーコヴレフ教授の態度や、討論の際の各発言者の演説ぶり、本番の論文審査で反対討論者として登場するであろう顔ぶれの予想など、おもしろかった。もう一本、同様の論文「刑法における法の欠缺」についてもよく似た検討が行なわれて、あと、一五分の休憩となった。
 この会議室の壁には研究所の歴史を示したパネルが掲示されていた。ストウーチカ、パシュカーニス、クルイレンコなどの写真が並び、われわれを見おろしている。それらの人びとの業績と運命とが想い起こされて、感慨深いものがあった。私の直接の担当者となったらしいコーガン氏が近寄って来て、印象はどうかと尋ねるので、興味深いがロシア語能力の不足のため充分に理解ができぬこと、そのため、持参しているマイクロカセット・レコーダーを使用したいことを伝えると、多少驚いた様子で、録音はしない方が賢明だろうとのこと。(これ以降、結局、マイクロカセット・レコーダーはほとんど無用の長物となってしまった)。
 やがて再開。冒頭、ヤーコヴレフ教授から全員に私は紹介されたが、その場に居あわせた人々から、「なぜこの研究所へ来たのか」、「日本でソビエト刑法を研究している者は多いか」、「どこに泊っているのか」などと、さまざまに聞かれ、たどたどしくこれに対応。短い発言を予定して原稿を用意していたのだが、これは無用に終った。
 最後に、若いアスピラントカ〔大学院生〕の研究発表「アメリカ刑法における自由剥奪について」があった。これもきわめて早口だが、アメリカ刑法における近年の定期刑化、刑期の長期化の状況の紹介が中心で、比較的よく理解できた。この報告に対する論討は短かく、ヤーコヴレフ教授の長口舌──報告の欠点の指摘から、アスピラント全員の勉強不足への苦言に至るまで延々と続いた──があって、約三時間の会議は終了。さして長時間だったわけでもないのに、緊張のためか、疲れ切ってしまった。研究所の小さなビュッフェで列に並び、コーヒーを求めてコーガン氏と短い雑談。著書や翻訳書などで見るかぎり、彼はアメリカを中心に犯罪社会学的な研究にも関心を持っているはずだが、あまり多くを語らない。眼鏡をかけ、多分、五〇歳に近いだろう長身の血色のよい男性で、その名前からも判るようにユダヤ系である。そのためかどうか、まだ博士侯補で、ヤーコヴレフ教授の助手のような仕事ぶりだった。彼とは後日、プーシキン美術館で開催された大規模な美術展「モスクワ=パリ」を見に行ったり、買物袋を下げている彼にアルバート通りで出会ったりしたことがあった。

 <レーニン図書館>
 私の関心の集中していた時期のソビエト刑法理論・犯罪学関係の文献資料は、残念ながら、国家と法研究所の書庫には意外に少なく、カタログを繰って請求しても、「紛失した」とか「移管された」などの返事とともに、「レーニン図書館で探してはどうか」との助言をうけることが多かった。レーニン図書館はクレムリの近くに偉容を誇っているが、その蔵書量は三千万冊に近く、名実ともに世界一の図書館である。
 閲覧者には、その研究領域や学位に応じて、利用できる閲覧室が指定されているが、科学アカデミーとの交換協定で留学したわれわれには、アカデミー会員用の第一閲覧室の利用が許される。拳銃を下げた民警隊員[警官]が警備するカウンターで赤い表紙の閲覧証を開き、顔写真を見せて入退館する。二階のホール一杯に配列されたカード・ボックスにむかい、多くの人が丹念にカードを繰り、ノートをとっており、そこかしこでコンサルタントの女性が質問に応対している。ここで発見した図書名を請求表に書いて各閲覧室の受付に出しておくと、数時問後に本が届けられるが、室外持出しは一切不可であり、閲覧室内でノートを取りながら読むしかない。白髪の老研究者や明らかに外国人とわかるジーンズ姿の青年にまじって、机にむかって一九三〇年代の論文集などを読んでいると、静けさの中で一瞬、自分がどこに居るのかを忘れてしまいそうだった。窓の外には、マロニエの葉のむこうにクレムリの壁が見えた。
 あまりに多くの人の手を経たために隅が丸くなってしまった図書カードを一目中繰り続ける人、多くの本を机の上に積みあげて、その中に埋まるようにしてノートをとる人、階下の喫煙室の穴ぐらの中で息をつまらせながらおしゃぺりに余念のない人.... 一日に数千人が訪れるというレーニン図書館で数日を過ごしながら、私には時間のことが気がかりになり始めた。ソビエトの多くの研究者はゆっくりと、自分のテー寸に関係する膨大な量の本を一冊ずつ、丁寧に読み込んでいる──コピー施設が充分でないことにも起因するが、彼らのそのような勉強ぶりは静かな迫力を持っていた。しかし、わずかな時間しか与えられていない私のような留学者が同じ方法をとることに不可能でもあり、また、どれほどの意味があるかは疑問である。結局、レーニン図書館での仕事は、どうしても必要な場合に限ることとし、たとえ資料は少なくとも、いろいろの研究者と自由に話すことができる国家と法研究所の方が、私の中心的な勉強の場所となった。

