モスクワでのDynaBook


 二度目のモスクワ生活で前回と大きく変わっていたことは多いが、主体的な条件の一つはパソコンだったと思う。
 本学の第一次「98騒動」の終わり頃にPC−9801Vm2のフルセットを購入し、次いでラムディスク、モデム、ハードディスク、そしてもちろん多くのソフトと投資させられて、行き着いた最後が 東芝J3100SS−"DynaBook"だった。これには最初おどろき、そして惚れ込んでしまった。何しろそれまでのVm2のできたことは何でもでき、おまけにIBMの世界の一端を覗かせてくれるのだから。最初ネックになっていたロシア語ワープロの点も、尊敬すべきT氏の示唆で、98用の《Technomate》ロシア語版のフォントがそのままDynaBook専用ワープロソフト《DynaWORD》に組み込めることを確認して、何も恐いことはなくなった。今や私のDynaBookは、専用モデムを内蔵し、増設したわずか2Mのハード・ラムにVzエディタ、Versa-Link、dBASEIII、DynaWORD、そしてFILMTNやDIETなどのPDSを登録して(それでもまだ約1Mのデータ領域がとれ、旅行中などはここに SIMCITYを入れて行くことも)、スイッチ一つで即座に動き出す、本当の万能文具になっている。最近では自宅でももっぱらDynaBookを愛用しており、机上の98マシンは過去に作成した文書や図表を3.5インチFDにコピーすることとゲーム以外にはほとんど使っていない。――たとえココム規制があったとしても、これを必ず持って行く、と密かに決意していた。幸い、16ビット機については昨年末に規制が解除され、法律家としての良心との板挟みに悩む必要はなくなった。

 しかし、本年3月末に雪解けの泥だらけのモスクワに着いて、まずがっかりしたのは電話事情だった。私に割り当てられたアパートの部屋には当初電話がなく、市の電話局に直接交渉で一週間後に電話がついた後も、国際電話の申込自体がきわめて難しいという事実が、日本とのパソコン通信の計画をあっさりと砕いてしまった。せっかく電話線に取り付けるための簡易モジュラー・ジャックを自作して持参、PC−VANの《グローバル・ビレッジ》で報告されていたKASUYAさんよりは良い条件で通信できると意気込んでいたのだが。(この点では、帰国後にNiftyServeを覗くと、5月頃からFL[外国語フォーラム]でソビエトのBBSに関する多くの情報が提供されており、一連の電話番号さえ書き込まれていることを知った。もう少しこの情報が早ければ、モスクワ生活は多少違ったものになっていたかも知れないのにと、残念。尋ねたこともあるのだが、モスクワの私の周囲には、そんな情報に近い人は全くいなかった。)
 《ASAHIパソコン》などで色々と紹介されているように、近年はソビエトでも各領域でのパソコンの利用がはかられ、いくつかの専門企業もでき、新聞やテレビで派手な宣伝を繰り広げてはいる。が、実際にパソコンを購入・利用しているのは有力な企業や研究機関で、パーソナルな利用などはまだ遠い先のことというのが実態だろう。「購入者の一部はマフィアで、彼らは自分たちの権勢と豊かさを誇示するためにそれを飾っておくのだ」、という話しさえ、まったくの冗談ではないようだ。パソコンの主流は16ビットのIBMコンパチ機で、5インチFDばかりだった。286マシンでも約50,000ルーブリ以上するようで、平均月収約 300ルーブリの一般勤労者にとっては、これはもう非現実的な商品ということになる。
 したがって、以前にソビエトの知人から、「パソコンなど持ってくるのは危険だ、必ず盗まれるぞ」と忠告されていた点は、まったくの取り越し苦労で、私が普段肩から下げているバッグがコンピューターだなどというのは、およそ想像を絶することのようだった。しかも、私の所属は国家と法研究所という、少なくともこの分野では超保守的な世界であり、研究所自体にもパソコンはなかった。研究所の図書室でメモをとっている私の後ろで、通りがかった何人かが息をつめて見入っていたことを思い出す。研究所での報告のためにロシア語の原稿をつくり、知人の研究員の助言でいくつかの修正を施し、数分後に打ち出しなおしたものを見せた時など、驚きを通りこして気味悪さの表情さえ示され、かえってこちらが戸惑ったことだった。私には好きになれない《DynaWORD》のロシア語フォントの印字さえ、彼らにはエキゾチックに映るようだった。

 帰国後も、本体の塗装が所々はげ、EL液晶も相当暗くなった初代DynaBookを愛用している。現在は、NiftyServeを通じて、モスクワで入手し損ねた著名なワープロソフト《ЛЕКИСИКОН》を試用させてもらうよう依頼中で、そのあとはSSからSXへのバージョンアップ計画と、まだまだ付き合いは続きそうだ。

            * 立命館大学計算機センター『DPC News』40号 掲載