 <モスクワ生活>
 滞在中、多少とまどったことの一つは、喫茶店のことである。学生時代からの習慣で、時々の息抜きに喫茶店に入り、コーヒーを飲み、知人たちと雑談したりすることは、私の生活の一部分になりきっていたのだが、モスクワで喫茶店を探すことはきわめて困難である。研究所のビュッフェが開く時間は限られており、街に出た時にはなおさらのことで、滞在中に私が発見した喫茶店はゴリキー通りのプーシキン広場近くにある「リラ」だけだった。ここでは、ほぼ日本と同様のコーヒーが飲め、テーブルに静かに座っていられる。喫茶店がないことに不満を言うと、日本の友人は信用せず、ロシア人は私の不満が不思議だと言うが、このことは、習慣の違いだけでなく、コーヒーが一般に高価であることによるのかも知れない(ちなみに、大体どこでも、コーヒー一杯二〇カペイク、紅茶一杯五カペイクであった。なお、当時一カペイカは約三円、一ルーブリは約三〇〇円だった)。街頭にはクワスのスタンドと炭酸水の自動販売器が多く見られ、前者は夏だけだったが、後者は一年中、多くの人が利用していた。二五〇グラムのガラスコップ一杯で三カペイキである。
 モスクワの代表的な交通機関は地下鉄──メトロである。全線均一で、何回乗り換えても五カペイク。最初の日は、エスカレーターの最上部から下方を見おろして思わず息を飲んだが、しばらくすると慣れてしまった。プラットホームは驚くほど深く、そこと地上を結ぶエスカレーターのスピードは相当のものである。地方から出てきたらしい老婆が手すりにしがみついている姿を何回か見た。他に、主として市の周辺部を走る電車、パス、トロリーバスがあり、街の地図が頭の中にあれば、相当に便利であり、料金も安い(なお、私の知人に、モスクワに立寄ってトランジットで西ヨーロッパに出たことのある人が、モスクワでトロリーバスに乗り、無料だったので、「いかにも共産主義的だ」と感動していた人があるが、それは誤解である──バスの中の一、ニケ所に備えられている料金箱に四カペイキを投入し、自分で切符を切り取らなくては次らない)。問題はタクシーである。われわれの常識とは異なり、急ぐ時にタクシーを用いてはならない。まず第一に、タクシーの数はまだそれほど多くなく、第二に、流しているタクシーを止めることは至難のわざであって、タクシー・スタンドの行列に並ぶことが必要であり、第三に、運よくタクシーにまでたどり着いても、運転手の都合を聞かなくてはならず、第四に、往々にしてあい乗りを求められ、同乗者の都合によっては当方の目的地に直行しない場合がある。そして最後に、運転手は多くの場合客の要求する行先の地名・建物などを知らない──「お前、そこを知っているのか」、「知っている」(私)、「じゃあ行こう、案内してくれ」という会話を何度かわしたことだろう。それにしても、運よくタクシーに乗り、目的地に着くまでの間、助手席に座って運転手と雑談することは楽しかったが、今でも不思議なことの一つは、私がモスクワで交通事故に一度もあわなかったことである──タクシーの猛スピードは、雨が降っていようが、雪であろうが、まったく変わりない。
 冬のある日、研究所の友人に誘われてバーニヤ(公衆浴場?)に出かけた。メトロの「一九〇五年」駅の近くに新しく作られたバーニヤは、後で他のロシア人に尋ねてもなかなか好評のようだったが、意外に近代的なレンガ色の建物で、上部に青いネオン・サインが配されたりしている。入浴料は一ルーブリ(二時間)。クロークで外套のみ預け、二階に上るとそこがソファーの並んだ脱衣場になっている。裸になり、石けん類のみ持って広い洗場に行き、ずらりと並んだ石のテーブルに自分の場所を確保してから、何も持たずにサウナ室へ。木張りの二〇平方メートル位のサウナ室は、奥の方に高くなった場所がある以外は、ベンチもなく、二〇人近くの裸体の男たちが一〇〇度の熱気の中で汗を流しながら、多くは腕組みして、つっ立っている──その様は壮観で、北欧の特殊な写真で見たことのある光景を思い出させる。一〇分程もそこに居ると耐えられなくなるので、隣りのプールに行き、水の中に飛び込んで一泳ぎし、やがてまたサウナ室の方に引返えず、ということを数回くり返し、途中で洗場に行って体を洗うということになる。こうして裸にしてみると、なるほどソ連邦は多民族国家だと、あらためて感心させられる。大きいのと小さいの、色の白いのと黒いの、体毛の様子、さまざまである。ともかく、すべてがこの上なくあけっぴろげで、私にとっては軽い「文化ショック」だった。帰りぎわに、一階のビュッフェで飲むビールは、いつもとは異なり、非常に美味だった(ついでながら、ソ連製ビールがうまくないということには定評がある。それが優れているのはアルコール度──15%ぐらい──だけである)。あとで研究所の人たちに確めたところ、日本人の法律家でバーニヤに行ったのは私たちが最初がとのことだった。
 モスクワ生活のことについては、他にもいろいろと想い出が多い。特に、夏以降は家族が合流し、市の南部のアパートに口シア人の家族と同じ条件で住んだため、外国人居住区に閉じこもっている多くのモスクワ在住日本人とは異なった、さまざまの体験をすることができた。アパートで知り合ったいくつかの家族のこと、近所の商店での妻の苦闘、息子が通っていた幼稚園のこと、──書けばきりがない。それらについては、いつか紹介することもあるだろう。

 <トビリシ訪間>
 二月初めにトビリシヘ出張することになった(グルジアは南の国だから冬に行く方がよい、とのコーガン氏の忠告でこうなった)。豪雪のため出発は三時間ほど遅れたが、機中は帰郷するのであろうグルジア人であふれている──正確には、彼らが勝手に持込んだ山のような手荷物で、通路までが一杯になっている。こんなに積み込んで本当に飛べるのだろうか、との私の危倶とは無関係に、私の乗るジェット機は二時間程でトビリシに着いた。その途中、眼下に広がっていたカフカース山脈の峰々はいかにも険しく、かつて陸路ここを踏破した人々があったとは信じられぬほどだった。
 空港に「経済と法研究所」の若いスタッフが迎えに来てくれており、私の宿舎となったイベリア・ホテルまで送ってくれた。ゴギというその青年は、青少年犯罪の社会心理学的な諸問題を研究しているとのことで、これ以降の一週間の滞在を通じて、さまざまに私の世話をやいてくれた。
 街の第一印象は、どことなくくすんだものだった。通りもあまり広くなく、建物の多くはむき出しの灰色の石づくりで、モスクワのように着ぶくれていないだげ貧相に見える人々が急ぎ足で歩いている。人々の表情は、彫りの深い顔立ちと相まって、モスクワよりもげわしい。
 翌日、ゴギに伴われて研究所の刑法セクションを訪間。私としては簡単な見学と資料捜しぐらいの予定だったのだが、刑法セクション主任のシャウグリーゼ教授の部屋に入ると、そこには大長老のマカシヴィリ教授をはじめとする研究者が一〇数名も待っており、予想外の歓待をうけた。挨拶と質疑応答──マカシヴィリ教授はその夫人ツェレチェリ教授(故人)ともども、中山研一教授と面識があり、教授と私の共訳のピオソトコフスキーがその場にあったりした──が続けられている間に、机の上が片付けられたなと思っていると、やがて果物と菓子が持込まれ、グルジア・ワインのビンが林立し、即席の祝宴になってしまった。マカシヴィリ教授の音頭の下に乾盃が続いたが、私の方はロシア語で悪戦苦闘、酔うどころではなかった。
 グルジアのワインは世界的に有名だが、グルジア人の飲みっぷりも大したものである。二、三日後に自宅に招待してくれたグレダー二氏(彼のおかげで、グルジアの犯罪学史に関する貴重な資料を見ることができた)の話では、彼の家では最近ニケ月に一五〇リットルのワインを消費したと言う。レストランで見ていても、大体、人数分の本数が最低のノルマだとの感をうけた。
 トビリシではもう一つ、大学法学部付属の犯罪社会学研究所を訪間し、その指導にあたっているガビアー二教授とも懇談したが、両研究所を通じての印象では、グルジアの刑法学・犯罪学はなお困難な再建過程にある、ということだった。長い期間にわたる社会科学全体の停滞があり、たとえば、成人の犯罪を扱っている犯罪学者は一人もいない、というような跛行が生じてしまった、──その責任の大半は、スターリンとベリアの政治指導にある、との説明を何度か聞いた。(スターリンはその生地グルジアでほ未だに人気がある、というのは本当のようであったが、インテリゲソツィアの間では逆で、時には個人的な憎悪に近いものをもらす研究者さえあった。) そんな中で、二〇年代末のグルジア犯罪学の指導者の一人シェンゲラーヤが平穏な老後を送り、彼の息子も精神科医として現在活躍している、とのマカシヴィリ教授の言葉は私の気持を明るくしてくれた。
 一週問をトビリシで過ごすうちに、私はこの街と人々とが好きになってしまった。グルジア語は私にとって、音楽同様、まったく理解できないが、黒い頭髪で比較的背の低いグルジア人は時として日本の知人を想い起こさせるほどだった。彼らはまた、常規を逸したほどに客をもでなす──トビリシで私の受けた歓待を、私が日本で彼らを迎える際に、その半分でも返すことができるかどうか。滞在中の気候はちょうど日本の冬のようで、風があり、さほど暖かいとも感じられなかったが、そこに住む人々の心づかいは暖かかった。
 最後の日、バザールに出かけて干柿や栗などをアパートの知人への土産物として買い、一週間を経て再び帰りついたモスクワはマイナス二一度の銀世界だった。

               * 立命館大学法友会『ほうゆう』32号(1982)に公表。

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